海の見える屋敷で
沈む夕日が水平線を紅く染め、やがて訪れる群青に空と海がつながる。その境を知らせるのは、すっと伸びた灯台のあかりのみ。その光の先には、どのような希望が待ち受けているのだろう。
開け放たれた窓からは潮風が吹き込み、昼の間に火照った身体を少しばかり冷やしてくれる。穏やかな波の音が心を落ち着け、一つ二つと輝く星は恋人たちの夜を祝福する……というような情緒を楽しめる二人ではなかった。
シルヴァは机に向かってせっせと書き物をし、その横のベッドでは不貞腐れた顔でカインが寝そべっている。
港を散策し、街で買い物を済ませた後、カインとシルヴァは丘の上にあるトマ家の屋敷に向かった。カインの母君の生家である。かつて海賊だったトマ一族が要塞として用いたその建物は、屋敷と呼ぶには無骨で頑強な外観だった。
カインはまるで自分の家のように門をくぐり、呼び鈴すら鳴らさずにずかずかと上がり込む。
「久しぶりだね、アレシア。元気にしていたかい?」
「まあ、カイン様! どうしましょう、まだ何もご用意しておりませんのに」
出迎えた女性は驚き、急いで目につくところを片付けてカイン達を客間に招き入れた。奥の書斎から顔を覗かせた青年も驚いている。
「今年は、ずいぶんと早くいらっしゃいましたね」
「ん、こいつに海を見せてやりたくてね」
紹介され、シルヴァはぺこりとお辞儀する。
「シルヴァ・ミントです。お邪魔します」
「ようこそ。僕はセリオ・トマ。海に出ている父に代わって、政務を行っています。こちらは、母のアレシアです」
にこやかにほほ笑む親子はどちらもウェーザー人特有の赤茶色の髪に褐色の瞳、混血が進んだためトマ一族の特徴はほとんどない。二人とも海賊の末裔とは思えないほど物腰柔らかで、シルヴァはいささか拍子抜けした。
「はは、僕はどうも軍事が苦手で。父には腑抜けだと叱られるんですけど」
「この平和なウェーザーで、いつまでも剣を振り回している方が時代遅れなのよ。野蛮だわ」
アレシアは手際よく茶を淹れながら愚痴をこぼす。王妃の生家というのもはるか五百年前のこと。貴族の階級ではあるが、王都から離れているため雅ごととも縁遠く、女中を三人と定期的に庭師を雇う程度の慎ましやかな暮らしである。当主夫人も日常的に家事をこなした。
「ブラスは相変わらずかね」
「ええ。カイン様からも言ってくださいませ。もういい年なんだから、引退して若いひとに譲れと」
同じく武術しか取り柄のないカインは、やれやれと肩をすくめた。
当主のブラス・トマは五十を過ぎてなお現役の海軍司令官を務め、一年のほとんどを海の上で過ごす。今さら家庭を顧みろなどとは言わないが、もう少し自身を大切にしてもいいものを。
アレシアの不満の原因が、夫を思いやる気持ちからであることがほほ笑ましかった。
茶を飲みながら、シルヴァはぐるりと部屋の中を見回す。
壁に貼られた古い海図、いかめしい半月刀や甲冑などは海賊の名残を思わせる。その一方で可憐な生け花や細かいレースのカーテン、美しい刺繍のテーブルクロスと女性らしい装飾品が共存し、なんとも不思議な空間だった。
「どうだ、気に入ったかね」
「え? あ、うん」
「よかった。毎年、夏の間はトマで過ごすんだ」
「そうなの?」
良いところではあるが、シルヴァにとっては他人の家だ。長く滞在するのは気が引けた。
「二、三日中には離れの掃除を済ませますから。それまではお客様用の部屋を使っていただけますか」
シルヴァの気持ちを慮って、セリオが口添えする。それならと安堵した。
「カイン様が来てくださって、うちの子たちが喜んでいますわ」
アレシアが視線をやると、先ほどから柱の陰や扉の向こうで覗き見していた女中たちが、きゃっと黄色い声を上げて頬を染めた。カインが手招きすると、彼女たちは嬉しそうに部屋に入ってくる。
「はじめまして、シルヴァ様。イルダと申します」
「フロラです」
「ダナです」
三人の女中たちは年の順に名乗ってお辞儀した。一番若いダナはシルヴァと同じくらいだろうか、鼻の頭のそばかすも愛嬌とばかりに明るく笑う。
「あは、しばらくお世話になります」
挨拶が済むと、カインがおもむろに菓子の包みを差し出した。
「ほら、土産だ。みんなでお食べ」
女中たちは受け取ると、そっと中を覗き込んで口々に礼を言う。
「ありがとうございます、カイン様」
「カイン様のくださるお菓子、いつもおいしくて大好きなんです」
「仕事が終わったらいただきますね。んふ、楽しみです」
そして大切そうに包みを抱えて、小躍りしながら厨房にさがっていった。
「なんだ、お土産だったんだ」
「ん、おまえの分もあるぞ」
「わあ、ありがとう」
さっそく包みを開けてテーブルの上に並べる。色とりどりの砂糖菓子、ナッツや果物を飾り、甘い香りを放つ。
「セリオさんとアレシアさんも、一緒にいかがですか」
「まあ、いいの? じゃあ、お茶のおかわりを用意するわ」
「それなら、僕も休憩にしようかな」
三人はきゃっきゃと仲良く菓子を選ぶ。初対面の者ともすぐに打ち解けられるのは、シルヴァの能力の一つだ。
「……妬かないのか」
はしゃぐ若者たちの輪に入れないカインが、そっとため息をついた。
突然の訪問にも関わらず、女中たちは手際よく客室を整え、カイン達を二階へと案内する。
「何か必要なものがございましたら、おっしゃってくださいね」
「ありがとうございます」
供えつけられた机の引き出しを探ると、文具の類が一式、別の引き出しには裁縫道具、本棚には辞書と聖書と軽い読み物がいくつか。衣装箱の寝間着と着替えは丁寧にたたまれ、テーブルに並べられた茶器と数種類の茶葉、退屈しないようにと遊戯盤まで備えられている。高級な宿屋よりよほど完璧なもてなしだ。
「あは、すごいね」
大きな窓の向こうには広いバルコニーがあり、夜風を受けて身を乗り出すと、まるで甲板に出たような気分になる。はるか彼方の水平線に吸い込まれそうな気がして、思わずシルヴァはカインのシャツをつかんだ。
「どうした?」
「や、なんか、怖くて……」
肩を抱いてやると、細い身体をぴたりと寄せてきた。珍しい。開放的な夏の海が大胆にさせるのか。いつもより、長いキス。
「……あは。カイン様、大好き」
「な、なんだ、急に」
「あのね、私、カイン様がもてるのうれしくて」
本人は嫌われ者だと思い込んでいるが、きっとそうではないとシルヴァは信じていた。カインの強さや優しさは、多くのひとが知っているはずだ。
しかし、その気持ちはカインにはまったく理解できなかった。シルヴァが少し他の男と話しただけで、胸がしめつけられるほど苦しくなるというのに。なぜシルヴァはそうならない。
「ね、カイン様。魔法の練習につきあって」
「……嫌だ」
「そっか」
シルヴァは残念そうに笑い、カインの腕をすり抜けて部屋に入る。机に向かい、紙とペンを取り出し、昼間に港で会った商人ルーベン・ロジャからもらった魔法の紙片を書き写しはじめた。
苦しい。
カインは柵にもたれ、瞳を閉じる。なぐさめるように風が頬を撫で、ほのかに輝く金髪を夜空に散らせた。心を平穏に保たなければ。穏やかだった波が、時折しぶきを上げる。
「助けてくれ、アレン……」
なぜこれほど苦しみながらも、愛することをやめられないのだろう。
* * *
薄暗い書斎でセリオ・トマは頭を抱え、ため息をつく。
「なんで今年に限ってこんなに早く……」
心配して様子を見にきたアレシアは、そっと肩を撫でた。
「正直に話したら? カイン様なら、許してくださるわよ」
だが、セリオは首を振る。とても言えない、と力なくつぶやいた。
「じゃあ、内緒にしていましょうよ。無頓着な方だもの、気付きはしないわ」
それでは罪悪感が募るばかり。これから二か月は屋敷に滞在するだろう。毎日顔を合わせるのに、とても耐えられない。
乱雑に散らかった机の上には、方々からの督促状の束。
「やっぱり僕は、何をやってもだめなんだ……」
せっかくアレシアが淹れた茶は、一口も飲まれないまま冷めていく。
* * *
ふと目を覚ますと、空が白みはじめていた。ベッドに寝そべって不貞腐れているうちに、眠ってしまったらしい。
カインはあわててベッドを降り、机に突っ伏して寝息を立てるシルヴァを抱き上げた。ずいぶんと根を詰めて書いたものだ。ルーベン・ロジャの魔法の紙片の複製はほぼ正確に、何枚も仕上がっていた。
シルヴァをベッドに寝かせ、キスしようか迷い、やめる。起こしてしまってはかわいそうだ。
風邪を引かぬように掛布をかけ、自身はソファーで休む……つもりだったが、シルヴァの細い手がシャツをつかんで離さない。
(まいったね……)
一つ一つの仕草が、こんなにも愛おしい。
ゆっくりと指をほどき、やはりキスをして、ソファーに身を投げ出し瞳を閉じた。
どれほど眠れただろう、ぼんやりとした頭に海鳥の機嫌のいい鳴き声が響く。今日も快晴、すでにカーテンを透ける日差しが眩しい。
カインは絡まった長い金髪を無造作に束ね、寝起きの顔もそのままに階段を降りた。
「おはようございます。あら、シルヴァさんは?」
「……まだ寝てる」
低い声、どうやら不機嫌と察したアレシアは、余計な詮索はせずに茶を淹れてそっと様子をうかがう。
ほどなくして、寝過ごしたと叫びながらシルヴァが駆け下りてきた。退屈そうに茶をすするカインの横を通り過ぎ、玄関へ向かう。
「どこへ行くんだ」
「あ、カイン様、おはよう。その、港に……」
言い淀むシルヴァは目を合わそうとしない。カインは静かにカップを置き、シルヴァの前に立ちはだかった。
「港に、なぜ」
壁にとんと手をつき、さらに詰め寄る。威圧的な声、鋭い瞳、シルヴァはきゅっと首をすくめた。
「ルーベンに、魔法の手引き書を借りたくて。あの、すぐ帰るから」
トマ家の人々は険悪な雰囲気に息を呑む。知らない男の名前、ルーベンとはいったい何者だ。出かける支度をしていたセリオは手を止め、アレシアと女中たちは心配そうに厨房から顔を覗かせた。
「……なぜ、こちらを見ない」
シルヴァはぴくりと身体を震わせる。いよいよ笑みが消えた。
「や、これは、あの……」
セリオ達が止める間もなく、カインはシルヴァを抱えて二階の寝室に戻った。
「どうしよう、母さん」
部屋の前で一同は青ざめる。まさか嫉妬に狂い、怒りに任せてひどいことを……シルヴァの悲鳴が胸に刺さった。
「い、いや、やめて! カイン様、いやだ……痛っ!」
セリオは覚悟を決めて扉をけ破る。
やはり! シルヴァをベッドに押し倒し、馬乗りになっているではないか!
「おやめください、カイン様!」
転がるように足元に平伏し懇願するセリオ達を、カインはただ一瞥しただけでまたシルヴァの方に向き直る。押さえつける腕に、さらに力を込めた。
「ぎゃあああぁ!」
「……なんて声を出すんだ。少し我慢しろ。寝違えは放っておくと、背中や腰も痛めるぞ」
セリオ達は予想外の事実にあんぐりと口を開け、間の抜けた顔で二人を見つめた。
「やめて……ってば!」
暴れるシルヴァの足がみぞおちに直撃し、さすがのカインもぐうと呻いてうずくまる。その隙にシルヴァは逃げ出し、首をさすりながら目に涙を浮かべてカインを睨みつけた。
「ひどいよ、力任せに……って、あれ? 首が動く」
カインはベッドに座り直し、腹を撫でながら一度大きく息を吸って気持ちを鎮めた。
「で……誰がひどいって?」
「あは……」
愛想笑いで誤魔化し、猫のように可愛らしく膝に乗る。大きな碧色の瞳で見つめられると、それだけで怒りも痛みも忘れてしまった。
「怒らないで」
「ん、キスしてくれたら許してやる」
「えっ!」
シルヴァの無事を確認したセリオ達は、誤解で寝室に押し入ったことを咎められないうちに急いで退散した。
二人きりになり、意地悪く笑ってカインは瞳を閉じる。
長いまつげ、薄いくちびる、甘い香り。やわらかな感触に心がとろける。
「……ルーベン・ロジャは、今日は港にはいない。街の商館で荷造りしているらしい」
シルヴァは驚いて顔を上げた。
「場所は……ああ、土産を買った店と同じ通りだね。近くで誰かに聞くといい」
周囲を見回しても、ただカーテンが風に揺れているだけ。カインは風の声を聞いているのだ。
「何かあれば俺を呼べ。必ず、助けにいく」
「ありがとう、カイン様!」
シルヴァはもう一度キスして、弾む足取りで階段を降りていった。
ふとため息をつき、カインは退屈そうにベッドに寝そべる。
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