第2話


 翌朝。

 伏見は電車には乗っていなかった。

 家が近所なので、最寄り駅は俺と一緒。でも、これまでの登下校で目にしたことはなかった。


 そういえば、伏見がバス通学なのか、自転車通学なのか、ただ乗る電車が違うだけなのか、それすら俺は知らなかった。


 何事もなく無事に登校すると、二年の教室が並ぶ二階へ上がり、B組を目指す。


 教室に入ると、席にはすでに伏見がいた。その周囲には、男子や女子やらが群がっている。


 伏見は、休憩時間になると毎回誰かしらが席を訪ねてきて、雑談したりしている。

 尋ねてくる男子も女子も、派手で目立つグループが多いから、自分の席に座っているだけなのに、なんとなく気まずさがあった。


「諒くん、おはよう」


 聞き慣れた澄んだ声だった。

 会話を遮っての挨拶だったから、伏見の周囲にいた人たちが俺を一斉に見た。


 誰こいつ? って顔をみんなしている。

 昨日、俺が登校したときには、もうクラス全体での自己紹介が終わったあとだったらしい。


「……おはよう」


 周囲の――とくに男子の嫉妬まじりの視線が突き刺さっている気がする……。


 席に着いて、携帯をいじる。

 そうしていれば、誰とも話さなくていいし、誰かと話してなくても不自然じゃない。

 たったこれだけで、この教室での市民権を得られた気分になる。


 他人からの視線対策をしている俺とは違って、隣から聞こえてくる会話は、部活の話やらはじまった新作ドラマの話、あとは恋愛話が多かった。


「伏見さん、部活入らないの? 女テニ、こない? 今人数少なくて」

「ごめんね。高校はやらないことにしたの」

「ウチらでグループ作ろう? 伏見さん、ID教えてよ」


 男子も女子も、ワイワイと楽しそうに話をしている。


 伏見の周りにいる男子数人は、伏見狙いなんだろうなーというのがわかる。


 伏見姫奈はもしかしてモテるのでは? と遅まきながら気づいたのは、去年の春だった。

 先輩らしき人に告られているのを目撃してしまったのだ。


 何人に告られただの、男子にアカウントのIDや電話番号渡されただの、そういうモテ伝説的な話は腐るほど聞いた。


 中学校の頃も、そういう噂はあった。てか、あれは噂じゃなくて事実だったんだろう。脚色された作り話だと当時は思ってたけど。


 幼稚園の頃から見慣れている俺からすると、伏見の容姿を特別に思うことはなかった。


 教科担当の先生が教室に入ってきて伏見の周囲を覆っていた人垣が散っていった。


 毎回休憩時間になるとああだから、先生早く来いっていつも思う。


 コソコソと伏見が俺の机に机をくっつけてきた。


「え? 何?」


 教科書忘れたとか? ……いや、そんなうっかり系女子じゃなかったような。


 先生が黒板の前でああだこうだと説明する中、俺の領土と伏見の領土に橋がかかったのをいいことに、何かをノートに書いて俺に見せてきた。


『わかる?』


 ああ、俺が授業を理解できてるかってこと?


「大丈夫」


 ボソッと言うと、伏見は微笑を浮かべた。


 本当は大丈夫じゃないし、何なら先生の説明もさっぱり聞いてない。

 数学、全然わかんねえ。


『数学、苦手じゃなかった?』


 何で知ってんだよ。

 テストの点数を見せ合ったりなんて、中学生の頃から一回もしたことないのに。


 ま……まさか、ご近所ネットワークか?

 俺の頭のお粗末さが、主婦たちの井戸端会議の議題に……!?


 伏見が優秀なのは、クラスが一緒だからよく知っているし、母さんからも聞かされる。あれもご近所ネットワークの情報網のなせる業なんだろう。


 学校一人気と呼び声高い美少女様に世話を焼かれるのは、教室の隅っこがお似合いな俺からすると、少し気を遣ってしまう。

 ありがとう、じゃあ教えてくれ、とはならないんだな、これが。


 また何かを書いたノートをそっと見せてくれた。猫?らしき変な生物が描いてあって、吹き出しにセリフがある。


『好き』


 会話の流れからして、数学が好きだから、苦手な俺に教えてあげようってことか。


「ああ、うん。知ってる。クラス一緒だったし」


 ケシケシ、と消しゴムで吹き出しのセリフを消していた伏見の手が止まった。


 不思議に思ってちらっと見ると、顔が真っ赤だった。目が合うと、おろおろと挙動が怪しくなって、手がぶつかって自分のペンケースを床に落としていた。


「あぁうぁぁう……」


 変な呻き声……。


 ひっくり返したペンケースを元に戻して、こほん、と咳払いをする。

 よく見る澄まし顔をしているけど、まだ耳がちょっと赤い。


 伏見って、こんなに表情ころころ変わるやつだっけ?


『今日は電車じゃないの?』


 気になったことをノートに書いて見せた。


「ちょ、ちょっと待ってね――」


 小声で言うと、さらさらとシャーペンを走らせ書き終えた。


『いつもは通勤途中に学校があるから、お父さんに送ってもらってるんだけど、昨日はお父さんと時間が合わなくて仕方なく電車で』


 へえ。道理で見かけないわけだ。


 にしても、たまたま電車に乗ってアレって、間が悪いというか、なんというか……。


『エスカレートする前に、守ってくれてありがとう』

「お、おう」


 ぎこちなく返事をすると、にこっと伏見は笑った。


『諒くんはあの約束覚えてる?』


 ん?

 あの約束ってどの約束だ……?


 それを思い出していると、伏見の期待感ばっちりな眼差しが俺へむけられていた。


 約束……。少なくとも中高生になってからじゃないな。

 けど、小学生の頃はいっぱいしたぞ、約束。


 さ、さっぱりわからん。約束をいっぱいしたことは覚えているけど、内容は覚えてない。


 俺が考え込んでいる間、時間にして約三分くらい。


 ちら、と隣を見ると、伏見が頬をぱんぱんにしてむくれていた。ハムスターみたいな顔で激むくれモードだった。


 俺がその約束とやらを忘れたってのが、バレたっぽい。


「もう知りません」とでも言いたげに、ぷいと顔を背けて、机を元の場所に戻して俺から離れた。


 えぇぇ……。

 数学は教えてくれるっぽいのに、約束の内容は教えてくれないのかよ。


 さっきの伏見は、俺が知っている伏見とは、印象が違っていた。

 小学生の頃は確かあんな感じだったけど、それ以降は、澄まし顔が板について、感情を露わにすることはなかったと思う。


 隣の席にいるのが、学校一の人気者ではなく、幼馴染の姫奈ちゃんになったような気がして、少し懐かしく思った。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る