17
鎧下の出来映えを確かめた翌日から、二人は五番街奥の稽古場で剣の修練を再開した。
セシルはもはや自分の感情を、偽ることができないものだと自覚している。
だが、彼女自身その感情を、どう扱えばよいのか理解していなかった。
何しろセシルは男女の恋愛事に、全くと言ってよいほど疎かったのだ。
想いを正直にぶつける勇気はないし、かといって、カイと一定の距離を取りたいとも思えない。
ただ、そんな複雑な感情も、剣を交えている間だけは何も考えずに済むようだった。
だから、彼女はただひたすらに、剣の鍛錬に打ち込み続けたのだ。
ところが、セシルは自身の感情とは別に、その日以来気がかりに思うことがあった。
それは剣を交えるカイの動きが、あまり良くないように感じられたことだ。
そして、その印象は、日を追うごとに顕著になってきている。
「きっと、君が上達しているんだろう」
違和感を遠回しに伝えても、カイはそう言って取り合おうとはしなかった。
確かに以前は
十本に三本と言っていた対戦成績に到っては、この数日は互角以上に戦えていると言ってよい状態だった。
だが、セシルが気になっていたのは、それを差し引いたとしてもカイの動きが悪いということだ。
「――カイ、どこか怪我したとか、悪いってことはないのよね?」
心配する口調のセシルの言葉を、カイは笑い飛ばしながら否定する。
「大丈夫。どこも悪いところはない。
ただ、強いて言うとすれば、かなりの
「寝不足――?」
セシルはそれを聞いて少しだけ安心した。
だが、彼に寝不足を強いている原因に思い当たって、再び心配が募り始める。
カイはセシルの
「ひょっとして、この夕方の時間はあなたの負担になっている?」
「いいや、ずっと家の中に閉じこもりっぱなしというのもな。
少しはこうして外に出た方がいいし、一日中鎧に向き合うよりも、君に会っていた方が気も晴れる」
「――それだったらいいけど」
そう答えながらセシルは、微妙に頬が上気するのを止めることができなかった。
彼がどういう意図で、自分と会うことを前向きに表現したのかは判らない。
だが、たったそれだけのことであっても、今のセシルにはその言葉が嬉しかった。
ところがそれから数日経つと、より一層カイの動きは緩慢になっていった。
力が出ていない訳でもなく、身体が動いていないという訳でもない。
ただ集中力が感じられない上に、身体の切れが決定的に悪かった。
そしてセシルはとうとうその日、カイに対して初めて
これまでカイと戦う時は、いつも全力を出し切っていたのだ。
ところが、その日のカイは顔色も良くなく、明らかに注意が散漫だった。
セシルが七、八割ほどの力でぶつかって行くと、力なくカイが押し込まれるのがわかる。
ただ、セシルの手加減に気づいたのか、カイは一瞬不快な表情を見せた。
セシルはそれを見て自分の行為が、彼の自尊心を傷つけたのではないかと心配する。
そして、それを払拭しようと、目一杯の攻撃を仕掛けた瞬間――。
避けるだろうと思っていた一撃は、見事にカイの側頭部を捉えた。
「ぐっ――」
「!? カ、カイ!」
その場で膝を折ってくずおれたカイを見て、慌ててセシルが駆け寄っていく。
彼の頭部を守っているのは、細い
そこに打撃を受けてしまったカイは、完全に気を失って倒れ込んでしまった。
「だっ、大丈夫!?
カイ! 目を開けて!!」
陽が傾いた夕刻の稽古場に、セシルが彼の名を呼ぶ声が何度も木霊する。
一方、セシルに抱きかかえられたカイは、彼女の声に応える気配を見せなかった。
それからカイが目を覚ましたのは、優に一時間以上の時間が経過してからだ。
彼が薄らと目を開けた頃には、周囲は既に薄暗さに包まれている。
「――カイ?」
セシルはカイの頭をしっかりと抱えたまま、手で無精髭が生える頬を
そして、彼女はカイが目覚めたことに気づくと、彼に小さく声を掛ける。
「良かった。目が覚めた?」
「セシル――」
カイが呟くように彼女を呼ぶと、セシルは即座に謝罪の言葉を口にした。
「ごめんなさい。避けると思って加減を考えていなかったのよ。
倒れた時、本当に焦ったわ」
「君の腕がそれだけ、上達したってことさ」
そう言いながらカイはゆっくりと、腕を突き立てて上体を起こしていった。
どうやらセシルはカイが眠っている間、ずっと膝の上に、彼の頭を抱えて介抱していたようだ。
「痛みはない?」
「大事はないよ。少し気を失ったついでに眠りこけていたようだ。
今は逆に睡眠が取れて、むしろ意識がハッキリしているよ。
頭にはちょっと
大丈夫、ふらつくような症状もない」
少し側頭部の出っ張りを気にしながら、カイが伝えた言葉にセシルが思わず微笑んだ。
「実は相当焦りはしたんだけど、寝息を立て始めたのを見て、ちょっとだけ安心したの。
お陰であなたの可愛い寝顔を、存分に堪能させてもらったわ」
そう言いながらセシルはフフフと、悪戯っぽく笑った。
カイはやれやれといった風体で、その場にゆっくりと立ち上がる。
「すまん、随分と長い時間、介抱させたようだな。
今日は練習不足だったかもしれないが、もう暗くなっているし、ここまでにしておこうか」
「そうね――。
ええ、そうしましょう」
セシルは意外なほどあっさりと、カイの言った言葉に同調した。
普段、二人が稽古場から帰る時は、それぞれ別の帰路をとっている。
だが、その日は既に夜が深くなっていたこともあって、カイはセシルを自宅まで送っていくことにした。
すると、その道のりの途中で、セシルが何かを振り切ったようにカイに言う。
「――ねえ、カイ。お腹が空いちゃったわ。
良かったら街で一緒に食べて帰らない?」
これまで二人は毎日のように同じ時間を過ごしていた。
だが、それは全て剣の鍛錬や鎧作りのためであって、それ以外の目的で二人が同じ時間を過ごしたことはない。
「俺は別に構わないが。
――だが、また悪い噂になるんじゃないのか?」
「それこそ今更な話ね」
そう言ってセシルは笑うと、まるで誰かに見せつけるように、カイの腕を取って歩き始めた。
その日以来、セシルとカイは、毎日のように夕食を共にするようになった。
場所は決まって二人が出会う切っ掛けとなった『奇跡の酒場』である。
酒場の主人は二人が食事を楽しむ時、気を利かせて、あまり出しゃばるようなことがなかった。
だが、二人が声を掛けると、酒場の主人も加わって三人の会話が楽しく弾む。
もちろん、こんなことが日頃から続いていけば、セシルの行動が噂にならない訳がない。
誰が流しているのかは判らなかったが、セシルの噂話は、瞬く間に騎士団中に広がった。
無論、そうなってしまえば、その話は自然にエリオットやアルバートの知るところになる。
エリオットは壮行会が終わってからというものの、セシルに話し掛ける機会を無理に減らしているように思われた。
それには恐らく、結婚相手への配慮があったに違いない。
ところが、そうして関与を薄めようとしていても、どうやらこの噂話ばかりは気になるようだった。
そして、叙任式も近くなった頃に、エリオットは急にその話を切り出した。
「セシル、そう言えば君のことで小耳に挟んだのだが」
「はい、殿下。
どのようなお話でしょうか?」
大体エリオットがこういう話の切り出し方をするときは、
「いや、他愛もない話で正直どうかとは思うのだが――。
やはり少し気になってな。
先日、セシルが夜の稽古場で、男性をずっと抱き締めていたという噂話を聞いたのだ」
「なっ――」
本当に、誰がこういう噂を
恐らくセシルが長時間カイを介抱していたのを、誰かが目撃したに違いない。
それ以外に彼女には、思い当たるような行動はなかったし、そんな事実がある訳がないのだ。
しかし、それにしてもカイの頭を抱きかかえていただけの話が、どうして『抱き締めていた』に変わってしまうのだろうか――!?
「剣の稽古で攻撃を当ててしまって、気を失った相手を介抱していたのです」
セシルは努めて冷静な声色になるように、エリオットの言葉をやんわりと否定した。
「そうなのか。
しかし、その男性と毎晩、夜を過ごしているといった噂もあるのだが」
「よ、夜を――?」
思わずセシルはその言葉を聞いて、妙にいかがわしいことを想像してしまった。
だが、よくよく考えれば毎晩夕食を共にするのも、夜を過ごしていると表現できなくはない。
まるで言葉遊びのように思ったが、何となくこういうことで、あらぬ誤解というものが広まってしまうのではないかとも思った。
「何をご想像されているか判りませんが、最近その男性と夕食を共にしているのは事実です」
セシルは下手に事実まで否定するのは、良くない結果を引き起こすと考えた。
どうせいつかはエリオットにも、知られる時が来ると思っていたのだ。
「そうか。それならいいんだ。
それで君はその男性と、お付き合いしているということだね?」
「いいえ。
今のところはわたしの
エリオットはセシルが告げた言葉を聞くと、それがさも意外だったというように表情を変えた。
彼女はそんなエリオットを見つめながら、開き直るように静かに口を開く。
「――わたしが恋をしてはいけませんか?」
「いいや、とんでもない。
ただ君の口から、色恋に関する言葉が出てくることを想像していなかった。
その、何というか――。
君も女性なのだな、と思って」
出てきた言葉は全く、失礼千万な内容だった。
エリオットは今までセシルのことを、木石か何かだと思っていたのだろうか?
だが、このエリオットという人は他人の感情に疎く、悪気なくそういうことを口にしてしまう人なのだ。
しかも彼はセシルが、
更に言えば、彼女が女性であることを、隠さなくなった理由も理解していなかった。
「そうですね。
騎士には男性も女性もありませんから、それが意外に思われるのも、無理のないことなのかもしれません」
セシルは様々な思いを飲み込むと、エリオットが言った言葉に素直に頷いた。
すると、エリオットは今の答えで満足したのか、セシルに笑みを向けながら話題を切り替える。
「――そう言えばそろそろ、叙任式が近づいているね。
どのような鎧を用意しているのかは聞いていないが、君の晴れ姿に期待しているよ」
「はい。皆様の記憶に留めていただけるような姿を、お見せしたいと思っています」
セシルはそう言って、まだ見ぬ
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