特別編7

プロローグ『夕食作り』

特別編7




 6月21日、金曜日。

 依然として、雨の季節が続いている。今週は火曜日の午前中に雲の切れ間から青空が覗いた時間があったくらいで、それ以外はほとんど雨がシトシトと降り続いている。

 東京の梅雨もジメジメと蒸し暑く、俺・桐生由弦きりゅうゆづるの実家がある静岡と変わらない。違うところは潮の香りがしないこと。実家にいた頃は海沿いだったから潮の香りが感じられて。個人的には匂いの違いは大きく、登下校を中心に「これが東京の梅雨なんだ」と実感している。

 6月も下旬となり、そろそろ期末試験の勉強を始めた方がいいだろうかと考える今日この頃。


「さあ、風花ちゃんのためにも、いつも以上に美味しい夕ご飯を作ろうね!」

「そうですね。頑張りましょう!」


 俺は自宅のキッチンで、同棲している恋人の白鳥美優しらとりみゆ先輩と一緒に、夕食作りに意気込んでいた。

 ただ、どうして意気込む際に、隣人であり、俺のクラスメイトでもある姫宮風花ひめみやふうかの名前を出すのか。

 なぜなら、明日と明後日に水泳の都大会が開催されるからだ。風花は女子100m自由形、女子400m個人メドレー、学校対抗で女子400mメドレーリレーの自由形担当としてエントリーしている。また、この都大会は関東大会、そして全国大会であるインターハイへの第一歩と位置づけられている大会でもある。そのため、ここ最近の風花は練習により気合いが入っている。

 風花に元気良く大会に臨んでもらうため、今日の夕食は美優先輩と一緒に風花の食べたい料理を作ることにしたのだ。風花がリクエストした夕食は牛丼。牛丼が大好きだし、試合前なので炭水化物を多めに食べたいのだそうだ。

 メインの牛丼は美優先輩が担当し、俺は副菜のほうれん草のごま和えと、豆腐とわかめの味噌汁を担当することになった。

 美優先輩の隣で、俺はほうれん草のごま和えを作り始める。先輩の鼻歌を聞きながら。チラッと先輩を見ると、先輩はとても楽しそうに牛丼の材料の下ごしらえをしている。


「いつも以上に楽しそうに料理していますね」

「由弦君と一緒に台所に立っているからね」

「そうですか。嬉しいですね。俺も先輩の鼻歌を聞きながら料理をしていると、いつもよりも楽しく感じますよ」

「ふふっ。あとは、これから家に来る風花ちゃんのためにも作っているのもあるかな。部活から帰ってくる娘のために、旦那さんの由弦君と一緒に夕食を作っているような感覚になって」


 えへっ、とはにかんでこちらをチラッと見てくる美優先輩。今の言葉もあって、物凄く可愛く見えるんですけど。


「先輩の言うこと……分かる気がします。牛丼がいいと風花がリクエストしましたからね。翌日が大会ですから、栄養のバランスを考えて俺がごま和えと味噌汁を作りますし」

「そうだね。あとは、芽衣めいちゃんを預かったときのおままごとで、私達が夫婦役で風花ちゃんが娘役だったからなのもあるかな」

「あぁ、それはあるかもしれないですね」


 1ヶ月ほど前。御両親が土曜出勤したために、美優先輩の従妹の芽衣ちゃんを預かったことがある。そのとき、俺達と風花、美優先輩の親友の花柳瑠衣はなやぎるい先輩と一緒におままごとをしたのだ。配役は、俺と美優先輩が夫婦で、風花達は俺達の間に産まれた3姉妹。風花は自然な雰囲気で俺を「お父さん」、美優先輩を「お母さん」と呼んでいたなぁ。


「おままごとを思い出したら、風花がより娘のように感じてきましたよ」

「ふふっ。……いつかは本当に、部活から帰ってくる私達の子供のために、こうして一緒に食事を作っているのかな」

「そんな未来もあるんじゃないかと思います」

「そうだよね」


 美優先輩は声に出して楽しそうに笑い、俺の肩にそっと頭を乗せてきた。

 実際に、部活から帰る俺達の子供も食べる食事を美優先輩と一緒に作れていたら嬉しい。子供はどんな雰囲気なのか。俺達はどんなところに住んでいて、どんな職業に就いているのか。想像するだけで楽しいな。

 美優先輩と目が合うと、先輩の方からキスしてきた。いつまでも、先輩とは料理中にキスできる仲でありたいな。

 それからも、美優先輩の隣で自分が担当するほうれん草のごま和えと味噌汁を作っていく。ごま和えはここに引っ越してきてから初めて作るけど、実家では何回も作ったことがあるので順調だ。美優先輩と風花の口に合えばいいな。

 美優先輩の方も順調なようで、手際よく牛丼を作っている。普段から思っていることだけど、料理をする美優先輩はとても素敵だ。先輩に集中しすぎて、手を切ったり、やけどをしたりしまわないように気をつけないと。

 何か問題が起きることなく夕食作りは進む。やがて、牛丼の具や味噌汁、ほうれん草に和えるごまのいい匂いが香ってきた。あぁ、お腹空いてくる。

 ほうれん草のごま和えができたので、味見で一口食べてみる。


「……うん、いつも通りにできてる」

「ごま和えできたんだね。牛丼の具ももうすぐできるよ」

「分かりました。……実はこのごま和え、実家で作っていたレシピで作ったんです。ちょっと甘めかもしれません。味見で一口食べてもらってもいいですか?」

「うん、分かった」


 菜箸を使って、美優先輩にほうれん草のごま和えを食べさせ、味見をしてもらう。ちょっと緊張する。

 先輩は何度か咀嚼すると、明るい笑顔になり、俺の顔を見て何度頷いてくれる。


「美味しい! 由弦君の言う通りちょっと甘めだけど、ごまの風味がしっかり感じられるし。甘めのごま和え、いいね」

「良かったです。実はしずく姉さんと心愛ここあが小さい頃は、ほうれん草が苦手で。それで、食べやすいようにと母が甘めに作ったんです。2人とも食べられるようになったんですけど、これがうちの味になって」

「そうなんだ。じゃあ、これは桐生家の優しさの味なんだね。きっと、風花ちゃんも美味しいって思ってもらえるよ」

「そうだと嬉しいです」


 とりあえず、美優先輩に美味しいと思ってもらえるごま和えで良かった。

 ごま和えが完成したすぐ後に味噌汁も完成。具は豆腐とわかめにねぎというオーソドックスなものだ。


「味噌汁も完成しました」

「お疲れ様、由弦君。牛丼の具もできたよ、味見してくれるかな」

「分かりました」


 さっきの俺と同じように、美優先輩は菜箸を使って俺に牛丼の具を一口食べさせてくれる。

 牛肉と玉ねぎとしらたきに、甘辛のタレがちゃんと染み込んでいて美味しいな。


「美味しいです。タレの甘辛さもちょうどいい感じです。きっと、風花も美味しく食べてくれると思いますよ」

「良かった。じゃあ、牛丼の具もこれで完成だね」


 いつも通りの優しい笑顔でそう言う美優先輩。ただ、先輩はどこかほっとしているように見えて。俺と同じように、味見してもらうときに緊張していたのかもしれない。

 ――プルルッ。プルルッ。

 リビングの方からスマートフォンの鳴る音が聞こえる。

 リビングに行き、食卓に置いてある自分のスマホを確認すると、LIMEで俺と美優先輩、風花のグループトークに、風花から新着メッセージが送信されたと通知が。


『今、帰りました。着替えとかして、すぐにそちらに行きますね!』


「風花ちゃん、家に帰ってきたんだね」

「そうみたいですね。盛りつけや食卓の準備をしましょうか」

「そうだね」


 風花に『分かった』と返信をして、俺達は食卓の準備や食事の盛りつけをしていく。俺は自分の作ったごま和えと味噌汁の盛りつけ担当。あとは飲み物の麦茶を用意する。

 今日も練習があったので大盛りにしようかな。でも、食べ過ぎでお腹を壊したら元も子もないから、とりあえずは俺と同じくらいの量にしておくか。

 食卓の準備と盛りつけが終わった直後、風花が家にやってきた。行き先が隣の部屋だからか、ハーフパンツにTシャツというラフな出で立ちだ。


「風花、今日も練習お疲れ」

「ありがとう、由弦。……うわあっ、美味しそう!」


 目を輝かせながらそう言うと、風花はスマホで食卓の写真を撮る。リクエストした牛丼が食卓あるからか、彼女の顔には持ち前の明るく元気な笑みが浮かぶ。


「風花ちゃんがリクエストした牛丼は私、ほうれん草のごま和えと味噌汁は由弦君が作ったんだよ」

「そうなんですね。ありがとうございます! 2人は料理の腕が凄いですから楽しみです! いい匂いがしますし、よりお腹空いちゃいました」

「ふふっ、さっそく食べようか」

「はいっ!」


 俺達3人は食卓の椅子に腰を下ろす。ちなみに、俺と美優先輩が隣同士に座って、風花は美優先輩と食卓を介して向かい合う形だ。


「風花ちゃん、明日の都大会は頑張ってね! いただきます!」

『いただきます!』


 美優先輩による挨拶で、夕食の時間が始まる。

 いつもなら、挨拶をしたらすぐに食べ始めるけど、今日は風花がいるから箸や食器を持たずに彼女の方を見てしまう。

 風花はまず、豆腐とわかめ、ネギの味噌汁を飲む。


「あぁ、味噌汁美味しい。体があったまる……」


 ほんわかとした様子でそう言うと、味噌汁を作った俺の方を向いてニコッと笑う。そんな彼女を見て、俺はほっと胸を撫で下ろした。


「良かった。風花に味噌汁を振る舞うのはこれが初めてじゃないけど、何か緊張しちゃって」

「そうだったんだね。じゃあ、緊張を早く解くためにも、次はごま和えをいただくね」

「何かすまないな。召し上がれ」

「いただきます」


 風花はほうれん草のごま和えを一口食べる。

 ごま和えを食べてもらうのは初めてだから、味噌汁のとき以上に緊張するな。だからか、シャキシャキという咀嚼したときの音がやけにはっきり聞こえてくる。

 ゴクンと飲み込むと、風花は明るい笑顔になり、


「美味しい!」

「……良かった。ありがとう」


 さっきよりも安堵の気持ちが強い。風花にも美味しいと思ってもらえるごま和えを作れて良かったよ。


「うちのごま和えよりも甘めだね。あたし、小学生の間までほうれん草はあまり食べられなくて。このごま和えに出会ってたら、もっと早く食べられるようになっていたかも」

「……凄く嬉しい言葉だよ」

「由弦君の話だと、お姉様や心愛ちゃんがほうれん草を食べやすいように、お母様が甘めに作るようにしたんだって」

「そうなんですか。香織さん、優しい人だもんねぇ。さすがは香織さんだよ」


 うんうん、と頷きながら風花はごま和えをもう一口食べる。

 今の風花の言葉、後で母さんにメッセージで送ろうかな。きっと喜ぶと思うから。


「じゃあ、いよいよあたしがリクエストした牛丼をいただきます」

「どうぞ召し上がれ」


 そう言うと、美優先輩は箸と味噌汁のお椀を食卓に置き、風花のことをじっと見る。さっき、俺が味見したとはいえ、緊張しているのかな。

 風花は牛丼の入ったどんぶりを持ち、箸で一口分の牛丼を掬い、口の中に入れる。その瞬間から、風花は幸せそうな笑みを浮かべており、咀嚼する度にその笑みの度合いが増していく。


「とっても美味しいです! 美優先輩!」


 満面の笑みを浮かべてそう言う風花。さすがにリクエストしたものだけあって、俺の作ったごま和えや味噌汁を食べたときよりもいい反応だ。


「良かった! そう言ってくれて嬉しいよ!」


 そう言い、美優先輩は風花に負けないくらいの嬉しそうな笑顔を見せる。さっき味見をしたからか、俺にも笑顔を向けてくれて。そんな先輩の頭を優しく撫でると、先輩は「えへへっ」と可愛らしい声を出して笑った。

 風花が一通り食べてくれたので、俺はようやく夕食を食べ始める。2人が美味しいと言ってくれたから、味噌汁とごま和えがとても美味しく感じる。ただ、それ以上に美優先輩の作った牛丼が美味しくて。

 水泳部の練習でお腹が空いていたのか。それとも、俺達の作った夕食が美味しいのか。どちらもなのか。風花は牛丼中心にモリモリと食べていて。風花の食べっぷりを見ていると、凄くいい気分になる。


「どれも本当に美味しいですね! これなら、明日と明後日の大会もいい結果を出して、関東大会を狙えそうです! ありがとうございます!」

「頑張ってね、風花ちゃん。私達も会場で応援するから。ね? 由弦君」

「ええ」


 そう、両日とも俺達は花柳先輩、俺と風花の担任の霧嶋一佳きりしまいちか先生、美優先輩と花柳先輩の担任の大宮成実おおみやなるみ先生と一緒に、会場まで応援しに行く予定だ。


「二日とも頑張れよ」

「うん!」


 元気良く返事をすると、風花は俺に向かって首肯した。

 それから、風花は3人の中では一番早く完食し、牛丼もごま和えも味噌汁も一度ずつおかわりした。それもペロリと平らげていて。これだけの食欲があるほどに元気なら、都大会ではどの出場競技でもいい結果を出して、関東大会出場の切符を掴めそうだ。

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