その時は止まり、運命の関節は外れてしまった。 1
アラームの音で目を覚ます。桃色のカーテンを払って窓を開けると、長い髪に吹き抜ける風が心地よい。
寝間着を脱いでシンプルな白いブラを着けてから、姿見で胸元を整える。いちいち買い換えなきゃいけないから、膨らんでくるのも考えものだと思う。
ニーソを履いて羽織ったブラウスのボタンを留めてから、スカートの留め金を掛けて青いリボンタイを結ぶ。
黒いシンプルなヘアゴムで髪を後ろに縛り、身なりが整ったのを姿見で確認してから寝間着を抱えて部屋を出る。
リビングを通って洗面台に向かい、顔を洗ったり髪をといたり歯を磨いたりして戻ると、お父さんがちょうど向かいの部屋から出るところだった。
「おはよう、お父さん」
「おう、おはよう」
「今から朝ご飯作るから待ってて」
寝間着を脱衣所に置いてからキッチンに向かい、冷蔵庫から材料を出してからベーコン入りのスクランブルエッグを作っていく。同時にトースターで食パンも焼いて、大皿にスクランブルエッグを盛ってからガラスの食器にもレタスとプチトマトを盛り付け、最後に一枚の皿に食パンを二切れ乗せていく。
追加でさらに二枚をトースターにかけて、冷蔵庫から出したマーガリンとともにお父さんの座る食卓に持っていく。
「おまたせ。とりあえず、お父さんの分。
「俺が見た時は熟睡中だったが」
「またお父さんの部屋で寝てるの?」
「あいつは甘えん坊なんだよ。母さんのことでもかなりのショックだったみたいだし、大目に見てやってくれ」
「……まあ、そっか」
それでも年頃の女の子なのだから、もう少し異性に対して恥じらいを持ってもらわないと困る。そうでもなきゃ、このままじゃ変な男に引っ掛かりかねない。
お父さんの部屋の扉を叩いて、反応がないのを確かめてから開けた。
閉じたカーテンが、開いた窓からの風で気まぐれにはためいている。掛け布団の上には青い寝間着と派手めな黒の下着が無造作に放り出されていて、ダブルベッドの片隅で枕にすがって眠りについていた。
こうやって起こしに行くと、雪花はいつもこうだった。暑がりなのだろうか。
掛け布団に包まれた肩を揺さぶって声をかける。
「雪花! 朝だよ!」
「……だるい」
「だるいじゃない! 雪花、放っておくとまた不登校になるでしょ?」
「……どうでもいい」
「そんなこと言ってると、お姉ちゃんもう起こしにこないよ!」
そう言ってようやく渋々と起きる。雪花にはいつもこの言葉が効果的だった。まさか、私に起こされたくてわざとやってるんじゃないだろうか。
重々しく華奢な身体を持ち上げて、上下の下着を着ける。そのまま部屋を出ようとする雪花を、慣れた手つきで腕を掴んで止める。
「何度も言ってるでしょ。お父さんいるんだから、もうちょっと恥じらいを持って」
「今更恥じらうものなんてないよ」
「そりゃ、そうかもしれないけど! そういうの、あんまりよくないでしょ!」
「まさか、お父さんがわたしに欲情するわけない」
雪花がどこか乾いたような笑顔でそう言うと、拾った寝間着を抱えて部屋を出る。
お母さんがいなくなる前はああじゃなかった。少なくとも、あんな顔を見せるような子じゃなかった。
お母さんが出ていって空いた隙間を埋めようと頑張っても、あの子に見える不穏な影がいまだに消えない。いつか雪花もお母さんのようにどこかへ消えてしまうんじゃないかと、あまりに気が気でならない。
あの頃のように戻れないのなら、せめて今のまま幸せであってほしいと願ってしまう。だけどそれとは裏腹に、この今のなかにどこかいびつなものを感じていて、私はいまもその正体を知らずにいる。
遠くでチンとトースターの音が聞こえて、急いで部屋をあとにする。トースターから出した食パンを一枚ずつ皿に乗せて、食卓に持っていく。それと同時に雪花が自分の個室から出てくるのを見る。
ボサボサの髪、乱れたセーラー服とリボンタイ、シワの寄ったソックス。あまりに見てられなくて、洗面台に連れて行った。
ソックスを伸ばして、制服とリボンタイを直して、櫛で雪花の髪をといていく。
「あのねえ。もうちょっと自分に興味持ちなよ」
「興味ないもん」
「せっかくかわいい顔してんだからさ。そういうの、楽しまないともったいないでしょ?」
「……か、かわいい?」
「うん、雪花はかわいいよ。私が雪花なら、可愛い服とかいっぱい着るのになあ」
さっきまで不機嫌そうだった鏡越しの顔がうろたえていた。たまにこういう顔を見せてくれるから、わがままでもやりがいがあると感じられる。
ふふっと忍び笑いをしながら、髪をといていく。
「で、でも、お姉ちゃんも綺麗だよ! 誰にも負けないくらい美人さんだし、お姉ちゃんこそ、もっと遊んでもいいのに!」
「ありがと。でも、わたしはかわいい方が好きだから」
「……そうなんだ」
髪をとかすのを終えて、最後に髪を花の飾りのついたヘアピンで留める。
「よし、できた。じゃあ、朝ご飯にしよっか」
「……うん」
雪花はなんだかんだ言うことを聞いてくれる。人見知りするたちらしくて、学校ではあまり評判が良くないそうだから、そこが少し心配だけど。
まあでも、中学生じゃない私がどうこうできる話でもないし、そういうのは自分で上手くやっていくしかない。
そうやって独り立ちできるまで、私が雪花を支えていかないと。
そう思いながら、雪花とともに洗面台を出て、そのまま食卓についた。
雪花は中学二年で、私は高校一年。しかし私が近場を選んだために偶然にも同じ通学路になり、こうして二人で学校へ行く。
雪花は小さい頃からの癖なのか、それともやはり甘えん坊だからか、私の手をいつも握ってくる。私も雪花のそういった一面に満更でもないので、こころよく握ってぶらぶらとさせながら登校する。
「晩ご飯、なに食べたい?」
「なんでもいいよ」
「なんでもいいで決まるなら、そもそも聞かないよ。すぐに決めて」
「じゃあ、麻婆豆腐」
「そうそう。最初からそう言えばいいの。じゃあ、帰りにスーパーで材料買いに行こっか」
いつも通りの心地よい風、小鳥のさえずる声、横を通る車のエンジン音に、同じ道を歩く他の生徒の雑踏と囁き。
いつも通りの日常だ。こういうものが永遠に続いていけばいいなあと、ちょっとロマンチストぶって思ってみる。
どうか、このままで。
ふと、前を歩く生徒たちのざわめく声が聞こえてくる。
なにかと思って前を見ると、
「お姉ちゃん、なにあれ……?」
人と人の間から、雪花が指さした先にいたもの。それは全身を黒い外套で纏って、顔をカラスの仮面で全身を黒で覆う大柄の人。手には大きな銀色のトランクケースを携えている。
コスプレか、シリアルキラーか、それともただの不審者か。どれにしたって問題アリだ。
「とりあえず、関わらないようにしよう」
「う、うん……」
なるべく距離を取って見て見ぬふりを決める。そう決断して道を逸れようとしたところで、周りの動きと音が時を止めたようにぴたりと止まる。
風も止み、小鳥も静まり、車や人々はその場でぴたりと動きを止める。
何事かと足を止めていると、カラスの仮面は大仰に腕を広げて叫んだ。
「おめでとう! 君たちは見事、
大男は目の前に来るとその場で屈み込み、厚めの手袋で器用にトランクケースの留め金を外す。トランクケースの中には四個ほどの正方形の小型液晶と、同じ数の銀のバングルがはまっている。
なぜ私たちは止まった時の中を動けるのだろう。まさか、この男が意図的になにかして、私たちになにか仕掛けるつもりか。
「行こ。よくわかんないけど、絶対やばいよ」
「……うん」
避けて行こうとすると、大男はまたも静寂のなかで叫んだ。
「この街はいま、
なんだその、漫画みたいな設定は。
胡散臭いと思いながら、雪花の手を引いてさっさと離れようとする。この時間が止まったようなのも実際は気のせいだろうし、そのうちに直るだろう。とりあえず、そう考えることにした。
大男は私の背後で、なおもめげずに語っている。
「君たちは命が惜しくないのかな?」
いい加減イラッとして、思わず振り返ってしまう。
「あのね、おじさん! 私たちはこれから学校へ行くの! 今の状況さえもわけがわからないのに、おじさんの妄言に付き合ってる暇なんてないんだよ!」
「精装者の資格を持つものは妖精の
「そのパーマだかピーマンだか知らないけど、なにかの悪ふざけなら早く止めて。だいたい、そんなやつどこに――」
ぴしりとなにかを叩く音とともに、雪花の手がふいに離れる。雪花はその場でひざまずくようになって、苦しそうに首のまわりの虚空を掴んでいる。
「君の妹さんはいま、妖精によって首を絞められている! そして、このままではいともたやすく絞め殺されてしまう! そして次は君までも!」
「ふざけないで! どうして私たちが――」
「しかし安心してほしい! なにもそのまま死ねと言ってるんじゃない! 早くこの
私は戸惑いながらも、すぐさまトランクケースから正方形の液晶とバングルを取る。バングルを右手首にはめて、その窪みにスクウェアデバイスと呼ばれた端末をはめ込む。液晶画面が光って、七つの点を持った円形の虫のアイコンを表示する。
「本当に、これでその敵と戦えるんだよね?」
「もちろんだ。君の持つ資質がそれ相応であれば、たとえどんなにひ弱なモヤシでも、妖精と戦えるはずだ」
身体が一瞬だけ光の粒子に包まれる。そのなかで、粒子によって右腕になにかが形成される。
デバイスを覆うように形成されたのは、七つの黒い斑点を飾った赤い円盾だった。
……盾?
よくわからないが、これで戦えると言われたのだから戦えるのだろう。とりあえず、すぐさま雪花の周囲を手当たり次第に殴っていく。
しかし、空気以外の手応えがまったくなく、雪花の首は絞まる一方。そこになにかがいるはずなのに、なにひとつ触れられない。
「ちょっと! これ、全然使えないじゃん!」
「……っく、くくく」
大男は口を手で押さえて笑っている。まさかこいつ、妖精のグルなのか。
「いや、違うんだ。まさか出てきた武器が盾だとは思わなかったから……」
「ふざけないで! じゃあどうすれば――」
「どうしようもないだろうな。つまり君はその程度ってことで、諦めるしかないわけだ」
どうしようもなく、大男の胸ぐらを掴んで首を絞める。それでも大男は平然とした様子で、ただ面白そうに笑っている。
「俺自身も本当に惜しいんだがなあ。もしかしたら、妹さんのほうがかなりの資質を持ってたかもしれない。どうにかしたいが、しかしそれだと平等ではなくなってしまう」
「つまり、わけわかんない存在に雪花を殺されろっていうの?」
「そうなるな! 君の妹さんは、君の判断力の鈍さと資質のなさによって絞め殺されてしまうってわけだ!」
「…………」
大男の外套から手を離して、雪花の方へ向かう。もしかしたら、首を絞めているものは掴めるかもしれない。
雪花の首の付近に触れると、なにかざらざらした不可視の紐に覆われている。どこからか湧き上がる力でそれを掴んで思い切り引くと、ぶちりと切れる音とともに雪花が開放された。
咳き込んでいたが、どうにか無事みたいだった。
「よし!」
「よくぞ諦めなかったな! しかし、いくら開放されようとも、君はカメレオン
「……わかった」
雪花は這うようにしてトランクケースに向かって、バングルとスクウェアデバイスを手に取る。バングルを装着し、デバイスをはめ込もうとした時。
アスファルトの弾ける音とともに、雪花の手のなかのデバイスが飛ばされる。すぐさま身構えていると、今度は私の首になにかが巻き付いた。
先ほど雪花の首を絞めていたものと同じ、なにかざらざらした不可視の紐が巻き付いている。自分で引きちぎろうにも、見えない力で四方八方に振り回されてそれどころじゃない。
このままじゃ、今度は私が――。
「さあ、早くデバイスを拾ってはめ込むんだ! まさか、君を助けようとしたお姉さんを見殺すわけじゃないだろう?」
卑劣な声に、雪花は戸惑いながらデバイスを拾おうとする。
どうしてそこまでデバイスを使わせるのだろう。なにか、よからぬ企みでもあるのではないか。
だったら、雪花に使わせるべきじゃない。これは私だけで対処するべきだ。だけど、私の非力さがそれを許さない。
私は、一体どうしたら――。
突如、別の方向からの大きな力によって弾かれる。地面に投げ出された身体でその方を見上げると、いかにも爬虫類といった瘤のある深緑色の表皮の人型カメレオンが、私を超えて跳び上がった。
なにが起きたのかと、カメレオンの立っていた場所を見る。
金色の大剣を振るって構え直す青年の姿があった。
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