第8話「欠かさず抜くもの」

 山城が毎日欠かさず抜くものは、睫毛以外にもうひとつある。

 家にいようが外にいようが、山城は一日一度は少なくともそれを抜いた。多いときは、今でも一日に二、三度抜くこともあった。

 

 小学校低学年の時点でその習性が身についていたというのは、おそらくは周囲の人間と比べていくぶん早かったのだろう。クラスメイトの女子生徒や担任の女教師、ときには道を歩いていて偶然目に入った路傍ろぼうの人でさえも、山城はその対象とした。


「山城くん、午後になるといつも眠そうね。大丈夫?」

 四年生のとき、担任の女教師にしばしばそう言われた。

 名前など思い出せないが、ショートヘアの似合う端正な小顔やほどよく丸みを帯びた尻が山城の好みと合致した。昼休みにはほぼ毎日トイレの個室にこもり、それらを脳内に浮上させて抜いていた。


 事を終えると、全身に押し寄せる疲労感にいくばくかの後悔を覚えた。

 疲労はまず目に来る。ほんの一瞬くらっとして視界がゆがみ、しかしそれはすぐにおさまる。それから半開きになった口や、鼻の穴に荒く入りこむ空気の不味さにほんの少し眉をひそめた。対照的に、両耳には廊下や校庭ではしゃぐ生徒たちのかん高い声が、いやに清涼感を伴って届いた。


 ただでさえ給食を腹一杯に摂取してふわついた体に之繞しんにゅうを掛けてのしかかる刺激により、山城のまぶたは重くなった。午後の授業中、まともに起きていられなかったことは言うまでもない。女教師に指摘されると、山城は慌てるでもうろたえるでもなく、うつむいたまま適当に謝りながら睫毛を抜いた。


 芳江と付き合うまでの間、山城に浮ついた話はついぞなかった。

 たとえ器量が悪くとも、努力次第で――それこそ芳江のように――変化は可能だったのだろうと山城自身も思う。

 しかし、その可能性が保証のない虚構であるという見解と、そうなった場合に、そこまでの過程が画餅がべいに帰することを想像したときの途方もない疲労感とが、彼に手抜きの道を歩ませたのである。


「もちろん世間一般の目はあるけど、一番は、僕の生活を今よりも快適なものにしてくれることを期待して、かな」

 結婚活動中、職場の朋輩ほうばいと昼食をとっていた際、なぜに結婚したいのかという話題を振られて、山城は熟考ののちにこう答えた。


「そうか」

 朋輩は半笑いを浮かべており、それ以上なにも言わなかった。

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