【1巻/第二話】竜と親子と不老不死 その2


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 鉄条網の屋根に守られし《アラカワ》中央市場。翼竜を始めとした凶悪な動植物から人間を守るために造られたその空間も、雨風には無関心である。乱暴に張り渡された網の隙間から、細やかな滝が束となって落ちている。道には大きな水たまりがしようのように広がり、道行く人々はビルの軒先に身を潜めるようにして歩いていた。

 しかし、雨がひた降り泥が泡立つその真ん中を、肩をいからせ歩く娘が一人。CNTの戦闘服ばかりでなく、みずみずしい肌の上で雨粒が滑り落ちるその姿。ものげな表情一つで十分に人の目を引くはずが、そうはならないのが《らんどう》のリコである。触れればバリバリと静電気を放ちそうなほどに殺気立ち、褐色の水を跳ね飛ばして進んでいく。

 元々気性が荒いとはいえ、始終青筋を立てているわけではない彼女が、何故なぜこんなにも怒っているのか。今日において、その理由は一つのみ。


「あー、くそっ! なんでバニラのせつけんなんて使うんだよ!」


 朝のシャワーを浴びながら、同居人の自家製せつけん、そのスウィートでクリーミーな香りに気付いた時は、後の祭り。隣のせつけんも、その隣のせつけんも、全て取り換えられていた。とはいえ浴室から逃げれば、ドラゴン・スープレックスが待ち受ける。前門のバニラ、後門の竜である。リコは仕方なく甘い香りに耐え忍ぶことを選んだのだった。

 野外市場の中央に入ると、リコは多少気がまぎれる。なぜなら、そこは屋台の海。数多あまたきっぱらが流され、よどみ、腹を満たしては消えていく。尽きせぬ体臭とこうをくすぐる芳香とが入り混じり、バニラの匂いも気にならない。

 そんな雑踏の中を歩いていると、前方から巨大なたこが現れた。たこ? いや、蜘蛛くも? 要は八つ肢の多脚機工体をギュインギュインとかき鳴らし、近づいてくる男が一人。腰から下は機械でも、腰から上は太鼓腹。ウカいわく、そういう人間はかつて「RIKISHI」と呼ばれたらしい。

 この肥満体、名をカクタスと言った。

 彼はリコを見つけると、「おおい」と手を挙げる。雑踏をかき分け、目の前までやってくると、なにやら脂ぎった笑みを浮かべていた。

「おいおい、どうした、リコ、色気づいてんなあ? 菓子みたいな香りをプンプンさせやがって。どうぞ私を食べてくださいって──」

 言い終わる前に吹き飛ぶ、一本のたこあし。木刀によるよこぎである。

 リコが二本目に向けて振りかぶったために、カクタスは慌てて引き下がった。

「やめろやめろ! おめぇなあ、これ、いくらすると思ってんだ!」

「うっさい! 知るか!」

 リコの目は据わっている。しかし、そこで間に入ったのは、よれた黒いスーツをまとう黒眼鏡の屈強な男。腰から拳銃を抜き出し、リコの頭に突きつける。

「お前、カクタスさんに何しやがんだ!」

「はあああああああああ? けん売ってきたのはそっちだろうが!」

 リコが銃口を正面からつかみ取り、男をにらみ返す。その気迫にまれた彼は思わず、

 ──バン、バン、バン。

 市場に響く銃声。リコの頰を弾がかすめ、皮一枚がぺろりと切れる。真っ赤な血がつつと流れ、顎まで伝った。

 が、こんなことで止まるわけもない。リコはそのまま銃身を握りつぶし、めきめきと音を立ててフレームが砕けてゆく。

「ひ、ひぃぃい!」

 情けない男の悲鳴に、傍観していたカクタスは大きないきを一つ漏らした。そして、たこあしの一つで男の襟首をつかむと、足がつかないほどにるしげる。

「おい、どうしてくれんだ。てめぇのせいで、大切な自動拳銃QSZがぶっ壊れたじゃねえかよぉ」

「い、いや、壊したのはそこの女で」

「壊されると分かり切ったやつに突っかかるお前が能無しなんだろうが! こいつの顔くらい、覚えておけ! このタコが!」

 黒スーツの強面こわもて眼鏡男は、そのままたこあしでひょいと放り投げられ、屋台のごみ山に顔を突っ込んだ。ぴくぴくと足先が震えているから、死んではいないだろう。

 リコは銃の破壊ですっきりしたのか、親切にもその残骸を拾い上げ、カクタスに向かって放り投げる。

「……なんなのあいつ、新入り?」

 カクタスはたこあしで器用にそれを受け取り、機工体に取り付けられた小さな引き出しに収納した。そして嘆くように首を振る。

「春の新卒採用ってやつだ。今日の仕事にゃ、ちと早かったな」

「経営者も大変だな」

「お前に毎日備品をぶっ壊されてた頃よかマシだよ」

 カクタス。またの名を、「《アラカワ》の暴食蛸クラーケン」。

 アジア系暴力組織《シード》の北東地区幹部であり、リコの元上司である。リコがよわい七つの身空で組織に転がり込んでから、かれこれ十年以上の付き合いになる。今ではフリーとなったリコも、カクタスの依頼はさすがに断れない。それくらいの恩義がある。

「それで、仕事の内容は? 竜を狩るんだろ? オレだって、そっちの新人教育の出汁だしになってる暇はないんだけど」

「まあまあ、そうあせるな。まずは飯だ。腹が減って仕方ねえ」

「まだ十時だぞ。仕事終わりに食うんじゃねえの?」

「十時のおやつに決まってるだろうが。お前の匂いを嗅いだら、甘いもんが食いたくなった」

 がしょん、がしょん、とたこあしの機械音を響かせながらカクタスは市場をかつする。機工体の人間でも使えるスタンドの高い屋台を見つけると、カクタスはれんをくぐるなり、「蜜がけ四つだ」と注文した。リコは足の高すぎる椅子によじ登り、「オレはお茶でいいや」と言う。

 するとカクタスはすかさず、店主に声をかけた。

「蜜がけ一つ追加だ。俺に四つ、こいつに一つな」

 かつぽう姿の老人は目をぎょろぎょろとさせて、「二つで十分ですよ!」と首を振るが、カクタスは「いや、四つだ」と言って譲らない。しまいにきっちり五つ分の小銭をテーブルにたたきつけると、さすがに店主も諦めて、すごすごと準備を始めた。

 とはいえ、準備など大したものではない。

 カクタスが選んだこの屋台、商品は「オイル・バー」である。別名、圧縮された脂肪。はたまた、豚人間の安燃料。栄養粉末に油と調味料を混ぜて押し固めたものである。油の種類や味付け、または「蜜掛け」のように添え物があることで多少のバリエーションがあるものの、リコに言わせればどれも変わらない。最後のばんさんにオイル・バーしかなかったら、せめて唾を飲む方がマシという代物だった。

「……うっわ……」

 すぐさま目の前に出てきた蜜掛けオイル・バー。リコの食欲はますます失われる。拳銃のマガジンほどの大きさの四角い物体が、あろうことか油で揚げてあった。そこに粘性の高い黒蜜がたっぷりとかかっている。

 ただし、ちょっと鼻を近づけると、なにやら蜜とは異なる甘さが香る。

「八角と……シナモンか。案外凝ってるじゃん」

「冷めねえうちに食ってみろって、ここいらじゃ、案外オイル・バーの味も洗練されてきてんだよ。こうも屋台が多いと激戦区だからな」

 カクタスに促され、リコは箸でオイル・バーをつまむ。それには薄皮の衣があって、一口むとシャリシャリと気持ちのい食感。オイル・バー特有の粉っぽさもない。

「ここはな、あぶらを使ってんだよ。中華風オイル・バーだぜ」

 もごもごと既に二本を平らげたカクタスが横から解説する。黒蜜に溶け込んだ豊かな香りが香辛料の香りによって引き立っていた。

「……くそ、中々うまいな……」

「だろぉ? 一本じゃ足りねえだろう」

「いや、さすがにそれはいい」

 まあ、うまいが油っぽいことに変わりはない。あと一か月は食わなくてもいいと思わせるしつこさがあった。リコは既に鼻頭から油分がにじんできたような気さえする。

「でもさあ、オイル・バーを油で揚げたら粉末の油溶性栄養素が溶けるだろ? 何のための完全栄養食だよ」

「知ったことか。うまけりゃいいんだよ、うまけりゃな。今度、チーズがけの屋台に連れていってやるよ。ガツンとくるぜぇ……胃袋が油で満ち満ちるんだ。そうだ、折角だから、今からそこにも寄ってくか」

「断る」

 さすが、現代の「RIKISHI」である。リコは度々思うのだが、カクタスが「《アラカワ》の暴食蛸クラーケン」と呼ばれるのは、たこあしのせいではないのかもしれない。むしろ、ぶよぶよとしたたこの体表のごとき上半身がその由来に思えてくる。

 見ているだけでも吐き気を催すオイル・バー四本をカクタスはぺろりと平らげ、サービスのお茶で一気にのどを洗った。店を出ると、入店から退出まで、この間五分。ファストフードとはかくあるべし。リコたちが出た途端、入れ替わるように他の客がれんを潜っていく。

 人込みをかき分け、ようやく屋台街の外に出ると随分と涼しい風を感じた。芳香と悪臭のカオスを脱出し、周囲の気温も幾分か和らいでいる。雨と土の混じった冷気が再びリコの胸を満たした。リコはカクタスの隣を歩き、周囲にひと気が無くなった頃に話を切り出す。

「それで、今日はどういうはずなんだ? 竜狩りを素人しろうとのオレに頼むとか、絶対何か裏があるだろ」

 すると、カクタスはその問いに答えもせず、たこあしの先に銀色の注射器をつまんで、リコの前に差し出した。

「とりあえず、これを打っとけ」

 その途端、リコの眉間には深いしわが刻み込まれ、抗議の意を込めたまなしがカクタスに注がれる。

「……新品のが必要なほど、やばい話なのか」

素人しろうとのお前のための保険だよ。死にたくないなら打っておけ。……まあ、その様子じゃ、余計な世話かもしれないがな」

「……ん?」

「その頰の傷、もうじゃねえか」

「ああ、これか、先週打ったやつが残ってたのかな」

 新人の発砲で生じたリコの頰の傷。それはカクタスの言う通り、もはや跡形もなく消え去っていた。まるで時が逆巻いたかのように、リコの顔には痕一つ残っていない。

 PAC。

 これは魔法か?

 ──否、科学。

 多能性無核細胞Pluripotent Anucleate Cells、通称PAC。人類の新時代をもたらしたバイオ革命の起爆剤。マトリックス工学とプロテアソーム操作の果てに辿たどいた、汎用自立型再生薬。ここに至るまでには三度にわたる世界規模パンデミックと生物兵器による大戦の過去があるのだが、そんな歴史はどうでもよい。

 早い話、これを打てば人は死なない! どんな傷を負ったとしても、復元可能!

 誰でも使えて、拒絶反応はなし。人類はPACの誕生と共に、死という運命に別れを告げるのです。BYE-BYE-DIE!(※効果には個人差があります)──とは、PAC最初期の売り出し文句。

 とはいえPACも完璧ではない。確かに「個人差」が色々ある。その一つは再生効率。ちょっと使っていっぱい効く者もいれば、いっぱい使ってちょっとしか効かない者もいる。前者がリコで、後者がカクタスである。

 リコはPACの吸収、保持、利用の効率が並外れて良い。それゆえ、何日も前に打ったPACだけで、頰の傷など簡単に治る。逆に、そんなリコに新品のPACを渡すということは、それほどヤバイ仕事だということ。

 リコはカクタスから渡された注射器の封を切り、慣れた手つきで静脈に針を突き刺した。半透明の液体がぐんぐんと血中に放出される。一瞬、リコの胸がどくんと高鳴った。全身の古い細胞、死にかけた老廃物が一挙に押し流され、汗がにじみ出る。どこかから「ほーら、シャワー浴びておいてよかったでしょー?」という声が聞こえるが、それはリコの幻聴か。

「これ……すっげえ、キマる」

「政府配給の純正PACだからな。混じりけがねえ」

「……うわ、最高級品じゃん。なに、オレにそこまで払うってことは、どうしても他の人間の手を借りたくないってことか?」

「……まあな、元々この話は違法なPAC工場の摘発だったんだが、渡り竜が一匹飛び込んできやがって、そこに居座っちまったんだよ」

「PAC工場……? なんでそんなきな臭いところにオレが呼ばれるんだよ。そんな施設規模の案件なんて、自分の部下にチャカでも持たして突っ込ませろよな」

「いや、そういうわけにもいかない」

「なんで」

「銃なんか使ってみろ。竜の肉が傷むだろうが」

「……は?」

「外部の人間を呼ぶわけにはいかず、かといって《シード》の連中は狩りのかの字も知らない。それがどうだ。お前は多少経験もあって、多少身内で、銃を一切使わないときてる」

「……」

うまめしのためには、お前が適任なんだよ。……第一、お前が昨日そう言ったんじゃねえか」

「……そう、ですか……」

「よろしく頼むぜ、《らんどう》のリコさんよ!」

 鋼のたこあしが、ちょんちょんとリコの肩をたたく。その軽い衝撃が、鈍い頭痛を呼び覚ますようで、ますますリコは昨日の己を恨まずにはいられない。今更になって、服にたっぷりとんだ雨水が、全身にのしかかるようだった。

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