第二十七話 亀裂(三)
「
食事の間に入ってきた大臣は、
「アウロラ様とは市場でお会いしたそうですな。丁重におもてなしするよう言いつかっておりますが」
口調こそ丁寧だが、濃い眉の下から覗く大臣の目は冷ややかにウェスペルの目を見据えていた。さっきまで他愛ないお喋りに花を咲かせていたソナーレと料理長、そしてちょっとのことでは動じなさそうなシードゥスでさえ、大臣の厳粛な様子に口をつぐむ。
「あ、はい、えと、お邪魔しています……昨晩は色々とお世話になり……」
目の前の老人の威圧的な様子にウェスペルは体を強張らせた。しかも他の三人が微動だにせず自分と大臣を見つめているのが分かり、うまく舌が回らない。
「お話は伺っております。なんでも、御旅行の間に道に迷われたとか」
「そ、そうなんです。ほんの近場までと思って歩いていたんですが」
「して、シレアへ入国するには手形が必要なはずですが、それはお持ちでしょうか?」
ウェスペルは言葉に詰まった。大臣の言うことは道理だ。しかし、もともと自分が旅行していたのは旅券が不要なところだった。そしてもし自分が旅券を持っていたからといって、この不思議な世界で同じ旅券が通用するとも思えない。
城を追い出されても文句を言えない状況に、ウェスペルの目は知らずのうちに大臣の視線から逃げて床へ落ちる。周りの面々も固唾を呑むばかりで、数秒、いや一分あまりか、沈黙が流れた。
だが先に重い空気を崩したのは、ふうーっという大臣その人の深い吐息だった。顔を上げると、大臣は先ほどの厳格な表情をいくらか和らげている。
「いえ、冗談です。何やら非常に
「はっ、はい! いま行きます!」
「結構」
大臣がくるりと背を向けて廊下に出ていくので、ウェスペルは慌ててその後を追った。部屋の扉のところで「料理長さん、ご馳走様!」と告げ、無意識にシードゥスの顔をちらと窺う。
こちらを見ていた濃紺の瞳と目が合った。「心配ない」と告げるように、小さく頷く。反射的にウェスペルの足に力がこもり、食堂の床を蹴ってまだ冷える朝の廊下に踏み出した。
城の本格的な業務が始まる前なのだろう。廊下は人気がない。壁に靴音だけが反響する中で、大臣がおもむろに口を開いた。
「昨日、この国では前例の無いことが起こりましてな。それに続けて貴女のような方がいらっしゃるという。不吉なものでも起こりはしないかと、姫様が城にお連れしたのは軽率とするか、早めに捕獲した良策とするか、考えあぐねておりました。しかし……」
大臣は廊の先を見ながら独り言のように話す。
「姫様は常日頃から勘がよろしい。今回もそうですな。貴女のお顔を拝見してすぐに思いました。
「アウロラが、そんなことを?」
「ウェスペル様」
大臣は歩みを止めると初めてウェスペルに向き直り、白いものの混じる眉の奥から見つめた。
「異常事態で城の中は緊迫しております。わたくしが提案し、アウロラ様がお許しになった者、そしてアウロラ様の御判断で、なおかつわたくしが良しとした面々にしか、貴女様のことは伝えていない。賓客に対する非礼をどうか御容赦願いたい」
威厳ある老人は深く頭を下げた。
「兄王子殿下がご不在の中、ああ見えても姫様のお心は不安で溢れていらっしゃいましょう。どうか、姫様のお力になっていただけまいか」
「いえ、そんな、私こそ何が何だか分からない中でアウロラに助けてもらって。なのに何もせずにここに居させてもらうわけには……」
慌てて手を左右に振ると、大臣のいかめしい表情が崩れ、目尻に皺が寄った。
「そのようなところがアウロラ様のお気持ちを軽くなさったのかもしれませぬ。姫様はまもなくお戻りになると思います。お飲み物でも持って来させますから、どうぞそれまで、アウロラ様のお部屋でお
アウロラが自室に戻ると、窓辺の椅子に座ってウェスペルが待っていた。張り詰めていた緊張の糸が途端に緩む。アウロラは駆け寄り、ウェスペルが座る椅子の高さに合わせてしゃがみこんだ。
「おはよう! ちゃんと眠れたかしら? しっかり
「わわ、おはよ。こちらはおかげさまで。そっちはあまり寝てないんじゃないの?」
腰を浮かせたウェスペルは、一気に至近距離まで来たアウロラに
「私は仕事だもの。仕事があるくせに寝させてもらったくらいよ。料理長のご飯は美味しかったでしょう。大臣が失礼をしなかったかしら? あらやだウェスペル、ドレス似合うわね。やっぱりこの色だと思った」
矢継ぎ早に喋るアウロラにゆさゆさぺたぺたと揺さぶられたり叩かれたりしたので、ウェスペルは最初のうちは驚いたが、なるほど、これは相当に緊張していたに違いない、と悟った。というのも、極度の緊張が緩んだ時には自分もいつもこうなるので。
だからこそ、言わずにいられない。
「お疲れ様」
何か言いかけて口を開いたまま、アウロラの体の動きがはたと止まった。そして次の時には、恥ずかしそうに顔をくしゃりと崩す。
「ありがとう」
不思議なものだ。昨日出会ったばかりなのに、誰よりも互いのことが分かるみたいだ。
「そうそう、ウェスペルに来てもらったのはね、見せておきたいものがあったのよ。来て!」
さっとウェスペルの手を取り、廊下を小走りに駆けて下層階へ向かう。昨日の夜から決めていたことだった。ウェスペルには地下水脈のことを知らせておかなければならないと本能的に思ったのだ。昨日、倉庫にウェスペルを迎えに行った時よりもさらに多くの階段を駆け下り駆け下り、今朝早くに通った場所へ戻る。
「ここよ。我がシレアの第二の宝」
ウェスペルを促し
「どうしたの?」
明らかな異変がアウロラの全身から発せられていた。
「水が……止まってる……」
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