第1話 再会の茅ヶ崎と落ちてた神様

「な……なんで、お前ここにいるんだ?」

「そんなのこっちが聞きたいわよっ!」


 美貴は引越初日、よりにもよって最悪な奴と、新居マンションの自宅玄関で遭遇してしまった。この世で一番会いたくない男――、杉本和也すぎもとかずや、二十才。同い年の、かつての恋人だ。


「お、俺は配達に来ただけだよ。ほら」

 そう言って、ピザ屋の制服に身を包んだ彼は、手にした保温バッグを自分に突き出した。


(ああ……、そっか。お母さんが出前頼んだんだっけ)


 ただでさえ狭いマンションの玄関先は、散乱した梱包資材で足の踏み場もない。七月半ばの蒸し暑いその場所には、梱包資材のケミカル臭とピザの香りと和也の汗の匂いが立ちこめていた。


 和也はその僅かな隙間に突っ立って、三年前に一方的に捨てた『元カノ兼幼馴染み』をひどく切なげな顔で伺うように見ている。


「あんたがその店にいるって知ってたら、注文なんかしなかったわよ!」

「俺がいて悪かったな。……で美貴、何でお前、茅ヶ崎にいるんだ?」

「あんたバカ? 見りゃ分かるでしょ! 今朝方、浜松から戻って来たのよ」


 四年前、美貴は親の都合で一家揃って浜松に引っ越した。その後一年足らずで、五年も付き合ってた和也と別れる羽目になったのだが……。


「……って、またおじさんの仕事の都合か?」


 美貴はフン、と鼻を鳴らし、

「先月別れたのよ、うちの親。だから戻って来たんじゃない」

 この茅ヶ崎は母親の地元だ。


「そうか……」

 残念そうな顔で和也が言った。生まれてすぐに父親を亡くした彼は、小さい頃から美貴の父によく懐いてた。


「じゃ、さっさとソレ置いて帰って」


「あ、ああ、悪い。えっと、こっちが爆盛りチーズピザLサイズで――」

 和也は銀色の保温袋から、おもむろに平たい箱を取り出した。

「で、この豪快ハバネロくんピザMサイズについてるソースな、お前、絶対にかけるなよ」


「……なんで?」

「美貴は辛いの、超苦手だろ? こんなんかけたら、床のたうち回って悶死もんしだぞ」

「ふーん、……覚えてたんだ」


 彼は少し照れながら、

「ん? そりゃ長い付き合いだったからな。これでも結構気遣ってたんだぜ?」と少し嬉しそうに言った。


 ……なに? 昔の女との再会を素直に喜んじゃってるってワケ? 冗談じゃない。


「あんたにはもう意味のないことでしょ? そんな下らない事、さっさと忘れたら?」

「そ、そんな言いぐさないだろ? お前のことを思って俺は――」


 ――パンッ!


 美貴はピザの箱を床に投げ出し、和也の顔を力いっぱい平手打ちした。


「…………ッ」

 自分を振ったクズ野郎は、叩かれた頬を手で押さえている。被害者面したさまが、なんとも腹立たしい。


「いいかげんにしてよ! いつまで彼氏面してるつもり? 自分のしたこと、忘れたの?」

「……ごめん。調子に乗って……」

「仕事終わったんなら、出てってよ!」

「…………あの、」

「何よ!」

「お、お代が、まだ……」


 猛烈に恥ずかしくて、美貴は耳まで赤くなりそうだった。彼女は母親のガマ口から一万円札を引っ張り出すと、和也の胸に押しつけた。


「お釣りはいらないから、さっさと帰って!」

「ちょ、待ってくれよ美貴、」

「出てけっ!」


 崩れる梱包資材を蹴散らしながら、美貴は無理矢理和也をドアの外に追い立てた。


彼は微妙に抵抗しつつ、

「男手がいるときは声かけろよ、今も同じ所に住んでるから」

 と未練がましい事を言いながら、廊下にぐいぐいと押し出されていった。


(コイツに心配されるなんて……)


 ムカついたので、美貴はドアを思いっきり蹴り飛ばした。

 案の定、ひっ、と向こう側で和也の小さい悲鳴がして、廊下を走り去る足音が聞こえた。


 この男は昔から、帰りたくないときドアに寄りかかるクセがある。

 ……私だって覚えてるじゃん……。

 ひどく苦々しい気持ちになって、美貴はガマ口を床の上に叩きつけた。


「やっちゃった……」


 床の上に散乱したピザの箱を拾い上げる。

 和也を追い出して美貴は我に帰った。いくらなんでもやり過ぎだった。予想外の出現で、つい頭に血が上ってしまった。


 久しぶりに見た和也は、体つきは少したくましくなっていたが凜々しい顔はちっとも変わっておらず、でも生真面目な好青年といった雰囲気だったのが、今じゃ何だか生活にくたびれたオヤジという感じになってしまったのが、美貴はとても残念だった。


 ……それにしてもあの態度、一体何なんだろう。ムカつくけど、いや、今でも好きだからこそ、まだ超ムカついてるんだけど。

 ……でも、あんな切ない顔見せられたら、むちゃくちゃ気になるじゃん……。


                  ☆


「ったく、痛てぇな……」


 美貴にひっぱたかれた顔をさすりながら、マンションの廊下を歩いていた。

 ……また会えて嬉しかった。あれは正夢だったのか……。


 思えばなんでこんな粗暴な女とくっついたのか、自分でもよく分からない。

 でも、イヤんなるほど、アイツが好きだ。

 三年ぶりに会った美貴は、別れた頃よりずっと綺麗になっていた。元から可愛いかったけれど、色香が増したというか、その……、


『エロくなった』


 だいたい、タンクトップにショートパンツってなんだよッ、反則だッ! そんな格好で現れたら、『襲いたくなるだろおぉぉッ!』

 と、和也は心の中で全力シャウトする。


 ……美貴、もしも許してくれるなら、お前を全力で愛したい。……昔のように。

 でも、俺にそんな資格は…………ない。


 和也は、苦虫を噛み潰したような顔で、エレベーターを降りた。一階フロアから、よく冷えた空気が自分と入れ替わりにゴンドラの中へと流れ込む。


 ちょっとリッチなエントランスホールには、大ぶりな生け花と、ソファがしつらえてあった。配達でしか見ないような場所。自分には無縁の場所。そこが、かつての恋人、美貴の新居だった。



 マンションの外に出ると、必要以上に温められた潮風と太陽が出迎える。だけど、和也は夏がキライだった。夏なんて、湘南に住む金持ち連中にとっては、ただの生活のスパイスだろうけども、貧乏人の自分には、ただただ不快なだけで、さっさと通り過ぎて欲しいだけの季節だった。


「ん? 子供……?」


 マンションの駐車場に停めたピザ屋のバイクの向こう側に、誰かが倒れている。

 和也は慌てて駆け寄った。


「おい、しっかりしろ! 大丈夫か?」


 焼けたアスファルトの上に転がっていたのは、中学生ぐらいの色白銀髪の男の子だった。この暑いのに帽子も被らず遊んでいたようだ。半袖短パンから露出した肌が、真っ赤に焼けている。


 和也が呼びかけると、わずかに意識があって口をぱくぱくしている。彼を抱き上げると、マンションのエントランスホール脇の日陰に寝かせた。オートロックのドアが開かずとも、多少は冷気が漏れてくる。炎天下に置いたままよりはマシだ。


「いま冷やしてやるから、待ってな」

「う……ん」


 和也はバイクのトランクを開けると、保冷用の氷袋とペットボトルのミネラルウォーターを持ってきた。彼は氷をいくつかのビニール袋に分けると、少年のわき、太股のあいだ、首、頭に置いて少年を冷やしはじめた。


 少年がふう、と長く息を吐き出すと、表情が少し楽になったように見えた。和也はペットボトルのふたを開けると、

「飲めそうか?」と訊ねた。


 少年がこくりと小さく頷いたので、和也は彼の頭を自分の膝にのせ、少しづず水を飲ませた。あいかわらず少年の目はうつろで、視点は泳いでいた。


「これ舐めてな。塩タブレットだ。水飲んだだけじゃ脱水おさまらねえから」

 和也は私物のアメをポケットから取りだし、少年の口にねじこんだ。


(処置が間に合えばいいが……)


 応急処置はやらないよりはマシだが、脳が既に煮えていたら手の施しようがない。出来ることをして、あとはプロを呼ぶのが妥当だろう。


「名前、言えるか? 家の電話番号は? いま救急車呼ぶから――」

「待って。呼ばなくて……いい。家の人を呼んで……」

「だけど重症だったらマズイだろ」

「家に……電話して。必要なら、家の人が救急車呼ぶ……ならいいでしょ」

「ちッ、しょうがねえな。家は?」

「ひの……やま、じんじゃ」

「神社?」

「番号は――」




 和也が神社に電話をすると、ものの数分で彼の家族が飛んで来た。


「すいませーん、うちのご祭神がお世話に……って、あれ?」

「あ、薫? え? その巫女さんの格好はなに……」

「あれえ、和也くん。ひさしぶり」


 薫は、美貴や和也と高校時代のクラスメートだった女性だ。


「おう……、って、そうじゃなくて、救急車は? 呼んだのか?」

「大丈夫よ、少し冷やせば治るから」

「マジかよ……」

「か、薫ちゃん」


 少年がむくりと体を起こした。

 薫ちゃんと呼ばれた巫女さんは、つかつかと少年に近寄った。


「だから言ったじゃない李斗! 日中勝手に出歩いたらダメって。おまけに帽子も水筒も持って行かずに出かけて! 今日はアイス抜きだからね!」


「あ~~~~、ゆるしてえ~~~~」

「……すっかり大丈夫そう、だな。薫、この子ダレ?」

「ああ、えーっと、親戚の子」

「かーおーるーちゃん!」

「李斗は黙ってなさい! アイス二日抜きにされたいの?」

「ちぇ」


 和也は、巫女さんが乗ってきた車の後部座席に少年を横たわらせると、彼女に訊いた。


「なに、いま神社でバイトしてんの?」

「まあそんなとこかな。和也くんは……仕事中だったかな? ごめんね迷惑かけて」

「いやそんなの別に。それより、美貴が帰ってきたんだ。このマンションにいる」

「え、ここに? 私も聞いてなかった。そっか……」

「バタバタしてて連絡するの忘れてたんだろ。そんなに気にすんな」

「うん。ありがとね。じゃ」

「おう。なんかあったら店に電話くれや。じゃあな」


 和也は店のチラシを巫女さんに手渡し、車を見送った。


                  ☆


 久しぶりに美貴に会って、和也はある事を思い出した。

 深夜仕事が退けた後、その舞台となった近所の神社を数年ぶりに訪れた。やたら階段ばかり長い、小さくて寂れた神社だ。

 入り口の石碑には、氷ノ山神社と書いてある。


「薫に後で連絡するっつって、結局こんな時間になっちまったな……。これじゃもう顔を出すのもアレだろう……」


 仕事で疲れた和也の体には、やたら長い階段がキツく、上に着くころには汗が滝のように流れていた。化繊混じりの薄いシャツは肌にべったりくっつくし、蒸れた草の匂いが湿気と一緒に体に纏わり付いて、不快感MAXだ。


 夜中の神社でちょっとばかし薄気味悪い思いをしながら、彼は大きな銀杏の木の下で思い出に浸っていた。


 ――ここで十年前、美貴にプロポーズした。


 告白もせず、いきなり求婚したもんだから、どえらく怒られたっけ。

 でもあの時の自分は、結婚=大事な人とずっと一緒にいるって約束、って親に聞かされてたもんだから、そのつもりで言っただけなんだけど……。


 この十年、その気持ちは一ミリも変わっちゃいない。一途だとか純愛だとか、そんな綺麗事ではなく、ただただ単純に、物心ついた頃からずっと共に育ったコイツが大事で、この先も一緒にくっついてるのが当たり前で、それが自分達にとっての幸せなんだ、と思いこんでいた。


 別々に生きるなんて選択肢は、自分の中にはカケラもなかった。……ただそれだけのことだった。


 今にして思えば、きっと自分は家族が欲しかったんだろう。母親と二人暮らしだったから。だけど、結局――――。

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