エッセイ「普通に考えてみると(十五)」

@SyakujiiOusin

第1話

          普通に考えてみると(十五)


                              百神井応身



1.涼しかった飯盛り山


 JR駅最高地点がある野辺山駅あるいは清里から登る飯盛山。

 こころ旅で、火野正平さんが自転車で野辺山駅から獅子岩を目指す番組がありましたが、その獅子岩があるのは平沢峠で、そこには分水嶺があります。


 八ヶ岳を望む最高の展望地の一つである平沢峠に登山口があります。

 ここを出発点とする飯盛山からは もっと素晴らしい景色が見えます。平沢峠には駐車場があるので、車でお手軽に行けるのはここでしょう。

 飯盛山山頂までは、往復3時間ほどの行程です。

 8月27日、時間をかけてゆっくり登りました。


 標高1,643m、ご飯を盛ったような美しい山容からこの名 「 めしもりやま」]があります。

 山頂 からは八ヶ岳はもちろん富士山、秩父連峰、浅間山まで360度の大パノラマを満喫 できます。

 ニッコウキスゲやマツムシソウなどの高原の花が豊富です。


 帰りには、野辺山近辺のソフトアイスクリームがお奨め。もっと時間があれば、この地で見る星空は、天文台があるくらいですから綺麗です。



2.和菓子でお茶を


 家内は、ケーキを作るのが好きで、時間があると台所にこもりケーキを焼いています。

 洋菓子を作る方が多いのですが、昨日は6月に因んだ和菓子を作りました。水無月です。

 水無月(みなづき)というのは、6月のことを指すと、古文で習いました。

 6月30日は「水無月」を食べる日です。1年のちょうど折り返しにあたるこの日に、この半年の罪や穢れを祓い、残り半年の無病息災を祈願する神事「夏越祓(なごしのはらえ)」というのがあります。

 この「夏越祓」に用いられるのが、6月の和菓子の代表ともいうべき「水無月」です。

 水無月は白の外郎生地に甘く煮た小豆をのせ、三角形に包丁で切られた菓子ですが、それぞれに意味がこめられています。上部にある小豆は悪魔払いの意味があり、三角の形は暑気を払う氷を表しているといわれています。


 ピアノの練習を終えた倅と、PCで疲れた私への一服に、濃い抹茶を点てたのと一緒に水無月が饗されました。



3.話下手な人は


「自分のことは、解ってもらえている。」とか「あの人はこう思っているに違いない」とか、こういうのを称して独りよがりといいます。

 自分が何も言わなければ、相手に真意は伝わらないし、聞かなければ、相手が何を考えているのか判らない。

 極めて当然のことにも拘わらず、人はそうしない。

 なぜでしょう?


 これはコミュニケーション力とも通じますが、自分のことを理解してもらうための言葉を出すのに、思惑やごまかしがあれば、必ず見抜かれる。

 相手をよく知るための、的確な質問をすることなしに、相手の心の有りようは到底知ることはできない。

 そんなことは解っているのに、なぜかそうできない。


「敬意」をもって、ただ素直に丁寧に話せば、相手はまず怒ることはないし、気持ちは通じ合う。心からそう思っていることは、伝わるものです。

 自分が思いこんでいるだけ、相手のことを~~という人だと思い込んでいるだけでは、先の進展はありえない。

 そうだとすれば、後は自分に合った言葉の使い方を作り上げれば良いということになります。


 まさに日常の付き合いのなかで信頼しあえている人たちとの「コミュニケーション力」と全く同じなのです。

 身構えているよりは、素直が一番ということになります。



4.2回目の禁煙


 タバコをやめるのは、難しいと言われます。

 確かに、難しいと言えば難しいですし、簡単だと言えば簡単でもあります。


 二十歳から吸い始め(正直にいうと、もう少し前)30年近く吸い続けました。

 風邪を引いて咳が止まらないときでも、とぎれることなく吸いました。

 止めるまえの数年間は、1日に1カートン、100本を煙にしてしまういわゆるヘビースモーカーでした。

 それが、たまたま新幹線の禁煙車両に乗って2時間禁煙のやむなきに至ったことをきっかけに、その日からピタっと1本も吸うことなく20年間禁煙したのであります。

 禁断症状がどうだのとよく言われますが、吸うのは「癖」なのだと思います。

 最初の3日を過ぎれば、もし吸いたくなったときでも「あっ、今吸ったばかりだから。」と、思うだけで、何時の間にやら吸わずに済んでしまいます。


 で、禁煙して20年たちました。

 二十歳になったから、タバコを吸っても良いだろう、いつだって止められる。ということで1本吸ったのがきっかけで、またまたタバコを吸うようになり、すぐに1日2箱消費するようになって3年程過ぎました。


 周りがやいのやいの言うので「いつだって止められるんだ」と宣言して、その日から2か月一本も吸っていません。

 吸うのはクセなのだということが、今回の禁煙でもわかりました。


「体に悪いからやめよう」と思っているならやめるのが良いでしょうし、「ストレスをため込むよりマシだ」と思うのなら続ければよいと思います。思い方が健康状態も決めるのだと思います。

 因みに、禁煙を患者に奨める医者で、自分も禁煙したという先生を、寡聞にして一人も知りません。



5.あけひ


 「うけひ」っていうのもあるけれど、これは古事記を読むか、手っ取り早くは辞書を引いてネ。


 明るい日、灯、アケビ(木通)は明るいことを連想させるので、たいそう宜しいのであります。


 で、今日はここからが尊いお話。

 このあいだ友人が徳の話しを書いておられましたが、これは重要な示唆にとんだことなのでありました。

 「身体に栄養」「脳に知識」と言いますが、じゃあ心には何が必要か?といいますと、これが"徳"というものなのでございます。

 そうです「心に徳」というので三要素が揃うわけでございます。


 では、その徳っていうのはどんなものなのか?ということになるわけですが、よく徳を積むなんて言われても、何のことだかさっぱり分からないというのが偽らざるところです。


 平たく言っちゃうと、ひとの気持ちを明るくすること、軽くすることなんだそうです。

 ですから、禿(トク)もあかるくするので徳というわけです。


 それでは禿が徳を積むとどうなるかっていうと、得をするわけです。

 これを三段論法と言います。

 ゆめゆめ疑うことなかれ。日々を"明け日"でいかなくてはならないのですぞ。


 明日と言う字は明るい日と書くのネ・・・というのは、歌の文句です。

 もうすぐ来る新しい年が、明るく幸せな年でありますように!



6.アナウンスのチェックは無いのだろうか


 朝TVを見ていて、たいそう気になりました。

 ニュース原稿などを、その場で読むのなら仕方がないケースもあるでしょうが、取材から作成した番組のナレーションは、編集できるのですから気を付けて欲しいものです。


 結城紬の番組だったのですが、紬を折る、折ると何度でも繰り返すのです。

 「織る」と「折る」はアクセントが違うのですから、プロが公共放送で言う場合は間違わないようにしてほしい。


 似たものとして、「厚い」と「熱い」・「柿」と「火器」・「痛い」と「遺体」・「海」と「膿」・「赤」と「垢」・「箸」と「橋」・「犬」と「去ぬ」・「雨」と「飴」などなど様々あります。


 また、形容詞や形容動詞が、どの語を修飾しているかによって、文章を句切るところが違うのも、配慮して欲しいものです。



7.いくつになっても


 集まって話をしていると「へ~~そうなんだ」なんて、目から鱗・コンタクトレンズが落ちるように腑におちることを聞くことが多いから、世に埋もれているフリをしているが、なかなかどうして・・・という友人に多く恵まれていることは有難い。


 こないだも或る友人がいうのに、「中世の宗教画はコマーシャルの側面をもつんじゃないだろうか」と、若いときのイタリア旅行の際気づいたんだという話題を出しました。


 芸術は、愛と情熱と技術だけではなく、そこに知性が必要なのだとついさきごろ他から話しを聞いたばかりだったが、そうか、プラス「おまんま」のこともあって然るべしなんだ、と変に納得しました。


 ほかにも、胸におちたのが、「それはエネルギーの物質化現象うんぬん・・・」の説明。宗教で言う色即是空の「空」と「色」を、現代風に一番わかりやすく言うとそうなるのかも知れません。


 なんか適当にでも、話題を提供していると、いろいろ教えてもらえるからありがたい。



8.ルイ・ヴィトン


 電車に乗っているとき、ふと気づいたのですが、前はそれこそ猫も杓子もというくらい抱えていたヴィトンのハンドバックを、殆ど目にすることがなくなった。

 カラーコーディネイトのことを言う人は、持つ人の肌の色と合わなくて似合わないこともあるから、流行で持つのだったら考えたほうがいいとの意見も述べていた。

 ブランドだけに釣られない、目を養った人が増えたということなのだろうか?

 自分に合った良い物を見極められるというのは、望ましいことではあります。


 古今東西、良い職人が心を込めて作ったものは、どんなものでも長く使って馴染むと、得も言われぬ風合いがでるものです。



9.うまやどのおうじ


 午年に因み、厩戸皇子(うまやどのおうじ)こと、聖徳太子のお話。(別名:豊聡耳、上宮王)


 574年(飛鳥時代)、用明天皇とその異母妹の母の元に誕生。蘇我氏側について物部氏と対立した。

 戦いに勝利したあと、四天王寺を建立したとか、冠位十二階・十七条憲法を定めたというのは、学校で習いました。

 前には、貴い1万円札の肖像となっていました。

 最近、聖徳太子というのは居なかったという説を唱える人もいますが、どうだったのでしょうか。


 聖徳太子は、「我必ずしも聖にあらず。彼必ずしも愚かにあらず。共にこれ凡夫 のみ。」と仰せられました。

 人の違うを怒らず。人皆、心あり。心各々執えるあり。彼は是すなわち我にあらず。我は 是、彼にあらず。我必ずしも聖にあらず。彼必ずしも愚にあらず。共に是、凡夫のみ。是 理にあらずして、何ぞよく定むべき。相共に賢く愚かなリ。


 人はすべて、優れた人と劣った人に区別されるべきでなく、「 みんな同じく凡夫である」という意味です。

 そうは言われても、そう理解するのはなかなか難しい。

 だから凡夫なのかしら?



10.お陰様


 日本では、太古の昔から万物に霊性を感じ取り、それらを八百万(やおよろず)の神と敬ってきました。周りすべてに感謝できたということになります。

 一神であれば、それ以外を信じることは許されないし、突き詰めれば他を認めることもできないということになるから、日本の神様はひろびろしています。


 森羅万象全てを神として、祈りとともに生をつないできたこれら先人たちの行きつく先は、和。

 和をもって尊しとしてきたのだと、思い当たることが多いのです。


 ですから、穏やかに暮らすことができている人たちが、日頃よいことのあるごとに「お陰様で」と、心から口にできるのは、本当に護られていることを信じることができているからなのだと思うのです。


 「おかげさま」は、自分以外から思いがけず受ける利益や恩恵を意味する「お陰」に、更に「様」をつけて、なお丁寧に感謝の心を表した言葉であります。


 「陰」は神仏などの偉大なものの陰、陰は即ちあたっている光のことで、影とは違う。

 偉大なるものの光があたったことが庇護(ひご)を 得たことと受けとめ、「お蔭」と言ったのだと思います。

 これを口癖にしている人で好かれていない人、というのを見たことがありません。



11.サンシュユ


 サンシュユを漢字で書くと「山茱萸」。音が似ているので山椒と間違える。

 庭のサンシュユの木~に鳴る鈴つけて・・・という歌がありますが、子供のころは山椒の木の歌だと間違えて思ってました。


 春早く、葉がつく前に木一面に黄色の花をつけることから、「ハルコガネバナ」とも呼ばれて縁起がよい。

 秋にはグミのような赤い実が付くのをに例えて、「アキサンゴ」とも呼ばれる。


 この実の内部にある種子を取り除いて乾燥させた果肉は生薬に利用され、「サンシュユ」の名で、強精薬、止血、解熱などに使われるという。



12.すすぐ


 雪が沢山降りました。

 雪ぐのは、恥ということになっていますが、こんなに諸方に影響が出ると、困る人が多くなります。


 濯ぐは、水で汚れを流すこと。

 漱ぐは、水でウガイをすること。

 夏目漱石は、石で口を漱いだ?

 そもそもは、「枕石漱水」(流れに漱(くちすす)ぎ石に枕す)という詩からの熟語であり「俗世間から離れて、川の流れで口をすすいで石を枕として眠るような生活をしたい」という意味なのだが、間違えて「漱石枕流」と言ってしまった人がいた。

 それを友人から指摘されると、

 「石で口をそそぐのは、歯を磨くため。川の流れを枕にするのは、水で耳の中を洗うためだよ」と負け惜しみを言った。


 このことから、漱石枕流には負け惜しみ、頑固者という意味を持つようになりました。

 自分のことを変わり者だと思っていた夏目漱石は、この漱石を筆名に選んだと言われています。



13.だいぶたい


 晴れの大舞台で活躍される役者さんや選手の皆さんの、日頃の精進の結果が披露されるのを見るのは楽しい。


 表題の「大舞台」を、「だいぶたい」と読むか「おおぶたい」と読むかについては、異論があるようです。

 重箱読み・湯桶読み、日本語はなかなか難しいようです。

 NHKの「ことばのハンドブック」や「アクセント辞典」では、古典芸能以外の“活躍の場”といった意味のときには「ダイブタイ」と決めているようです。


 大地震はオオジシン、大震災はダイシンサイというのも、よく話題になります。

 地震も震災も漢語ですが、言い易さも加わってくるのでしょうが、慣用的に言い習わされて広まって定着してしまうのも、言葉遣いの特性かもしれません。


 放送では、古典芸能のときは[オーブタイ]のみ、それ以外のときは[ダイブタイ]または[オーブタイ]の両方の読み方をするようです。


 大○○という言葉があったとき、「ダイ」なのか「おお」なのかは、そのあとにくる○○によって変わるようです。

 ○○の部分が日本古来の言葉(大和言葉)であれば、「おお」となり、伝来した漢語であれば「だい」となる。


 例えば、大一番、大御所、大相撲、大太鼓、大道具、大広間、大部屋、大晦日、大番頭、大捕物、大荒れ、大食い、大引け、大目付、大事などは「おお」となり、


 大家族、大地震、大規模、大元帥、大自然、大前提、大多数、大動脈、大惨事、大部分、大問題などは「だい」となります。


 舞台は日本語(和語)ですので「おおぶたい」となりますが、「だいぶたい」と読んだ方が語感的には馴染むように、私には思えます。



14.タトウ


 タトーと言えば、一見格好良く聞こえますが・・・

 黥面文身(げいめんぶんしん)、イレズミのことです。

 魏志倭人伝に、倭人は顔や身体にイレズミをしていると書かれているとか。

 人類学的に見て、発展途上前には身体を傷つける例が多いように思われます。

 イレズミには、マジナイの意味もあったらしい。


 先日昼食を摂りに出かけたところ、倶利伽羅紋々というほど勇ましいものではないが、いやに入墨が目立った。

 同行していた役員に「彫り物って体が冷えるんだってね」と話しかけると、「そんな程度で済めばいいんですが、肝臓を傷めるらしいですよ。」との返事。

 彼の知人の知人が背中に彫り物を背負っていて、お酒を飲まないにも拘わらず二人が肝硬変で若くして亡くなったという。


 身体髪皮膚(しんたいはっぷ) 之を父母に受く

 敢えて毀傷(きしょう)せざるは 孝の始めなり


 むかしは、身体に傷をむりにつけないことが孝行の始めだと習った。


 いま、親孝行などというと古いなんて言われてしまうが、親がどんなに慈しんで子を育てるかは、自分が親になって初めて知る。


 人類発祥以来、連綿と受け継ながれてきた命であってみれば、自分のことだからといって、勝手に仇や疎かにしていいものではあるまい。

 それをちらつかせることで脅しになると勘違いしている者もいる。



15.花の装いうらやまじ


 唱歌にある「埴生の宿」というのは、粗末な家というくらいに思っていました。

埴生というのは、まあせいぜいが埴輪をつくる土というのが、私の想像の限度でございました。

 ところが、埴生というのは黄土と書いてハニュウと読んでいたらしい。


 草枕 旅行く君と知らまさば 岸の黄土(はにゅう)に にほはさましを

 白波の 千重に来寄する住吉の 岸の埴生(黄土)に にほひ行きかな


 しかも、その“にほひ”というのが意味するものは、もちっと生臭そうございまして、やることをやるという意味だったというのですから、オドロキいぬるなのです。

 黄土というのは、染まるとか色に出すとかの心情表現なのだとか。


 なんですと?和歌の男女が「やること」ってなにかですって?

 そんなことは口が裂けたって、この場ではいえません。



16.テレビを見ない


 最近、テレビは録画して見るという人が増えたようです。

 何故かと聞くと「コマーシャルがうるさい。番組の途中のいいところでCMを入れ、前後に同じところを何回も繰り返すから見ても時間の無駄だし、その部分は録画なら早送りで飛ばすことができるからすっきり見られる。」からだという。


 折角スポンサー様が多額のお金をかけても、番組の構成に視聴者サイドのことを考えないでいてソッポを向かれたということなのでしょうか。

 そういえば、どの番組でもコマーシャル付のものは同じような作りになっているから、制作会社は考えたほうがいい。

「ちょっと待った~」どこも同じお馴染みの、聞き飽きたコマーシャルの台詞です。



17.トイレを軽く見ると


 風水・パワーストーン・お札・お守りなどなど、ツキを得る為には神社参りを始めとしていろんな方法があります。


 よく、「トイレを見るとその家のことがわかる」と言われますが、ご商売をされていたらもう、見る聞くなしにトイレのお掃除は一番に気をつけねばならないことです。

 なんて言ったって、以前に書いたことがありますが「トイレは、福の神さまがいらっしゃるところ。」です。


 見た目の汚れはなくても、臭いが残っているようなトイレのままにしておくことは、お客さんに「2度ときてくれなくて結構」といっているのに等しいのですが、なかなかそこまで気が回らない人が多い。

 臭いがこもってしまったトイレは、消臭剤や芳香剤ではもう対応できません。芳香剤と臭いが混じったトイレは最悪といえましょう。

 特殊洗浄をして綺麗にしましょう!


 あっそれから、トイレを使い終わったら、便座の蓋は閉じておいて下さい。開いたままだと、運が逃げるといいます。



18.ねじこむ


 「ねじ込む」というと強引な感じがするし、「ネジを巻く」というのも強制するように感じて、ネジというのは、持っている意味が強い。

 「螺子(ネジ)」というのは、「捩じる」からきているらしいが、ネジはそもそも強くなくては始まらない。


 種子島へ鉄砲が伝来したのは、天文12年8月25日 (1543年9月23日)といわれ、種子島西之浦湾に漂着した中国船に乗っていた「五峰」という明の儒生が西村織部と筆談で通訳をして、同乗していたポルトガル人フランシスコ、キリシタダモッタ)の2人が所持していた鉄砲を、発射実演の結果、島主である種子島恵時・時尭親子が2挺を購入したのが最初だといわれます。

 ベラボウに高かったらしい。

 そこで、コピーして自前で造ろうとしたのだけれど、火縄銃の後ろは火薬の爆発力を受け止めなければならないのに、その強度を持たす技術がなかった。

 「筒底をネジで塞ぐ」ことが必要なのだが、当時の日本にはネジがなかった。  「くさび」や不十分な溶接によるのでは、暴発の危険があった。


 このネジの技術をクリヤーできたことで、鉄砲生産は爆発的に増え、日本は世界の総鉄砲所有量の大半を占めるようになり、結果として西欧列強からの侵略をされずにすんだ。


 ネジ・カシメ・シボリ・・・日本の技術は凄い。



19.白鳥・黒鳥


 まだまだ寒い日が続いているというのに、鳥の世界は違うらしい。

 白鳥の北帰行(春、越冬を終えた白鳥などの 渡り鳥が、再び北の故郷へ旅立つこと。)が始まったと、TVのニュースで飛び立つ姿をやっていました。


 白鳥を英語で言えばswanというのでしょうが、bruck swan というのもいるから、日本語になおすと「黒い白鳥」ということになるのだろうか?

 黒鳥というのもあるから、こちらの方が解りやすいのかも知れません。


 バレエの白鳥の湖に出てくる brack swan は、これのことなのかしら?



20.バタフライ


 バタフライ効果とは、英語ではbutterfly effectと呼ばれ、日本語に訳せば「蝶々効果」ということになる。

 この概念を最初に発表した気象学者エドワード・ローレンツの講演の題名「ブラジルでの蝶の羽ばたきはテキサスでトルネードを引き起こすか?」から来ている。

 これが理論的に証明されているわけではないが、蝶が羽ばたくときに起こす風のような、ほんの些細な事であっても、それが徐々にとんでもなく大きな現象の引き金に繋がるのではないか?という考え方。

 どんなに初期が小さくても、時間経過や諸条件が組み合わさることによって、大きな影響が現れ、どんな結果をもたらすかは誰にも判らない、と言う事を意味する言葉としても使われる。

 少しニュアンスは違うが、「箸よく 磐水を回す」という喩えがあります。

 磐水とは、盥に張った水の事。

 盥に張られたような大量の水を、細い箸1本で動かせるか?ということなのであるが、水を箸でかき回し続けていると、最後には渦を巻くほどになる。

 小さなことでも諦めずに続ければ、結果が出るということであります。



21.ポンとつきゃニャンと泣く


 山寺の和尚さんじゃないけれど、ポンという語はなかなか良い。


 ポンと金をだす。なんてのもあるから、ポンはなおいいのであります。

 ポンユウ(ぽんよう)っていうのもトモが重なる(朋友=朋トモ、友トモ)から、ポンていうのはいいのです。

 あっ、それポン!なんてね。

 なに、それは違うポンだってか?


 すもとりゃスッポンポンで風引かぬ、なんてのもありますが・・・丈夫なによりです。

 急に寒さが厳しくなってきました。風邪など召しませぬように。



22.井戸端会議


 先般、ラジオに出てきて恐るべき発言をされていた識者がいました。

 少しほとぼりが冷めた借り入れがどうとかこうとかいうことについてでした。


「昔の政治家は、疑わしい金を得たり使ったりしないで、自分の井戸や塀を売って政治活動をしたことから、井戸塀政治家と言った。」この話を嗜める出演者が一人もいなかったことも驚きでありました。

 こんな人が偉そうに意見を言ったってねえ~。


 近頃は井戸なんてものはないから、おばちゃんたちの会議の場所が難しい。

 ハガキを投函しに行ったところ、ポストのそばの植え込みの柵に腰掛けて、手押し車によりかかりながら、買い物帰りの一休みなのか、三人のおばあちゃまが親しげに談笑しておりました。


 「あそこはいいよ~。三度三度のご飯が・・・」と大声で言いかけて傍にいた私に気がつき、私と目が合うと、自分達の話題にテレたのか手を打って大笑いするから、「三度のご飯は大事だもんね」とこちらも答えながら一緒に大笑いして帰ってきました。

 平和でよろしい。


 今日も天気だご飯がうまい。なに?それはパクリだろうって?



23.可愛い女の子


 あてなるもの

 いみじゅうちさき女児の

 母を仰ぎ見たる

 その母の 笑顔の光に包まれて

 ころころ笑って抱きつくさま

 表す言葉みつからず


 思いいずる

 過ぎし日々のかずかず

 今もあざやかに

 忘れえぬ 想い出遠くなるも

 むかし幼子を見ました

 今は大人になってます


 そんなことども思い出す



24.官・姓名を名乗る


 むかしは官姓名(所属身分)を明らかにしてからモノを言ったり為したりしたから、世間様に恥ずかしい行いは自ら慎んだので、まわりも芯のところでは性善説を採って大過なかった。


 ちかごろは、物影に隠れ誰の所業かわからぬようにして天人ともに許されぬことをするのが多く、バレても大抵は心神耗弱とやらで、乃至は未成年とやらで、被害者よりも加害者の人権のほうが擁護されるから始末が悪い。

 誰の所業かわからないままなら、それで幕というのもある。


 意見を言う人も、自分がどう思っているか考えているかではなく、○○国がどう言っているとか、さる高官が(名前を明かすことはない)とか言って、いつでも責任逃れできるようにしているから、後に間違っていたと明らかになっても、謝罪することはない。


 そりゃおかしいだろうと声をあげる人は少ないし、思っていてもそうしないでいることに慣れると、大勢がおかしな方向に行ってしまいかねない恐れがあるのだと感じる能力さえ失せる。


 おまけに、皆がしているんだからいいじゃないかとか、誰かに注意されるまではトボケてズルをするとか、結果がのっぴきならないところまで行ってから「そういうのは良くないことだと最初から思っていた」などとか後出しジャンケンみたいなことを言って、自分の品性を自ら貶めて恥じないというのもいる。


 日本は、恥を知るというのが文化であったはず。

 そろそろなんとかしないとまずいんじゃないかってこと、周りに多いんじゃなかろうか。



25.汗は自分でかく


 自分が自分がという気持ちが強いと、時に苦しいものです。


 自分が認められたいという思いは、誰にも共通してあることですが、同じように誰にでもあるのが「言い分」というものです。

 全部が全部、その主張を聞き入れてしまうわけにはいきませんが、「なるほど、そういうことか。」と理解できることはあるものです。

 100パーセント良い物も、100パーセント悪いものもないのですから、どこかで折り合いをつけることができるようになれば、世の中もっとスムーズにいきそうです。


 「汗は自分でかきましょう。手柄は人にあげましょう。」というのは、第74代総理大臣の竹下登氏の口癖だったそうですが、そうできたら素晴らしい。



26.顔を向けた方向


 人の運命は、自分が顔を向けた方向で簡単に決まってしまうらしい。

 意識を向けるだけで、人として望ましい世界にでも悪の世界にでも、簡単にチャンネルが合ってしまうのだという。


 波動が合うと、良いことに向いていれば良い結果を、悪いことに向いていれば更に悪い結果を次々に齎すらしい。

 悪口をいったり不平不満を口にしたりするのは、歯止めが効かない状態にしていると、最悪の結果を引き寄せてしまうことを覚悟しなければならない。

 それは自分が選択して、自分が招く結果なので、避けなければならないことになる。


 世の中には、当たり前なことというのはまずないから、いろんなお陰様を蒙って無償でその恩恵に浴していることに気づき、まず感謝することができるようになることが大事です。


「有難う」「お陰様で」と素直に言えることに意識を向けるようにしていると、良いことが次々に続いて起こるようになるようです。

 どんな小さなことであっても「ありがとうございます」と先ず言えるようになることから始めます。


 人は本人が知らないだけで、何かに護られているものですから、早くそれに気づいて感謝できるようになると、どんどん幸せになれるのだと言われています。



27.顔色と肌艶


 幸せな人というのは、顔の艶がよく、自信に満ちて明るく輝いています。


 目鼻立ちは如何とも成し難いにしても、この艶というのはかなり大事なものであるらしく、これが運を左右するということであるから気を配らなくてはなりません。

 逆もまた真なりということであり、顔の艶がよくなるようにしていると、運が向いてくるというのです。


 顔色がくすんでいて運の良い人はいないらしいから、わざわざ変な化粧をして異形を殊更に誇示したり、顔色を曇らせるなどというのは、もってのほかのことなのであります。


 そんなことから、それに加えて鏡をピカピカに磨いておくことも重要になるわけです。

 身の回りの物は、ピカピカ光るものがよいそうです。ダイヤや金が無ければ、ガラス玉でも真鍮でも光る物ということです。


 この世で経験する様々な苦しみは、因果の法則によるものであるということですが、現れればそれで、それが原因で起こっていることは必ず消えるのだということですから、どんなにつらくても、「これで消すことができまして有難うございます。」ということで終りにして、いつまでも捉われ続けないようにするのが良いそうです。


 人は、いつかは幸せになるために生まれてくるのですから、そういう巡り合わせを経験するのだということです。


 でも、ご先祖様のそれら幸せへの思いをつなぐためには、墓石のクリーニングをして煤けた汚れを綺麗にしてあげなくてはならないでしょうから、ここはいちばん自分で頑張ってみることをお勧めします。自分以外の自分に関わりのある方々にも配慮するということです。

 なんでも綺麗にすることから始まります。

 情けは他人の為ならず、自分の為になって返ってくるのですから。



28.蕎麦畑の景色


 源平の戦いが終わって、落人伝説ができたといいます。

 そこがそうなのかどうか調べたことはありませんが、山登りで各地を歩くと、人里を離れていて「よくこんな厳しいところに人が住んでいるね。」と思うような場所を目にすることがあります。

 冬景色となれば、更にそうです。蕎麦畑の跡は、切株も寒々しい。


 "平家の"と頭につくことが多いのだけれど、どうしてなのでしょうね。

 それ以前にだって国譲りをしたということに神話ではなってはいるが、それは天津神と国津神の戦いがあったのだと考えるのが普通だし、事実、国津神のタケミナカタノミコト(諏訪大社の祭神)は天津神のタケミカズチノミコト(鹿島神宮の祭神)との戦いに敗れて出雲から諏訪まで落ち延びたということになっているから、その頃から「何々の隠れ里」という名がついたものができていても不思議ないはずなのに・・・


 まあ、厳しい土地ということが前振りなんだけど、ソバというのは昼と夜の温度差が大きくないと結実しないと言われています。

 すなわち気象上も厳しい土地で作られたということになる。


 平氏と較べれば、優雅といってもよいかも知れないのが今川氏。(もっとも、今川氏は源氏だけれど)

 織田との桶狭間の合戦に破れたあとのことは余り知られていませんが、家が絶えてしまったというわけではありません。

 私の住んでいる近くに、今川という地名があります。4丁目まであるくらいの広い地域です。

 今川氏の裔は徳川家に仕え、このあたりに住んでいたのだとか。

 このあたりは肥沃の地ですから、蕎麦などつくらなくても作物は何でもできたんじゃないでしょうか。

 表通りは家が並んでいますが、ちょっと入ると畑がまだ沢山残っていて、美味しそうな野菜が作られています。



29.見る目


 東京都では、来月また選挙があります。

 大騒ぎした後の選挙ですが、誰に投票したらよいものやら・・・

 見る目が問われます。


 何年か前に載せた記事の焼き鈍しです。


 海松芽(みるめ)

 中学時代の職業科(どういうわけか、その頃そういう時間割があって、学校の畑で実習もありました。)の先生が、授業中に「松の種類を述べよ」と問題を出しました。

 ワルガキの盛りだから、「おそまつ」だの「ちょろまつ」だの「たんまつ」だの「かんまつ」だのと口々にあげて、先生に呆れられました。


 でも、端末や巻末なんてのは冴えてると思うけどね。

 海松(みる)っていうのは、本当にあります。

 ウソだろうって?辞書でも引いてミルアルヨロシネ。


 そのミルじゃなくって、男をミル目だか女をミル目だかがあるかどうかの質問です。

 夜目遠目笠の内。遠目だからなんとか見られますが、70示遺産(爺さん)たちの白塗りは、本人たちも言ってましたが、近くで見るとかなり気味が悪うございました。

 旦那衆が芸者の扮装をして舞台で踊ったのであります。


 それなのに「なんか、くせになりそうヨ。」なんて言ってシナをつくりながらヨロヨロ歩く姿をなんといわんや!

 みんなで大笑いでした。(お~~キミワル)

 それでも、ちょっと見では、男か女か判らない。


 選挙の投票に行った時、投票用紙に引き換えるための係りの人が複数人いて、何のためにどういう仕事をしているか解らないことがありました。

 それで「貴方たちは、なにをする係りなの?」と尋ねたところ「本人かどうか確認する為です」というから「本人かどうか見極めるのって物凄く難しいと思うけど、どうするの?」って更に聞いたところ「男か女かを見分けるとか・・・」とのことでありました。

 それって、近頃は極めて難しくないか?


 まあ、そんなことはいいとして、何をどうしようとしているのか解らない選挙になるのは、ご勘弁願いたい。他人の口車に乗ることだけは避けたい。



30.午後に飲むのは


 そもそもが日本人だから、お茶の方がよいのだけれど、午後はコーヒーを飲むことが多い。

 気に入りのコーヒーは、ハワイコナコーヒーです。

 それも、下北沢の南口を少し下ったところにあるコーヒー豆店「モルディブ」のが口にあっています。

 長く下北沢に住んだから、それが馴染んでしまったらしい。

 引っ越してから何年かは、近所で豆を買っていたのだけれど、何かの都合で下北沢に行った時は必ず買って帰るようにしていました。

 あるとき、何年かぶりに店主に会ったのでそんな話をしたところ、「ネットでも買えるようになりました。」と聞いて以来、わざわざ出かけなくてもよくなりました。


 今日も、家で焼いたマジパンを添えて、コーヒーを楽しみました。



31.口に出して言う


 西洋の哲学かも知れませんが、「初めに言葉ありき、言葉は即ち神なりき。」と言われます。

 言葉が総てを決めるのかも知れません。ということは、物も、言葉があってこそ現出したのだと言えそうです。


 物質の後に続いて出てくる精神的活動というのも、物の名前を決め、動きや状態などを表す言葉を決めなくては、思考ということが成り立たないし、思うということなしに物質も組成されないらしいのです。

 そうした思いや考えやその蓄積を伝えることもできないから、言葉はおろそかにできません。


 しかし、そのほかの働きについては、余り言われていないようです。

「ことほぐ」というのは、目出度いことを口に出して言うということだと思いますが、聞いているとノリトもお経も説教も、その言祝ぐというところから出ているのではなかろうかと思えるのです。

 重ねて言いますが、口に出した言葉は、それを具現化せずには置かないと言う力があるようです。

 ですから、乱暴な言葉を使っていると、余りよくない結果を招くことになりかねないのであります。


 そうだと理解することができて、良いことを願ってそれを口にしても、なかなかそうそう良い結果を得ることにならないと言う人が現実には多いのですが、多分、インパクトというか熱意というかが弱くて願いが現実化するエネルギーの場所に届かないか、或いは思い方が違っているからではないのかと思うようになりました。


 なぜなら、悪意に満ちた言葉は、出されたときのエネルギーが強いのか、すぐ形に表れるようだからです。

 善も悪も含め、口から出された言葉は区別されることなく実現化するという潜在意識の世界は、自分と他人の区別もまたつかないそうですから、気をつけなければなりません。



32.幸せに向かうには


 多くの人が、苦労の後に幸せがやってくるんだから、苦労は買ってでもやれ、とよくいいます。

 本当にそうなんでしょうか?


 苦労をすれば幸せになるというのは、どうも違うんじゃないかと最近思うようになりました。

 努力する姿を傍から見ていて、それを苦労していると勘違いしているのではないかと思えるのです。

 頑張っているご本人は、自分の幸せに向かって喜んで励んでいるのであって、それを苦労だと思ってはいないのだと見えるのです。

 苦労だと思ってやっている人は、不平不満を何時も抱えていて楽しくないから、運も避けて通りすぎてしまうように思えるのです。


 ですから幸せを得る人たちが意識を向けている方向というのは、幸せであって、決して苦労を目指してはいない筈なのです。

 そうした幸せへの思いを持ち続けられる人が、結果として、目標に到達するということであって、好んで苦労を追っているわけがないのです。

 なんとなれば、求めるものが苦労ではおかしなことになるからです。


 顔を向ける方向と思い方というのが大事になってきます。



33.今年のお飾りは


 毎年この時季になると、家内は押入れの中からお雛様を取り出して飾ります。

還暦をとうに過ぎたけれど、今年も楽しそうに一つ一つ雛壇に据えつけていきます。

 もう50年以上前のものだから、傷みも激しいのだけれど、それはそれで思い出があるようです。

 飾り付けが終わると、「はい、メシ。」と言って、最近気に入って食べている発芽玄米のご飯を器に盛って供えたので、普段と違う言葉づかいに思わず笑ってしまいました。



34.私のお守り


 可愛らしい姿をした私のキューピーさんは、マスコットとしてPCの横に飾られています。

 何年か前、家族で出かけた帰りに立ち寄ったお店に何種類も飾られていたのですが、神様が突然降りてきて、これを買い求めるようにとおっしゃるので、家族3人が言われた通りそれぞれに告げられたものを手にいれました。

 人形の背中には、小さな翼が生えています。(どのキューピーにも有るのですが、意外に気づかないでいる人が多い。)

 そもそもキューピーは、キューピッドをモチーフにオニールにより作成発表されたものですが、いつのまにやら、お守りにもなってきています。

「KEWPIE」のキャラクターの誕生の背景については、小さい頃から演技や絵の才能を注目されてきたオニールが、彼女自身の二度目の離婚直後の時期、子供がいなかったことから、幼児の姿を持ったキャラクターに投影したものであるという分析があるそうです。

 キューピッドのスペルである「CUPID」との違いを明確にするために、スペルをKEWPIEとしたとも伝えられています



35.詩的・素敵


 親はなくても子は育つなんてことはありません。

 親は、たとえどんな子であっても、子が可愛いと思わなくては育てられないのです。

 順番だから仕方ないのですが、親になってみないとわからないことです。


 詩的だの親だので思い出してしまいました。

 何をかって?

 韓詩外伝にあった、いわゆる「風樹の歎」っていうのをです。


 樹欲静而風不止 子欲養而親不待 (あとは忘れました。習ってから50年以上も経つんですから・・・)

 樹静かならんと欲すれども風止まず 子養わんと欲すれども親待たず


 高校の漢文の先生が言うのに「孝行をしたいときには親はなし」ということだとのことでありました。唇寒しかな~?


 私は、100歳間近まで生きた母を、数年前に亡くしました。郷里から離れて住んだので、親孝行らしいことは殆どできなかったのが心残りです。

 親より長生きするのが親孝行だと言いますが、そうだとするとまだ30年は生きなくてはなりません。

 先日、同期生と一緒に高校時代の友人の入院見舞いに行ったのですが、見舞いを終えての帰り道に同期生が言うのに、「母が100歳を迎えて、俺より元気なんだ。お役所の係員が長寿祝いに来てくれたんだが、帰りに母が外まで見送りに出て恐縮されたくらいなんだ。」とのこと。


 寝込んでしまったりボケてしまたりの長生きではないことが素敵だと思う。

 新しき年が、皆々様に素敵な年でありますように!



36.歯に毒?


 TVで、園芸番組を見ていて、思わず耳を疑いました。

 ポインセチアが人に噛みつくのかと思ったからです。

 それは「ポインセチアの歯には毒があるから気を付けて下さい」と言ったことからであります。

 よく聞いてみたら、ポインセチアの葉と茎から出る樹液のことを言っているらしい。

 「歯と葉」が読み分けられないとは・・・


 天下の公共放送N局なんだから、気を付けて放送しましょうネ!



37.自分の尺度だけで


 誰かが一所懸命にやっていることの、その真剣さが感じ取れないような感性でいる人には、いかな神様でも仏様でも手の差し伸べようがない。


 自分の理解を超えるからというのが原因であるとか、または興味がないことだから関心が持てないということと、他人の真剣さに敬意を払わない・軽視するということとは全く違うことがらであります。


 ましてや、真剣な人の為していることの妨げになるようなことを平気で言ったりしたりするような心根では、いずれ大事な仲間からも見放されるに違いない。


 真剣な姿というものに重なっている「気」というものだけでも感じ取ることなくして、自らを高める道は拓けないと思うのです。

 認めることなくして認められることのあろうはずがないのも真理です。

自分の尺度を持つということは大事ですが、自分の持つ「秤」の種類を増やすということも大事なことです。

 認めるということが、気づかずにいた自分の器の大きさを知る機会になります。



38.実るほど


 テレビで、海外に出て素晴らしい働きをされている方の紹介番組がありました。

 志が高く、立派な功績をあげている方だということは紛れもないことでありますし、番組中で質問等に受け答えされているときのコメントにも、感じ入ることは多々ありましたが、縁あってその方の極一部ではありましょうが、献身的に蔭で協力している方々を知っていることもあり、その他にも興味をもったことで漏れ伝わってきたこともあったりして、別の感慨があったことも事実です。

 その方が決意して立ち上がることなくして現在の状況を現出させることは叶わなかったことは確かです。

 それだけに感じてしまったということでありましょうか。

 その方の意気に感じて、見返りを求めることなく献身的な協力をされた方々が、周りに沢山いたのだということも又事実でしょう。

 「お陰様で、蔭に日向にいろんなご協力をいただきまして・・・」とのひと言が、番組中のどこかにあったら、と思えたのです。


 こう言っている私が何かやったのかと言えば、そうではありませんし、注文をつける立場ではもとよりありませんから、勝手な感慨です。

 浮かんだのは「実るほど 頭を垂れる 稲穂かな」という言葉でありました。

 その方は、高潔な人格者であるのかもしれませんから、これは失礼かも知れません。


 『人々が懸命になればなるほど、ますます彼らは腰を低くし、他人から学ぼうとする』

 人を“人生の師”と考えれば、自ずと周りに謙虚に接することができるのかもしれません。



39.手を尽くす


 欲しいもの必要なものを手に入れるためには、もしそれが本気であるのなら、手をこまねいていないで、できるところから少しずつでも手をつけるというのが普通のことです。


 手早く簡単にできるなら、それに越したことはないけれど、なかなかそういかないとなると、えてしてできないのを他人の所為にしがちであります。

悪いのは、いつだって自分ではないらしい。


 手間隙かけてなにかを成し遂げたときの喜びは大きいが、そういう喜びを知ることよりも安直に結果が出ることを望むむきが多くて、手を焼くことがあります。


 楽にできる方法を探すのは、効率を考えればよいことだと思いますが、それを探すための努力すらもしないで、ちょっとの困難にでもすぐに音をあげて、「それ聞いてない」だの「教わっていない」だの「マニュアルに書いてない」だの言って済ませているのでは将来問題だろうからと、親でもないのにまるで幼児に対するように順々に教えていかなくてはならないのは面倒ですが、若い人のためには一肌脱がねば・・・


 手を出しすぎても出さなすぎても育たないから、本人たちが我が事と思えるようにするのには、手間がかかるのです。(手前味噌)


 親は無くても子は育つ、なんてことは殆どの場合ありません。



40.出さなければ入ってこない


 息は、吐き出さないと、次の空気は入ってこない。

 だから「呼吸」の「呼」は、吐く息のことであるし、「吸」は、吸う息のことです。


 自分の持っている能力、違う言い方をすればエネルギーというのも同じで、自分の為にのみ貯めこんでいて使わないでいると、次の新しいエネルギーは入ってこない。

 他人の為に使うのは損だと思っている人も多く見受けられるが、そんなことは決してないようです。

 出した以上のものが入ってくるというのが道理のようです。それも、感謝という利子つきですから、これは大きい。



41.人は望んだ通りのものになる


 ものを大切にして長く使うと、何とも言えない使い込まれた風格が出てくるものです。

 傷んだところは修理し、汚れたところは綺麗にするという行き届いた手入れが見て取れるものは貴い。


 人間は、どうも神そのものというか、神の一部かというよりほかないように思えることがあります。

 だから、生きて在ることそのものに意味があるのだろうけれど、同様に周りにあるものにも、生命があるなしに拘わらず、神というか偉大なるエネルギーを秘めたものであるに違いないと思わされることもまた多いものです。


 長い歴史の中で、智恵としてそれらを理屈抜きで感じた先人達は、破れたものは繕い汚れたものは洗って、清潔清浄を心がけたのだと思うのです。


 いま、街中を歩くと、わざと汚らしくしているとしか思えない色の衣服をまとい、買うと高いのだと自慢しているが見るからに貧乏臭い穴だらけのズボンをずるずる引きずって平気な若者を目にすることが多いのも現実です。

 それが悪いと申し上げるつもりは毛頭ありませんが、人は、選んだ通りのものになるというのが真理らしいから、美しく豊な気持ちになれるものを身の回りに配したほうがよいと思うのです。

 望む通りのものになれるとしたら、よりよいものを望んだ方がよいに決まっています。

 それが簡単にはいかないものだとしても、大きく願った方が良い。


 新年に新しいものを手にいれたら、ぜひ大切にして下さい。



42.人を呪わば


 毒のある言葉、荒い波動の言葉を使うのは、極力避けた方がいい。

 何故かと言えば、因果の法則というのは厳密で、如何にそんなことはないと否定しようとも結局は自分のところに悪い結果が帰ってきてしまうからです。

 その場凌ぎの自分の感情まかせで吐いた毒は、いずれは自分のものになる。

 棘のある、或いは毒のある物言いを好んで使う人がいるが、陰陽師は、人を呪殺しようとするとき、呪い返しに遭うことを覚悟し、墓穴を自分の分も含め二つ用意させたといわれいる。

 他人に害を及ぼすようなことは、自分も一緒にその責めを負うというのが、逃れられないことらしいのです。


 良い言葉というのは、精妙で穏やかな波動をもつから、言っても聞いても快い。

そういう言葉をいつも使いたいものです。



43.折り紙つき


 子供の遊びである千代紙を折って花や動物の形を作るのを折り紙と言いますが、折り紙つきというときの「折り紙」とは、紙 を横半分に折った文書のことで、平安時代の末期から、公式文書や贈呈品の目録として用いられ ていたものを指していいます。

 それがやがて、公文書にも使われるようになり、江戸時代には美術品や刀剣などの鑑定書にも使われるようになって、折り紙つきというのは確かな物ということにも使われるから、腕や品質などに間違いないことを指す言葉でもあります。


 一方「お墨付き」というのは、将軍や大名の作った文書で「墨の花押」があるものをいい、それが転じて、権威のある人や専門家から保証や承認を得たものを言うようになりました。



44.誰のお陰で


 「誰のお蔭でメシが食えると思ってんだ!」

 夫婦生活で決して口にしてはいけない言葉であるとされています。


 お陰様で私は、そんなことを言うこともなく50年近くを過ごしてきました。

 もとより、一度も喧嘩をしたことがない等ということはありませんが、まあまあお互いを認め合って、口にはしなくても感謝していることが多いことは有難いことです。


 私の感じることですが、「誰のお蔭で・・・・」と言われてしまう人の中には、自分が何の思いやりも努力もしないで、相手にばかり不満を言っている人が多いように見受けられます。

 言った人ばかりが酷い人とは言えないケースもありそうです。


 夫婦の仲といえど、口が裂けても言ってはならない事柄というのはあるのですから、我慢できなくなってそれを口にする前に、別の道を探ったほうが良いと思われることもあります。

 人間性を傷つける言葉は、お互いの魂まで傷つけるからです。



45.朝熊山


 朝熊山と書いて「あさまやま」。

 関東の人は、多分読めないのではないでしょうか。浅間山の方を頭に浮かべてしまいます。


 標高450メートルの朝熊山は、備長炭の原料となるウバメガシに覆われた大きな山ですが、山頂にある金剛證寺は、伊勢神宮の鬼門を護る寺として、神宮の奥ノ院ともいわれます。

 「お伊勢参らば朝熊をかけよ、朝熊かけねば片参り」と、伊勢音頭にも唄われています。


 式年遷宮を機会に伊勢神宮に参拝される方は多いと思いますが、ぜひお訪ねになると宜しいかと思います。

 ご本尊は「福威智萬虚空蔵大菩薩」で、日本三大虚空蔵菩薩の第一位として、広大無辺な福徳・威徳・智徳の三徳を有する仏様なのだそうです。



46.天網恢恢


 成人お目出とうございます。

 法的に大人として認められ、そう扱われるということでございます。

 人として生まれてより人権というのは与えられているのかも知れませんが、今までは人の卵が人になってゆく過程であったのだと思います。

 人間になりきるには、責任がとれるようになってこそのことだと思います。


 天網恢恢、疏にして失せず。或いは、疏にして漏らさず、と言われます。

 天が張りめぐらした網は広く、目が粗いようであるが、悪人・悪事は決して取り逃がさないということ。

 天道は厳正であって、悪は遅かれ早かれいずれは罰を受けるということを言う、悪事を戒める言葉。

「恢恢」は広く大きいさまのこと。


 老子 第七十三章に出てくる訓えです。

 勇於敢則殺 勇於不敢則活 此兩者 或利或害 

 天之所惡 孰知其故

 天之道 不爭而善勝 不言而善應 不召而自來 繟然而善謀

 天網恢恢 疏而不失


 原文を書き下し文にすると

 敢えてするに勇なれば則(すなわ)ち殺され、敢えてせざるに勇なれば則ち活かさる。この両者、或(ある)いは利あり、或いは害あり。

 天の悪(にくむ)む所、孰(たれ)かその故を知らん。

 天の道は、争わずして善く勝ち、言わずして善く応じ、召さずして自ら来たし、繟然(せんぜん)として善く謀る。

 天網(てんもう)恢恢(かいかい)、疏(そ)にして失せず。


 天網よりもっと目の粗い法律は、より守らねばならないということでもあります。

 天よりも誰よりも、自分がマズイと思っていることは、因果の法則として自分が一番困るときに返ってくるのだそうです。


 漢の司馬遷は、ある事件で時の帝から理不尽にも宮刑(きゅうけい)に処せられました。

 宮刑とは、男性の機能をちょん切られるという残酷な刑罰です。


 司馬遷は、正義を貫きながら酷薄な運命に翻弄された人たち、あるいは逆に悪の限りを尽くしていながら現世ではぬくぬくと優雅な生を全うする人間をその大著「史記」の中で描き出し、「天道是(ぜ)か非か」と問いかけています。



47.悩んでも詮無い


 もう済んでしまったことを、どんなに後悔したところで始まらない。

 くよくよしても変えようがないのだけれど、誰もがこの後悔という軛から自由にはなれないようです。

 でも、「ちょっと失敗しちゃったけれど、これで悪いものは出てきてしまったのだから、消えてお仕舞。」と割り切って拘りを捨てないと、精神が傷んでしまう。

 心が傷つく影響は大きいから、無責任といわれようがお気楽といわれようが、後悔するのはほどほどにしたほうが良い。


 同じように何ともならないのが、未来。

 まだ起こってもいないことをあれこれ悩んでみても、どうにもならない。

 不測の事態に備えをするのは大事だけれど、これからのことを悩んでいる人の大半は、ああなったらどうしようこうなったらどうしよう、ということであって、起こってからだって十分対処できることが殆どのようです。


 変えられることできることというのは、現在目の前にあることしかない。昨年はやった言葉でいえば「今でしょう」

 自分がやらなければならないことというのは、質問してみると大抵自分で解っている人が多い。

 でもやらない。

 やらなければならないことの端っこの一部でも良いから、まずやってみる。

 そうすることで糸がほぐれるようにどんどん物事が運ぶ。

 そうです。体を動かしてみると、運も動いていくのです。

 「運動」、言葉には持っている意味があるようです。



48.馬蹄形のお守り


 馬の蹄鉄は、鉄・アルミ・マグネシウム・チタンなどでつくられますが、馬のヒズメを護ることのほか、古くからヨーロッパでは「魔除け」や幸運を呼ぶ「お守り」とする風習があります。

 結婚式では花嫁が無事に教会まで行けるように「魔除け」として玄関に飾ったのだといいます。腕に掛けて挙式する花嫁も多いそうです。


 馬蹄が何故、幸運や魔除けの象徴になるかというと、原材料である金属は、古来、悪の精神を撥ね付ける物質とされていた。

 形状である三日月形は、豊かさとチャンスの象徴であり、Cの形として見るなら、それはキリストの頭文字。

 物を溜め込むための袋状でもあります。

 馬は、背後から忍び寄る悪魔を蹴り飛ばす足がイメージされます。何かに憑依されたように感じたときは、後ろを蹴ると良いと言われます。

 馬蹄形のグッズを手に入れたら、幸運が溜まるように、上があいているU字型の袋状になる向きにしておくといいようです。



49.武蔵野神社


 古希を過ぎて親不知が生えてくるとは思いませんでした。

 まっすぐ上に向かって生えればよいものを、真横に向かって生えてきたから、その痛いこと痛いこと。

 炎症を起こしてしまっていたので、それを抑えるのに抗生物質と痛み止めを飲むこと2週間の余。

 かかりつけのは医者の紹介状を持って、花小金井にある公立昭和病院で、親不知の抜歯手術をしました。

 大きな神経のそばにある歯なので、大きな病院でないとできないということでしたが、親切に対応していただきました。

 あと数日は、痛みに耐えなければなりません。


 昭和病院のすぐそばに、武蔵野神社というのがあります。

 ご祭神は、諏訪神社と猿田彦の命。

 諏訪神社は全国で5千社とも1万社あるとも言われます。

 道先案内の神様、猿田彦の命を御祭神として祀る神社は、全国で2000社ほどあるらしい。

 猿田彦神社は、伊勢でお参りしますが、他の神社で祀られているのに気付いたのは、武蔵野神社が初めてです。



50.福寿草は


 お正月の縁起物であった福寿草の鉢物の花が終わり、草だけになって隅に寄せられたものが目に付きます。

 鉢植えもいいけれど、平場に咲いていたら、見に行くのにも楽でいい。

 何年か前で、それがどこだったのか忘れてしまったけれど、山の麓に節分草の自生地、山の斜面には沢山の福寿草が黄色というより金色に咲いていたのを見たことがあります。


 福寿草は、見た目よりかなり広範囲に根が張る植物なので、土地の広さが大事なのです。

 ですから、鉢植えにしたものは根を切り詰めているから弱い。


 一般的にいって植物は、木も草も枝や葉の広がる広さの分だけ根が張るといい、桜などは1本につき300坪の土地が必要だと聞き及びます。























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エッセイ「普通に考えてみると(十五)」 @SyakujiiOusin

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