黎撃のインフィニティ
いーちゃん
1.1
腕時計の2つの針は、今が午後の5時42分であることを示していた。
空が夕方から夜へと変わる頃。レナ・アーウィンは両手に白のビニール袋を引き提げて、帰り道を急いでいた。
バスターミナルをのんびり歩いていると、駅のホームへ電車が滑り込んだのが見える。これを逃したらマズいかな――とレナは階段を駆け上がった。
やっとの思いで券売機の前に辿り着く。財布を引っ張り出して機械の口にお札を飲み込ませると、彼女は切符を掴んで改札を通り抜けた。
島の中央区へ戻るには、このモノレールを使うしか方法はない。いや、バスによる方法もあるけれども、出ている本数が少ない上に時間が掛かる。もしくは駅を出て線路沿いを20分歩く、という修羅の選択肢は残っていたが、それは何としても避けたかった。
――と。
レナの足が階段を降りる最後の段を踏んだとき、そこに見えたのは去っていく車輌の背中だった。
間に合わなかったか、と少女は内心で嘆息。走った分の体力だけ返して欲しくなる。
(……仕方ないわね。次を待ちますか)
見上げた電光掲示板に載っていたのは、列車の到着ホームと行き先の表示だ。到着時刻は5分後である。レナは汗ばんだ額を手の甲で拭うと、自販機の脇にあるベンチへと腰を落ち着けた。手持ちのビニール袋を隣の席へ座らせる。
駅のホームには、レナともう1人を除いて誰もいなかった。それは反対側のホームも同様で、まるで無人駅のように閑散としていた。それも当然、電車はたったいま行ったばかりなのだから。
――と、彼女はもう1人の客へと視線を傾ける。
誘導用の点字ブロック、つまり黄色いラインの手前だ。ぼんやりと突っ立っている痩躯の少年は、小型の端末へ熱心に向き合っていた。年齢はレナと同じくらいだろう――もしも自分と同じ年齢なら、きっと地元の高校生だろうか。
そんなことを思いながら見ていると、少年は視線に感づいたのか、端末から目を離して彼女の方を見た。
あっぶね、とレナは一瞬で目を逸らす。
対する少年はちょっとだけ首を傾ぐと、再び手元の端末へ目を戻した。
目が合ったらたまったモンじゃない、とレナは思う。
これまで自分と視線がぶつかった男の反応は大まかに分けて2パターンだ。それは「ケンカ」か「ナンパ」のどちらかで、両方ともレナが苦手としているものだった。
街の中で集団にケンカを吹っ掛けられたり、いきなり連絡先を訊かれたり、といったことは割と頻繁に起こる。その気の強そうな外見と、一見すれば美少女にも分類されるであろう彼女は、擦れ違えば振り返る男性も少なくなかった。
アナウンスが流れる。幾つかの人工音声を重ねたものだ。
ベンチから立ち上がると、レナは足元に何かがいるのを感じた。まるで筆の毛先で足を撫でられたような、否、もっと強い毛の感触。
少女は軽く叫んで飛び退くと、果たしてそこに居たのは野良猫だった。おそらく駅に棲みついてしまったのだろうか。鼻のてっぺんを泥で汚したぶち猫だ。
「な、なんだ猫か……。びっくりさせないでよ、もう!」
レナがビニール袋をガシャガシャさせて「食べ物なんか入ってないぞー」とアピールすると、太った猫は小さなくしゃみをして愛想を尽かした。鼻の泥がレナの顔へ飛んだのは余談だったが。
太った猫は何を思ったか、黄色いラインを越えてホームから線路へ颯爽と飛び降りた。それは鈍い動きに見えたけれども。
だが、そこには――
ホームへ滑り込んだ電車が――
「危ない!」
ビニール袋が手から離れて落ち、レナの細身が前方へ飛び出す。
しかし、少女よりも素早い動きがあった。黒い影は視界の左から割って入り、わずか一瞬の動きで線路へ。
瞬間、レナは血の気が引く思いを味わった。
通過電車はまるで暴風となって少年の上を通過する。
「――きみ!」
ホームとレールの間に挟まる少年を見つけて、レナは思わず叫んだ。
少年はゆっくり瞳を開けると、今度は身体の中心に居る毛むくじゃらを抱き上げ、軽い身のこなしでホームへ飛び上がる。
「きみ、大丈夫? 怪我してない?」
少年は無言のままシャツの裾を払うと、可愛げのない猫を胸の位置で抱いた。
まるで私が見えていないかのように。
「あー、……きみ?」
少年は何も聞こえていないかのように無反応だった。
例えるならそれは、彼が自分とは別の世界を歩いていて、レナの存在には全く気付かないような感じの。
ぼうっとしている間に、次の車両がホームへ滑り込んできた。
今度はゆるやかな風が2人の間を駆け抜ける。
少年は踵を返すと、猫を抱いたままモノレールの車輌へ乗り込んでしまった。駅の職員が2、3人ほど駆け寄ってくるが、すぐに「見間違いだったのか?」と小声で囁き、頭上に疑問詞を浮かべて退散していく。
降りてくる客がいるせいもあり、いつの間にかホームには人が溢れていた。
レナはむんずとビニール袋を掴んで、少年と同じ車輌に乗り込んだ。
第六施設島は、太平洋に作られた人工的な諸島のうちの一つである。もとは海底火山によって盛り上がっていた浅瀬を埋め立て、その上に作られた街である――潮が満ちれば島面積の1割が水没するし、海が荒れればシェルター避難警告が打ち出される。最も安全といわれる中央区へ向かうには、島を東西に往復する無人のモノレールに乗ってちょうど5分掛かる。
レナは両手にビニール袋を提げたまま、車内にあるモニターを見上げた。車輌の入り口、つまり扉の上だ。この時間帯としては珍しい討論番組の真っ最中で、画面の中では2人の政治家がダブついた顎を動かして何かを言い張っている。左上のテロップには「どうなる今後の情勢」とかいう文字が黄色い枠に囲まれていた。時刻は5時58分。明日の天気は雨。
誰が何を言おうと変わらないのに、とレナはぼんやりと思った。
世界が統一連合とASEEの両組織に別たれてから六年。そして、いわゆる"戦争"が始まってから二年、膠着状態に陥ってからは既に半年が経過している。その間に幾度となく和解の試みが行われてきたものの、両者が合意に至ることは一度もなかった。
モノレールがトンネルへ進入すると、窓は黒い鏡のようになってレナの姿を映し出した。
腰まで届く紅髪。細身で華奢な体躯。身長は160センチ程度だったが、最近は長らく測ってない。たぶん前に測定した時からは少し伸びたように思う。親から受け継いだ黒い瞳と見つめ合って、レナは「もう少し何とかならないかなー」と自分の眉間を指でつついた。
笑顔になると垂れ目なのに、いつも機嫌の悪そうな表情――とは以前の同僚から称せられた言葉ではある。
不意に外が明るくなった。電車がトンネルを抜けたのだ。
もう太陽はそのほとんどが水平線の下に身を隠していて、赤く輝いた光が、まるで手を振るように沈んでゆく。
――と。
視界に入ってきたのは、鉄の柵で仕切られた前哨基地だ。滑走路が海に向かって何本も敷かれていて、その右手を見れば工厰/格納庫が屋根を並べている。そして反対側――つまり電車の進行方向に対して左側の窓から外を見ると、飲食店や娯楽、商店街に囲まれた中央区の「普通の街並み」が見えた。
どうやら、このモノレールは軍事基地と市街地の境目を走っているらしい。
否、もしくは "日常" と "異常" の境目とでも言うべきだろうか。
レナは基地の方向へ目を戻した。
さっきからカメラを持った男が車内で「うぉぉぉぉFZ-X12A型戦闘機!」とか叫びまくりながら息荒くシャッターを切っていたが、彼女はそれを冷ややかな視線で一瞥したあと、滑走路を走る戦闘機を見やった。
カメラ男の言ったことは、少し違う。
FZ-X12Aは数ヶ月前に生産を終了して、今では性能を向上させた同フォルムのX12Eが新たな生産ラインを取得している。一般人にはまだ公開されていないハズの、つい最近の事情だ。
あの機体の脇に型番が振られていないのを見る限り、おそらくテスター機だろうとレナは推測していた。
それに、戦闘機なんてものは時代遅れだ、とも思う。
自分はそれ以上のことを知っているし、経験もしているのだから。
レナは赤色の夕陽に目を細め、その朱唇に無言を置く。
これが "第六施設島" の真の姿である。ASEEにも統一連合にも属さない、太平洋における唯一の中立国――とは名ばかりで、実際には統一連合の前哨基地を傘にし、安全の中に身を置いている。綺麗事の裏に隠されているのは、こういった実態だ。
だけど、とレナは思う。
この島に住む人たちは必死なのだ。自分を――否、自分とその仲間を守るためには、力を持たなければならない。
<アーマード・アウトフレーム>――通称AOFが開発されてからは、特にそうだった。力を持たぬ者は敗北し、力を持つ者こそが正しい。しかし時には膨大な力を忌み嫌う者もいる。そういう場合は高い代償を支払って、力を持つ誰かの庇護へ収まらなければならない。
(あたしは、そういう考え方は好きじゃないな。誰かの力を借りて自分を守るなんて。だけど……)
そう思ってしまう。
何事も捨てきれない自分の性格に辟易しながら、レナは小さく吐息した。
ふと誰かの視線を感じて、レナは車内を見回す――と、視線がぶつかったのは先ほど駅にいた少年だ。身長は170センチ前後、レナよりも少しだけ目線が高い。黒い髪は目元を隠す程度の長さで、やや中性的な顔は、化粧と女装をして「女の子です」と紹介されれば頷いてしまいそうな落ち着きがあった。
こちらの視線に感づいたのか、少年は慌てて窓の様子を見た。
……その腕にはまだ猫が抱かれている。
車内のアナウンスが流れた。列車がホームへ滑り込むよりも先に、乗客たちは扉の前へ立ち始める。
時刻は5時57分。どう足掻いても3分後の門限までには間に合わないが、しかしレナは急ぐ気にならなかった。
停車し、扉が開く。並んでいた乗客は降りていき、車内は急激に閑散としたものになった。
が、少年はドアが開いても車輌から降りることなく、手持ちの猫を大事そうに眺めていた。
レナはビニール袋を引っ掴むと、少年の元へ近寄っていって、
「ねえ」
話し掛けられると、少年は一瞬だけ動きを止めた。
「さっきはありがとね。きっと君が助けてなかったら、この猫、今ごろ轢かれて死んでたと思うわ」
「……」
「ごめん、急に話し掛けたりして。気を悪くした?」
少年は無言。
前髪の隙間から見えた瞳は、なにか威圧感というか――近付き難いプレッシャー、あるいは凍った刃の先端のような、そんな鋭利さでレナを見ていた。
しかし、それもわずか一瞬のこと。彼は前髪をクシャと掻き潰して、足元へ視線を落とした。
低い声で言う。
「……べつに」
「でも、危なかったと思う。きみだって下手したら死んでたのよ?」
相変わらずの無言。レナは思わずムッとした。
「とにかく、ああいう無茶は止めた方がいいと思うわ。心配する人もいらっしゃるでしょう?」
再び前髪を掻いて、少年は面倒くさそうに視線を落とした。
彼は駅のホームに足を付けると、腕に抱いていた猫をそっと放した。太った猫は階段の方向へ走っていくと、その姿はすぐに見えなくなった。
「ねえ、知ってる?」
まるで歌うように静かな声で、少年は少女に問うた。
「猫は寿命を迎えて死にそうになると、自ら姿を消すんだって。どうしてだろうな」
「え……?」
「君はいま見えている世界が好き? 俺はそんなに好きじゃないけど」
じゃあ、と言って少年は姿を消す。
もうすぐ太陽は沈みそうだった。
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