Case7 背中に回された手①

 それは、妙齢のフラメンコのダンサーが力強く踊るようなリズムだった。


 それは、淑女が口を押さえながら淑やかに笑うようなメロディだった。


 それは、年端もいかない無邪気な少女が飛び跳ねるような演奏だった。


 それは、何もかも受け入れて愛するような旋律だった。


 まるで全ての『終わり』すらも愛してしまうような、底の見えない大きな何かの音が星浜さんの両手が奏でるアコースティックギターの6本の弦から聴こえてくる。絶え間なく連続して発せられる音は空気を振動させる巨大なうねりとなって、俺の耳の奥の鼓膜に向かって一直線に駆け抜け、震わせ、その振動は脳を激しくシェイクしていく。


 パンクロックのライブが始まった瞬間。大きな大きなスピーカーの真ん前に立った自分の内臓が爆音で揺れるような感覚が俺の大脳だけで起きている、そんな衝撃だ。


 時間が過ぎるのも忘れ、ひたすらに目の前で聴こえてくる、6本の弦から繰り出されているとは思えない程に多彩な――無限ともとれる音のバリエーションに、ただただ気圧され、圧倒され続けていく。


 その連続した音の連なりは手のピックでCm7が鳴らされたのちに終わりを迎え、静寂が街に訪れる。


「サンキュー……!」


 額にうっすらと汗を浮かべながら、小さく息をするように星浜さんが呟く。街灯に照らされた彼女の前には、今は自分しかいない。今の自分に出来ることは、拍手をすることだけであった。


「ありがとゥー! 拍手サンキュー!」


 星浜さんはこの時間とは正反対ともとれる太陽のような笑みを浮かべながら、顔を上げる。その時に俺の存在にはじめて気づいたようで、すぐにびっくりした表情に切り替わった。


「およ、何時ぞやの硬直少年」


 なんだか受け取り方によっては誤解を受けそうな呼び方に眉を顰めそうになるのを堪えながら、出来るだけ平静を装う。


「こ、こんばんわ」


「ホントに来てくれたんだ、お姉さん嬉しいなぁ」


 俺の会釈に再び大きく口角を上げ、白い歯を見せつけるかのようにきらりと笑う。やはり顔に浮かべるのは、殆ど夜になったこの街に再び太陽が昇ったかのような眩しい笑み。


「これが、愛を振りまくってことさ。愛を感じてくれたかい、少年?」


 真っ直ぐにこちらを見据えてくる彼女を、何も言い返すことなくそのまま真っ直ぐに見返す。沈黙を肯定と受け取ったのか、星浜さんは自信満々で頷く。


「あたしにとってはこれも愛さ。何もかも愛することが、全てなのよん」


 はじめて会った時と同じように、くるくると回りだす。先程とはまた違うステップだ。バレエのような優雅さとストリートダンスのような荒々しさのようなものを感じるが、どのジャンルにも当て嵌まらないものであり、とても形容できるようものではない。


 強いて例えるのであれば――『星浜 結』というジャンルのダンスだ。デタラメなようで規則性があるかと思えば、唐突に意図できないような変わったステップに切り替わったりする。理性的なようで情熱的で、奏でていたアコースティックギターの旋律のようにいつまでも見ていられるような。そんなステップだった。


「あたしは、この地球の全てを愛しているんさ。赤ちゃんも、おっさんも老婆も、犬も猫もツクツクボウシもマグロも、樹も石もレンガも。何もかも大好きなのさ」


「――『終わり』も、ですか?」


 俺の返答に丁度すらりとした背中を向けていた星浜さんはステップを止め、そのまま身体をぐるりと捻ってこちらを見る。


「勿論さぁ。あれも、言うならば大きな雹みたいなもんじゃあないか。この星に落ちてくるなら、一人ぐらいはそれを愛してあげないと、かわいそうじゃんか」


 グラマラスな肉体を誇るように、上体を捻った体勢のままに胸を張る。反らされたことにより強調される彼女の、漫画雑誌の表紙を飾るグラビアアイドルよりも大きいかもしれないバストを直視することなど出来ずに視線を右斜め上にずらしてしまう。ずらした視線に映ったのは、膨らんだ河豚と拳銃が描かれた作成者のセンスがよくわからないロゴマークのステッカーが貼られた電信柱だった。


「あ、あの。星浜さん?」


「結ちゃんって呼んでよ。なんか苗字だとくすぐったくてさ。そして、呼ぶ時はもっと愛を込めて、ね」


 『結ちゃん』はこちらが恥ずかしいのでせめて『結さん』にさせてくれと懇願すると、渋々了承してくれた。とにかく、なんとか話題を変えることに成功したようだ。そして先程逸らした視線にはどうやら気づいていないと思われる。


 というか、そもそも今夜はこの人に話をしに来たのだ。自分で自分を正当化しながら、聞きたいことがあることを星浜さん、改め結さんに伝えるのであったが。


「なんだい? なんでも言ってごらんよー。お悩み相談かい? 一回そういうのやってみたかったんだよねー。お姉さんに答えられることならなぁんでも答えてあげるよ。あ、でもでもスリーサイズとかそういうエッチなのは悪いけど、ノーサンキューよん?」


「や、そういうのではないです」


 テンション高く声を上げる結さんに圧倒されてしまったが、それを大脳の奥に隠して無表情のままに淡々と返す。そんな俺を気にすることもなく、そのままのテンションを維持したままに喋り続けていく。


「えぇぇ、若いのに? 君、もうそーいう欲とかない系かい? 仙人? あ、それともアッチ系なのかなん? そうは見えないけどねぇ、だってあたしの胸とか見てたからさ、やっぱりオトコノコだなぁって思ってたもんよ。どうよ、図星? 図星?」


 これは。この感じは。真面目な話をはぐらかす時の両親のリアクションにとても酷似している。非常に嫌な予感がしてきた。しかも視線に気づいていたとか、最悪が過ぎる。


 それでも、この時間まで、時間を潰して。焼売すら我慢してここまで来たのだ。こんなところで茶化されたからといって引き下がれるか。心の中で深呼吸をして、気合を入れる。そんな俺の雰囲気を察したのか、今まで茶化していた結さんも飄々とした態度を一旦止めて、薄く笑みを浮かべながらこちらを真っ直ぐに見据えてくる。


「実は、聞きたいことがあってここに来たんです。当てもなく、ただ人の多いという理由でこの街に来たけど……あそこで結さんに会って。結さんなら、俺が知りたかったことを教えてくれるかもしれないって。特に理由なんてないけれど、そう思ったんです」


 先程まで太陽のような笑顔を浮かべていた結さんの眼は、街灯に反射して光り輝いていた。それはまるで熱く燃え盛る太陽の光を反射して鮮やかに煌めく宇宙の星々が、彼女の瞳のなかに存在しているようようで。


「ふむふむ。そこまで言われるとちゃんと聞かないと女が廃るね。よぉぉし、言ってみ。……えぇと少年、名前は?」


 そういえば名乗っていなかった。後頭部を掻きながら答える。


「風間 孝太郎です。――好きに呼んでくれれば」


 あらためて名乗るとなんだか恥ずかしい。結さんは何度か頷きながら俺の名前を何度も小さい声で呟くと、突然両手を叩く。乾いた音が、人気の少なくなってきた夜の街に響く。


「そうか、コータロー。コータローか。コータロー、あたしに答えられることなら、何でも答えてあげるよ」


 先程と全く同じ言葉をもう一度口にしたが、たった今彼女の口から出てきた言葉は先程のものとはまるで違う言い方というか、夜遅くに眠れないと自分の部屋にやって来た弟を優しく迎える姉のような印象というか。俺には兄弟と言えるような間柄はアスカしかいなかったので、もし姉がいたらこういう感じなのかな、とふと思ったりした。


 意を決して、ゆっくりと口を開く。最初の音が少し掠れた気がしたが、それは気にしないことにした。


「とある人に、言われたんです。自分の見ているものが偽物に見えていて、本物をどうやって見つければいいのか分からないって。何が本物で、何が偽物か。その見分け方を、その人はずっと探してた。俺は、それに答えられなかった。答えを後回しにさせてもらって、それを探して、人の多いところまで来たんだ」


 そして、ここで見てしまったのだ。竹房を。何かに激しい怒りを抱いているあの姿、あの血走った眼、食いしばった歯を思い出す。


「ここで、見てはいけないもの。そうだ、見てはいけないものを見たんだ。それで、それであの時動けずにいたんだ」


「見てはいけないもの? そんなもの、この街にあったかな」


 結さんの疑問は当然だ。そんなものは、この街に存在していない。見たのは、ただの怒りだ。それでも、俺にとっては衝撃的だったのだ。


「昔の知り合いです。前とは比べ物にならない程に変わってて。豹変してたと言った方がいいかもしれない。それに勝手にショックを受けていたんだ。そんな俺に声をかけてきたのが、結さん、貴女なんだ」


 俺の独白に少しだけ驚いた表情をした結さんだったが、すぐに先程までの柔らかな春の日差しのような笑顔に戻る。眩しい夏の太陽の日差しのような笑みも印象的であったがたった今、結さんがしている春のような温かな微笑みも、同じ太陽が発しているものであると実感できる笑顔であった。


「そうだったのか。そして、コータローはそんなあたしに何を求めるのかい?」


 結さんは相変わらず俺のことを真っ直ぐに見据えている。時折点滅する街灯が、じりじりと光の強さを変えるペルセウス座のアルゴルのように彼女の宇宙のような瞳で煌めいていた。結さんの瞳に吸い込まれてしまいそうになるのを堪えながら、俺は言葉を続けていく。


「ここに来た目的の通り、本物と偽物の見分け方を知りたいんだ。実は他に一人、その質問に答えてくれた人がいた。その人は、そんなものに答えなんかないって。答えを決めるのは自分自身だって言ってました。自分は、その言葉がかなりしっくりきたんです。でも、あと一手。あと一手が足りない気もしているんだ。直感――のようなものだけど結さんならば、それを教えてくれるかもしれないって思った」


 一呼吸置くように、視線を正面の結さんから少しずらす。それを独白の終わりと受け取ってくれたようで。


 彼女は目を閉じ、顎に手を当てながら考えるようなポーズをしていたが、すぐに目を開いてにやり、と口角を上げる。


「ふむふむ。それじゃあ、お姉さんが教えてあげようじゃないか。ほらほら、目ェ、瞑りな。あたしがいいって言うまで絶対に開いちゃあ駄目だぜ。なに、噛み付いたりするワケじゃあないさ」


 結さんの答えが何なのか。期待と不安を半分ずつ胸に抱きながら目を閉じる閉じた瞼は夜の闇以上の漆黒を水晶体に映していく。

 

 視界を意識的に切った数秒後。真っ暗な世界に一つの情報が追加される。


 それは、触感。


 なにがなんだか解らないが、とにかくこれは物凄いものだと本能が叫んでいる。まず何かが背中に回り、とにかく柔らかくて温かなものが俺の身体に密着している。これは、まさか。これは。瞬く間に全身が熱を持ち、頭頂部から爪先までの全ての毛穴が開いていく。汗腺が開き、物凄い勢いで身体中から汗が吹き出てくる。


「これが、その一手さ。やーらかいところ。ここ、心臓が、大きく鳴ってるのわかるだろう?」


 聞き覚えのある声が、やたら湿り気を増して俺の耳元で聞こえてくる。やーらかいところというと、まさか。つまりはそういうことなのか。微かに感じる鼓動よりも遥かに早く遥かに大きい音が、自分自身の内側から聞こえてきて、もう何が何だかわからない。


「ね、簡単でしょ? あたしにドキドキしたってことは、あたしがホンモノってことだよ」


 言葉と同時に吐き出された吐息が、扇情的に俺の右耳の奥を撫で回してくる。なんだこれは。これが答えなのか。困惑がオーバーフローして、思考がフリーズしているのを自覚できる。


 本当に、何が起きているか理解の範疇を激しく超えてしまった為に目を開けて確認するということを完全に放棄してしまっていた。

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