34
陶器の鎧はセシリアの意思を汲み取るように、仄かに発光して、彼女の身体を加速していく。
普通の
だが、セシリアの身体にあるのは、ほんの少しの疲労感だけだった。
――きっとこの鎧は、自分に何が起こっても、守ってくれるに違いない。
増大する不安を押し返すかのように、心の中にそんな根拠のない希望が広がっていった。
「――!?
なっ――こ、これは――!!」
セシリアがようやくグレンたちの場所に到達した時、彼女は目前に立ち塞がるものを見て、思わず絶句してしまう。
何しろ走っている最中には、
それは周囲を覆い尽くす木々と、目の前のものが溶け込んでいたからに違いない。
今、セシリアの前に立ち塞がっていたのは、彼女がかつて見たことのない大型の魔物だった。
途轍もなく、巨大な
そう形容するのが、最も適した表現のように思う。
見れば何本もの長い枝が、その化け物の周りで鞭のようにしなって
「セシリア!!
こいつは『
でも深い森にしか居ないはずなのに、何でこんなに浅いところで――!?」
セシリアに気づいたヨシュアが、
「
この魔物をミランがここまで、引っ張ってきたというのだろうか?
見れば
巨大な木のように見えてはいるが、その実体は木に擬態した危険な魔物なのだ。
セシリアは顔のような文様を、
そして、油断なく剣を構えると、ジリジリと後背へと回り込んでいく。
ところが、その瞬間――。
「――!!
クラトス!」
「なっ――うがぁっ!!」
その動きはあまりにも速すぎて、枝の軌道を肉眼で捉えることが出来なかった。
クラトスは攻撃を咄嗟に盾で防ごうとしたようだが、あまりの衝撃の強さに吹き飛ばされてしまう。
それを好機と見たのか、尻餅をついたクラトスを狙って一匹の
だが、それを隊長のグレンが、即座に叩き斬る。
「ヨシュアとセシリアの二人は、残った
ラリーはハンスを守れ。
それ以外は
全員、ヤツの正面には立つな!!」
「待って!
今のを見たでしょう!?
ろくな魔法もなしに勝てる相手じゃないわ。撤退すべきよ!!」
「臆すのか?
なぜ一度も剣を交えずに、最初から逃げることができる!?」
グレンの言葉を聞いたセシリアは、再び異論を唱えようとした。
だが、どのような言葉を用いて、彼を説得するというのだろうか?
彼女が論理的に逃げることを勧めたとしても、グレンはきっと聞く耳を持たないだろう。
「あいつと戦うというのなら――」
そう言い掛けて、セシリアは思わず口を
恐らくこの陶器の鎧に秘められた力を考えれば、自分は
しかし、その判断に至る理由を、グレンにどう説明するというのか。
そもそもこの火急の状況において、騎士たちを理解させ、納得させられる言葉など、存在するのだろうか――?
グレンたちは、そんな彼女の思考に気づくこともなく、どんどんと自らの足で
セシリアにはそれが途轍もなく、無謀な前進に思えた。
そして、それを見た彼女の頭の中には、カイの放った言葉が浮かんでくる。
『隊を率いる上官の善し悪しは、全員の運命を左右してしまう』
「――今は自分にできることを、やるしかないわ!」
セシリアは自分にそう言い聞かせると、
醜悪な外見だけで言えば、
だが、
その分、ゴブリンなどよりも数段階手強く、決して侮ることのできない存在なのだ。
そんな敵の攻撃を、華麗に避けつつ、反撃を仕掛ける――。
ただ、ゴブリンを相手にする時のように、一刀で仕留めるのはかなり難しい。
そして、なまじっか生命力があるだけに、確実に
セシリアは一匹目の
その時――。
「お、おい、やめろ!
こっちへ来るな!!」
明らかに戦意に欠ける声を耳にして、セシリアはその声の方向に視線を向ける。
すると、そこには迫り来る枝を必死に剣で払う騎士見習い――ラリーの姿があった。
その後ろには怯えた表情の
「ラリー!?
ダメよ、戦意を見せて戦って!」
だが残念なことに、セシリアの言葉も全く届いていないようである。
ラリーは何とか攻撃を凌いでいたが、明らかに及び腰の姿勢だった。
すると、ラリーは横からの一撃を喰らって、その場に転倒してしまう。
直後、逆から振るわれた枝によって、ラリーの剣は弾かれてしまった。
「ひ、ひぃぃぃ――」
ラリーは盾で自分の顔を覆ってしまうと、
迫る枝が何度も彼の盾を叩き、カンカンという打撃音が大きく木霊する。
その行動は、しばらくの間、彼自身を迫り来る脅威から守ったのかもしれなかった。
だが一方で、その行為は、彼が背負った重要な
「ひっ――!
ぐ、ぐあああぁぁっ!!」
上がった悲鳴の大きさに、思わず全員がそちらの方向へ振り返った。
そこにはラリーに守られていたはずの、
だが、その彼は無残にも、何本もの太い枝によって胸を貫かれてしまっていた。
「ハンス!?」
ヨシュアがすぐに駆けつけて、慌てて枝を断ち斬った。
だが、ハンスはその場に倒れ込むと、口から大量に吐血する。
彼はしっかりと防具を身に着けていたにも関わらず、その
ヨシュアは倒れたハンスを抱きかかえたが、直後にグレンに向かって首を横に振った。
その様子を見た騎士たちは、明らかに浮き足立ち始める。
「ハンスが!?
ま、拙いぞ――!」
ヘルマンが枝を断ち斬りながら、焦った声を漏らした。
治癒魔法が使えるハンスは戦闘こそ出来ないが、強敵と渡り合うためには欠かせない存在である。
なのに騎士たちは、
それを目の当たりにしたグレンたちは、明らかにこの戦闘が無謀であることを自覚させられる。
ハンスを仕留めた
彼らが狙われた理由は単純で、二人が最も
「ヘ、ヘルマン様、どうします!?」
「チッ――!
勝てる訳ねぇ!!」
ヘルマンとクラトスはラリーなどと比べると、明らかに経験と技能のある騎士と騎士見習いだった。
戦意は失いつつあるが、剣を鋭く振り、襲い掛かる枝を次々に斬り払う。
だが、クラトスが後方から忍び寄った枝に、足を取られてしまった。
直後、転倒した彼に向けて鋭い枝の攻撃が集中する。
「グアアァァァッッ!!
痛てえぇ、し、死んじまう!!
ヘ、ヘルマン様、助けてぇぇ!!」
殴られ、砕かれ、刺し貫かれながら、クラトスは苦悶の悲鳴を上げ続けた。
身体を守ってくれるはずの
名前を呼ばれたヘルマンが何とか助けようとするが、彼も自分を守るだけで精一杯の状況である。
それからいくらかの時間が経ってしまうと、悲鳴を上げていたクラトスの声が、全く聞こえなくなってしまった。
「ク、クラトス!!
こいつ、許さねぇぇぇ!!」
ヘルマンが怒りの声を上げて、無理矢理
だが、その強行突破を、一本のうねった枝が完全に阻止してしまう。
ヘルマンの後方から迫った枝が、彼の首に巻き付いたのである。
ヘルマンは慌ててその枝を引き剥がそうとするが、枝は彼を重い
「うぐっ――ぐうぅぅ――」
ヘルマンが
容赦なく締め上げる枝が、彼の呼吸を完全に
「拙い、このままではヘルマンが――!!」
グレンがヘルマンを救出しようと、吊り上げられたヘルマンの元へ向かう。
だが、幾重にも張り巡らされた枝の
すると、
力を失ったヘルマンの身体は、中空を舞って、近くの木に激突した後に、ズルズルと地面へと落ちていった。
セシリアはその状況を目撃して、敵と自分たちの
そして、この敵とはやはり、戦うべきでなかったと思った。
直後、隊長のグレンが、明らかに恐怖で震えた声で号令を掛ける。
「ててて撤退だっ――!」
だが、その言葉を聞いたセシリアは、反射的に反発の声を上げた。
「撤退!?
撤退って、今更どこに逃げるというのッ!?」
「し、しかし――」
「見たでしょう!?
もう、逃げられなんかしないわ。
逃げるなら最初から相手にせずに、全力で逃げるべきだったのよ!
むしろ今逃げ腰になれば、全員が化け物の餌食になってしまう。
それに、あんな化け物を集落まで引っ張って行けると思って!?」
グレンは彼女の非難の声に、ぎごちなく振り返った。
だが、セシリアが目撃したその顔には、完全に余裕という言葉が失われている。
彼女はその瞬間、騎士たちの秩序の崩壊を見た。
「ダメだ。
セシリア、もう戦えない」
セシリアは、ヨシュアの諭すような言葉が、真実だと思った。
だが、それであれば、最初から戦うべきではなかったのだ。
最初に
ヘルマンとクラトス、それにハンスは、一体何のために死んだというのか。
『敵の強さを見極め、それが勝てない敵なのであれば、
セシリアの頭の中にはカイの言葉が、何度も何度も木霊していた。
「セシリア、行くよ!
こっちだ!!」
そのヨシュアの声を切っ掛けに、騎士たちはそれぞれ別々の方向へと走り出す。
だが、ラリーは上手く走れずに、足が
直後、彼のものと思われる絶叫が上がり始める。
「た、助けてくれえええぇぇぇ――!
い、いやだぁぁぁ――!!」
セシリアはその声の悲惨さに、走りながら耳を塞ぎたくなった。
「セシリア、
逃れようとするセシリアとヨシュアの前を、
この先には、騎士団長のアルバートが率いる本隊があるはずだった。
ただそこへ至るには、まだまだ遠い距離がある。
「チッ、しつこいのよ!!」
セシリアは悪態をつきながら、何とか
もし、ここにいるのがセシリア一人であれば、何とか包囲網を突破し、全速力で
だが、側にいるヨシュアは、重い
それを考慮すれば、彼はセシリアの動きに追従することはできないだろう。
ヨシュアは見捨てられない――そう考えたセシリアは、彼と肩を並べて、とにかく群がる
そして、
「――なっ!?」
後方から飛来した
そして、飛んできたものが何であったのかを確かめて、思わず二人は
それは、もはや肉塊と化してしまった、かつて
思わず足が
そして、二人が転身してそれを迎え討とうとした瞬間、枝は二人を逸れ、別の方向へと向かっていく。
「な、何!?
どうしたっていうの!?」
「セシリア、あれは!?」
「――こここ、こっちに来るな!!」
その場に、いないはずの
そこにはセシリアとヨシュアの他に、彼女たちの戦いを
「ヒッ――何でこっちに来るんだ!!
私はもう
叫びながら、焦った表情の
だが、彼の抵抗など
「ぬ――ぬぅああああぁぁぁ――!!」
周囲にはボキボキと骨の折れる不快な音が響き、人の声とも思えぬ絶叫が途切れ途切れに上がる。
その光景を目撃したセシリアは、思わず顔を背けてしまった。
それほどまでに残酷に――直前まで
しかも、
長い間、
魔物とはかくも、残酷なものなのか――。
そう感じたセシリアの背中を、冷たい汗が伝っていく。
「セシリア、今のうちに――」
吐き気を催す光景に目を背けながら、ヨシュアが余裕のない表情で
彼女はヨシュアの言葉に頷くと、可能な限りの速力でその場から走り出す。
すると、セシリアの
セシリアはヨシュアを引き離さないよう気をつけていたが、すぐに二人の間には距離が開き始める。
「ヨシュア、急いで!」
「わかってるよ!
わかってるけど、でも――」
集落のある方向へは逃げることが出来ない。
騎士団の本隊へ向かうには遠すぎる。
では、どこへ向かおうというのか。
どこへ行けば自分たちは、逃れられるというのか――?
答えのない問いを繰り返しながら、二人はとにかく、どこでもない場所へ向かって全速力で走った。
――だが無情にも
「ヨシュア!!」
何本もの尖った枝が、疲労で弱ったヨシュアに向けて一気に襲いかかった。
彼は手にした剣と盾で防ごうとしたが、盾で覆いきれない場所から、枝の侵入を許してしまう。
「うぐっ――。
ぐあああぁぁぁぁ――!!」
鎧の継ぎ目から侵入した枝が、無情にも彼の身体を蹂躙した。
ヨシュアは剣を振るって抵抗するが、体力を失った身体は思うように動かない。
セシリアは足を止めると、何とか枝を次々に斬り落として、ヨシュアの側へと駆けつけた。
だが、全ての枝を斬り落とした時には、ヨシュアの身体の下に、大きな血溜まりが出来てしまっている。
「ヨ、ヨシュア――」
セシリアは彼の様子を一目見て、それが助からない傷であることを悟った。
ヨシュアの見事な赤い刺繍の鎧は、それよりも濃い彼自身の血液を吸って、
ヨシュアは荒い息を吐き出すと、動くこともできずに、微かな言葉を絞り出した。
「セ、セシリア――ボクは、もう助からない」
「ヨシュア、そんな――!
諦めてはいけないわ!!」
「いいや、それぐらい、わかるよ。
だって、自分の身体なんだもの――」
悟ったような弱々しい言葉を聞いて、セシリアは悲壮感溢れる表情になった。
喉元まで「きっと助かる」という言葉が出掛かったのに、どこかに引っ掛かってしまって出てこない。
治癒魔法が使える
それを考えればヨシュアが助かる可能性が、皆無であることは誰の目にも分かる。
「セ、セシリア――聞いて」
セシリアが言葉を失っていると、ヨシュアが弱々しく笑みを浮かべながら語り出した。
「死ぬ前にボクは、君に謝っておかなければならないことがあるんだ」
「何? 何なの!?
謝るなら、助かって元気になってからにして――!」
こんなときに何を謝りたいというのだろうか?
セシリアは、ヨシュアの言葉を拒絶するかのように、大きく
「フフ――相変わらず、無茶を言うね。
でも、そんなところも大好きだった。
――セシリア、本当にゴメン。
これまでに何度も、騎士団に君の悪い噂が流れたことがあったと思う。
それに君は、なかなか鎧師を見つけることができなかっただろう――?
実は噂を流して、裏で手を回していたのは、他でもない
セシリアはその告白に、思わず目を剥いた。
彼女の脳裏に誰かに尾行されていたことや、鎧師が見つからずに途方に暮れた記憶が浮かぶ。
その元凶は全て――ヨシュアだったのだ。
ヨシュアは愕然とした表情のセシリアを見て、ほんの少しだけ弱々しい笑みを浮かべた。
そして、彼の両目からは、謝罪の涙がはらはらと流れ落ちる。
「ほ、本当にゴメンね――。
でもボクは――セシリアが、誰よりも好きだった。
だから、協力すれば君を譲ってくれるという、ミラン騎士長の甘言に乗ってしまった。
だって、だれの――ものにも、したく、なかった。
う、うばわれたく――なかったんだ。だ、だから――」
言葉を重ねるごとに、徐々にヨシュアの息づかいが荒くなった。
まるで呼吸が上手くいかないように、言葉が途切れ途切れになり、ヨシュアの焦点が定まらなくなっていく。
「いいわ! 許すわ!!
ヨシュア、だから早く、ここから――」
「ボ――ボクは、も、もう――。
セシリア、はやく――はやく、にげ――て――」
すると、その言葉を聞き遂げる前に、握った腕から急速に力が失われていった。
騎士見習いの時から共に過ごしてきた仲間は、こうしてセシリアの目の前で、その輝きをあっさりと失ってしまったのである。
あまりにも簡単に失われてしまう命の
――だが、彼女を追い詰めるものは、その別れの時間を待とうとはしない。
セシリアは一度強くヨシュアの手を握り締めると、彼の手をそっと、赤く染まった
そして剣を握り直して、強い意思で彼の遺体に背を向ける。
セシリアは走った。
木を避け、枝を打ち、とにかく前へと駆けた。
ヨシュアが作ってくれた時間を、決して無駄には出来ないと思った。
彼女の陶器の鎧は仄かに発光し、走る速度をどんどんと速めていく。
その美しい姿はまるで、森の中を駆け抜ける光の妖精のようだった。
――だが、結局逃げる宛のない彼女は、化け物に追いつかれてしまった。
迫る魔物の醜悪で巨大な顔が、セシリアの姿を見て、ニヤリと笑ったように感じる。
鞭のようにしなる枝が、周囲で蠢きながら、彼女の無力を
セシリアは覚悟を決めて足を止めると、
そしてその時、セシリアの心の中に
『君が本当の騎士なのであれば、勝てない相手からは勇気を持って
そして、今から伝えるのは、
――そう、もはやここには逃げる場所など、ない。
カイ、お願い。
私を守って――。
セシリアは心の中で彼の名を呼ぶと、祈りを捧げるように天を見上げながら、『右の首元』にある陶器の小札をグッと
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