海の声が、聞こえるかい?
Youlife
第1話 堕落したワタシ
朝、まぶしい太陽の光が窓から差し込むと、階段の下から慌ただしく人が行き交う音が聞こえてくる。やがて、味噌汁の香りと、炊き立てのご飯の香りが下から漂ってくる。
その香りを嗅ぎつけると、絢子はようやく目が覚める。
スマートフォンを覗き込むと、時計はもう午前8時。
大きくあくびをすると、グシャグシャになったロングヘアをとかすこともせず、絢子は階段を下りていった。
「絢ちゃんおはよう。ご飯できたよ。早く食べちゃいなさい。片付かないから。」
絢子の叔母である藤江は、せかすように絢子の背中を押して、卓袱台の前に座らせた。
首が少しよれてきたTシャツに、スウエットパンツを着こんだまま、絢子は手を合わせ、「いただきますっ」と大声で叫ぶと、目の前に並べられたご飯と味噌汁、焼き魚を次々と平らげ始めた。
「もう少し落ち着いて食べられないのかい?焦って食べたらむせるし、体にも良くないよ。よく噛んで食べなさい。」
絢子の真向かいに座って朝食を食べていた藤江は、諭すように絢子に話しかけた。
「うるっさいわね。私がどう食べようが、私の勝手でしょ!?私の体のことは、私が知ってるんだから、余計な心配しなくていいから。」
絢子は藤江を睨みつけると、再び箸を片手にご飯を口の中に入れ込んだ。
「あ、そうかい。じゃあ勝手にしな。余計な心配して悪かったね。」
藤江はムッとした顔をすると、箸を卓袱台にたたきつけ、食べ終わった食器を持ち出し、さっさと台所へ帰っていった。
そんな言葉をよそに、絢子は黙々と食べ続け、全て平らげると。
「あ~食べた食べた!ごちそうさま~!」
と大声で叫び、食器を片付けずそのままにして、再び階段を上っていった。
ミシミシときしむ音を立てながら、階段を上り終えると、絢子は再び大きくあくびをして、ガラガラと音を立てて木枠で出来た窓を開けた。
窓の外には、青銅色の屋根瓦と白亜の建物がひしめき、その向こうには、海が広がっている。海からは、気持ちのいい潮風が吹いてくる。
「あ~・・今日もいい天気だね。」
そう言うと、絢子は椅子を窓辺に持ち込み、椅子に座って目をつむり、心地よい海風を全身に受けながら、再び眠りに落ちた。
絢子は、まったく化粧もせず、髪もカットもブローもせず伸ばし放題、ブラウンの髪色も、頭頂と毛先の辺りだけがやけに明るい茶色になり、全体的にムラが目立ってきた。
窓越しに海を眺めながら居眠りしたり、小説や漫画を読みあさり、読み終えると今度はひたすらテレビを見て、それに飽きると今度はスマートフォンでネットサーフィンを続けるのが、絢子の日課である。
仕事を探す気など、これっぽっちも無い。
だからと言って、叔父や叔母の仕事を手伝おうとも思わない。
将来に向け、資格を取得するための勉強をする気もない。
ただ毎日、ひたすら怠惰に過ごすことが、絢子の日課である。
山に囲まれた、入り江に広がる港町・今浦。
弓野絢子は、生まれ育った東京から、1年前に単身でこの町にやってきた。
そして、父親の妹である吉井藤江と、その夫・省三の元に身を寄せている。
風光明媚な土地で、漁業が主要産業であるこの町で、叔母夫婦は代々続く乾物屋を営んでいる。
地元で獲れた魚や海藻を丹念に干して、美味しい干物を作ることで地元はもとより、関東や関西からもバイヤーが訪れる。
叔母夫婦はもう70代で、以前のようには働けなくなり、一人息子の栄一が跡を継いでいるが、親子3人だけでは人手が足りない。
しかし、居候の身である絢子は、まったく手伝ってくれない。
絢子は、食事など身の回りの世話をしてもらっているにも関わらず、叔母たちの仕事を手伝う気などさらさらない。
栄一は、そんな怠惰な絢子を見るに見かね、時々、家の中にズカズカと入り込み、どやしつけにやってくる。
この日も、窓際で居眠りする絢子の前に、いつの間にやら栄一が仁王立ちしていた。栄一の顔と腕は真っ黒に日焼けしており、手ぬぐいをバンダナのように頭に巻き付け、口の周りは髭で覆われ、一見すると道路工事の作業員のようないかつい風貌である。
「絢子さん、起きてくださいよっ。いつまで寝てるんスか?」
少しドスの利いた野太い声で、栄一は絢子の耳元近くで声を張り上げる。
「ん??栄一?何しに来たのよ?」
「何しに来たの、じゃないっすよ。いつまで寝てるんスか?ウチの店は人が居ないのに、この時期は出荷で忙しいから、絢子さんに手伝って欲しいんスよ。おやじもおふくろも、腰が痛くて体も自由が利かないって、だから長時間の仕事は無理だって言ってるし、あとは絢子さんしかいないんスよ。分かりますか?俺の言ってること。」
「それは、経営のやり方が悪いのよ。もっと経費削減して、その分給料を上げれば、もっとパートもアルバイトも集まるわよ。このこと、以前も言ったよね?
今どき、給料が安くて長時間キツイ労働する会社なんて、見向きもされないわよ。」
「そんなの限界がありますって!絢子さんはもっとウチら地方の中小企業の現実を見るべきッスよ。」
「その言葉、もっと経営改善に取り組んでから言ってちょうだい。私の力を借りる前に、どうやったら人材が集まるのか、徹底的に取り組んで。栄一は昔から、人の話を聞かないのが悪い癖だよね。」
そういうと、絢子はくるりと背を向け、窓を閉めて、階段を下りてそのまま外に出て行ってしまった。
「絢子さん、ちょっと、絢子さん!」
栄一は追いかけたが、いつの間にか絢子の姿は家の周りから見えなくなってしまった。
絢子は、ハキハキとした口調で、次々と屁理屈を並べて相手を黙らせてしまう。
しかもその屁理屈は、やたら論理的で筋が通っていて、言い返そうにも返す言葉が難しい。
絢子はサンダルを履いたまま、ポケットに手を突っ込んで入り江の端まで歩いた。
ここは、今は古びて使われていない埠頭があり、誰にも邪魔されずボケっと過ごすことができる。
絢子にとっては誰にも邪魔されず、一人の時間を満喫できる秘密の場所である。
絢子はポケットからタバコを取り出すと、火をつけて、白い煙を青空に向かって吐き出しながら、しばらく何か考え事をした後、ぼそっとつぶやいた。
「どいつもこいつも、自分のことばっかり。」
絢子の部屋の片隅には本棚があるが、漫画や小説に混じって、プレゼンテーションや営業戦略、企画関係の本が数冊だけ並んでいる。
部屋に置かれた化粧台には、沢山の化粧品が並べられているが、もう何ヶ月も使わずそのまま放置されていた。
絢子は、1年前まで、東京の有名な化粧品メーカー「微笑堂」の社員だった。
しかも、将来を嘱望され、幹部候補にもなった優秀な人材であった。
しかし、今の絢子には、その頃の面影は、もはやどこにも無い。
将来への希望もやりたいことも無く、ひたすら怠惰に毎日を気ままに過ごすことだけが、今の絢子の楽しみであり、生きがいである。
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