もののけ、もののけ、杏南が通る――新見佐一郎の手記――

河合ゆうみ

第1話 1ページめ

名は新見佐一郎。

両親はすでになく、兄弟もいない。

大学を卒業後、商社務めを始めて数年。神社のそばの小さな家を手に入れ、気ままな独身生活を満喫している。

真面目にしっかりと務めているつもりだが、根が少々風変りというか、変わっていると言われることが多々ある。もちろん、納得はいっていない。

私としてはごく普通にしているつもりだし、それなりの常識はあると自負している。

だが――私には、秘密がある。

自宅を解放して『もののけの医師』をしていることは、世間には絶対に知られるわけにはいかない。


私と、もののけたちしか知らない秘密だ。




「ああ、こんなにひび割れて血が滲んでいる。痛かっただろう。かわいそうに」

 そう言いながら、口裂け女の唇を注意深く観察する。

 横に大きく裂けたような形の唇は、あちこちがひび割れて見るからに痛そうだった。

 白い着物に身を包んだ口裂け女はひどく恥ずかしがり屋で、口もとを袂で覆ってなかなか顔を見せようとしないから、診察するまでに一時間以上かかった。

 もののけ相手には、根気が必要だ。

 物心ついたときから視えていたもののけたちを診察するようになったのは、いつのころからだっただろう。思い出せない。

「唇の荒れには、バニシングクリームが効くようだが…生憎、持ち合わせがなくてね。代わりにこの化粧油で潤しておこう」

 診察机の引き出しから、化粧油の瓶を取り出す。

「バニシングクリームは明日にでも買っておくから取りにおいで。こまめに塗らないと、なかなか治らないだろうからね」

 口裂け女というもののけは本来、人を脅かしたりちょっかいを出すのが好きな性分をしているようだが、目の前にいる口裂け女は顔を耳まで真っ赤に染め上げて、自分とまともに目も合わせようとしない。

 ずいぶんと、内気な口裂け女もいたものだ。

「さあ、これで良し」

 ふと気づく。

 ――待てよ。

 彼女はこの家を訪れてからというもの、ずっと頬を紅潮させている。もしかしたら熱でもあるのではないだろうか。

 『もののけの医師』を名乗るようになってからというもの、風邪を引いたもののけを診ることは珍しくなかった。

 もっとも子どものころは、もののけも風邪を引くのかと驚いたものだ。

 目の前の椅子に行儀よく座る口裂け女は、初めて診るクランケだった。

 日本的な顔立ちをしていて、つやつやした黒髪が綺麗だ。

「ほかに痛いところはあるかい? 熱があるんじゃないかな? 良かったら、額に触らせてくれるかい? 熱を測りたいんだけれども」

 うつむきっぱなしの白い顔を覗き込むようにして尋ねると、口裂け女がぱっと椅子から立ち上がり、ふるふると首を横に振った。

 そして、どこからか漂う香りに気づき、怪訝そうに眉をひそめる。

「ああ、花の香がするだろう? 唇につけた油にね、薔薇の香をつけてあるんだよ。妙齢の女性に似つかわしいかと思ってね」

 ぼん、とどこからか、小さく何かが爆発するような音がした。

「おや? 何の音だろう」

 ほんの少し目を離した隙に、口裂け女は逃げるように診察室から出て行ってしまっていた。庭に出て、あっと言う間に走り去ってしまう。

「あれ。まだ診察の途中だったのに。まあ、あの走り方からして熱はなさそうかな?」

 開きっぱなしの窓から庭に出て、口裂け女の後ろ姿に向かって声をかける。

「おおい。明日、またおいで。待っているからね」

 窓の外はまだまだ寒いが、もうじき冬が終わる。

 冬中をかけてゆっくりと育ってきた春が、一気に芽吹くまで、あと少し。



 診察室に戻ろうとすると、庭の柿の木の枝から、ぬらりひょんがぬっと下りてきた。

「佐一郎」

「なんだ。そこにいたのかい」

「部屋に入ろうとしたら、先客がいたのでな」

 彼は本来ならばとんでもない長寿のもののけだが、仔細あって五歳の子どもの姿をしている。姿も声もあどけないが、中身は長老のままなので、時折ひどくアンバランスに見える。

 もっとも、本人はけろっとしたものだ。

「ああ。口裂け女が来ていたんだよ。綺麗な女性だったろう?」

 ぬらりひょんは木から下り、すたすたと室内へ向かう。いつのころからか診察室の舶来のソファの寝心地が気に入ったと言って、今ではすっかり居ついている。

「お主はなんというか…」

「ん? 何だい?」

「…いや、なんでもない。儂が口を出すような問題ではないわ」

 今日は仕事が休みなので、朝から診療室を開けている。そのせいか朝から何人ものクランケがやってきていたが、ようやく途切れたようだ。

「ちょうどお茶の時間だし、一息入れようか。最中があるんだよ。いただきものだけど」

「おお、それは良い! お主の振舞ってくれるものはいつも美味いからのう」

 優雅な午後の一服をしようとしていたところで、ジリリリリ、と黒電話が鳴った。電話は診察室を出た先の玄関に置いてあるので、音がよく響く。

 私は嫌な予感に顔をしかめた。

「はい、新見ですが…これはこれは…ええ、佐一郎です。ご無沙汰しております、伯母上」

 人間、嫌な予感ほど的中するのは、どういうわけだろうか。




 電話を終えて診察室に戻ると、待ちくたびれたぬらりひょんが、最中にかじりついていた。

「長かったのう。また親類からか? 最近多いな……うう、最中の皮が上あごに引っ付いて不快だ。だが、美味い。最中は漉し餡に限るのぅ」

「飲み物もなしに食べると、喉に詰まりかねないよ」

 ぬらりひょんのためにお茶を濃いめに淹れながら、ため息をつく。

 ついでながら、私は白餡派だ。漉し餡も嫌いじゃないけれど。

「どうしたものかな…」

「何じゃ? どうしたんじゃ?」

 口の中を餡子でいっぱいに膨らませたぬらりひょんを相手に、正直に打ち明ける。

 種族が違い年齢が違えど、彼は親友だ。古くからの付き合いだし、隠し事はしたくない。

「……見合いをするよう迫られていてね。そろそろ、逃げきれなくなってきてしまった」

「ほう、見合いか。たかだか二十年あまりしか生きていない若造のくせに」

「人間なら、もうとっくに適齢期なんだよ。それに私は、親を早くに亡くしているから」

 いつまでも独り身でいるのは不憫だと、親戚たちはあれこれ手を打ってくる。その気持ちはありがたいが、ありがた迷惑に感じているのも事実だ。

「結婚などするつもりはないし、見合いをしても無駄だと思うんだがなあ……」

 今までは、なんとかのらりくらりと逃げ続けていたのだけれど。

「伯母たちの勢いが最近、一段と激しくなってきてね」

 お茶を啜って、顔をしかめる。

「どうしたものかな」

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