第4話 天高く、馬肥ゆる、体育祭

 その日は朝から気温が高かった。

「な、なんだよ、七時で、すでに、汗が」

 汗が大粒となって地面に痕を付ける。まじめに作業をすればするほど手が滑るほどに汗をかく。

 八時になった頃には、すでに体操服は汗でべとべとで、(いやー、もう、ほんと、汗臭いしね、オレ)とふて腐ってよさそうなものだった。

「おお、……すごい」

 深雪が少し早めに来た。太郎のその汗染みを見て唸り、鞄からなぜだかハンガーを取り出し、

「体操服脱いで干してれば五分で乾く。あと、タオル。それから、制汗剤。ほら、皆来ちゃうよ」

 太郎は体操服を脱いでハンガーにかけた。

「腹筋、鍛えたほうがいいよ」

 深雪に言われ、腹を片腕で隠すと、その太郎に深雪が制汗スプレーを吹き付ける。

「ほら、腕上げて、あと、首と、背中」

 深雪は手際よく制汗スプレーを吹き付けた後で、男物のコロンを取り出してニヤッと笑った。

「な、なんだよ、それ」

「シトラスよ、いい匂いなんだから」

 そういって、それを首と、脇とに吹き付ける。柑橘系のすっきりとした匂いが立ち上る。

「汗かいているうえに匂いのものを吹き付けると、ただただ臭いだけで、清潔感とか、青春とか全くないじゃない。だから、無香料。そのうえで、すっきりさわやか青春のレモンよ」

 という持論を言いながら、深雪は体操服にも同じように吹き付けていた。まだ誰の姿もない教室で、上半身裸の太郎と、体操服にスカート姿の深雪。という何とも、(何ともなシチュエーション)。

 だが、深雪は体操服に施すとすぐに教室を出て行った。残ったのは、シトラスのすっきりとした匂いだけだった。


 体育祭が始まった。

 高校生だろうが何だろうが、妙にテンションが上がる。

 ドキドキしながら徒競走の順番を待ち、部活対抗、クラス対抗のリレーは白熱の仕方がより一層で、見に来ていた保護者達も熱を帯びて応援している。


 太郎は、ウォータークーラーの冷たい水を求めて校舎へと向かった。水筒の中の氷はすでに解け、水は白湯のようで、太郎の喉には入らなかった。


 深雪が施してくれたシトラス効果か、畠山が「なんだよ、山辺ぇいい匂いしますなぁ」と言ってきた。言ってきたのが畠山なのが残念だが、深雪が言ったとおり、体操服は五分ほどですっかり乾いたし、汗臭いまま一日を始めなくて助かった。


 体操服の襟元を引っ張って風を送るが気休めしかなく、とにかく日陰に入って、水を飲もうと校舎を曲がろうとした時、

「好きです」

 という女子の声に顔を上げれば、生徒会長であり、梓と付き合っているかもしれない松山が告白されていた。

「ごめん」

 短い言葉ですべてを悟った彼女は、「野原先輩がいるからですか? 野原先輩と付き合っているからですか?」と食いついた。

 太郎でも解る。諦めきれないのは解るが、そこを追求するような子を相手にするほど、好色じゃないだろう。そこは静かに身を引いてくれればかわいいと思うが、その追及がしつこいと、そういうところが嫌われるんじゃないか? と言ってやりたくなる。太郎には無縁のことだけど。

「もしそうだとしても、違ったとしても、君に言うことじゃないよ」

 松山の言葉に多少とげを感じた。さすがに彼女の追及に嫌気がさしたのだろう。

「あっつぅい」

 太郎はぎょっとして振り返れば深雪が立っていた。

「もう、タロちゃん行くのはやすぎぃ」

 そういいながら腕を引っ張り、告白が行われていたところに出て、

「あ、ねぇ、校舎(鍵)開いてた? 水、冷たいの飲みに来たんだけど」

 と深雪が松山に聞く。

「あぁ、教員(玄関)のほうはね」

「そう、なぁんだタロちゃんの言った通りね、あたしは開いてないって言ったんだけど」

 そういう深雪に腕を引っ張られながら校舎に向かう。

 告白していた女子はもういなくて、松山がバツが悪そうな感じだったが、二人が何事もなく過ぎるので、首をすくめて運動場へと向かった。

 教員用の玄関から入り、一階にあるウォータークーラーに深雪が走る。

 喉が動くほどにそれを飲み、太郎に代わる。

 ウォータークーラーの曲がり落ちる水は少しぬるくなっていた。他の所為とも同じことを考えてやってきているのだろう。そのおかげで、水が冷える前なのだろう。それでも、水筒の白湯よりは断然よく、太郎の喉が潤っていく。

「あのまま居たら、見てたって、彼女に非難されて、挙句は、野原さんに嫌われるよ?」

 太郎は咳き込んで体を起こす。

「てか、正面玄関でよく告白とかしたよね? ふつう、どっか影へ行くとかするのに。人がいないからなんだろうけど」

 深雪は後ろ手に組んで脱いだ靴まで行く。そして振り返り、

「引き受けたら、タロちゃんにもチャンスあったのにね、断ったね、彼」

 と言った。


 体育祭に戻った。参加はしている。応援合戦も、唯一参加の二人三脚も出た。


 二人三脚は、田中さんと組んで走った。ゴール直前で田中さんがバランスを崩してこけそうになったので、このままいけばその上に乗っかると思ったので頑張って踏ん張り、太腿と、右ふくらはぎに違和感が残ってしまった。

 それでも、すぐに田中さんに「大丈夫?」と手を差し伸べたのが何だか好印象だったらしく、

「山辺君て意外に優しいね」と田中さんに言われた。


 応援合戦では、予定にないことを団長である不良が始めたが、かろうじてついて行ける程度のアドリブだったので事なきを得て、制限時間ぎりぎりまで披露した。


 クラス対抗の綱引きの決勝が昼を挟んで行われる。

 体育祭開始から、一回戦、何かの演目を挟み二回戦、そして昼を挟んで決勝となっている。

 勝ち進むにつれて盛り上がり、今年は、三年と一年の対決になった。

 教師が、三年は一年を脅すな。と放送し、大いに沸き、そして結果は手を抜くことなくがむしゃらに引っ張った一年が勝った。

 手を抜いたであろう三年女子を男子が恨み言を言ったが、それでも「青春漫画」の様にキラキラしたものが繰り広げられた。

 太郎はその輪の中にいて、あと少し時間があれば挽回できた。などと畠山と話していた。


 ―あれ? 綱引きの決勝に行けたっけ?― 


 太郎にまたあのふらふらした感覚がやってきたが、それを止めるように深雪が背中を叩いて、

「いやぁ、惜しかった」

 と言った。

「あぁ、あと少しだったんだけどな」

 太郎も素直に返事をする。自然と畠山も会話に参加し、自然と輪ができ、

「来年こそは優勝だ!」

 というバカに「卒業してるっつぅの」とツッコミが入って大笑いが沸き起こる。


 青春万歳!


 太郎は目が覚めた。

 体がイヤに熱くて、熱を持っていて寝付けなかったのに、やっと寝れたと思ったら、暑さでまた目が覚めた。

 ベッドから起き上がると、深雪が起きていて、窓枠に腰かけていた。

「起きた?」

 と言った。

「あつぃ」

「これ、貸してあげる」

 そういって窓越しに棒状にしたタオルを差し出してきた。

「何?」

「いいからそれ、額に巻いてみて。それから、こっちは足に巻いてみな、足の裏。あともう一個。どう?」

 言われたとおりに、額に巻き、足の裏に巻く。ひんやりとした感触が流れ出てくる。

「あぁ、冷たい。これ何?」

「保冷剤。アイスとか買うと付いてくるやつあるでしょ? あれ。冷やし過ぎても痛くなるだけだけど、今日みたいに熱を帯びてると、体の中沸騰しててしんどいからね。足の裏にすると、熱が引くのがよく解るでしょ?」

「あぁ、気持ちいい」

「それで、もう眠れると思う」

「ああ」

 太郎は深雪に借りた保冷剤で作った額あてと、足の裏の冷たさに熱が引いていくのを感じていた。

「でも、驚いたぁ。あの松山君? あのあと、三人の女子に告白されてたよ」

 気持ちよく寝入りそうになっていたところで、思わず驚き首を持ち上げる。

「さ、三人?」

「そう、で、皆、野原さんと付き合っているんですか? って言われてた。有名なのね? 野原さんと付き合っているの」

「……さぁ」

「私は解らないけどな」

 太郎は深雪の顔を見る。目の前にある窓の向こう、深雪は窓辺に腰かけたまま、団扇で扇いでいる。太郎に額あてをさせているのに、深雪は額あてをしていなかった。ただ、さらっさらの髪が風になびいていた。

「解らないとは? 何が?」

「野原さんのいいところ」

 太郎が表情をこわばらせる。

「松山君にとって野原さんが適任だとは思えないんだよね」

「はぁ?」

 深雪が太郎のほうを見る。

「松山君も野原さんも勉強もできて、顔もいい。たぶん、人気のある二人だろう。だからこそ、ような感じがするんだよね? 松山君は野原さんのどこが好きなんだろう? 野原さんは、盲目的に松山君が好きなようだけど……ごめん。いや、でも、たぶん、そうだと思う」

「解ってる」

「解ってて、傷口に塩を塗るようなこと言えば、たぶん、付き合ってほしいって言ったのは野原さんのほうだと思う。でも、松山君は野原さんのどこがいいのかなぁ?」

「なんで、そんなこと思う? お前もさっき言ったじゃないか、美男美女だし、勉強できるし、」

「それが相手を好きになる理由って、さみしくない?」

 太郎は黙った。それ以上に好きになる理由などないじゃないか?

 顔が良いほうが好いに決まっている。

 スタイルが良いほうが好いに決まっている。

 勉強ができるほうが、運動ができるほうが、人気者のほうが好いに決まっている。

 そうだ。良いに決まっているのだ。

「それって、絶対に別れる理由よ」

 深雪の言葉に、太郎は言い返せなかった。

「社会に出たら、松山君や野原さんレベルの美男美女なんてざらにいるし、勉強なんて、学校内だけ。そんな今しか評価できないもので好きでいられるなんて、卒業したら終わりじゃない」

「……良いんだよ、それで、学生なんだから」

「……まぁ、そうなんだろうけどね」

「そういう深雪は? 深雪の好きな奴は、松山みたいなやつじゃないのか?」

「あたし? あたしはタロちゃんが好きで。あー、でも、今のタロちゃんじゃないけど」

「なんだよ、今の俺じゃないって?」

「今のタロちゃん、頼りないし、優柔不断だし、はっきり言ってイライラする。でも、好きよ」


 太郎は照れた。


 面と向かって言われる「好き」という言葉にドキドキする。だけど、深雪の何かを含んでいる言葉に微妙な顔になる。

「今は解らなくていいのよ」

 深雪はふふふと笑い、自身の唇をなぞり、「もう寝るわ。お休み」と言ってカーテンを引いた。




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