Feeling

@moonbird1

Feeling

「あめ、やまないねー」


 彼は言った。いや、もしかしたら彼女かもしれない。私にはもう、どうでもいいことだった。


「ねぇ、あめっておいしい?」


「口を閉じなさい。飲めば病気になる」


 昨日まで、いや、今朝まで語り合った仲間をまるで病原菌扱いしてしまうことに悲しみを感じる。けれどこれは紛れもない事実だった。どんな明るい命も、死んでしまえばただの雨だ。寂れた酒場で顔を真っ赤にして笑っていた奴は、昼前に命を失い、天から降り注いでいる。




「なぁ、もう一度やり直さないのか。あんたなら、何度でもやり直せるだろう」


 と彼は言った。私はもう諦めているんだ、という言葉を2日前に死んだ【恨み】を飲み干しながら心の奥にしまった。隣で飲み交わす彼は【喜び】だった。よく笑う大柄の男だった。


「飽きちまったのか?」


「そういうわけじゃない」


 繰り返しなんだ、と私は言った。【殺意】の背中に想いを馳せた。この場所で、一週間前まで【後悔】がバーテンダーをやっていた。彼は初老の男性で、「夜の酒場はいい、俺好みだ」とよく笑っていた。彼は死んでいった友たちを浄水処理して、私にだけ提供していた。一般人には出すな、と口を酸っぱくして言ったので、彼としては不服だったかもしれない。けれど、【不満】も【満足】もとうに死んでいた。


「俺さ、【悲しみ】のことが好きだったんだよ」


 感情同士の恋愛話なんて聞いたことがなかった。そんなことがないようにしたはずだったが、それも99億年前の話なのでよく覚えていない。


「だが、お前たちは正反対だろう」


「だからうまくいかなかったんだよ、残念なことに」


 俺も何か飲ませてくれよ、と【喜び】はせびった。【後悔】に頼めば、【悲しみ】の姉である【苦しみ】を飲ませてもらえるかもしれない、と勘繰ったが、提案するのはやめた。今の【殺意】がそんなことをするようには思えなかったからだ。たとえしたとしても、いい気分はしないだろう。

 

 私に感情などないはずだったのに。そのために、彼らを生み出したはずだったのに。月日は何もかも、何もかも変えてしまう。


「最後に想いを伝えたらどうだ」


「そんなことしたら、俺もみんなみたいに死んじまうよ」


「死が怖いか」


「そりゃ怖いさ」


 と【喜び】は恐怖など感じていないかのように笑った。


「あんたは一生感じることのない気持ちだろうがな」


「ああ」


 と答えながら、【恐怖】はまだ生きていたかと考えてみた。うまく頭が回らなかった。


「ま、どのみちあんたがやり直さねえって言うんなら、どのみちみんな長くねえさ。最後くらい、好きにやらせてもらおう」


「ああ」


 じゃあな、と【殺意】に声をかけ、【喜び】は出て行った。【殺意】は答えなかった。その代わりに、【喜び】が出て行ってしばらくしてから、


「あいつ、死ぬぞ」


と言った。


「そうかもしれないな」


「お前の子供だろう」


「お前が他人を心配するなんて、ずいぶん丸くなったものだ」


 【殺意】は半分ほど入った【恨み】のグラスをひったくるようにして奪い取ると、すぐに捨て去ってしまった。


「本当に、やり直すつもりはないのか」


「お前たちもしつこいな」


「そんなんじゃねえよ。もしやり直すつもりなら――」


 俺は産まないでくれ、と【殺意】は言った。


 それはきっとできないだろう、と私は答えた。


 今日の昼、【喜び】は私のところまでやってくると、「ダメでした」とおちゃらけて、天に昇って雨になった。




 雨はやみそうにない。おかっぱ頭の少年(もしくは少女)の服が濡れていることに気が付き、私は尋ねた。


「傘はないのか」


「かさってなあに?」


「……何でもない」


「おじさんだあれ?」


「かみさま」


 と私は答えた。99億年ぶりの質問だった。


「かみさまってなにをするひと?」


「私にも分からない」


「じゃあどうしてここにいるの?」


 答えることが出来なかった。


「ねえ、雨ってどうしてふるの?」


「誰かが死んだからだ」


「どうしてだれかがしぬの?」


「そう決まっているからだ」


「どうして?」


「いい加減にしろ――」


 ふと、前方に人影が見えた。雨のせいで視界が悪く、姿ははっきりしなかった。だが、匂いですぐにわかる。【悲しみ】だ。


「あら、新しい子?」


 【悲しみ】は静かに笑った。私に訊いたのか、子供に訊いたのか分からなかった。


「おねえさんだあれ?」


「【悲しみ】よ。よろしく」


「おねえさんってママ?」


「残念だけれど、違うわ」


「ママはどこにいるの?」


 【悲しみ】はこちらに目配せをした。私は、よくしゃべる子だ、とだけ答えた。


 【悲しみ】に以前会った時、彼女は水色のワンピースを着ていたように記憶しているが、今は黒のドレスを着ている。【喜び】に対する追悼の意を示しているのかもしれない、と思った。


「【喜び】に会ったんだろう」


「ええ。相変わらずだったわ」


「暑苦しくて嫌いだった?」


「別にそんなことはないわ」


 雨が弱まってきた。もうすぐ彼の命の輝きも消えるだろう。


「私も、彼のこと好きだったのよ」


 しばらくして、【悲しみ】は口にした。


「そう伝えたのか」


 今度は答えずに、弱々しく首を横に振る。


「喜びと悲しみは正反対だもの。一緒にはいられないわ」


 私もついさっきまで、そう思っていた。しかし、果たしてそうだろうか。


「果たしてそうだろうか」


「え?」


「やんだー!」


 【悲しみ】が訊き返した瞬間、子供が叫んだ。見ると、空にかかっていた雲が晴れ、また太陽が顔を覗かせた。


「ねえ神様、私たちを生んでくれてありがとう」


「悲しいことを言わないでくれ」


「だって私は、【悲しみ】だもの」


 子供は雲間から差す光を見てはしゃいでいた。次に消えるのは彼女かもしれない、と思っていた。どのみち、私が最後であることは揺るがないだろう。


「【恐怖】を見かけなかったか」


「さあ、分からない。匂いがしないから。もう、いないのかも」


「いや、奴は生きている」


「どうして? あなたが子供たちのことを気にするなんて珍しいわね」


「……死ぬのが怖い」


 神にあるまじき弱音だった。【悲しみ】はゆっくりと私のそばまで歩き、私の肩を抱いた。


「……大丈夫よ」


「傘を差してくれないか」


「もう晴れてる」


 そう言いながらも、【悲しみ】はポーチの中から折りたたみ傘を取り出した。


「小さくて3人は入れないかも」


「それなにー?」


「大丈夫だ。この子は小さいから」


「そうね」


 私たちは黒い傘の下から、晴天の空を見上げた。肩口くらいは濡れてほしい、と願ったが、もう何もかも遅すぎた。もう、【喜び】の雨は降らない。


「また、あめふるの?」


「さあな」


 この子の名前は【諦め】かもしれない、と思った。


 世界は、終焉を迎えようとしている。

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