16
「おい、そんなに怒るなよ」
いくら優しい声を掛けられたとしても、セシルの怒りは簡単に収まりそうになかった。
――いいや、簡単になど許すものか。
彼女はそう思い直すと、完全にそっぽを向いてしまう。
セシルは店の前で、ずっと会えなかったはずのカイと思わぬ
彼女は振り返って彼の顔を見た瞬間、思わずそのまま胸の中へ飛び込んで行きそうになってしまった。
すんでの所で自重したものの、そこまでは彼に再び出会えた嬉しさで、心が一杯だったように思う。
ところがその後カイと話したところ、実は彼が
彼は街を出てから十日ほど掛けて素材を収集した後に、店とは別の場所にある
彼が自宅に引き籠もって店に顔を出さなかった理由は、セシルの鎧を作るにあたって、余計な雑音を遮断するためなのだという。
店にいるとどうしても、他の客が来てしまうのだ。彼としては余計な仕事を引き受けずに、セシルの鎧作りだけに集中したかったということらしい。
一応、そのこと自体は理屈が通っているし、セシルにとっても自分の鎧に集中してくれることは、ありがたい話で間違いなかった。
だが、それにしても無事に帰ってきたことを、セシルに伝えもしないというのは呆れた話ではないか。
「連絡ぐらい、くれてもいいじゃないの」
セシルは
まるで小娘のような台詞だと、自分でも思う。
だが今はそんな恨み言でも、とにかく彼にぶつけたくて仕方がない。
「すまん、それについては確かに俺が悪かった。
ただ、自宅を訪問するのは気が引けたんで、ちょくちょく奇跡の酒場には顔を出していたんだ」
「――酒場に?」
それは、正直盲点だった。
セシルはカイが店に戻ってくるものだと思い込んでいて、しばらく奇跡の酒場に顔を出していなかったのだ。
「ああ、残念ながらすれ違いで会えなかったけどね。
ただ、一方で今日君に会えたのは、いい機会ではあった」
「どういうこと?」
「肝心の鎧の完成には、まだ少し時間が掛かる。
ただ、鎧の下に着る服の方がほぼ仕上がってきたところなんだ。
それを一度君に着てもらって、着心地を確認してほしいと思っていた」
セシルは色々なことを誤魔化されているのではないかと思ったが、釈然としない表情をしながらも、彼の申し出を了承した。
それからセシルはカイに導かれるままに、彼の自宅へと移動することになった。
カイの自宅は店からは少し離れた別の場所にある。
見れば隣家からは距離のある、ポツンと立った小さな家だった。
建物はかなり古いようだが、いくらか手を入れてあるのか、朽ちたような印象はない。
「散らかってはいるが、遠慮なく入ってくれ」
セシルは彼の言葉が導くままに、彼の家の中へ足を踏み入れた。
何しろ彼がずっと秘密にし続けてきた、鎧の一端がこの家の中で見られるのである。
その好奇心が大きく育って、セシルはすぐにでも、それを目にしたいと思っていた。
――と、玄関から部屋に入る直前になって、セシルはその場でピタリと足を止める。
「あなた、まさかわたしを自宅に連れ込んで、
まだ彼への怒りが
「あのなぁ――。
君は俺を信用して、大切な鎧を委ねたんじゃなかったのか?」
「――フン」
セシルの心の中には次々と、彼にぶつけたいことが浮かんでは消えた。
だが、実際には不満げな表情を見せただけで、そのまま無言でカイの自室へと入って行く。
喧嘩をしたかった訳ではない。
本当はずっと――会いたいと、思っていたのだ。
中に入ってみると、思っていたよりもずっと、カイの自宅は広いように感じた。
二つ、三つほど部屋もあるようで、セシルが入ったのは、その中の一番大きな部屋のようだ。
彼女が部屋をぐるりと見渡してみると、部屋の中には最低限の家具しか置かれてはいなかった。
家自体も至極単純な作りで、取り立てて目につくようなものは何もない。
強いて挙げればその中で唯一目立つのは、部屋の片隅に置かれたいくつかの
「これだ」
カイはそのうちの一つを指さすと、
それは――
「――綺麗な色ね」
セシルがその鎧下を観察して、率直な感想を述べる。
するとカイはそれが嬉しかったのか、笑みを浮かべながら、色の由来を
「気に入ってくれたなら嬉しい。
君に似合う色だと思って、
「でも、随分と薄っぺらい鎧下じゃない?
こんな薄い鎧下、初めて見たわ」
こんなので身体を守れるのだろうか、という素直な疑問を込めながらセシルが言う。
「そうだ。敢えて今回はこの厚みにしてある。
ちゃんと理由もあるんだが、それについては鎧が出来上がってから説明したい。
取りあえず今日はまずこいつの着心地を確かめて欲しいんだ」
「ここで着るの?」
セシルはカイの目を気にして、思わず懸念の言葉を吐き出した。
「ああ、狭いけど隣の部屋を使ってくれていいよ。
着方は今から教えるから、一通り覚えて欲しい。
ただ、それを着るときは一旦
別室で着替えるから良いとはいうものの、下着も脱ぐということには、随分と心理的な抵抗感があった。
そんなセシルには気も留めずに、カイは一通りの説明を終えると、早く行けとばかりに隣室を指し示す。
仕方なくセシルはそれに従って、隣の部屋へと移った。
それからしばらくすると、隣室の扉が怖ず怖ずと控えめに開く。
「――これで、いいのかしら」
そう言いながらも、鎧下姿を見せるのに抵抗があるのか、セシルは扉の陰から頭だけを覗かせている。
カイが何度か促すと、ようやくセシルは部屋に入って、全身を彼の目の前に晒した。
新しく作られた鎧下は、幅も着丈も彼女の身体に合っていて、まさにピッタリと言って良いほどの出来映えだ。
どうも生地に伸縮性があるのか、身体にピッタリと密着している割に、動きが阻害されそうな雰囲気がない。
ただ、鎧下というには随分と厚みが薄いせいで、彼女の身体の線がクッキリと露出してしまっていた。
だから、セシルは鎧下姿をカイに見せることに、抵抗を感じていたのだ。
脇や肘、膝といった関節部分の内側は、蒸れるのを防ぐように違う生地が使われている。
薄手の生地の割には保温性も高いようで、セシルはまったく肌寒さを感じることがなかった。
ただ、着てみて少々不思議な構造だと思ったのが、何故か胸元に菱形の
セシルはその穴を手で覆い隠しながら隣室から出てきたのだが、その手を退けようものなら、穴から胸の谷間が覗いてしまう。
「着心地はどうだい?」
「――いいわ。
キツいところもないし、かといって緩すぎるところもないみたい。
この間、父の鎧の鎧下を着た時もそうだったけれど、鎧下っていうのはもっと分厚くて、ゴワゴワしたものだと思い込んでいたわ。
この鎧下はそれこそ、着ているのを忘れるぐらい」
「そうか、それなら良かった。
実はそれを目指して、作ったものだから」
カイはそう言いながら本当に満足そうに笑った。
珍しく無邪気な表情を作ったカイの姿を見て、何となくセシルもそれに釣られて微笑みを浮かべる。
「鎧を着る時に最も重要なのは、実は鎧下なんだ。
鎧下の完成度が鎧の着心地全体を、決めしまうと断言しても過言じゃない。
着心地の悪い鎧というのは、単純に不快なだけでなく、着ている者の能力自体も下げてしまう。
それに遠征ではほぼ一日を、鎧と鎧下を着たまま行動することになるからね。
暑い寒いも重要な要素だが、着たまま戦えて、着たまま眠ることができるというのが一番の理想型なんだ」
カイはセシルに説明し始めたが、当のセシルはこの姿を晒し続けることに抵抗があった。
「でも、さすがにこの鎧下だけじゃ恥ずかしいわ。
いつまでこうしていればいいの?」
セシルがそう尋ねると、ふとカイと視線が合った。
――別に裸を見られている訳ではない。単に身体の線が出ているというだけだ。
だが、カイの視線を浴びて、セシルは人知れず心の底が熱くなってしまう。
無論、彼の視線を拒否して、隣室に逃げてしまうこともできたはずだった。
なのに――それは見るものを石に変える
「着替えてくれていいよ。
もう鎧の完成形は、頭に思い描くことができたから」
カイのその言葉を切っ掛けに、セシルはそそくさと隣室へと引き下がる。
そしてセシルが元の服に着替えて部屋に戻ると、カイはセシルの様子を気に留めることもなく、机に向かって鎧作りの作業を続けていた。
セシルは集中するカイの背中を見つめながらも、どこか心の中に不満のようなものが湧き上がってくるのを感じる。
何しろ今までの自分から考えれば、着替えるためとはいえ男性の家で裸になることなど、想像することもできなかったのだ。
なのに今、自分の目の前にいる男性は、ひたすら鎧作りにばかりに目を向けている。
セシルに興味を抱こうともしないし、無理に彼女を求めてくるような気配すらない。
彼は、自宅で若い女性が、裸になるのが気にならないのだろうか?
ひょっとしたら自分は彼にとって、
「――わたし、帰るわ」
セシルはそうカイに告げると、足早にカイの家を立ち去ろうとした。
するとカイは背中を見せたセシルを振り返りながら、彼女に追い
「セシル、今日はありがとう。
明日の夕方は、稽古場に行くよ」
セシルはその言葉を聞き遂げると、無言のまま振り返ることなく、カイの家を飛び出した。
この居たたまれない気持ちは、何だろう――?
所在が不明だった彼に、再び会うことができたのだ。
下手をすれば、もう会えないのかもしれないと思っていたのに、彼の無事な姿をちゃんと確認できた。
そして、彼がずっと秘密にしていた『鎧』の一端を知ることができた。
それは鎧下一枚ではあったが、その仕上がりが良いことも、彼女の不安を払拭してくれるはずだった。
なのに――嬉しくなければいけないはずなのに、心がすっきりと晴れないのは何故なのだろう?
セシルは一つ深呼吸すると、すぐにその理由に心の中で行き当たる。
もはや自分はカイに、
そしてカイが自分の気持ちを満たしてくれないことに、不安や不満を抱いている――。
セシルは随分と自分の感情が、自分勝手なものだと呆れた。
そして自分の独りよがりな気持ちを、情けなくも思った。
すると、彼に会えない長い間、堪えていたはずの感情は、あっさりとその堤防を決壊させてしまう。
彼女は足早に帰路につきながらも、目から溢れる悔しさを、抑えることができなかったのだ。
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