陶器の鎧のパラディン
31
目前を覆う
陽が昇った後も、霧が十分に晴れることはない。
そこかしこに生まれる陰影が、何か得体の知れない魔物を生み出してしまいそうでならなかった。
「――チッ、つまんねー。
ゴブリンでも現れねぇかなあ」
少し離れた場所から、不謹慎な
セシリアはふと視線だけを動かすと、その声がした方向をチラリと窺った。
するとそこには退屈そうに、地面に転がる石を蹴飛ばす若い騎士見習いの姿がある。
彼女はその振る舞いに眉を
今ほどセシリアの視界に入ったのは、今年二〇歳になる騎士見習いである。
名前をラリー・レオフリックといい、上流貴族の出身だった。
ラリーは騎士見習いではあるものの、彼の実家はこの分隊に所属する
だが、その四男であるラリーは、騎士としての資質を十分に持っているかどうか、怪しい人物であった。
何しろラリーはこうして持ち場に就いていても、悪態ばかり吐いて、真面目に任務を果たそうとしない。
セシリアが初めて顔を合わせた時も、見下した視線で、年長で位も高い彼女に挨拶一つ返そうとしなかった。
「ラリー、セシリア、こちらへ戻って来てくれ。
どうやらヘルマンたちが帰って来たようだ」
後方の離れた場所から声を掛けられて、セシリアは野太い声の持ち主を振り返った。
それはこの分隊のリーダーである、騎士長のグレンという男の声だ。
歳は四〇前後で口髭を生やしており、中流貴族の出身である。
落ち着いた雰囲気はあるものの、上昇志向が強くて、あまり部下の進言には耳を貸さない。
ただ、ラリーはこのグレン付きの騎士見習いで、グレンが強面なこともあってか、ラリーはグレンの言うことだけはそれなりに聞く。
通常身分の低い騎士に、身分の高い騎士見習いが付くことはないが、ラリーの実家が彼の扱いに困って、敢えて中流貴族の下につけた――というのが、もっぱらの噂だ。
「やっと戻ってきたのか!
もう、つまらねー見張りなんか懲り懲りだ!!」
ラリーの吐き捨てた言葉を聞いて、グレンの後方に控えたローブを着た男性が笑みを浮かべた。
彼は
魔法使いと言っても、騎士団から支給された治癒魔法が付与された触媒を扱う、いわば衛生兵のような役割だ。
短髪で目が細くて、身体は大きいものの、表情からして臆病な性格だと思われた。
そのせいか、普段は作り笑いばかり見せて、殆ど喋ろうとしない。
恐らく歳は三〇歳ぐらいで、見た目だけだと
とはいえ、彼が扱う治癒魔法の触媒は、この分隊の騎士たちにとってはかけがえのないものだった。
何しろ怪我人が出てしまったら、治療魔法の触媒を扱えるのは、彼一人しかいない。
セシリアがラリーと共に、グレンたちのいる方へと向かうと、直後に遠くからガチャガチャと鎧の擦れ合う音が聞こえてきた。
どうやら騎士長のグレンが言った通り、偵察に出ていた
あの日、カイと別れたセシリアは、遠征軍と共に東方国境へと向かった。
遠征軍は東方国境全域に展開し、そこでいくつもの分隊に分かれて、治安維持活動を行うのである。
具体的には一〇名以下に分けられた分隊が、周辺に
セシリアが所属する騎士長グレンの分隊も、そうした国境周辺の蛮族を掃討するための部隊の一つだった。
そして、そのグレンたちは、遠征軍の本隊からしばらく離れて、問題を抱える集落の一つへ向かう道の途上である。
彼らは集落へ続く街道の半ばまで来ると、集落には入らずに仮の拠点を作った。
というのも、彼らが向かおうとしている集落周辺で、複数のゴブリンが目撃されたという情報があったからだ。
そこで彼らは三名の騎士を先に偵察に出して、集落周辺の状況を探っていたのである。
セシリアが仮の拠点に戻ってくると、間もなく偵察に出ていた三人の騎士たちが、同じように戻って来た。
集落への道は馬が使えないこともあって、偵察は徒歩で
彼らは拠点に到着すると、深い疲労度を見せるように、一斉にふぅと大きな息を吐き出した。
「ふぅ――隊長、戻りましたぜ」
「ご苦労だったな、ヘルマン」
隊長のグレンに声を掛けられた騎士は、唇の端を曲げてニヤリと笑った。
直後、彼の視線がセシリアの方へ向いたのがわかる。
セシリアはその視線に、如実に表情を堅くした。
このヘルマンという騎士は初対面の時に、
せせら笑いが板に付いた三〇歳ぐらいの騎士で、どう見ても好色そうな雰囲気を醸し出している。
隊長のグレンの命令には忠実なように見えるが、色々な意味で注意が必要な相手だった。
「やっぱりゴブリンの
それも集落からかなり近いので、確実に掃討する必要がありそうです」
少し興奮した様子で、ヘルマンと共に偵察に出ていた騎士見習いが言った。
こちらはクラトスという名前の、ヘルマン付きの腰巾着のような男である。
お調子者で、いつもヘルマンの周りをウロウロと取り巻いて歩いていた。
この男もセシリアの存在が気になるのか、チラチラと彼女を覗き見ていることがある。
「セシリア、こっちに異常はなかったかい?」
「ええ、大丈夫だったわ」
セシリアはそう答えると、最後に質問した騎士に向かって、朗らかな笑みを浮かべた。
彼がここにいることはセシリアにとって、心安まる出来事である。
というのも、分隊最後の七人目の騎士は――彼女が良く知る空色の髪の青年、ヨシュアだったからだ。
騎士長のグレンは全員が集まったのを確認すると、改めて偵察に出ていた三人に尋ねた。
「街道経由でゴブリンの巣を攻略した場合、ヤツらに気づかれる可能性はどれくらいある?」
「気づかれずに近づくのは無理でしょうね」
むしろ気づかれない訳がないとでも言うように、グレンの問いにヘルマンが即答する。
グレンはヘルマンの顔を不快そうに見ると、すぐに別の選択肢を提示した。
「だとすると我々は一度集落に入ってから、巣の退治に向かう必要があるということだ。
早速私が集落の代表に事情を話し、集落経由でゴブリン退治に向かう許可を貰うことにしよう。
では、この拠点を引き払い次第、集落の方へと移動する。
私が集落で交渉している間は、全員集落に入らずに門の外で待機しておくように」
騎士長であるグレンの判断は早く、指示は的確なものに思えた。
だが、そのグレンの振るまいも、いざ戦いになればどうなるだろうか?
危機が迫った状況においても、即座に適切な判断が下せるのだろうか――?
セシリアはカイが語ったルサリアの悲劇を思い返しながら、その疑問を浮かべずにはいられなかった。
セシリアたちは指示通りに仮の拠点を撤収すると、グレンを先頭にして、集落へと向かった。
街道を歩く間は近くに潜むゴブリンを刺激しないよう、声を出さずに息を潜めて進む。
周囲にはカチャカチャという、騎士たちの
果たして無事に集落へと辿り着くと、そこで騎士たちは一様に、ホッと溜息を吐く。
騎士長のグレンは全員が揃っているのを確認すると、事前の指示通りに、彼一人だけが集落の門を
残りセシリアたち六人は、集落の外で待機している。
「――おい、ゴブリンたちが降りて来たぞ」
それはセシリアたちが待機し始めてから、ものの数分が経過したばかりのことだった。
ヘルマンが指さした先には、山手から街道に降りてくるゴブリンたちの姿がある。
その数はかなり多いようで、二〇匹強というところだろうか。
しかも完全に街道にまで降りてきたこともあって、集落前に陣取った騎士たちの姿が丸見えになってしまっている。
「どうします?
このままじゃあ、遅かれ早かれ気づかれて――」
騎士見習いのクラトスが、ゴブリンの様子を見ながら、臆病な声を上げた。
だが彼が言う通り、街道に降りたゴブリンたちは、間もなく騎士の存在に気づいてしまうだろう。
いや、単に気づかれて戦闘になる程度で済めばまだいい。
何しろこの集落の近くには、ゴブリンの巣が存在するのだ。
もし仮に、その巣から大量の仲間を呼ばれでもしたら、騎士たちはもちろん、集落もきっとただでは済まないことだろう。
「ゴブリンはまだ、こちらに気づいていないわ。
今のうちに急いで集落に入るべきよ」
セシリアの主張に対して、即座にヘルマンが反対意見を唱えた。
「我々はグレン隊長から、
許可が下りる前に集落に入れば、命令違反として後々問題を生じる」
「でも、それでは気づかれてしまうわ!
気づかれれば結果的に、この集落にゴブリンを引き寄せてしまうことになるのよ。
どう考えても、その方が深刻な事態になる」
すると、セシリアの言葉を聞いていた騎士見習いのラリーが口を差し挟んだ。
「女騎士様はゴブリンが怖いのか?
ゴブリンなんざ、倒しちまえばいいじゃないか」
あからさまな挑発の言葉を聞いて、セシリアはキッとラリーを
ラリーはむしろその反応を楽しんでいるかのように、ニヤニヤと侮った笑みを浮かべた。
「それこそ、そんな命令は受けていないぞ。
勝手に戦闘を始めるなんて言語道断だ」
ヘルマンがラリーをそうして叱り飛ばすと、ラリーは顔を紅潮させて吐き捨てた。
「何だぁ? 腰抜けの集団かよ!」
「何だと!?
貴様、もう一度言ってみろ!!」
上級貴族出身とはいえ、騎士見習いの聞き捨てならない台詞に、ヘルマンが眉を吊り上げて怒りの表情を浮かべる。
「よせ、声が大きい。
二人ともやめるんだ」
仲間割れの雰囲気を感じたヨシュアが、慌てて二人の間に割って入った。
だが、それでも興奮したラリーの挑発は止まらない。
「何度でも言ってやるさ!
あんたは
あんたの剣と鎧は飾りか?
ゴブリンごときが怖いなら、
「貴様っ――!?」
「!?
拙い、気づかれたかもしれない――!!」
ヨシュアの声を聞いて、一旦停戦したヘルマンとラリーは、慌ててゴブリンの方向を振り返った。
高い声の応酬が続いたことで、ゴブリンたちがこちらに視線を向けているのが分かる。
どう見てもそれはゴブリンたちに、自分たちの存在を認知されてしまった状況だった。
「チッ、もう倒すしかないだろッ!!」
そう言い捨てるとラリーは、いち早くゴブリンたちの方向へと駆け出して行く。
そしてゴブリンに向けて雄叫びを上げると、腰に吊した剣をギラリと抜き去った。
「あいつ――!!
クソッ! 仕方ない、全員で掃討するぞ!!」
ヘルマンの挙げた声に、クラトスとヨシュアが相次いで
「セシリアはハンスを守って!」
「わかったわ」
ヨシュアからの指示を聞いたセシリアは、
見れば先行したラリーは、既にゴブリンとの戦闘に入っている。
彼は文字通り剣を無尽に振るって、何匹かのゴブリンを葬り去ったようだ。
そして最後尾のヨシュアがゴブリンの群れに到達する時には、ゴブリンたちの数は半数近くにまで減少している。
「フン、この程度の相手にビビってたのかよ!?」
興奮したラリーが得意気に、ゴブリンを斬り倒しながら叫んだ。
「侮らないで!
侮った時ほど危険があるのよ」
セシリアはハンスに襲い掛かろうとしたゴブリンを、一刀で斬り倒しながら警告を発した。
「ケッ、新人騎士の癖に知ったようなことを言いやがる」
セシリアはその言葉を聞いて、思わずラリーを睨み付けた。
睨む彼女の頭の中には、カイが語った言葉が思い浮かぶ。
――共に戦う騎士たちが、同じ慎重さを持つとは限らない。
確かに、彼の言う通りだと思った。
そしてそれを事前に認識していた筈なのに、無力な自分はその状況に対して、何の対処も出来そうにない――。
「ラリー、ゴブリンを侮らない方がいい。
そこに見えるだけならまだしも、増援が来れば奴らを掃討するのは簡単じゃない」
「――チッ」
珍しくヨシュアが低い声で告げた言葉を聞いて、ラリーは不満そうに舌打ちをした。
ゴブリンの数はもはや残り数匹になっている。
このまま全てのゴブリンを掃討出来れば、危惧すべき状況を何とか脱することが出来るだろう。
騎士たちも小さな擦り傷や引っ掻き傷を負ったものはいるが、重傷を負ったものはいないようだった。
それであればハンスの治癒魔法で、十分に治療することができる。
ただ、ゴブリンの数が多かっただけに、重い鎧を着た騎士たちには、疲労の色が見え始めていた。
変わらず俊敏な動きを見せているのは、ハンスを守っていたセシリアぐらいのものである。
そして、ラリーが不穏な声を上げたのは、何とかこのまま全員無事にゴブリンを倒すことができれば――と、セシリアが密かに安堵した瞬間のことだった。
「――見ろ!
あんなところにまだいやがる!!」
ラリーが街道の外側の茂みに、数匹のゴブリンが隠れているのに気づいたのだ。
「!!
ラリー、ダメだ! そいつは追うな!!」
だが、ラリーはヨシュアの制止を振り切って、見つけた群れに向かって駆け出した。
「ヨシュア、あれは――!!」
「セシリア!
マズいよ、あれは別の群れのゴブリンだ。
あれに手を出したら、恐らく
その言葉を聞いて、セシリアは思わず絶句した。
疲労が蓄積した騎士たちは、再びゴブリンの群れを丸々掃討することが出来るのだろうか?
身軽な鎧でハンスを守っていた、セシリアはまだいい。
だが、息が上がりつつあるヘルマンやクラトス、そして気負ったラリーはどうなのか。
見れば、ラリーは見つけたゴブリンに追い縋って、斬りかかっている所だった。
彼は一匹、二匹とゴブリンを斬り倒したが、三匹目を取り逃がしてしまう。
直後、逃げ出したゴブリンを守るように、茂みから一〇匹以上のゴブリンがラリーに襲い掛かった。
「ヘルマン! クラトス!!
大変だ、ラリーが――」
ヨシュアに呼ばれたヘルマンは、振り返って、起こっている事態に
「なっ――あの馬鹿!
何てことしやがるんだ!!」
怒りの声を上げながら、残ったゴブリンを叩き斬る。
「ハァハァ――ヘルマン様!
アイツ、ど、どうするんです!?」
クラトスが息切れしながら言った言葉に、ヘルマンが即座に怒りの言葉を返す。
「どうするって、助けるしかないだろッ!!
隊長がいない間に死人なんか出せるか!」
しかし最初の群れのゴブリンも、全てを掃討し終わった訳ではない。
それらも取り逃がしてしまえば、何が引き起こってしまうか判らなくなってしまう。
セシリアは状況を見た上で、冷静な声色でヘルマンに言った。
「わたしがラリーを助ける。
ヘルマンは残りのゴブリンをお願い。クラトスはハンスを守って」
「セシリア、ボクも行くよ」
ヨシュアの申し出に、セシリアが頷いて微笑む。
「判った。セシリア、頼む。
――だが、絶対に無茶はするな」
ヘルマンの端的な言葉に、セシリアは小さく頷いた。
そして即座に身を
「――はあ、はあ。
クソッ! 来るなッ!!」
全力で駆け寄ると、ラリーは息を切らせて叫びながら、ゴブリンの群れと渡り合っていた。
だが次々に襲い掛かってくるゴブリンの攻撃は、上手く防ぎきれていない。
「ラリー、下がって!」
セシリアが声を上げながら、ゴブリンを一刀で斬り倒す。
直後セシリアは、ゴブリンを二匹、三匹と次々に斬り倒した。
ラリーは相当に疲労しているのか、セシリアの言葉に何も反論せずに下がっていく。
その彼に追い縋るゴブリンを、今度はヨシュアが斬り倒した。
「セシリア、数が増えてる。
これはとてもじゃないけど倒しきれない」
「わかってるわ。
でもこの状態のまま、集落に群れを連れて、逃げ込む訳にはいかないのよ。
わたしがここは支えるから、ヨシュアはラリーと一緒に集落へ!」
「セシリア――無理はしないで」
「フフ、もちろんよ!」
そう言ってセシリアは不敵に笑うと、集落の方へ後退するヨシュアとラリーを見送った。
一匹、二匹、三匹――。
既に数えるのが馬鹿らしい程に、ゴブリンたちはセシリアの周りに輪を作って集まっている。
それぞれは人間の子供ほどの背丈しかなく、決して手強いような相手ではない。
だが、その手には危険な武器を持ち、侮れない力で攻撃を仕掛けてくる。
彼女は騎士になる前にも、ゴブリンや
だが、ここまで多くのゴブリンに取り囲まれた経験はない。
一般にゴブリンは単体では弱く、集団になると危険を孕むと言われている。
であれば、これほどの集団との戦いには、どれ程の危険を伴うのか――?
「大丈夫よ、セシリア。
落ち着いて。きっと――やれる」
セシリアは自分に言い聞かせるように、小さく声に出して呟いた。
彼女は左手をギュッと握り締めると、盾を変形させて展開する。
ここから先はゴブリンを倒すよりも、自分の身を守って、無事に後退することを優先すべきだからだ。
そして――次の瞬間。
セシリアは、一陣の
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