第43話 月華工房、再び
初めて見る北国の夏空は生まれ育った土地のものとは明らかに違う高さと青さを備えていたのに、その色も空気の清涼さも心に届いては来なかった。
夏休みが始まった。
部活動漬けの毎日だ。午前中は二人揃って乙女文楽の稽古をし、午後は私一人でコラボ劇の練習に励む日もあれば、阿知良さんや松里さん、合唱部の顔触れとともに演技を通じてシナリオを練り上げることもあった。調整役の刀禰谷さんもコラボメンバーの間を奔走する。休みが明ければ文化祭まで一ヶ月しかない。
そんなある日の夕、活動時間の終了間際になって月華さんからメッセージが届いた。人形の頭と衣装を確認しに来るよう求めていた。
——どうしよう。
一人で訪れるのは躊躇われ、小さく息を落とす。
刀禰谷さんは生徒会だろう。阿知良さんも一時間ほど前に合唱部へ打ち合わせに向かっていた。PC部と工作部は自宅組だ。この時間から駆り出すのは躊躇われた。
――松里さんに付き合ってもらおう。
帰寮した足で防音室を覗くと三味線弾きは難しい顔で演奏に打ち込んでいた。
やむなく『月華工房』を独り訪れてみればはノックに応答はなく、下っていったエレベーター・ケージを思い出す。ドアに鍵はかかっておらず、中を覗き込んでみるとデスクライトの灯る作業机では氷の浮かんだグラスが汗を掻き、束の間席を外したという風情だった。私は勝手に入って主を待つことにした。
――これ。
目に止まったのは作業机の二体の人形だった。どこの文化圏のものなのか不明な華やかな衣装を纏っている。座った一体の顔は私で、そのすぐ前に横たえられた一体は刀禰谷さんを模したものに見えた。
――イメージ・スケッチの。
最初に示されたスケッチのままの構図が再現されていた。コラボの舞台は私一人。イメージ・スケッチはあくまでも山場シーンのイメージというだけで実際に演じられる光景とは違うはずだった。刀禰谷さんの人形に出番はなく、実作の必要はない。〝能面さん〟の人形は刃物を振り上げたポーズを取らされていた。
――悪趣味な。
〝能面さん〟から伸びるケーブルが目に付き、一本を操作してみる。見事というほかないくらい鮮やかに顔が割れ、眼が入れ替わり、牙だらけの口が開いた。「ガブ」だ。
「うわ」
予想外の分割線の入り方と変化に声が漏れる。
――月華さんには私がこう見える。
私の能面の下はこんな表情なのだろう。友達を演じようとする刀禰谷さんに向ける私の感情は、きっと、こんなにも醜い。
元の表情に戻すと裂けた口の分割線が見えなくなった。文楽のものよりはフランス人形に近い顔立ちをしていて寂しげで儚く、月華さんの作風のままだ。
――私よりずっと美人。
醜女でないことは自覚していたけれど、美しくあるよう作られた人形とでは比較にもならない。特徴がうまく抽出されているだけに、月華さんの作った人形はある種私の理想だ。
息を吐いて人形を戻した。感想を残し部屋を辞そうとペンスタンドに手を伸ばしかけるともうひとつ明かりが灯った。近くに置かれていたショウケースにセンサーが仕込まれていたらしい。
――?
照らし出されたショウケースの中は祭りの屋台を模したジオラマだった。たこ焼きと林檎飴、チョコバナナを売る屋台が再現されているかに思えたのだが。
「え?」
ピックの突き立てられたたこ焼きに見えたものはドールアイで、逆立ちで冷やされている林檎飴はドールヘッドに飴が流されたものだった。焦げ茶色のコーティングが流された細長い造形はよく見れば指だ。ネイルには鮮やかなチョコスプレーが散る。
林檎飴もどきは、試作として見せられたことのある私と刀禰谷さんのバリエーションらしく飴――透明な樹脂に封じられていた。口を開けて笑っていたり、苦悶の表情であったり。チョコバナナ風に飾られた二本の指には緋色のリボンで橋が掛かる。
屋台そのものも球体関節の受けを持つ少女の胴で、屋根を支えるのは腕や足を連ねた柱だった。無数の人形の部品が吊られる薄暗い部屋で見ていたい光景ではないのに視線を外せない。
すぅ、とショウケースの明かりが消えた。センサーのタイマーだ、と思い当たったところでさらなる仕掛けが浮かび上がる。
――夜光塗料?
照明を失ったショウケースの中が光を帯び始めた。林檎飴の目尻、口元。台座となった人形の球体関節の受け、陰部。
ルミノール反応という言葉に思い当たる。
――趣味が悪い。
ショウケースから逸らした視線の先にもほのかな蛍光が宿っていた。
コルクの台座に突き立てられた剥き出しのナイフだった。
滑らかに磨かれた刃物は私の顔を歪めて映す。光っていたのはその刃の付け根と鍔、柄。指紋のようなむらも浮かび上がっていた。実寸大の作品だろうか、と手を伸ばしてみれば手応えは重い。
――本物。
嫌な感じがして思わず周囲を窺い後悔する。暗さに慣れてきた眼は部屋中に配されたドールヘッドの眼や剥き出しのドールアイが猫の眼のように光りを反射し見つめていることに気づいてしまった。どれだけの罠が仕掛けられているのだろう、と寒気が走る。
ちりりん。
びく、と背筋が震えた。ポケットのスマートフォンからの通知だった。画面には市川さんの名が表示されていた。家族や身近な人との連絡にだけ使っていたはずのメッセージング・ツールからのコンタクトの報せだった。
――なんで……。
頭の中が真っ白になった。
コンタクトの申し出を受け入れれば――「ともだち承認」すればアプリからはたちどころに攻撃的な言葉が溢れ出してくるのだろう。「承認しない」を選んだり拒否リストに入れればそれも伝わってしまう。否定の言葉を連ねる市川さんの姿がフラッシュバックした。
冷たい汗が背筋を伝った。
――どうしよう。
電源を切ろうとしたスマートフォンは私の手からこぼれて床を滑った。
同時に。
遠くで機械音が響く。年代物のエレベーターが響かせる機械音に、部屋の主が戻ってくる、と思い当たる。
――逃げなくちゃ。
主が戻ればこの部屋にはあの小さな魔女の支配する場所となるだろう。今はただ見つめているだけの人形たちが息を吹き返し囁きはじめそうな気がした。そう、例えば市川さんの声で。伝統から外れはじめている私の乙女文楽を詰る言葉を。
静寂の、しぃん、という音が耳鳴りへと変わっていく。
耐えきれず『月華工房』を飛び出した。
ナイフを手にしていたことに気づき慌ててハンカチを巻く。スマートフォンも落としてきたけれどもう戻るに戻れなくなっていた。
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