第九十八話 ルーシィ③


―― 祖は叡智、受け継がれしは純血の才 ――


 空を眺めていた。

 遠くに見える色鮮やかな山々の緑。

 その山間を一羽の鳥が飛んでいく。

 白い翼を地面と水平に、風に乗ってどこまでも。

 彼らは何のしがらみもなく、自分の気持ちのままに飛んでいく。

 どこへでも、どこまでも。


「はぁ」


 私は溜息一つ、地べたに三角座りをした。

 背中やお尻から伝わる石レンガの仄かな冷たさを感じながら、両膝の間に顔をうずめる。


「最悪」


 そして誰に対して言うでもなく、一人そう呟いた。


 時は数時間前に遡る。


「リーゼベト王国より、ツヴァイト家の方々が我が国を訪れしばらくの間滞在される。ボルガノフは私の古くからの友人だ。失礼のないように頼む。それから――」


 父ルーデンス王が私達王族と使用人を数名、王座に呼び出しかと思うと急にそう告げた。

 どうやらこの間の会議に来ていたボルガノフというリーゼベトの人間が客人で来るらしい。

 急に呼び出されたから何事かと思ったけれど、大した話で良かったと胸を撫で下ろす。

 どうせ大人だけの話、私には関係のないことだと高を括っていたが、その直後に衝撃的な話が私を混乱させた。


「一緒に同行するラグナス君は、彼の息子でありエアリルシアの友人だ。彼に対してもボルガノフ同様、失礼の無いようによろしく頼む」


 何かの聞き間違いだろうか。

 自分に友人などは居ないはずだ。

 そのラグナスとやらは一体何者なのか――と考えた矢先、先日の晩餐会のことが思い出された。

 そう言えばあの時挨拶をした男の子、確かラグナスと言う名前ではなかっただろうか。

 興味が無かったし、どうせあの日だけ、あの時だけだからと心をどこかに飛ばしていたから記憶に残っていなかった。

 まぁ、とはいえ自分が関わり合いになることは無いだろう。

 しばらく滞在するとは言っても基本は使用人が相手をするだろうし、政治的な話は父親の領分だ。

 関係ない、私には関係ない。


「と、思っていたのに」


「どうしましたか? エアリルシア様?」


 今そのラグナスとやらが不思議そうな顔でこちらを見ている。

 現在の居場所は私の部屋である。

 私は不貞腐れてベッドに横になり、その私を彼は上から覗き込んでいた。

 どうやら私の呟きを聞いて、座っていた近くの椅子から立ち上がり、私の様子を伺いに来たらしい。

 部屋に来た当初から私の事を色々と尋ねてくる彼が鬱陶しすぎて、「特に」とか「うん」とか適当に相槌を打っていたら、どうやら諦めたのか苦笑い一つ浮かべて彼は本を読み始めた。

 どうやら自宅から持ってきたであろう汚らしい本だった。

 時折ちらちらとこちらの様子を伺っていたあたり、気にはしてくれているみたいだけれど、こちらはそちらに全くと言って良いほど興味が無いので、そのまま大人しくしていて欲しいのに。

 全く――、どうしましたか? と聞かれれば、あなたが横に居るから最悪の気分ですと答えたい。

 あの後父ルーデンスから私だけに言われたこと、それはしばらくの間ラグナスが私の護衛になるということだった。

 何でもこの少年は子供ながらにして大人に匹敵するほどの力量を持っているらしい。

 最近城内で私の命を密かに狙う者がいるのではという話があり、あまり大事にせず内々に処理するため、分かり易い護衛ではなく友人と遊んでいるという風に装うのだとか。

 それで愚か者が炙り出せれば御の字という算段らしいけれど、一応命の危険に晒されている私の身にもなって欲しい。

 ましてや友人でもなんでもない同世代の男の子と四六時中一緒に居ろなんて、苦痛以外の何物でもない。

 

「どこに行かれるのですか?」


 無言でベッドから立ち上がり、そのまま彼の方を見ずに横を通り過ぎる私に向け、その少年は声を掛けてくる。


「別に」


 一言冷たくそう投げると、私はドアノブに手をかけた。


「私も同行します」


 慌てて少年が私の後に付いて来ようとする。

 そこで私ははぁとため息をついた。


「友人っていうのはお花を摘むのにも付いてくるの?」


「あっ、いや、その……。ごゆっくりと」


 少年が一歩引いたのを確認すると、私はしめしめと思ってそのまま部屋を後にした。


 ◇


「やっぱりここに限る」


 私が向かったのは御手洗などではなく、いつものお気に入りの場所、物見塔だった。

 いつまでも鬱屈した気持ちで空を眺めていてもしょうがない。

冷たい石レンガの地べたに私は腰を降ろし、こっそりと服の中に隠して持ってきた本を開いた。


『愚者フィナルの冒険』


 かなりの時を経たのか、装丁はボロボロで辛うじてそのタイトルが分かる程度。

 そんな大昔に書かれた物語に、不思議と私は心を奪われていた。

 内容は、今まさに戦争で滅ぼされようとする国から、その国の王女を一人の少年が助け出す物語。

 その少年の名が『フィナル』。

 私は、その助け出される王女へ自分の姿を投影し、この少年に対して恋心にも近い何かを抱いていた。

 いつの日か、こんな風に私にも王子様がやってきてほしい。

 そんなことに胸を焦がせながら、何度読み返したか分からない文字の羅列に目を通す。

 誰にも邪魔されないこの場所で。

 たった一人のこの場所で。




 ◇ 記憶外の真実 ◇


 そんな彼女の様子を、物語に登場するのとは全くの別人である少年が、扉一枚隔てた後ろで伺っていた。


「はぁ、御手洗に行くね……」


 見え透いた嘘。

 そんなもので本当に騙せると思っていたのだろうか。

 御手洗なら廊下になど出ずとも彼女の部屋から直接行くことができる間取りになっている。

 ようは、王女様専用の御手洗ということだ。

 一応客人として迎えられた自分たちはそこを使用する訳にはいかないから、わざわざ廊下に出て共用の御手洗に向かう必要があるが、王女様自身がその理由で廊下に出るのは不自然だ。

 ということはその目的が嘘であるというのは丸わかりであり、恐らく自分と居たくないから別のどこかへ向かったのが本当の目的と考えるのが妥当だ。

 申し訳ないとは思いながらも一応護衛という体があるため、王女様に気付かれず後ろをつけた結果、彼女のこのお気に入りの場所を見つけた。

 そういえば間取り的には、あの日、何か見えない階段を上って行った先もこの辺りではなかっただろうか。


「はぁ」


 建前だけでも良いから仲良くしろと言われたものの、その建前ですら許してくれない王女様に頭を抱えながら、少年は扉を背にしてその場に腰を降ろし、何度目か数えるのも億劫な溜息を、背後の少女に気付かれない音量で吐いた。


 ◇


「……」


 空に茜色が差し込み、思わず御手洗にしては外し過ぎたと気付いた彼女が慌てて部屋に戻ると、少年は椅子に座ったまま静かに本を読んでいた。

 パタンとドアを閉めて帰って来たことをアピールしてみたが、少年はこちらにちらりと目線を向けニコリと微笑んだだけで、何も言わずそのまま本へ目を落とす。


 怪しい。


 少年を睨みながら、私はそう考える。

 明らかに御手洗にしては長すぎる時間、どこへ行っていたのかと尋ねられないことに不信感を抱く。

 普通はそんな疑問が言葉になるはずだが、少年からは全くと言って良い程その素振りが無い――ということは、あの場所に行っていることがバレた!?

 私にとってそれは由々しき問題だった。

 あの場所は数少ない私が一人きりになれる場所だ。

 両親とて私があの場所に通っていることは知らない。精々知っているのはジャシータ姉様くらいだ。

 ジャシータ姉様にも今回と同じような感じでバレた経緯がある。やはりこの御手洗作戦は早計だったか……。


「それにしても長いウ○コでしたね」


 ……。

 少年は私に目もくれず、本を読みながらそう呟いた。

 私は自分の耳を疑ったけれど、聞き間違いであろうはずがない。

 本の中の少年で上がっていた熱はどこへやら、急激に冷えていく心は私の目線を鋭くさせた。

 実際御手洗に行っていた訳ではないからこれは事実とは異なる。

 だけど問題はそういうことじゃないのだ。


「最低」


 気づけば、私の口から放たれたのは、炎ですら凍る程の冷たさを孕んだ一言。

 それも、いつの間に無詠唱でこんな超級魔法が使えるようになったのかというほどの。

 一瞬でもこいつにも考える脳があると思った私が馬鹿だった。

 あの場所がバレた? そんな訳がない。

 こいつは単なる馬鹿だ、それもデリカシーと言う言葉も知らない、『救いようのない』と枕詞まで付けられる。

 明日、父様に進言してこいつを追放処分にして、かつ、この王国に出入り禁止としてもらおう。

 いや、それでも生ぬるい。死罪だ、八つ裂きか市中引き回しにしてもらおう。

 私はこれ以上心を凍らせないようにするため、名前も既に忘れたあいつの顔が見えないよう、ベッドに潜りこんだのだった。




 ◇ 記憶外の真実 ◇


 俺だって傷つくときは傷つくのである。

 しょうがないじゃないか。後を付けていたのをバレないようにするための咄嗟の一言だったんだ。

 結果的には上手く行ったみたいだけれど、多分彼女からの信頼は地を突き抜けて地獄に落ちたかもしれない。

 こういうのを本末転倒っていうのかな。

 そう思いながら俺は彼女の冷たい言葉を思い出し、心で泣いた。

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