きりん

琥珀 燦(こはく あき)

【序 マージイ】


「もう平気よ、ずっと…夢の中で暮らすから

会えばまた きっとあなたを許しちゃうわ

死ぬほど退屈な毎日…毎日…

(CHARA「Xmas」)


私は、負けるかもしれない。

あいつに。

きりん、という名のあの少年に。

…私は負けてしまうかもしれない。もう、そう長く自分を自分として保っていられる自信がない。

だから、これは遺言。私が私でいられる間に書いておく。誰に宛てて? …わからない。わかる必要もないかもしれない。

…そもそも私にはもう理性など残っていないのではないだろうか。

だとすれば、これを後に読む人にとって、これは狂人からの手紙。…何だか笑っちゃう。

それとも。まだこの程度の混乱は序の口なの?

奇跡のように静まり返った、郊外のコテージ。広い広いサンルームの真ん中で…今、こうしてロッキングチェアーに身を沈めて、目を閉じていると、晩秋の少し湿った冷たい夜の中に、一人乗りの小舟でゆっくり漕ぎ出していく自分をイメージしてしまう。明けることの決してない、暗黒よりも暗い、青い闇の中に。…決して、決して明けることのない夜。

“イメージ”ではなく“実感”かもしれない。私の中の一番鋭い神経が、私の心の位置を今までになく正確に捕えただけのことかも。…そう思うと一瞬だけ背筋が凍るけど。

でも。もう恐れない。これは“決意”ではない。自分の中の濁流に抗うことに、もう疲れただけのこと。

いつか職場の資料フィルムで見た、洪水に飲まれていく集落のように、私は不可抗力によって壊され、流されてゆくのだ。多分誰も知らない或る場所…そう、“果て”へと。

でも、ただ一つの願いがある。

例えあいつが拒んでも、私はあの子を連れていく。抵抗し暴れる彼の体をしっかりと抱き締め、一緒に流れていくのだ。耳元で、お前なんて嫌いだとわめく、いつものあの声を聞きながら。


これは私の片想いの記録。

極めてひとりよがりの、激しくて苦しくて切なくて、滅茶苦茶なぐちゃぐちゃな片想い。あまりの激しさに文字通り“恋に狂い”、大切な生命さえ残らず浪費してしまいそうな…そんな愚かな小娘の手記。 

だけど。私の人生には、遺せるものがもうこれだけしかない。あれほど努力を積み重ねてやっと手にした、女性にしては高い地位の仕事、安定した生活と未来は、あの晩夏の夕暮れの公園であいつに出会った瞬間に、すべてあっさり崩れ去ってしまった。その後の私は、あいつの幻に囚われ、操られ、彷徨うだけ。…まるで亡霊のように。

きりんを愛している。気が狂いそうに。だけど彼の心に、私のこの想いは届かない。何故なら彼には心が無いのだから。


彼は、人形。機械仕掛けの自動人形(オートマータ)。

耳元で切り揃えた、光の束のような髪。

氷のように淡い、銀色の瞳。

艶やかな、陶器のように白い頬。細く尖った顎。

奇跡のようなバランスを保ちながら流れる、首筋から肩の線。

華奢さとしなやかさの狭間の、ギリギリの緊張感を、体中に満たして生きている存在(かれ)。

“この世で一番美しい存在”と世界中が認めて疑わない。

だけど彼の氷のような瞳は、その美しさに吸い寄せられるように差し伸べてしまう者たちの手を、ぎらぎらとした鋭い眼光で拒絶する。“たかが人間が、俺に触れるな”とその目は語る。

青い炎は、赤や黄色のそれよりも、高温で あるという。…では、彼は青い炎そのものだ。

それでも、私はその青く燃え盛る炎に手を差し入れることを止められない。

 馬鹿だと思う。既に焼けただれてしまった自分の理性を見つめ、自分を嘲笑ってる。

 どう考えても、今の自分は滅茶苦茶だ。

 それでも、彼と出会ってしまった以上、もう元の私には帰れない。周りの人々と、私自身の…そしてきりんそのものの軽蔑と嘲笑を痛みに感じながらも、私は狂ってゆく自分を呆然と見ているだけしかできないのだ。

 だから、ここへ来た。今までの生活のすべてを断ち切って、たった一人で。

 誰も巻き込むことなく、たった一人でこの場所で静かに狂ってゆこうと。私の心を焼き尽くした、あの子の面影に酔い潰れながら。


 やはり私は狂っているのだろう。この想いを書き留めておく理由は、どこにあるというのか。

 …私は、自分の心の激しい動揺を、書面に残したいだけなのだ。私が生きていたという証拠を残しておきたいだけ。…ああ、これはただのエゴイズム。しかも、今どき、白い紙製のノートに万年筆なんて、ひどくセンチメンタルな方法で。

 どんなに惨めでも。愚かでも。

 どんなにみっともない人生でも。

 きりんを愛し、憎み、彼の為に苦しみ、泣き、怒り、…こうして狂い始めていく姿を。ここに書き綴っていこう。


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