第2話
ぼくこと
ぼくたちが学ぶ教室はもちろんのこと――。
クラスごとに担当する箇所がいくつかあり、クラスメイトたちそれぞれが、あらかじめ決められていた班ごとに割り振られ、掃除をすることになっている。
今週、ぼくの所属する班が担当するのは裏庭だ。
まだ青い空の下、掃除を始めて少しした頃。
近くで掃除をしている同じ学年で違うクラスの少女、藤堂さんこと藤堂凛々菜の姿が、ぼくの視界に飛び込んできた。
それで今が掃除の時間であることなど忘れてしまうように、ぼくは藤堂さんに釘付けになってしまう。
彼女の動き、一つ一つから目が離せない。
完全にぼくは、彼女の虜になっていた。
そんな中でのことである。
突然、悲鳴にも似た叫びが耳に届いた。
「ヒメ、危ない!」
隣のクラスの少女のものだ。
その直後のことである。
どんっ! と、ぼくは身体に衝撃を受けることになった。
「きゃっ!?」
同時に聞こえた、女の短い悲鳴。
ぼくの視界は暗転し、お尻から、草一つ生えていない茶色い地面に打ち付けられてしまう。
「ててて……」
いったい、何が起きたのだろう?
疑問に思っている中で、声を掛けられた。
「怪我はない?」
さっきの短い悲鳴と同じ声だ。
(リトル、プリンセス……?)
思わず閉じてしまっていた瞼を開く。
そこには心の中で呟いた通り、ウェーブのかかったふわふわの髪をした、リトルプリンセスこと、隣のクラスの
その異名通りの、小さなお姫さまのような姿をした少女である。
どうやら彼女が、ぼくにぶつかってきたようだ。
「あ、ああ……」
どうしてそんなところにあなたがいるのよ――と言うように、目を細めて、睨み付けるようにして訊ねてくるリトルプリンセスに、ぼくは答える。
大丈夫だ、怪我はない。
「そう」
だったら気にすることなどないと、リトルプリンセスは、地面に転がっている箒を拾い上げて、立ち上がる。
ぼくは地面に尻餅をついたまま、そんな彼女の姿を呆然と見つめていた。
「危ないことがわかってたなら、もっとはやく言いなさいよっ!」
立ち上がったリトルプリンセスは、すぐに近くに立つ少女に不満を漏らす。
相手は少し前に危ないと、天城さんに向けて、危険を告げる声をあげた少女である。
リトルプリンセスと同じ陸上部に所属する、元気のいい――悪く言えば、子供っぽい少女だ。
ぼくはあまり親しくないのだけど、彼女とリトルプリンセスが仲がいいことは知っている。
姫那のことをヒメと呼んでいるのも、その証拠だ。
彼女と特に親しい者の中には、リトルプリンセス――天城姫那のことを姫那ではなく、ヒメと呼ぶ者が多い。
「ごめんごめん、ギリギリまで気付かなくて」
天城さんの言葉にそう答えたあとのこと。
箒を剣道の竹刀のように構えて、その少女は宣言した。
「それじゃ、勝負再開ってことで」
「よろしい、ジュースを賭けて!」
同じように箒を構えて、答える天城さん。
直後、地面を蹴った二人の箒の穂先が勢いよくぶつかり合う。
どうやら少し前までも、二人はこのように剣道のようなことをしていて、それにぼくは巻き込まれてしまったようだ。
そこに、こら! と、叱責するような声が響いた。
ぼくたちのクラスも担当している、四十代前半の女国語教師の声だ。
「二人とも、何やってるの! 危ないからやめなさい!」
当たり前だが、今は掃除の時間。
でなくとも、箒で剣道などやっていたら、怒られるのは当然だ。
そもそも高校生にもなってやることじゃない。
しかも女子が――である。
さすがに幼稚すぎるし、お転婆すぎるなんて思いながら、ぼくが立ち上がろうとしたところでのことだ。
「……大丈夫?」
そう声を掛けられた瞬間。
世界が停止したような気がした。
「藤堂、さん……?」
その呼び名の通り、ぼくに声を掛けてくれたのは藤堂凛々菜――リトルプリンセスとは違って、心配そうな表情でぼくの顔を覗き込み、手を差し伸べてくれている。
その手に触れていいのだろうかと戸惑いながらも、この時を逃すと二度とそんなチャンスはないかもしれないと、ぼくは藤堂さんの手に触れた。
ドキドキと、胸が早鐘を打つ。
細い指先をなぞるようにして触れた、柔からかな手。
その温もりが伝わってくると同時に、藤堂さんの手の温もりとぼくの手の温もりが、一つに溶け合っていくような感じを覚えた。
「八神くん、大丈夫?」
「あっ……!」
藤堂さんはぼくの顔を、眼鏡の向こうの瞳で、不思議そうに見つめている。
立ち上がったあと、藤堂さんの顔を見て、ぼーっとしてしまっていたせいで、ヘンに思われてしまったようだ。
慌てて我を取り戻して、焦りながらぼくは答えた。
「あ、ありがとう。大丈夫だから……!!」
「よかった……」
ぼくの言葉を受けて、にっこりと微笑む藤堂さん。
彼女の右手が、ぼくの右手から離れた直後。
藤堂さんの背中に、別の女の声が掛かる。
「凛々菜、ちょっといい?」
その少女は、ぼくと藤堂さんが向かい合っている姿を見て、邪魔したかなという、ばつの悪そうな表情を浮かべながらも、言葉を続けた。
「ごめん、お話中だった?」
その少女は藤堂さんと同じく、ぼくの一年の時のクラスメイト。
よく藤堂さんと一緒にいるところを見る少女だ。
眼鏡を外した時の藤堂さんにも引けを取らないくらいの美人でもある。
二人は同じ小学校出身。
ぼくとは違う小学校だけれど、その頃から仲がいいことは、情報として知っている。
「ううん、大丈夫。もう終わるから」
そう答えたあとのこと。
「それじゃ、また」
ぼくにそうひと声を掛けて、藤堂さんは、その少女の元に向かっていった。
遠ざかっていく背中が小さくなったところで、ぼくはさっきまで藤堂さんと繋がっていた、自分の手のひらに視線を向ける。
思い出すのは、その手の感触。
とても柔らかくて、温かな手。
細くてしゅっとした指先。
天使のようで、とても優しい藤堂さん。
ほどいた長い黒髪が揺れるととてもいい匂いがすることも、彼女が本が好きで、よくこの学園の図書館や、近所の書店や、そこに併設された喫茶店を訪れていることも、ぼくはよく知っている。
その時ぼくはまた、トーリさんから送られてきたメッセージのことを思い出していた。
『カズサって、好きな人いるの?』
――いるよ。
あの時、
ぼくの好きな人。
それは少し前に、この右手で触れた少女。
藤堂凛々菜。
ぼくは今、彼女に恋をしている。
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