第七十一話 歪な悪夢

「ラグ――」


 声が聞こえる。


「ラグ――」


 俺の名を呼ぶ声、その声に導かれるまま目を開けると、そこには見知った景色。

 かつて俺が住んでいたツヴァイトの屋敷の廊下の一角。

 何で俺はこんなところに……。


「どいてくれる?」


 目の前には、一人の少女。

 白色の、まるで絹のような長髪を揺らしながら、彼女はこちらを見つめていた。

 忘れたいと思っていても、永遠に忘れることのないその顔、その声。

 彼女はわずかに目を細めると、小さく溜息をついた。


「聞こえないの? 邪魔だって言ったのよ!」


 ツヴァイト家の屋敷、2階の廊下。掃除をしていた俺に対して大きな声で彼女はそう告げ、頬をはたいた。

 目を吊り上げ、俺を睨み付けるフェリシア。お嬢様にこう言われた以上、歯向かうことなんて今の俺にはできない。


「おや、シアに、奴隷君じゃないか」


 黙って道を開けようとすると、不意に背後から聞きなれた男の声。


「ゲオルグ……様」


 そこにはかつての兄だったゲオルグの姿。

 ちょうど階段を上ってきたところなのか、ゆっくりとこちらへ歩いてくるのが見える。

 脇にフェリシアと同じ学校の制服を着た女の子を2人侍らせて。


「その方たちは一体?」


 フェリシアは落ち着いた声でゲオルグに尋ねる。


「嫉妬かい? なに、ただのガールフレンドだよ。なにせどこかの誰かさんは、婚約してからと言うもの一向に相手をしてくれないからね」


 そう言うゲオルグに「ひどーい」と女の子たちは口を尖らせ、フェリシアを見る。

 そんな2人の頭を撫でながら、ゲオルグは「ありがとう」と囁いた。


「どうだ? 嫌なら今晩俺の部屋に来ると良い。君がそのつもりなら今日は君の相手だけをしてやってもいいぞ」


 下品な笑みを浮かべるゲオルグ。

 しかしフェリシアはすっと、顔を背けた。


「今は、勉学が忙しいので……」


「そうか、それなら別に構わない。さぁ行こうか、ジェシー、モニア」


 それを聞き、ジェシーという名の少女はゲオルグに抱き着き、モニアと言う名の少女は妖艶な笑みを浮かべる。

 腐ってもツヴァイトは侯爵家、どうせ家名につられてきたに違いない。

 そうでなければこんな男のどこがいいのか。まぁ、それでほいほいと付いてくる方も付いてくる方だけど……。

 どうせお前も似たようなものだろうなと、俺はフェリシアの方を見た。

 すると彼女は俺の視線に気付き、鋭い眼光で睨みつけてくる。まるで自分は違うとでも言わんばかりに。


 やがて彼女は俺から目を逸らすと、自室の方へ歩き始める。

 その足音からは微かな苛立ち。そりゃ婚約者にあんな態度取られたらそんな気持ちにもなるというものだ。お嬢様、二年前の俺の気持ちが分かっていただけたようで何よりでございます。


「――もう嫌」


 遠く、彼女が小さくそう言ったのが聞こえた。

 聞こえるか聞こえないかくらいだけど、微かな悲しみを帯びたような、そんな声。

その声色が、あの頃、まだ仲良かった頃の時のように感じられて……。

 俺は思わず口にしてしまったんだ。


「シア」


 瞬間、彼女は咄嗟に振り返り、薄桃色の瞳を激しく揺らした。

 俺はしまったと思い、思わず口を覆う。

 繋がる視線。

 時間にして数秒、その数秒が永遠の時のように長く感じられた。

 やがて彼女は顔をくしゃくしゃに歪め、ギュッと胸元のお守りを握りしめると俺に背を向け走り去る。

 一人廊下に残された俺は、その彼女の背中を、ただ見つめていた。


 そして景色は移り変わる。

 

「臭いから近寄るなって言ったわよね」


 目の前の白髪の少女から、放たれる火球。

 初級魔法『ファイアーボール』。

 急に現れたそれに対応できず、俺は頬でそれを受けた。


「すみませんでした」


 俺は何度も下げた頭を下げ、抵抗感の無くなった謝罪を口にする。

 彼女はそんな俺を一瞥すると、フンと鼻息を鳴らして去って行った。

 周りから聞こえる侮蔑、嘲笑。そして無慈悲に放たれる魔法。

 どこからか飛んできた尖った氷が、俺の両足を穿つ。

 痛みなどない。分かっている、これは夢なのだから。


「ラグ――」


 遠くから俺を呼ぶ声。

 見上げると、頭上には眩い光。

 あぁ、そうか。

 夢は覚めるもの、この声は俺に目覚めを促す声だ。


「――して、ラグ」



 重々しい瞼を開けると、薄暗い天井がそこにあった。

 それが白髪の少女でなく、どこかほっとする俺は、気だるい身体をゆっくりと起こした。


「すぴー」


 横では気持ちよさそうにルーシィが寝息を立てている。

 相変わらず俺のベッドに潜りこんでいるようだけれど、服を着ている分昨日よりまだましか。

 窓の外から外を伺う。

 真っ暗闇が広がっているところを見ると、どうやら朝はまだ遠いらしい。


「二日も連続で見るなんて。気が滅入る」


 俺は額に手を当てながら、一人誰に向けて言うでもなく呟いた。

 二度と会いたくない人に会わせられ、二度と聞きたくない声を聞かされる。

 これほどまでにムカつく悪夢は今までにあっただろうか。

 だけど一つ腑に落ちないこともある。

 頬を叩いたフェリシア、火球を俺に向けて放ったフェリシア。

 全く身に覚えのない光景だった。いや、正確に言えば、その部分だけ身に覚えがない。

 奴隷のような扱いになった後であったとしても、彼女が俺に対して暴力を振るったことは一度も無かった……はず。

 混濁する記憶、呼び覚ますが思い出せない。

 人は嫌なことほど記憶に縫い付けられ、忘れることはないはずだ。

 だけど、今見た夢は確かに経験したことはあるはずだけど、どこかが違う。

 彼女に対する憎悪が、妄想を作り上げたとでも言うのか。

 いや……、俺自身が経験したことを忘れている?

 分からない。分からないけれど考えれば考えるほど、頭の重だるさは加速していく。


「散歩でもするか……」


 晴れない気持ちを落ち着けるため、夜風に当たるのはいいかもしれない。

 どうせ同じような悪夢を見せられるのなら、このまま朝を迎える方がよっぽどましだ。


「ん……、ラグ?」


 ベッドを抜け出し、灯りをつけた俺に対して投げかけられたか細い声。

 振り向くと、上半身を起こし、半分閉じた目蓋をこすりながらこちらを見つめるルーシィ。起こさないよう気を付けていたつもりだけど、難しかったみたいだ。


「悪い。起こしたみたいで」


「ううん。どうしたのこんな時間に」


 ボーっとした眼で窓から外を確認したルーシィは、再びこちらへ目を向ける。


「寝付けなくて外でも散歩しようかと思ってな」


「私も行く」


 眠気をはらんだ声ですぐにルーシィはそう返してきた。

 彼女は「ふわぁ」と可愛らしいあくびを一つして、よいしょとベッドから降りる。


「疲れてるだろ。わざわざ付き合う必要はないんだぞ」


 トロル討伐であったり、酒場のいざこざであったり。

 これからも気苦労をかけるだろうし、ルーシィには休めるときに休んでほしい。


「私も行く」


 しかし、ルーシィはそんな俺の想いをよそに、それだけピシャリと言い放ち俺の傍に駆け寄ってきた。

 頑として譲らないという眼差し。ルーシィはそれだけを俺に向け続けている。


「私も行く」


 ルーシィは昔から変なところで頑固だ。普段はそうでもないけれど、俺と二人きりの時はそれが如実な気がする。


「はぁ……、分かったよ」


 無言の我慢比べに負けた俺は、溜息を吐いてそう告げた。


「準備する!」


 俺の言葉を受け満面の笑顔になったルーシィは、それこそルンルンという擬音が似合うほどの上機嫌で着替えを始める。

 俺は黙って彼女に背を向けると、先ほどよりも深いため息を吐いた。

 ルーシィの気苦労を心配していたけど、むしろそれが多くなるのは俺の方かもしれない。


 コン、コン、コン。


 俺がルーシィの着替えを待っていると、不意にノックの音が部屋に響いた。

 来訪者……か? こんな時間に?


 コン、コン、コン。


 同じようにゆっくりと三回。木製のドアは何者かのノックの音を俺たちに伝える。


「終わったか」


 短く、小さな声でルーシィに確認をとる。


「万端」


 ルーシィもまた小さな声で、短く俺にそう返した。

 ここは二階。最悪窓を破れば外に逃げることは可能か。

 一応の逃走の手順も頭に入れ、俺はいつでも天下無双を発動できる体制でゆっくりとドアへ近づいた。


 コン、コン、コン。


 三回目。まだかと言わんばかりのノックを合図に、俺はゆっくりとドアを開けた。



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