Case7 背中に回された手②
心臓が早鐘すらも超える勢いで鳴り続けている。身体の中心が奏でるBPMはとうに200を超えている。視界が絶叫マシーンのようにぐるぐると回る。体温が際限なく上昇していく。上がり続ける体温に耐えられずに鼻の奥が熱を持ち、そこから勢いよく血が吹き出しそうだ。もうわけがわからない。
頭の中が混乱しすぎてぐちゃぐちゃで、脳がミキサーにかけられてミンチにされたようだ。時間の感覚すら溶けてしまって、あれから何分間この体勢でいたかもわからない。溶接されたかのように硬く閉ざされた瞼の奥にある眼球が熱を持ち、今にも発火してしまいそうだ。
「感情が全く動かないものなんてあるものか。さっきも言っただろう? あたしは何もかも大好きで、愛しているのさ。感情が動くもの、目に見えているもの。それがあたしにとっての『ホンモノ』さ。だから、あたしにとっての世界は『ホンモノ』で溢れているのさ。『ホンモノ』しかないって言ってもいいかな。贋作物だって、『ニセモノの形をしたホンモノ』ってことに気づかない人は、意外に多いものさ。目に見えるもの全てかニセモノじゃないかって考えてる時点で、そいつはもうホンモノを認識してるんよ。足元を見にゃあいかんよ、足元を、さ」
耳元で吐息とともに聞こえてくる先程まで聞こえていた声も、だんだん熱がこもってくる。真っ暗な視界で過敏になった触覚が熱い息が俺の耳孔を通り抜けてきたことをより強く伝えてきた。首の後ろの骨の周りにぞわり、と何かが走る。
先程から、もうとっくに脳はオーバーフローしてしまっている。真っ黒な視界の中、身体の正面にナニカが当たっているところ、そこ以外が激しく熱を帯びていた。
「まだだ、まだ眼ぇ開けんなよぉ」
背中に回されたた一対の細い何かが、俺の脇腹から背中を更に締めつけていく。それと同時に、胸板の少し下の方にあたる柔らかな感触も、一層強くなっていく。そしてじんわりと伝わっていた熱と同時に、ようやくはっきりと聞こえてくる一定のリズムがあった。
「どうだいコータロー、何か感じたことはあるかい?」
伝わるリズムは、速い。まるでハードロックのドラムのようにスピード感のある鼓動が、どくんどくんと俺の胸に伝わってくる。
「聞こえたかい、あたしの生命のビートを。あたしもドキドキしちゃってるのさ。コータロー。『ホンモノ』のキミに、ね。あ、眼ぇ開けていいよ」
ようやく出てきた許可の言葉に何度も細かく頷き、ゆっくりと瞼を開ける。
まず視界に映ったのは、やはりこの街の風景。先程まで見ていたものと何も変わらない光景。ビルとビルの間を抜ける昼より少しだけ冷たくなった風を再認識することにより、熱くなり過ぎていた俺自身の頭と身体がほんの少しだけ冷えてきた気がした。それでも、違和感を感じる街を歩く人達が複雑な顔をしてこちらを見ているということは、やはり。
身体を動かすことなく、ほんの少しだけ眼球を操作して視界を動かすと俺と結さんとの距離の近さに驚く。なんとなく想像していたが、現実と認識すると異性とあまり接点のなかった青少年には本当に刺激が強すぎた。更に腰を締めつける一対の――両腕を見てあらためて衝撃を受ける。相も変わらず俺の背中に回されている二本の腕と密着する身体により、お互いの体温と心臓の鼓動を伝え合い、一つに混ざり合っていく。
「その子にも、こんな風にしてごらんよ。きっと、この世界にニセモノなんかないって事をわかってくれると思うよ」
湿った声が俺の鼓膜を撫で回していく。まるで長く細い蛇のような舌が、耳の中を蹂躙していくようだ。今まで感じることのない未知の感覚に、思わず身悶えしそうになる。多分この時に変な顔をしていたのだろう。俺の反応を楽しもうと結さんは口を窄めて吐息を直接耳孔に吹きかける。さっきと比べ物にならない程の風量の息吹が耳の中で暴れまわってきたので首を傾けて風を逸らすと、くすくすと笑い声が聞こえた。
「ごめんごめん。純真無垢な反応があまりにも面白くてね。ついイジワルしちゃったさね」
結さんは耳元で悪戯っぽく微笑う。背中に回された両腕を、苦しいほどに入れていた力を緩めてゆっくりと彼女は身体を俺から離していく。俺の身体の正面側から熱いほどの体温と男にはない柔らかい感触が離れていくのが惜しいような、名残惜しいような、なんだかとてもむず痒い気分になった。
抱きしめられる前と同じような距離で結さんは腕を組み、眼を細めながら俺を見つめていた。街灯に取り付けられた蛍光灯の人工的な光が、俺達を鈍く照らしていく。銀色の光の下の彼女は、何か悪巧みをするようにニヤリと笑っていた。
「あ、ちなみに。その子って女の子?」
「そうです。だから、さっきみたいな事はなかなか出来ることじゃあないんですよ」
結さんは俺の言葉に口を尖らせる。おそらく俺より少し年上だと思われる目の前の女性は、こういう表情をしているときは印象よりも幾らか幼く見えた。それでも、彼女の口から出てくる言葉は行動は幼さとは無縁のもので。
「えー。ウブというか、いろいろ丸出しだねぇ。じゃあいっそのこと、その娘を押し倒してみたら? ハダカで抱き合ったほうが、わかりやすいでしょ。なによりもキモチイイし、ね。粘膜と粘膜を擦れ合わせるってのも、それは愛を交わすことには変わりないよ?」
からからと笑い声と共に放たれた、全く考えてもいなかった言葉を聞いて顔に一瞬で熱が再び集まっていくのが自分でもわかる。その事実を隠すかのように、つい大きな声で返してしまう。
「な、なにを言ってるんですか! あいつとはそういうンじゃあ――!」
「え?」
完全に面食らったような表情を浮かべる結さん。どういうわけだか、完全に予想外というような顔だ。
「え?」
この反応は俺にとっても予想外。情けないことに、そのままオウム返しをしてしまった。結さんの言葉を否定するためにどう返したものか、と高速で思考を巡らせる。そして、その思考を一太刀で叩き斬るのはやはり、星浜結という女性の言葉なのだろう。
「いやいやいや。だって、コータロー。キミ、その娘のこと、好きでしょ?」
再び思考停止。まるで無茶をした古いパソコンのようにフリーズした脳が数秒かけて再起動の処理を行い、刹那の間に再起動を果たした俺の脳が結さんの言葉を否定する為の言語領域をフル回転させていく。
「は? 俺が、アイツを? いやいやいやいや、ありえないでしょ。最近ようやく何回か話しただけの。アイツの事なんて何も知らない、この星が滅びることを心待ちにしている、少し変な女の子だよ。好き、だなんて。そんなこと、あるはずもない。いやいや、変なこと言わないでくださいよ、全く」
再起動したての言語中枢が否定の言葉を口にするつもりが、慌てて起動した為に早口で一息で捲し立ててしまう。まるで、それが、本当に。言えば言うほどにそうであるかと思われていくとは知らずに。
目の前の結さんは、口角を上げたまま弟を諭すような顔をしていた。その表情は、俺の知らない俺すら見透かしているようだ。あたしは何もかもお見通しだ、年下のオトコノコの考えていることなど手に取るようにわかっちゃうんだぞ、とでも言うかのように不敵にふてぶてしく、それでいて優しく笑う。
「キミがさっきあたしにイロイロ話していた時ね、表情がね、凄く優しかったんだよ。それに。こんな時、もうすぐ世界が終わるっていうのにさ。ドクサレマリアさんが言う、好きの反対の無関心だったら、無視すればよかったんだよ。それでもさ。一体全体キミが何処から来たかわからないけど、ここまで来たってことは相当な労力を使ったんだろう。その子の問いかけに懸命に応えようとしている。好きじゃなければ、こんなこと出来るものか」
「俺は――」
彼女の言葉に口篭る。これ以上何を言っても、猫のように背伸びをしている彼女の言葉に反論がどんどんできなくなっていく気がしたからだ。
「うーん、セーシュンだねぇ。ま、そういうことにしといておくサ。で、君の中で答えは出たのかい?」
答え。ニセモノとホンモノの見分け方。昼時の飲食店にて答えなどないと静かに言った店主と、夜の路上にて目に見える全てがホンモノだと扇情的に語った目の前で微笑む女性。
その二人のお陰で、なんとなくではあるが答えを見つけた気がする。パズルのピースは殆ど埋まった。最後のピースを見つけ出すのは、いつだって自分自身だ。その意思表示も兼ねて、力強く頷いた。
「そうか。お節介した甲斐があったね、うん。伝え方はキミが考えるんだ。こればっかりは教えるわけにはいけない。いや、違うな。教えられないんだ。キミの、キミだけのやり方で、その娘に届けるんだよ。脳の中のシナプスネットワークがバチバチとスパークしてる電気信号。それをダイレクトに伝える方法を、ね」
結さんは満足そうに頷きながらわざとらしくウィンクをし、また小さくステップを踏んでいく。今度はタップダンスのように小刻みに早く細かいステップ。やはり華麗にステップを踏んでいる時の彼女は、とても綺麗だ。
「愛を振りまく、あたしだけの方法。それが相棒のギター、エースなのさ。エースを振り回して音と一緒くたになって暴れまわる。あたしの頭の奥でエンドルフィンがドバドバ出て、クスリなんかなくても脳みそがトロットロになってさ。愛に溢れた、最ッッ高にハッピーな気持ちになれるんだ。それこそイッちゃうぐらいに、さ」
いつの間にか結さんの両手にはアコースティックギター……恐らくエースと言っていた彼女の相棒が抱かれていて、派手なメロディを高らかに奏でた。恐らく即興だと思うが、コード進行を決める左手が残像を発生させるような勢いで高速で動いていく。エースは形も、流れる音も完全にアコースティックギターのそれだが、ハードロックのエレキギターのリフでも演奏しているような激しくヒロイックな動きであった。
下を向き、一心不乱に弦に齧り付くように演奏を続ける結さんの表情は、街灯に照らされ鈍く紅く光る髪の毛であまり見えないが、微かに見える口元は確かに大きな笑みを浮かべていた。
ただ楽しげに、音とともに世界と一体化している自分こそが愛すべき世界だと、自分こそが愛であるかのように。何かに取り憑かれたように6本の弦を弾き続ける結さんは、俺に対してもう話すことは全て話した、もうお話はお終いだと旋律に乗せて言っているような気がした。
俺は愛を振りまき続けている結さんにむかって小さく頭を下げ、背中を向けて駅に向かって歩いていく。聞こえ続けている彼女とエースの演奏が秒速約340メートルで鼓膜を震わせ続けている。勇壮で軽快で淫靡で真っ直ぐなメロディを背に受けながら、振り返ることなく進んでいった。
最後に聞こえたGのコードが奏でる和音が、俺の背中を押しているように感じた。
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