トリップダンサー
「進路希望ってさ、なんか嫌な言い方だよなぁ」
修学旅行を目前に控えたある休日、一緒にリサイクルショップに足を運んだあかりがぼそりとこぼした。
「えー、言い方? 進路がわからないとかじゃなくて?」
「なんかさあ、希望とか言ってる割に、全然希望を受け付けない感じない?」
そんなこと考えたこともなかった。というか正直、進路なんてこれっぽっちも意識していなかった。いや、わたしが考えなしなだけだろうか、そろそろ具体的な将来の進路を決めている人もいるのかもしれない。
静音は先生になりたいって言ってたけど、嶺は、みんなはどうするんだろう。
「あ、あかりんはさ、プロのギタリストとか目指すの?」
「私ー? ないない。音楽は趣味でいいよ。ギターは好きだけど、それで生活できるとかちょっと想像できないわ」
「うわっ、そこは現実的なんだ」
「うるせー。なんというか、普通に大学とかは出といた方がいいような気がすんだよね。ただ、大学を卒業したその先とか、どう進んでくとかわかんないじゃん。それなのになんか、このタイミングで一生の決断迫られてるみたいで嫌だわー」
そうだね。これから先のことなんて、何もわからないよね。わたしも、今ここにいるのが不思議に感じることがよくあるよ。
「確かに、なんかそんな空気あるよね。無理やり選ばされる感じ?」
「ゆうぽん分かってんじゃん。そんで、目当てのベースってこれ?」
深爪寸前まで切られた爪がギタリストを主張する左手で、一本のベースを指差す。
それは最近ふと寄り道した時に見つけた楽器だった。透明な塗装によって、木目がはっきり見える5弦ベース。どうやらメーカー不明のため、かなりの格安である。
「これこれ。試奏とか、したことなくて、どこをどう見ればいいのかもわかんなくてさ。あかりん先生お願いします」
「いや、試奏はおまえがやれよ。私はあくまで状態チェックくらいしかやらないから」
あかりはつれない言い方をするが、楽器を眺める目は若干輝いている。多分、楽器に囲まれてるだけで楽しくなるタイプなんだろう。
「メーカー不明かー。フレットもバリバリ残ってるし、ネックポケットの精度もよさそうじゃん。……ボディにちょっと打痕ありますだってさ。こりゃ弾いてみないとなんもわかんねえな」
ざっくり楽器を眺めると、あかりは試奏のため店員さんを捕まえ、テキパキと段取りを進めていった。見込み通り、すっかり手慣れた様子だ。わたしじゃこうは行かないだろうな……。
「ほら、この辺のアンプ使っていいって。リサイクルショップだから適当だな」
いつのまにかわたしより楽しそうにしているあかりが、許可をとった楽器とアンプを接続している。
「はい、弾いてみ」いよいよ楽器を手渡される。
「お、オーケー……」
妙な緊張を紛らわすため、一度唾を飲み込むと楽器を受け取り、用意された安物のドラム椅子に着席してベースを構える。今日は私服のスキニーなので、遠慮せずに足を広げる。いちばん弾きやすいポジションにもってきて、弾き慣れたパッセージをつま弾いた。
「「……!」」
思わず二人して顔を見合わせる。これって——。
「なんかすごく、良い音しない……?」
「予想の倍良いわ。なんか洋楽みたいなドュルンって音すんね」
「ドュルン……」
「えー弾かせて弾かせて。うわ、このベース重いなあ、おっすげーいい音。掘り出し物じゃん!」
あかりが、手渡したベースを嬉しそうに抱え今日イチの笑顔を向けてくる。つられてわたしもニヤニヤしてしまう。
「マジで掘り出し物だね! でも、どこの楽器なんだろ、ネックにも何も書いてないしなぁ」
もう一度ベースを受け取り、ぐるぐると各部をチェックしていく。特にメーカー名を表すような表記はどこにもなく、辛うじて部品は有名メーカーのものだと分かったくらいだ。ただ、打痕はどれも5ミリ程度の小さなもので、中古楽器としては十分美品と言える。
「アレかな。部品とか組み合わせて楽器作ったら満足しちゃって、中古屋に放流するのが趣味な人のやつか?」
一緒になって状態を確認していたあかりが推測する。
「え、そんな人いるの」
「いるいる。ネットに動画とか上げて満足して、お気に入り以外売っちゃう人、いるよ。楽器作ったり直したりが趣味な人」
「はえー」そうなんだ、初めて聞いた。でも、確かに自分で作れるならそれはそれで面白そうだ、立派な趣味になるだろう。
そう思ってよく見てみると、所々塗装のムラがあったり、付いている部品がチグハグなようにも思えてくる。
「じゃ、じゃあ、これって世界に一本だけってことかな。うわ、なんかそれ良いなぁ」
「いや、確実にそうってわけじゃないけど、気に入ったならいいんじゃない?」
「わたし、これにする! なんか買わなきゃいけない気がしてきた」
「おうおう、中古は一期一会だからそれがいいよ」
こうして、わたしの新しい相棒が決まった。よろしくね、大事にするよ。
サラサラした手触りのボディを撫でて決意した。
「これ、ケース付いてないんだ……」
「アッハッハッハ!! ボディしか袋に入ってないじゃん、スーパーソフトケース!? ヤバすぎでしょ、これはツイッタ映えするわー」
意気揚々と購入してみればケースが付属していなかったため、お店にあった一番大きいレジ袋に入れてもらっている。もちろん、ベースなんて長い楽器がすっぽり納まるはずがなく、買い物袋から伸びる長ネギのようにネックが突き出ていた。あかりはさっきから大笑いしながらしきりにスマホで写真を撮っている。ほぼむき出しの楽器を持ち運ぶ恥ずかしさに、顔から火が出そうだ。
なお、一応ケースも売っていたが、埃まみれだったりカビ臭かったりして、通販で買ったほうがいいだろうということになった。
「クッソ恥ずかしい……。というかどうしよう、この後奈緒と合流じゃん」
「いいじゃん、これ私のベースなんすよってアピールして歩こうぜ」
「は?」
「……冗談よ冗談。私ん家に一旦置いてく? 実はこの近所なんだ」
「ほんとに? ちょっとこの仕打ちには耐えられないから助かる」
****
今、わたしは京都へ向かう新幹線の中、通り過ぎていく景色をなんとなく眺めている。朝早かったため瞼が重い。隣の席では、静音が通路を挟んだクラスメイトと何やら話し込んでいる。
この学校の修学旅行は、目的地と日数だけが決まっていて、タイムスケジュールや宿泊地、移動手段はクラスごと自由になっている。今年の目的地は関西および広島で、わたしたちのクラスは初日に京都を巡る予定だ。2日目はテーマパークで1日過ごし、広島に移動して宿泊。3日目は原爆ドームでの平和学習(ぶっちゃけめんどくさい)があって、終わり次第早々に京都に戻る。最終日の4日目は完全に自由行動で、夜に飛行機で帰るスケジュールだ。なんか、こんなに適当というか自由でいいんだろうか。中学の修学旅行は行ってないので、勝手がわからない。
「どうしたよ優有、朝弱い感じ? ガム食う?」
前の席に座る俊琉が、背もたれから顔を出している。右手には粒ガムのボトル。
「んあー、クソネミだよね。なんでうちらのクラスこんなに早い時間にしたんだろ」
勝手に蓋を開けて何粒か拝借する。
「なんか早いほうがお得感あるとか思っちゃったんだよなぁ……。みんな後悔しててウケる」
実をいうと、日程を決定するときに、せっかくの修学旅行を精一杯楽しみたいという思いが空回りし、初日の出発時間が早朝になってしまったのだ。まるで部活の朝練のような時間に家を出なければならず、夜型人間にはつらい朝だった。
「というか、今日の格好いつもと違うな」
なんだかんだ眠そうな顔をしている俊琉が、わたしを一瞥して言った。
「へ、へへーん、どうよ、普通に見えるでしょ。奈緒ちゃんに選んでもらったんだー」
この修学旅行中、露骨すぎるバンドマーチは控えようと決めていた。今だって、ボトムはいつもの黒スキニーだけど、上はゆったりしたモスグリーンのニットを合わせている。いつもだったら何かしらプリントされたフーディーとかパーカーばかりなので、これでも進歩している、はず。
「へえ。でもスマホケースがステッカーまみれで趣味バレバレ」
「んっへ。こ、小物でアピールは基本だから……」
「オタクだな」
「な゛っ」
——そんな風に見えてたのかな、わたし。もしかして今も?
「で、どうよ嶺センセ」
俊琉がニヤケ顔で隣の嶺に話を振る。おいバカやめろ、そういうのはいいから。
気だるげに嶺が振り向くと、これまた眠そうな視線が上下する。わたしは思わず視線を窓の外に逃してしまった。
「ん、何。まあ、普通じゃね?」
うわ、なんか、胸にチクリときた……。さっきまで、自分から『普通』なんて言っておいて、言われてムッとするとか都合が良すぎる。
「ふ、普通って、それだけかよ」
あーあーあー。分かってるのにいじけたように返してしまう。情けなさと、つまらない意地で、顔が見れない。
「痛ッ」なんか小声で嶺が呻く。
「……ま、まあ、良い色じゃん、似合ってると、思う」
今度は取って付けたように褒めてきた。なんなんだよもう。
「うー……。ま、まあね、安心の奈緒ちゃんチョイスだから」
「あーなるほどな、どうりで」
「嶺ー! お前なー!?」
黙って見ていられなかったのか、俊琉が嶺をど突く。いや、本を正せば君が嶺に話題を振るのがいけなかったんだろ! どうすんだよこれ!
「あー、なんかゆーちゃん面白いことになってる」
「しずちゃんも味方じゃないなこれ」
なんだか、修学旅行の雲行きが怪しい。これからの4日間を考えると、少し憂鬱なような、なんとも言えない気持ちになった。
朝から移動や神社仏閣の見学など動きづめだったので、日付を跨ぐ前にみんなダウンしてしまった。わたしもベッドで他愛もないお喋りをしている間に限界を迎え、眠ってしまったはずだが、急に目が覚めた。
わたしと静音を含む四人部屋、わたし以外はそれぞれ寝息を立てている。慣れない寝具で熟睡できかったのか、思ったよりしっかりと覚醒してしまった。
みんなを起こさないよう、スマホを布団の中に入れ時間を確認する。画面のデジタル時計は午前1時前を表示している。なんだ、全然寝てないじゃん、なんか損した気分。
(なんだか今日、嶺と変な感じになっちゃったなあ)
どうしても同じ班なので、一日中行動を共にしてはいたが、朝の件もありちょっとつんけんしてしまった。もちろんそんなつもりは一切なかったが、頭で考えてることと、実際の態度がてんでバラバラになっていた。
ベッドの上で丸くなると、頭の中で反省会が始まってしまった。やっぱり、いつも通りの格好をするべきだった? いや、静音はちゃんとかわいいって言ってくれたし、クラスメイトからの評判もよかった。でも、嶺は興味なさそうだったし、もしかしたらこれも全部自己満足? とりとめのない思考だけがぐるぐると渦巻く……。
(小腹減ったな……)
ふと、地味に耐え難い空腹に気が付いた。今までモヤモヤしていた思考が一気に塗り替えられる。確か、ここ軽食の自販機あったっけ。
今宿泊しているホテルは、1階分まるっと自分たちのクラスで埋まっている。部屋に来る途中、椅子とテーブル、自販機の設置されたスペースがあったので、そこなら何か食べられるかもしれない。
深夜に何か食べることに対する罪悪感と高揚感が沸き立つ。ゆっくりと起き上がると、ベッドから手を伸ばし、財布などを入れたボディバッグを手繰り寄せる。手櫛で簡単に髪を整えると、ベッドから這い出た。
——ブラは、まあいっか。トレーナーの生地厚いし。
女子力の無さを自嘲すると、部屋の鍵を持ってそっとドアを開けた。こんな時間だし、誰もいないと思う。
いないと思ったんだけどなあ。
「おっ、庄子じゃんー」
軽食スペースには、同じクラスの男子3人組がいた。そのうち一人は嶺だ、やっべえぞこれ。
「うわっ、みなさんお揃いで……」
髪ボサボサでノーブラのタイミングで出くわすには分が悪するぎる。百万歩譲って嶺だけならいいけど、そうもいかない。思わずボディバッグを体の前に回し、猫背気味になる。
「え、なに、庄子も夜食?」
長谷川くんがカップ麺を啜りながら問いかけてきた。シーフードヌードルうまいよね。
「あー、うーん。そうね、小腹減っちゃって」
図星でございます。わたしは空腹に完全敗北してこんな時間に食べにきちゃいました。肉の付きにくい体質に対する油断と、抑えきれなかった男子メンタルが恨めしい。
「あ、そうだ。おすすめされたやつだけどさー、やっぱよくわかんねえわ、全部一緒に聴こえんのー」先日おすすめのバンドを教えてくれと頼んできた、春日井くんがホットドッグを開封しながらぼやく。うわ、ホットドッグもいいな。
「えぇー、スリップノットとか超ポップでしょ、義務教育だよ?」
呆れ顔を作って腕組みをして、冗談っぽく指摘すると「いやーそんな教育受けてねーよー」と彼特有の間延びした否定が返ってきた。
薄暗い軽食スペースに、囁くような笑いが広がる。
あ、嶺も笑ってる。なんか、深夜に何か食べながら集まるの、男子っぽくていいな。こういう静かだけど、ワクワクするような雰囲気、楽しい。でも、自分がすこし浮いているような気がして、恥ずかしくもある。名残惜しいけど、さっさと食べて部屋に戻ってしまおうかな。
「こういう自販機、高速道路によくあるよね。テンション上がってきた」
目当ての自販機に小銭を投入しながら呟いた。よく、父さんと釣りに行った時に車の中で食べたっけ。
「それめっちゃ分かる。超エモいよなぁ。うん、うめかった、ごちそうさま」
後ろから長谷川くんの同意の声が聞こえる。というか食べるの早くない? そんなことを考えていると、続いて春日井くんも完食の宣言をした。
「えーみんな食べるの早いねー、わたしの焼きおにぎりまだ温め中なんだけど」
「これ想像以上に時間かかるよな」
嶺が紙パックの野菜ジュースのストローを噛みながら言う。なんだか随分と子供っぽい癖だな、と思った。
長椅子に座っているせいで、わたしより目線が低い。ツーブロックって言うんだっけ、この髪型。刈り上げた側頭部と、日焼けした首筋のコントラストにドキリとした。
「そんじゃー、俺たち先戻ってんねー」
んん? ちょっと君たち、もう行っちゃうの? あれ、嶺はどうすんの?
「あ? 俺も戻るよ」
片眉をあげた嶺が立ち上がり、普段より何トーンか低い声音で言う。ちょっとおっかない。しかし、長谷川くんと春日井くんがふたりして嶺の肩に手を置いて言う。
「遠慮すんなって、眞鍋。俺らはクールに去るぜ」
「庄子もごゆっくりー」
小柄な長谷川くんと、中肉中背が服着て歩いているような春日井くん、二人とも生暖かい慈愛に満ちたいい顔をしている。あ、長谷川くんの腕には結構力が入っているみたい。
というか、なんでわたしまで気を使われてるみたいになってんの?
「い、いやちょっと待って、それ普通わたし居ないところでやんない?」
「いやあ、他の女子だったらやんないけどさ。庄子じゃん?」
「はあ? どういうことよそれ」
「そ、それじゃおやすみー」
彼らはおちゃらけて胸の前で手を振り踵を返すと、驚くほど素早く廊下の闇に消えていった。
くそう逃げやがった……。二人取り残された空間に、調理完了を伝える音声が鳴り響く。
「……いつもあんな感じなの?」
「まあ、な」
あーもうなんか変な雰囲気じゃん。さっさと食べてわたしも帰ろう、そう思い自販機からおにぎりを取り出すと、予想以上に熱い。
「うわっアチチ……」
ガラス製のローテーブルに慌てておにぎりを載せる。どういう仕組みで加熱しているのか、いっつも熱々で出てくるのを忘れていた。ふと横を見ると、のっぽの嶺が所在無さげに空になったパックを弄んでいる。
「嶺、ちょっと邪魔、詰めて」
「あっ悪ぃ」
長い手足を大儀そうに動かし、長椅子の奥に移動する。嶺の元いた場所に腰掛けると、座面のクッションに残った体温が伝わってきた。隣では、まだ背高のっぽが突っ立っている。
「座れば?」
「お、おう」
なんだこれ、変なの。妙にお互い畏っちゃって。軽く鼻で笑うと、紙製のパッケージを開ける。醤油の焦げた匂いが広がり、空腹を呼び起こす。
「げえ、二個入りなの忘れてた。……嶺も食べる?」
特に何も考えずに選んだのが仇となった。流石にこの時間、おにぎり二個は食べきれる自信がない。
「ん、手伝うよ」
「さんきゅー」
二人並んで、安っぽい味の焼きおにぎりを頬張る。
心許ない明かりだけが点々と灯る廊下から、光が溜まっているようにこの場所だけがぼんやりと明るい。自販機の唸る音と、わたしと嶺、二人分の気配だけが空間を埋めていく。
咀嚼している分のおにぎりを、紙コップに入った水で流し込む。ウォーターサーバーから注がれた水はキリッと冷たい。
「あのさ、……今日はごめん」
「ん、何が?」
「あー、なんかわたし、ヘソ曲げちゃって……」
すっかり自分の分を食べきった嶺が、紙コップ片手に頷く。
「いや、俺も悪かった。いつもと服も違かったし、なんかあったんだろ?」
「あはは、大したことじゃないんだけどさ、普通になりたいなって」
「今更感あるけどな」
ちょっとひどいよね。嶺のこういうシンプルな物言いは嫌いじゃないけど、もう少し場面を選んでほしい。
「ひっでー。まあ、色々思うところがあるのよ、わたしも。本当にわたしが嶺に釣り合うのかなー、とか。これからどうなるんだろうなー、とか」
「別に俺は、どんな優有でも大丈夫だよ」
「うん、嶺はそう言うと思ってた。なんというか、これは、わたし自身の問題なのかも。情けない話だけどさ、また心の中がグラグラしてる」
少し小恥ずかしいけれど、こんな時じゃないと話せないこともあると思う。気持ちを吐き出しても、受け入れてくれる関係は築けているはず。残りのおにぎりを口に放り込むと、水で一気に飲み込んだ。
「っぷは。……この前さ、新しいベースを買いに行ったんだけど、その時にね、あかりちゃんと進路の話になって。わたし、何も考えてなかった。そう思うと、なんだか急に不安になっちゃってさ」
いつの間にか、嶺が水のおかわりを持ってきてくれていた。お礼を言って新しい水を受け取ると、そのまま一口含んだ。冷たい水が喉を降りていくのを感じる。少し、体を嶺の方へ向けると、自分の想像よりずっと真剣な顔をして話を聞いてくれていた。なんか面白い。おかげさまで、ずっと気がかりだったことも訊けそうだった。
「れ、嶺はさ、これからのこと、何か考えてる?」
嶺は、まるで用意していた原稿を読み上げるように答えた。
「こんな事、意識高いとかバカにされるからあんまり言ってないんだけどさ。……優有の地元の方の大学に、ずっと憧れてる先生がいるんだ。一人暮らしになるけど、公立大学だから親も賛成してくれてる。今までの模試もずっと合格圏内だから、このまま第一志望で受験したいと思ってる」
「なあ、優有は、ずっとこっちにいるのか?」
遠くで、自販機のモーター音が唸っている。
手に持った紙コップが、すっかり水を吸って柔らかくなっていた。
「俺は……。俺は、優有の地元だから、その大学に行きたい訳じゃないってのは分かってほしい。もちろん、優有は自分のやりたいことをやるべきだと思う」
予想だにしない答えだった。そんな、まさか、嶺が自分の育った街に行ってしまうかもしれないなんて。わたしが逃げ出した、あの場所に。
「す、すごいな、ちゃんと考えてて……」
どうしても、言葉に詰まってしまう。それでも、なんとか、声にしないといけない気がする。伝えるための努力から、逃げたくない。
「わ、わたし、誰も自分のこと知らないところに逃げたくて、この学校に来たんだ……。でもさ、今じゃ嶺とか、静音とか、俊琉にバンドのみんなも、どんどん大切な人やモノばかりになっちゃった。正直まだ、みんなと一緒にいたくて、これからのこととか考えられない……」
——ずるいなあ。わたしがようやくスタートラインに並んだと思ったら、みんなはもっと先にいるんだ。
「あーあ、このままさ、時間止まってくれないかな……。わたし、怖いんだ、昔の自分を知ってる人に会うのも、みんなに知られるのも」
改めて言葉にしてみると、悔しさや情けなさ、苦しみがまぜこぜになって押し寄せて来る。どう足掻いたって、わたしは普通になれない。まともになんてなれやしないと、過去と未来に板挟みにされて、身動きがとれなくなる。
そんな風に思っていたのに、いろんな人の優しさに触れたせいで、一人ぼっちじゃいられなくなってしまった。前に進まざるを得なくなってしまった。それが嬉しくも、辛かった。
気がつけば、俯くわたしの頭に嶺の手が乗っていた。
慰めてるつもりなのかもしれないけど、煮え切らない距離感がかえって焦れったい。
「わたし、みんなと離れたくないなぁ……」
嶺の肩に、もたれ掛かってみる。
さっき感じた、椅子に残る温もりよりも、くっきりと体温が伝わってくる。なんだか切ない感じがして、頬をぎゅっと押し付けると、優しい洗濯物と、男の人の匂いがした。
もう、付き合って3ヶ月だっけ。色々あった気もするけど、わたし達全然進展してないや。そういやわたし、今まで初恋とかも特になかったな。もしかしたら、これが初めて人を好きになったってこと? よくわからない。でもこれじゃ、男か女、どっちでもいいみたいじゃん。わたしは男が好きなの? それとも、嶺だから好きなの?
頭がクラクラする……。縋るように嶺を見上げると、形のいい眉の下、聡明さの潜む鳶色の眼が揺れている。少し、伝わる体温が上昇してきた。
無言のまま見上げているわたしの視線に気が付いたのか、何度か目が合うけれど、弾かれたように正面に戻ってしまう。やっぱり、嶺ってこういう時顔に出やすいんだな、わかりやすく照れてる。もっと近くで見てみたい。
初めて会った時から、ずっとストイックでカッコいい奴だと憧れてたけど、それが全てじゃないってわかってきた。小さい頃は泣き虫で、本ばかり読んでたって聞いた。仏頂面は何か考え込んでいる時のサインだし、飲み終わったストローを噛む子供っぽいところもある。まだ、嶺のこと、知らないところがいっぱいあるんだろうな。
わたし、もっと嶺のこと知りたいよ。
何度か、戸惑うように見つめあうと、ようやく二つの影が重なった。
文字通り逃げ出すように、静音達の眠る部屋に戻ってきた。静かな寝息だけが聞こえるなか、わたしの心臓だけがドカドカうるさくて、走ってもいないのに息がし辛い……。それなのに心の底から、何かがふつふつと湧き出てきて、目から、口から溢れそうになる。まるで最高にカッコいい音楽に打ちのめされたような感覚だった。この感じ、わたしの中の言葉だけじゃ、到底表せられない。
このまま突っ立ていると、わたしの中からいろんな音が漏れてくるような気がして、頭から布団をかぶった。早く寝ないと、明日に響く。早く寝ろ!
思ったより、ひとの唇って柔らかくて、暖かいんだな。
全然嫌じゃなくて、ひどくほっとした。
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