廃教会の悪魔

 蜘蛛の腹についた毛むくじゃらの六つの脚が、身の毛がよだつ足音を立てて徘徊する。

 腹の膨らみとは似合わない細い上半身から生えている蟷螂の斧は、言葉の通りとはいかず、禍々しい刃を備えており、頭部に並んだ八つの目が侵入者を見つけようものなら、いつでも首を刎ねる構えだ。

 しかし偵察と見張りのために散策していた個体は、八つの目のいずれも敵影を捉えられぬまま、背後から首を捩じり切られた。

 悪魔の首を刈り取った手で招かれ、れいせつなも潜入する。

 ユーリと共に敵地へと乗り込む二人の姿を、ミーリは少し離れた木の上から見守っていた。

「見守ることが条件ではあったけれど、こんなに遠くていいの?」

「目の前でピンチになられたら、手助けどころか全部倒しちゃうでしょって、空虚うつろに言われてさ。だから我慢してんの」

「そ、お利口さんね」

「四〇超えたおっさんにお利口さんはやめてよ、ロン」

「あら、ごめんなさい? 神代の礼装からしてみたら、四〇歳も二〇歳も大して変わらないんだもの。あなたはいつでも素敵よ、ミーリ」

「ありがと、ロン」

 ミーリの隣に飛び乗ったロンゴミアントは、そっと肩に頭を乗せる。

 普段ミーリに甘えられない分、人目がない今存分にミーリに甘えるロンゴミアントの素の顔など知る由もなく、零と切はユーリに案内されながら、目的地である廃教会を目指していた。

 話では村全体が炎に包まれたと聞いていたが、炭化し、倒壊しながらも建物の多くが残っており、それらを障害物に身を隠しながら進むことが出来た。

「仲間がやられたって言うのに、出てこないね」

「特に遠距離感知が出来てるわけじゃないのかもね。その辺りは、本物の虫とは少し違うのかも――けふっ」

「大丈夫? 切にぃ」

「うん、大丈夫」

「しぃっ。二人共、ちょぉっと静かにねぇ……」

 ユーリの霊力感知能力は、ラグナロクでも指折りだ。

 魔物の気配や足音もそうだし、息遣いからある程度、標的の状態まで把握できるらしい。

 最大にまで感知範囲を広げると、本人曰く、今いる村全体を超える範囲を把握できるそうだが、長続きしない上、無駄に霊力を消費するだけなので、今回は省エネモードで作動中だ。

 それでも、廃教会の悪魔らの位置は完全に把握している。

「一匹出てきたね。偵察、ではなさそうだけれど」

「……では、僕達の補習ですし。ここは、こほっ、僕が」

 少々よろめきながら立ち上がり、ふらつきながら障害物の外へ。

 突然出てきた切を見つけて、八つの眼で驚いた様子で凝視していた悪魔だったが、咳き込む切を見て弱っていると見たのだろう。

 八つの目の下、鋭利な牙が並んだ虫のそれとは思えない口が開いて、蟷螂の斧を大きく振りかぶりながら迫って来た。

 切はその場から動かない。ただし左手には、真白の鞘に収められた刀剣へと姿を変えたムゥが握られている。

 悪魔との距離が数センチにまで迫って来たとき、咳き込んでいた切の呼吸が深く吸い込まれてから止まり、片脚を引いて構えた。

 そして次の瞬間、大口を開けて迫り来ていた悪魔が切に食らい付くことなくすぐ側を通り過ぎ、数歩歩くと前進がバラバラに分かれて崩れ落ちた。

 直後、切も大きく咳き込みながら片膝をついたが、怪我はない。ただ呼吸を無理矢理整えたためにむせただけで、切は返り血の一滴すら浴びていなかった。

「相変わらず速いねぇ、切くんの居合切り。まだ刀身が見えないや」

「お褒めに預かり、光栄で――ぐふっ、ぐふごほっ!」

「ちょっと、切にぃ無理し過ぎだって」

 荒野切の抜刀は誰にも刀身を見せない神速と有名だが、戦えるのは本当にわずかな間だけ。

 故に「無能の零」に「一瞬の切」と陰で並べられていたものだが、切の戦える時間の短さが生まれ持った病弱な体質故だとわかると、さすがに悪びれたのか、誰も言わなくなった。

「大丈夫だよ。ちょっと体がビックリしただけだから」

 比喩のようにも聞こえるが、完全に比喩というわけでもない。

 切の速過ぎる抜刀は、病弱な体に大きな負担を強いる。

 常人で言うところのフルマラソンを走った後のような疲労感が、切の場合は刀身も見せない高速抜刀の中に凝縮されて一気に押し寄せてくるような感覚だ。

 それだけの熱量を集中させ、一気に解放するからこそ、切の抜刀が速いのだとも言えるだろう。

「大丈夫かい? 切くん」

「はい、なんとか。これであと二体。一体の小さな方を零が倒すとして、大きい方を僕とユーリ先輩で倒せばいい、ですよね」

「俺はそれでいいけど……君は、それでいいのかい?」

「あ――はい。大丈夫です。私じゃあ悪魔の親玉なんてとてもとても……」

 言葉が詰まった理由は、自分が一番わかってる。

 本当は自分だってやれると言いたい。けれど、自分にはそれだけの実力がないこともわかってる。

 だから我慢して呑み込むしかないのだ。呑み込むしかないと、自分を言い聞かせた。

「……わかった。んじゃまぁ――」

 ユーリの言葉を遮ったのは誰でもない。突如として爆ぜた爆発音。

 ユーリさえも不意を突かれた爆発の中、明らか他の残骸とは形が異なり、一目で教会とわかる形で残る建物の入り口から、ユーリが首を捩じ切り、切が斬り捨てたのよりも大きく、また異形へと成り果てた悪魔が這い出てきた。

 蜘蛛の下半身に蟷螂の上半身までは一緒だが、出てきた教会にどうやって居座っていたのか疑問符が浮かぶほどほど図体が大きく、蟷螂の斧と呼ぶには刃が鋭すぎて、禍々し過ぎて、黒い炎を携え、燃え盛っていた。

 八つどころか倍以上はあるだろう目が一斉に三人を見下ろし、漆黒の体液で滴る口を開けて吠える。

「あちゃあ……共食いしたな、さては。カマキリの見た目通り、小さな仲間が美味しそうに見えちゃったのかな」

「仲間を食べて、霊力を吸収した結果、自我を失ったってことですか……?!」

「多分だけど、ね」

 ユーリも想定していなかったのだろう。

 獣に近い悪魔はいるが、それでも最低限の知性は大体持ち合わせている。

 だがこの悪魔は、目の前にいるのが捕食しやすい小さな相手ならば、同族だろうと食い殺すカマキリの本能に負けて同胞を食った――それでは本当に獣。考えのない虫だ。

「――! にぃに、危なっ――」

 切を庇った零が、悪魔の一撃に払い除けられる。

 裏拳の如く刃のない方で払われたので斬られはしなかったが、軽々と吹き飛ばされて教会へと突っ込んだ。

「零! ――がっ、ごふっ! ごふっ! ぐふっ!」

 抜刀術を繰り出した直後は、呼吸を整えるのに時間が掛かる。

 今は肺が締め付けられるように痛くて、とても動ける状況じゃない。

 切を喰らおうと大口を開けた悪魔の目の一つに、ユーリの正拳突きが叩き込まれる。

 渾身の霊力を籠めた一撃が眼球を潰したが、二〇近い目の一つでしかない。むしろ敵意を示したことで、悪魔は餌ではなく敵としてこちらを認識したようだ。

 最初に切を薙ぎ払おうとしたのは、微量な霊力など眼中にないということだろう。

 だがそれよりも小さな霊力を持つ零が薙ぎ払われ、切に対する見方が変わり、妥協した上で喰らおうとしたところで邪魔が入って憤慨している、と言ったところか。

「ミーリさんが飛んでこないってことは、零ちゃんはまだ無事ってことか。あの人の事だから、必死に堪えてるんだろうなぁ、今頃!」

 余裕を装ってはみたものの、ユーリも困っていた。

 三体いた小型は一体ずつ潰し、もう一体は大型に食われている。とりあえず零が他の誰かに襲われる可能性は今のところないが、すでに虫の息なんて可能性もある。

 助けに行こうにも、今の切に逃げ切る術はない。

「さて……どうしよっかなぁ」

 ――灰の臭いがする。肉ではない、嗅いだことのない何かが燃え尽きた後の臭い。

 教会が燃えていたのは二〇年以上前だと言うのに、未だ灰の臭いが残っているのは、悪魔や神を引き付ける濃密な霊力の影響なのか、他の何かが原因なのか、それを考える余裕はない。

 頭の傷が癒えたばかりだったのに、今度は全身に切り傷。体の至るところから血がにじみ出て、白いシャツをほぼ真っ赤に染め上げる。

 左腕に関しては袖が破けて、血液が滴り落ちていた。

 体は、まだ動く。だが動かそうとすると激痛が全身を駆け巡って、より血が流れ出てしまう。

 無理に動かしては、失血死してしまう可能性もある。止血したいが、今はその術がない。

 今は動かず、大人しくしていた方がいい。そうすれば父が多分飛んできて、自分は助かるだろう――とまで考えて、零は泣いた。静かに、声を押し殺して泣く。

「私、弱いなぁ……笑えない、くらい、弱いなぁ……」

 ここで死んだとしても、きっと誰も不思議がらない。彼女なら当然の結末だと、誰もが思うことだろう。

 そんな自分の弱さを呪う。どれだけ努力しても実を結ばない。どれだけ特訓しても身に着かない。どれだけ頑張っても何も成し得ない、最弱の自分をひたすらに呪う。

 どうして自分はこんなにも――何も持ってないのだろう。

「……何?」

 妙に明るい。

 自分の倒れている床が、光っている。しかも床全体ではなく、零の倒れる場所――

 倒れていた零の左腕から流れ出た血を触媒に、召喚が行われようとしている。大気中の霊力と、零の中にあるわずかな霊力を原動力に、陣が輝いている。

 今ここで霊力を消費すれば、命に係わるかもしれない。が、このときの半分自暴自棄にさえなっていた零には、一切の迷いがなかった。

「……我、は、神格、の、代行、者……両の天秤を、司る者。ほ、しの行く末を見届、ける、者……! 隻腕の、鉄の、女王よ。隻眼の、鋼の、女王よ……熱く、抱く大地を、削り……我の手となるこ、ぅ、せぃ……」

 意識が途切れたのが先だったか。召喚術式の詠唱口上を、すべて唱えられたのが先だったか。

 だが目を覚ますと、誰かに抱き上げられている感覚があった。

 それが兄なのか父なのかわからず、剰え天の遣いなのではないかと勘違いさえしていた零に、抱き上げる声は問うてきた。

「命令に従い参上しました。王たる我が君。貴君の槍たるこのに、命令を」

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