李(すもも)
@and25
李(すもも)
ひりひりする。
昨夜章夫が帰らなかった。
ひりひりする。
こんなことは、かつてはなかった。けれど、予感はあった。
厚めのカーテンをあけると、まばゆい光のかたまりが部屋にさしこんだ。秋晴れ。ダイニングのテーブルの上のほこりが浮かんだように見える。
「別に大したことじゃない」
声に出して云い、ふきんをとってテーブルをぬぐった。ほこりは簡単にぬぐえても、心のほこりはそのまま降り重なっていくだけなのだ。
知らずテーブルをふく手に力がこもっていた。祐子は苦笑いしてふきんをシンクに運んだ。
章夫とは去年の冬、会社の立食パーティーで知り合った。
「立花さんは、仕事慣れた?」
近くに立っていたものの、いきなり話しかけられて祐子は驚いた。
「え?」
立花とは祐子の名字。こちらは覚えていないのに、彼は自分の名前を憶えていた。
「ぼくのこと、知らない? 無理もないか。新人研修のとき、一度会ってるんだけどな。まあ、いいや。はい、名刺」
名刺には「近原 章夫」と書かれてあった。
「すみません」
「いいよ。緊張してただろうからね」
立食パーティーの後、すぐに章夫から電話がきて、デートに誘われた。学生時代以来のデート。ちゅうちょなく祐子は応じ、そこから交際が始まった。
ひりひりする。
なぜ目に見えないのに、心が離れた瞬間を感じとることができるのだろうか。
『私は浮かれてただけじゃないか』
今、帰らない男のことをぼんやりと思いながら、記憶をたどる。
恋人がほしかった。それで一人前になれる気がしていた。ステイタスのようなものだったのではないか、やり手の出世頭と一緒に暮らすというのは。
しかし、そう考えようとすると、胸の奥がきしむのを感じずにはいられなかった。
『いつからだろう。失う恐怖を抱くようになったのは』
不安にかきむしられそうになりながら、祐子はダイニングをうろついた。解釈とはわかっていても、これまでの彼との出来事から答えを導きだすしかなかった。
無意識に冷蔵庫のドアを開けた。卵、煮物の残り、なにか食べられるものはないか。
野菜室を引き出す。すると、鮮やかな赤が目に飛びこんできた。
『李。昨日買ったんだった』
長い夜で忘れていた。袋をとり出し、すべて大皿の上にのせた。
ひりひりする。
なぜ李の皮をむくときは、こんなに生皮をはぐような心地がするのだろう。
じりじりしながらも、極力手先に集中して、きれいにむき上げてみた。それはまるでとり出した心臓のようだった。
完熟していた。
ひりひりする。
このままかぶりついて、痛みもろとものみ下そう。
そのとき、スマホが振動した。
「はい。あ、立花で間違いないです。え、近原、知ってます」
電話が切れると、祐子はもう一度テーブルの上を見た。そこにのった、食べかけの心臓を。
李(すもも) @and25
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