星を喰らうもの
various(零下)
第1章 喰われた星
第壱話 大地揺る 今日にさよなら 血の序幕
「随分と遅くなっちゃったね、リリィ。早くお散歩を終わらせて帰ろうね!」
深雪は今年、小学三年生になった。三年生は四年生と合同でマスゲームを行う。深雪はマスゲームを楽しみにしているが、長時間にわたる練習には少し嫌気がさしていた。
深雪はクラスの中で一番背が高く、色黒で、髪型もショート・ヘア。時々だが、男子と間違われる。四年生の男子数人に「
「やっぱり四年生と一緒に練習するのは気を遣うし、疲れるよねえ」
深雪は先を走る愛犬のリリィに声をかけた。
リリィはもうじき一歳になるメスのトイプードルで、ちょっとドジなところがあるけれど、とても優しくて可愛い犬だ。家族の中で美雪が一番リリィを可愛がっている。リリィもきっと、深雪の愛情を感じてくれているに違いない。
運動会の練習のおかげで、帰宅が普段の木曜日よりも遅くなってしまった。しかし、リリィの散歩は深雪の仕事だ。少しくらい帰りが遅くなっても、散歩には連れて行かなければならない。
夕暮れの中、深雪はリリィと一緒に、いつもの散歩コースである近所の土手を歩いていた。土手の上は風が強く、涼やかな夕風が、深雪の頬を撫でた。
リリィが土手の下で何かを見つけたのか、突然、走り出した。
「ちょっと、リリィ、急に走ったら危ないよ!」
咄嗟の出来事に、深雪は思わず声を張り上げた。しかしリリィはゴム毬みたいに土手を転がり落ちていく。あっという間にリリィの姿は見えなくなった。深雪は全身に冷水を浴びたような感覚に襲われた。
「ねえ、大丈夫?」
深雪は慌てて土手を走り降り、地面に転がっているリリィを抱き起した。
リリィは、土手を転がり落ちたとは思えないほど元気に「ワンッ」と吠え、深雪の頬をクリームを舐めとるみたいにペロリと舐めた。深雪の膝に、瓶の蓋が転がった。
「瓶の蓋ぁ? あんたってば相変わらず、光るものが好きね」
心配して損した。呆れ返って肩を
深雪は小さく悲鳴を上げた。
「やだ、あんたってば怪我したの? 大変!」
深雪は腹に怪我をしたリリィを抱きかかえて、飛ぶような速さで走った。
家に着くと、靴もろくに脱がずに姉に駆け寄って、咳き込むような早口で事情を説明した。深雪は完全に動揺していた。
姉の由香里は深雪よりも五歳年上で、体格がよく声も大きい。性格も口調もきついので、深雪は由香里が少し苦手だ。
由香里は深雪とリリィを交互に見つめた後、「バッカじゃないの。ちょっと落ち着きな」と怒鳴り、
「ちょっと、乱暴に扱わないでよ! 怪我してるんだから!」
「わかったから、落ち着いて説明してね。何があったの?」
母親の翠に優しく諭されて落ち着きを取り戻した深雪は、自分でも驚くほど正確に説明できた。
幸いにも車で五分ほどの場所に動物病院がある。リリィのかかりつけの病院だ。
深雪は翠と由香里と共に動物病院に向かった。腕の中でリリィは少し眠たそうに目を伏せていた。
診察を終えた初老の獣医師が、白色の頬に笑みを浮かべ、口を開いた。
「よかったですね、土手を転がり落ちたときに少し擦りむいたようですが、軽傷ですよ」
「ほんと? よかった!」
獣医師の診断を聞いて、深雪は診察台の上で横たわっているリリィの側に駆け寄った。
「ほんとにドジなんだから、もう。バカ」
深雪はリリィの毛むくじゃらの頬に優しく頬ずりした。リリィは気持ちがいいのか「クゥン」と小さく鳴いて、深雪の頬をそっと舐めた。
「さあ、いつまでもじゃれ合ってないで、帰るわよ」
翠は柔らかく笑みを浮かべたものの、一人でスタスタと診察室を出て受付へと歩いて行く。
「なにさ、喜びを分かち合ってただけじゃん。ねえ、リリィ」
「リリィが大怪我してたら、あんたを三発くらい殴ってたところだよ、深雪」
由香里は握り拳を作ると、深雪の頭にグリグリと押し付けてきた。
「なんで! リリィが怪我したのは、深雪のせいじゃないもん!」
「散歩中の怪我は、全部あんたの責任なの!」
深雪は納得できない、というふうに頬を膨らませた。あまりにも理不尽である。
「二人とも、早くいらっしゃい。帰るわよ」
翠の声に、由香里は「はーい」と返事をしながら、深雪の頭に拳を食らわせて走って行った。
「なにさ、結局、殴るんじゃん!」
なんて乱暴な姉なのだ。由香里は何かにつけて深雪を殴る。昨夜も夕飯のハンバーグが由香里のものよりも少し大きいという理由で殴ってきた。
それに対し、深雪より二歳年下の妹の奈々には非常に甘く、おやつを分けてあげたりする。昨夜もデザートのドーナツを分けてあげていた。
奈々は深雪と違って色白で背も低い。女の子らしくピンク色が好きで花のように可愛い。母親の翠も、奈々を溺愛している。
父親の
深雪は時生も翠も奈々も大好きだが、乱暴な由香里だけは、いまいち好きになれない。
「いつか絶対に仕返ししてやるんだから!」
深雪は由香里の背中に向かってベーッと舌を出したあと、リリィを診察台から降ろした。
「さあ、帰ろうね、リリィ」
深雪がリリィを抱きかかえ、診察室から出たときだった。
動物病院の窓という窓が雷に撃たれたように音を立てながら激しく揺れ、建物も上下に大きく揺れ動いた。
深雪は猟銃で撃たれた鹿のような悲鳴を上げて床に丸くなった。腕の中でリリィが驚いたように体を強張らせている。
まさか、大地震?
数十年前に、深雪の住んでいる地域で震度六強の地震が起きていた。時が経ち、再び大地震が起こるかもしれないと、大人たちが話していた様子が頭に浮かんだ。
大地震を経験していない深雪は、ついに来たのか! と唇を噛みしめた。
揺れは未だ収まっていない。窓は振動に耐えきれず粉々に砕け、夜風が病院内に侵入してきた。
翠が大声で呼んでいる。由香里が怒鳴っている。しかし、体が床にコールタールのようにくっついて、起き上がることができない。
やっぱり大地震が来たんだ!
深雪は恐怖のあまり声を漏らした。
ふいに揺れが収まった。深雪は呆然と頭を上げた。診察室も待合室もぐちゃぐちゃの混沌と化していた。
「終わった……の?」
弱々しく呟き、霞んだ瞳で翠と由香里の姿を探した、次の瞬間、信じられない音が深雪の鼓膜を刺激した。
待合室のテレビから流れてきた音は、空襲警報だった。学校で何度か聞かされていた、空襲警報と同じ音が、テレビから漏れていた。
この警報を聞く日が来ないことを切に願う、と担任教師が話していた。しかし、流れている音は、間違いなく空襲警報だった。
空襲を知らせる激しいサイレンの音が、外からも聞こえる。
深雪は口を半開きにしたまま、目を
「……た」
弱々しく呟く声が聞こえた。由香里の声だ。由香里は左手で翠の腕を掴んで震えている。顔面は彫像のように蒼白だ。
「
由香里は震える声で叫ぶと、ふっと体が崩れ落ちた。翠の足元で
〝星喰い〟と聞いて、深雪の全身が恐怖で一気に
翠が由香里を抱えて、慌てて外へ出ていく姿が見えた。
崩れそうな足元に、なんとか力を入れる。深雪もリリィを抱いたまま外へ出ると、東の夜空に炎の花が咲いている様子が見えた。
遠くで、街が、燃えている。
学校の方角だ。何事が起こっているのかは皆目わからない。凄まじい轟音だけが耳に入ってくる。
次に目に入ったものは、数十機ものグレイ・バードが、爆音を上げながら夜空を旋回している姿だった。
そうか、街の東は、グレイ・バードによって破壊されたのか。
グレイ・バードは、恐らく無差別に爆弾を落としているのだろう。
グレイ・バードが通過するたびに数え切れないほどの炎の花が咲き乱れ、やがてオレンジ色の海へと変わっていった。
瞬く間に家々は破壊され、アスファルトは抉れ、電柱が倒れていく。
「これは、現実なの? こんな……」
隣に立つ翠が呟いた。辛うじて耳に届いてきた言葉の続きは、きっとない。
深雪は、奥歯がガチガチと小刻みに動く様子に気づいた。両腕の力が抜け、するりとリリィが地面に落下した。
突然、リリィが家の方角に向かって走り出した。
「リリィ! リリィ、待って!」
リリィには深雪の声が届いていないようだ。あっという間に、小さな背中が視界から消えた。
「どうしよう、早く捕まえないと……」
深雪は恐怖で
背後から翠の制止する声が聞こえたが、無視して夢中でリリィを追った。
「お願い、リリィ、待って!」
しばらく走ったあとに背後を振り返ると、翠と由香里が一緒に走ってくる姿が見えた。深雪は再び前を向き、懸命にリリィを追いかけた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます