第2話 もし、人生をやり直せるなら?

 人生をやり直せるなら?―高校三年の二学期からでいい。それ以前の太郎には比較的思い出せそうなものはなかった。一般的な、入学、卒業、運動会とか、発表会とか、聞かれたら思い出せるけど、さほど印象に残っていなかった。

 ただ―高校三年の二学期からは怒涛の半年だった。

 いつも通りの夏休みを過ごすことを許されず、塾や予備校に通いながら、家に居れば勉強は? と聞かれることにうんざりして、図書館に通い詰めた。

 その時見上げた青い空は確かに未来を映し、未来に向かって高く伸びている気がした。感傷的になるのも、受験生らしいと笑える自分が、少し大人っぽく、今(40歳を過ぎた大人になって)思えば、子供だと思うが、あの日は、それがすべてで、それが世界だった。


 行きたい大学も決まらず、行ける大学なら、と安全圏を狙う。

 模試の点数はまずまずだが、油断大敵だと言われる。そんなこと解っている。解っているけど、どこかで大丈夫だろうという思いもあって、勉強も、暑さのせいにして身に入らず、かといってバイトをすれば、親や教師に小言を言われるので、自由になるお金もなく、そんな夏休みが過ぎ、二学期に入った。


 体育祭、文化祭、クリスマス、正月、バレンタイン。と行事は目白押しのはずだ。



結局、モテるわけでも、好きな相手に告白する勇気もなく、毎日を繰り返して終わる。そして、受験して、第一志望を失敗し、第二志望は定員がいっぱいで、結局、第三志望の専門学校に何とか入った。


 もし、あの時、本気を出して勉強していたら?


 もし、あの時、あの子に告白していたら?


 もし、あの時、他のことを選択していたら?


 もし、あの時……


 もし、


 もし、


 もし……



 けたたましい目覚ましの音に、一瞬「」と感じながら止める。七時。ギリギリの時間で飛び起きる。

 階段を中ほどまで降りて、

「家?」

 と上を仰ぐ。

 直線の階段はで、土壁の階段には、手でこすってできた線が階段と並行して入っている。階段の電気はのもので、窓がないので真昼間でも暗い階段を照らして点いていた。

 階段を降りると、玄関から奥の台所にのびる廊下―と言うには短いが―に降りる。ますます「」とつぶやく。

「あらぁ? 珍しい」

 母親の声だ。ずいぶんと若い。―そうでもなかった。

 頭にカーラーをつけ、弁当と朝食を用意している。ずるずるのパジャマのズボンを時々引き上げながら、「さっさと食べて、出掛けなさい。今日から新学期よ」と言った。

 父親はうまそうに食パンをほおばり、どうも好きになれないが、生卵を一個ごくりと飲む。健康にいいそうだが、生の黄身が喉を通るあの味がどうも苦手だ。

 テレビでは今日もいい天気だということ、夏日は続き、日射病に注意を呼び掛けている。日射病より、熱中症のほうが怖いということは言われていない。まぁ、運動部でも、水分を摂るなと言われていた時代だから、なかなかハードな時代だったと思う。

 朝食を食べ終わり、洗面を終えて二階に上がりながらぼんやりと思う。

 「俺、どうした?」

 声に出した途端、気がするが、思い出せないので、あまり重要ではないのだろう。

 制服の夏服は、ランニングで過ごしていた体には熱く、長ズボン何て拷問でしかないと思いながら着替え、鞄に入れっぱなしだった紙を取り出して唖然とする。


一時間目 全校集会

二時間目 実力テスト 国語

三時間目 実力テスト 数学

四時間目 実力テスト 英語

昼食

五時間目 体育 体操服用意

六時間目 数学


「……始業式初日から? テストに授業? 体育? ……水泳じゃないのだなぁ……、この暑いのに」

 とため息をつく。

 始業式そうそうにテストは許そう。なぜに、しょっぱなに体育なのだろう? それは今日が水曜日で、水曜日の五時間目は体育だからだ―そうなのだ。そうだけども……。

 玄関に並べられた弁当の真ん中を掴む。右端は父親の。左端は妹の。兄貴はすでに家を出ているので、もうこの並びが二年続いている。

 弁当と鞄を自転車のかごに入れ、自転車を出す。車の横の壁との隙間に止めているので出すにはコツがいる。車に少しでも当てると父親が面倒なので、気をつけて出す。

 黒い自転車。ママチャリとまではいかないが、前にかごのあるやつだ。確かに最近流行っている一文字ハンドルとか、ちょっとかっこいい自転車に比べればダサいが、親友の畠中の赤いママチャリ(母親と共有で使っているあれ)に比べればましだ。とはいえ、「自転車、買いたいよなぁ」と思う。

 とにかく学校へと、行こうと自転車にまたがり、ペダルに足をかけたとき、ハンドルに重りがかかり、倒れそうになる。そのバランスを変えたものを見るために振り返る。

「おはよ」

 まばゆいばかりの朝日を受け、さらっさらの髪をなびかせて、隣人で幼馴染の深雪みゆきが微笑んだ。

「お、お、……お前、重い」

「なんだぁ? 妙な間。それに、あたしは重くない。あと、お前っていう言い方嫌いじゃなかった?」

 深雪の声はいつでも元気で弾んでいる。

 頬を少し膨らませ、太郎の鼻先を人差し指で刺す。深雪の注意するときの独特の動作だ。

「お、お前が、重いから」

 だが、いつものことじゃないか。いつも深雪は太郎の自転車の後ろの荷台に乗って学校へ行く。

 太郎より少し頭がいいはずなのに、太郎と同じ高校を受験した深雪。ずっとお隣さんで、幼馴染で、いつも元気な奴だ。

「重くないわよ」

「……お前、夏休み太りしたか?」

 太郎の言葉に頬を膨らませ深雪が太郎の背中を張り倒す。絶対に背中に手のあとが付いたはずだ。太郎は少々涙目になりながら、深雪を乗せて自転車をこぎ出した。

「ほら、頑張って、タロちゃん」

 犬を呼ぶようで嫌だが、こう呼ぶのは深雪だけだ。

「気持ちいいねぇ。河川敷」

「いつも行ってる場所じゃないか。代わり映えしないだろ」

 太郎はペダルを頑張って踏む。

 深雪は水面に広がっているキラキラしたものと、風とに満足そうな顔をしている。途中にあるカーブミラーで確認したが、深雪は見慣れているはずの風景をきょろきょろと見ては、頷いていた。


 太郎たちの高校は公立の高校で、男女比がほぼ半分というバランスのいい共学だ。普通高校なので別に特徴があるわけじゃない。漫画によく出てくる、ごく普通の、当たり障りのない学校だ。おかげで、その後いろいろと大変なのも、普通科のさがだ。

 いくら大学を卒業しても、就職先を間違えれば、こんな単純なことも知らないのか? と言われる。学校で習わなかったのか? と言われ、だから普通科は役に立たないのだ。と言われるのだ。そう、普通科など大して将来役に立たないのだ。役に立たないくせに、教師は勉強しろという。未来を知っていれば、偉そうに説教していた教師に文句を言うところだが、この時は知らない。


 駐輪場入り口で深雪は自転車から降り、同じクラスの女子と仲良く先に校舎に入っていく。

「いつもいつもうらやましいですなぁ」

 親友の畠山だ。顔が長く、ヘチマのような形をしている。小学校の頃はそれでいじめられていたが、絵の才能があったおかげでそんなにひどいいじめではなかったと、本人から聞いたことがある。

 畠山と親友になったのも絵つながりで、畠山が書いた車の絵に太郎が反応したからだった。

 畠山は将来、車のデザイナーになりたいとして、美術大学のほうを目指していた。太郎はそれをうらやましいと思っていた。

 太郎は車が好きだが、車を仕事にしたいとは思わなかった。父親は車ではないにしろ営業職なので、常日頃営業の辛さを愚痴っている。車会社に入社して、そのままデザイナーになれるとは思わない。すると、ほとんどの確率で営業に回されるだろう。営業は嫌だった。父親の様にボロボロになるのは嫌だったのだ。だからと言って、やりたいことも、したい仕事も見つかっていなかった。―まぁ、大学に入ってから決めても遅くはないだろう―


 教室では、久しぶりに会う顔もいた。一年生、二年生の時と違い、みなそれほど日焼けしていなかった。塾や予備校が一緒だったものもいて、あまり新学期初日だという感じも正直薄かった。

 担任の不愛想な「集会行くぞ」に暑さを覚えながら、体育館へ行く。

 大きいはずの体育館でも、生徒が集まればいやおうなしに暑くて、校長先生の話は意味もなく長く、途中で意識が飛びそうになるのを、皆何とか我慢しているようだった。


 変則的な二時間目が始まる。

 テストは進路を見据えているのか? はたまたとしているのか解らないが、とにかくテストは始まった。

 名前を書いて、質問を読んで、でも、解る箇所は少なくて、素直に「俺、大学行けるか?」と思った。答案が返された時、20点ぐらい取れていたら奇跡だと思ったほどだった。

 それは、国語、数学だけで、英語は壊滅的で、点数を取れていればいいとさえ思えた。「エリーなんたらがどうたらこうたら」という文章があった記憶があるが、別のグループで答え合わせしているのを漏れ聞いた限りでは、あれは、エリーと言う人の名前ではなく、「early早期の」だそうだ。

 答え合わせはつまらん。と太郎はトイレに立った。


 昼は弁当があるので、机で食べていると、パン食の畠山が購買から帰ってきて、前の席に座り、向かい合って食べる。いつもの格好だ。

「そのカツサンド旨そうだな」

「いやいや、お前んとこの母ちゃんの卵焼きには勝てないですよ」

 それもいつもの会話で、また日常が始まったのだと実感する。

「タロちゃん、要る?」

 そういって深雪が小さい弁当箱を机に置いた。中身は酢豚だった。

「おお、サンキュ」

 短く答える。深雪は太郎が酢豚好きだとよく知っている。たぶん前日酢豚だったのだろう、残り物でも、深雪の家の酢豚は抜群にうまいのだ。

「俺ももらう」

 畠山が指で肉をつまみ、「うめー」と言った。それが妙にむっとしたが、肉を盗られたせいだと思った。


 五時間目が始まる十分前、女子が更衣室へいそいそと出ていく。「制汗剤持った?」とか「櫛持った?」「あ、くるくる(ドライヤー)持ってくるの忘れた」など言いながらにぎやかに消えていった。

 五時間目。男子は炎天下の真昼間にサッカー。女子は木陰になっている場所で棒高跳びをするらしい。

「目の保養ですなぁ」

 畠山が女子のほうを見ながら言う。

 サッカーと言っても、太郎のクラスと隣のクラスの男子の対抗戦なので、サッカーのうまい奴がボールを持ち続けるし、サッカー部が活躍するので、その他大勢の太郎たちは、あっちへ走り、こっちへ走りするだけだ。

 ほどほど暑いので、歩いていると、畠山がにやにやと笑いながら見ているので、つられてみれば、深雪の番らしかった。

 体操服がはち切れそうなほど大きな胸が、深雪が走るにつれて大きく上下し、水風船が破裂するかのように深雪は背面飛びを決め、体がマットに沈んだ。

「いやぁ、あれが背中にぎゅうって、毎日、うらやましい」

 畠山の言葉に太郎は苦笑いを浮かべながら、「幼馴染だし」と言ったが、幼馴染だろうが、あの胸は、思春期、多感な年ごろ、いやいや、立派な健全たる男子にはかなりいい刺激なのだ。想像しないわけじゃない。……が、自分が想像するということは、畠山も同じようなことを想像しているのだろう。と思うと、なんだか胸糞悪くなった。

 太郎がふと視線を向けると、ボールが飛んできている。このままでは当たるなと思ったので、少し避けると、ボールは畠山の頭に当たった。

 大きくボールは弾み、一斉に争奪戦が始まる。

「お前、避けたな」と畠山に言われたが、太郎は首をすくめただけだった。

 ―でも、本当に、あの胸は、反則だと、思う―

 太郎の頭にそれが浮かぶ。

「おい、いったぞ!」

 今度は、畠山でなく太郎が、しかも、顔面にボールを受け、そのまま倒れた。そして―


 背中のコンクリート面が痛い。そして、若干熱いが、どうやらぶっ倒れた瞬間、運んでくれたようだ。せめて、保健室。と思ったが、この学校の保健の先生は今日は休みだという。昨今であれば、保健室の教員は常駐しているようだが、この時代、無駄に授業をボイコットしたり、エスケープしたりするし、力の付いてきた男子生徒と二人きりというのは、ということで、保健室の教員は結構いない時が多く、姿を見る機会などなかった。

 まぁ、この時代―運動部でも、練習中の水分補給は弱くなるからダメだ。とか、根性で何とかできると信じている、筋肉バカな教師ばかりの時代だから、仕方ないのかもしれないが、それにしても、校舎の影とはいえ、一時間前までは日にさらされていたであろうそこに、そのまま放置とは、ずいぶんな措置だと太郎は思った。

 授業が終わるチャイムに、鼻血も止まったようで、少し体を起こせば、顔面にボールを蹴りこんだ相手が謝ってくるので、片手をあげて「大丈夫」と合図を送る。

「どんくさいなぁ」

 深雪の声だ。

 体を向けると、ほんのり汗で湿っているような体操服と、首筋には大きな汗の弾が光っていた。

「見とれてた?」

 と首を傾げる深雪に、自然と嫌そうな顔を見せる。

「何よぉ」

 と膨れ、太郎のそばにしゃがむ。

「鼻血、止まった?」

 と心配してくれるのはありがたいが、ほんのり深雪の匂いが立ち込める。それに体が妙な反応を起こしかける。

「いやぁ、お熱い」

 畠山のこの冷やかしがなければ、太郎の、ある意味が公になるところだった。

「バカか?」

 太郎は照れるようにして体を起こす。深雪の湿った体操服が下着を透けさせている。

「見えるぞ、それ」

 顔を背けて言ったが、聞こえていないようで、深雪は首を傾げ、やってきた友達に手を振り、

「じゃぁ、着替えに行くよ? たろちゃんも、大丈夫なら着替えなきゃ」

 と言って立ち上がった。

 ブルマから出ている足はカモシカというよりも、肉付きがよく、大根とまではいわないにしろ、たぶん、ごく普通の太さだと思う。長さも普通だと思う。が、顔をあげれず、そのまま俯いて立ち上がる。

 深雪が両手を組んで背伸びをしている。伸ばした背中の筋肉と、胸が、まだまだ青い空に生えて真っ白く、そして、大きかった―。














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