狭間学園
@faily19
小指に絆創膏
その人は、いつも小指に絆創膏を巻いている。左手の小指。特になんてことのない、意味もないその指に、毎日同じ肌色の絆創膏を貼っている。先輩は何処か掴み所のないというか不思議な人なので、誰もが「そういうものか」と頷いているのだけれど、面と向かって理由を聞いた人はいない。先輩の話はどうにもふわふわしていて、聞いているといつの間にか首が勝手に左右どちらかに傾いているからだ。
どうしてそれを聞いてみたのかと言うと、好奇心が疼いたという以外にはない。それにあとは少しだけ、先輩は僕に案外良くしてくれているものだから大丈夫かなあ、なんて思い込みもあったことは否定し切れない。その証拠に先輩はぱちくりと瞳を瞬かせ、それからすぐに答えてくれた。
「これはね、傷跡を隠す為のものなんだ」
「傷跡」
オウムのように繰り返してしまった。随分とまあ、先輩からは程遠い言葉だ。この人が傷を負うなんて、きっと読んでいた本のページで指を切るくらいだろう。巻いている絆創膏にも、鈍い赤ひとつ滲んではいない。しかもそれは小指の根元に巻かれていて、ページで切ったものでもないんだろうな、と何となく思った。
「指切りげんまん。小さい頃によくやったろう。嘘吐いたら針千本のーます、って。今から思うと怖い話だ、ちょっと約束を破ったくらいでそんなことをするのもどうかとは思うよね」
「まあ、確かにそうですね」
ぼんやりと相槌を打つ。正直そんな童歌みたいなもので遊んでいたのは遠い昔のことだ。確か両手の指で数え切れるくらいの年の頃だから、歌詞の意味を考えることもなくひたすらに指を切っていたんだろう。僕は約束を守る子供だっただろうか。今となってはもう思い出すことも叶わないけれど。
「とは言っても元々はほんとに指を切って持ってたらしいし、破られた方の怒りは針千本じゃ済まないのかもしれないけどね」
「はあ……」
この人は何を言いたいんだろう。このお世辞にも可愛げのあるとは言えない年齢になった後輩に対して、約束を守るのは大事だとか何だとか、そういう道徳を説くつもりなんだろうか。
「先輩は詳しいんですね」
「詳しいことまでは知らないよ。ちらっと聞いただけ」
首を振って無造作に髪を払う。
「でもね、僕は思うんだよ。言葉には縛られるだけの力がある。それなら約束の方だって、破られるだけじゃいられないんじゃないかって」
胡散臭い話になってきたぞ。浮かべた笑顔が曖昧に解け散るのを必死に宥めながら、僕は短く「へえ」とだけ呟く。先輩が距離を置かれがちなのは、このせいだと思うのだが。
「実際にやったかどうかはともかく、昔の人は指を切るだけじゃ飽き足らず、拳骨を万回するのだと脅したそうだよ。そんなことしたら死んじゃうと思うんだけど、それだけ大事なことだったんだろうね。だからほっぽかれた約束もさ、ほっぽかれたら困るとばかりに焦る訳さ。それで、互いに取り憑いた」
白い指でそっと小指を撫ぜた。肌に溶け込むようにと設計されたベージュの薄い絆創膏も、先輩が巻くとどうにも浮き上がって見えてしまう。
「この下にはね、指を切られた跡がある。消えない跡だ。丁度指の付け根にまあるく、細い線があるんだよ」
穏やかに笑んで、先輩は言った。
「僕は自分の指を切ったし、相手もその指を切った。忘れられないように、違えないように、互いの指を預かってる、ってことだね」
視線が指に吸い寄せられる。先輩の指は薄く骨が浮いていて、細っこい。ただその左手の小指は、他のと比べて僅かにやわっこいような、そんな気がしてしまって、僕は思わず絆創膏のフィルムから目を逸らした。
「何処にいるんだろうね、僕の指を契った相手」
先輩の黒曜石みたいな瞳がどろりと融けて、ぼたりと床に落ちてしまったのかと思った。けれどそんなことがあるはずもなく、僕はただ阿呆のように突っ立っているだけなのだった。カーディガンに隠れた自分の指を握りしめる気力もなく、床に落ちたカーテンの影のゆらめきを見つめている。
「…ははっ、嘘だとも後輩くん!」
底抜けに明るい青空が降ってきた。見上げたけれど空はとっくに焼けていて、それが先輩の声なのだとすぐに分かった。
「怖がりだな、後輩くんは。普通に昔糸鋸で切った傷が消えなくて巻いているだけだよ」
先程いとおしげに撫でた左手をひらひらと雑に振りながら、先輩は「帰ろうか」と呟く。
「そうですね」
僕はそう返しながら、床から数センチ浮いた先輩を見ていた。
狭間学園 @faily19
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