Case1 アンタレスと夏の大三角②
夜空にはアンタレスがソーラー発電の薄暗い外灯の光の下でも分かるほどに赤く強く光っている。
蠍の心臓が光る夜空の下、山石琴里はベンチに腰掛けている。紺色のブレザーと白いブラウスしか見た事のなかった彼女の着ている黄色の布地にキャラクターがプリントされたTシャツとジーンズの私服姿は、俺にとっては非常に新鮮味のある光景だった。
俺にとっての山石琴里という女の子は、年頃の女子生徒では軽視どころか無視されがちな学校の服飾規定をしっかり守った制服姿という印象で、スカートも長くなく短くなく、髪も不必要な程に脱色することもない。言い方がなんだか上から目線な気がするけれども、きっちりとした真面目――というか言ってしまえば地味な少女。
この姿を見るまでは、特に意味もなく制服しか衣服を持ってないじゃないかと思っていた自分がいた。
冷静に考えるとそんな訳は無いのだが、なんとなく想像ができなかった、というか想像したことがなかった。クラス替えの4月から終業式の7月末までの約120日間、彼女と会話どころか挨拶をした事すら数回しか無かったからだ。
「ねぇ」
メゾソプラノの声が夜の闇に吸い込まれていく。
「風間くん、この辺に住んでるんだ」
俺はベンチから少し離れたところに備え付けてある鉄棒にもたれ掛かりながら答える。
「ここから歩いて30分かからないぐらいかな」
暫くの沈黙が夜の闇と一体化していく。
蛙と虫の鳴き声と川の音ーー田舎の夜の旋律が公園を支配する。
当然ながら、公園には俺と山石さんの二人しかいない。公園まで行ったらすぐに帰るはずだったのに、なんだか変なことになってきたぞ。そんなことを考える。
「そうなんだ」
僕の声に応える彼女の声は、泣き喚く虫の声に負けてしまいそうな程に小さい。
空をふと見上げると夏の大三角を構成するベガ、デネブ、アルタイルがはっきりと光り輝いていた。いつしか夜空を覆っていた薄雲は殆どが消え失せて、月の周りも雲が取れて太陽を反射している衛星の光が夜を薄暗く照らしていく。
「ねぇ」
メゾソプラノの声が夜の闇に吸い込まれていく。
「これから、風間くんはどうするつもりなの?」
俺は彼女の問い掛けに答えることは出来なかった。その沈黙をなんとなく察したのか、山石さんは視線を俺から外す。肩のあたりで短く切られた髪が夜風に揺れている。柔らかい銀色の月の光に照らされて、栗色が鈍く光っていた。
いつも学校で見かけていた幻想的なその姿に、俺はある種の妖艶さのようなものを感じてしまう。同じ学園、同じ学級、同じクラスの同級生なのに。年齢や経験などではなく、あまり知らなかった異性のミステリアスな雰囲気に飲みこまれてしまいそうになる。
「私も、どうしていいかわかんないんだ。これからどうなるのか。どうなっちゃうのか。世界が終わる瞬間って、どんな感じなのかな。派手なのかな、綺麗なのかな、一緒で終わるようなーー例えばスイッチが切られるみたいな感じなのかな。それってさ、隕石がぶつかった瞬間に起きるのかな。ぶつかっても暫く猶予、みたいなのがあるのかな」
俺に向かってか、それとも世界に向かってか。疑問のようなことを語る山石さんを見ている俺の視界の外に赤く強く光っているアンタレス。それは彼女の心の中のように、爛々と輝いている。心臓のように小さく点滅を繰り返す赤い星は、夜空の漆黒に自分の存在を示すかのように煌めいた。
「わかんないさ。正直、もうすぐ世界が滅びるなんて実感なんて全くないよ。地球が吹き飛ぶことなんて、誰も体験したことがないからなァ」
屁理屈にも聞こえる俺の言葉に、彼女は少し口を尖らせる。夜の暗さを優しく照らす銀色の月の光に映る山石さんのシルエットがゆっくりと動く。それは、夏の風に揺れる草花のようで。
「意地悪言うんだね。地球が滅びるを体験したことないからわからないって。それを言うなら誰も死んだことがないから、実際は誰も生きている限り、死ぬことを知らないんじゃない?」
少しだけ強く風が吹く。それは7月の終わりの蒸し暑さをほんの多少ながら和らげる、柔らかく優しい風。
公園の花壇に植えられた何輪かの向日葵がその風に揺らされてざわり、と音を立てる。昼は太陽に向かってその顔を向け、今は月を見上げている向日葵も俺や山石さんと同じく、月と星の光に照らされて鈍く光っている。
「覚えてる?終業式に校長先生が最後に言ってた言葉」
少しの沈黙の後、言葉を続ける山石さん。
それは、まだまだ頭の中に残っている言葉だ。たくさんの感情が一緒くたになり、泣きながら笑っていた、いつもは威厳のある厳しくもたまに見せる笑顔がどこか愛嬌があった校長先生が残した言葉。
「たとえ明日、世界が滅亡しようとも……だっけ。それがどうしたのさ」
「『たとえ明日、世界が滅亡しようとも今日私は林檎の樹を植える』だよ。校長先生はどんな事があってもいつも通りに過ごして、毎日を愛おしく生きようって意味で言ったと思うんだ。でもねーー」
銀色の月の光と街灯の光。2つの光が山石さんを照らしている。
天然の光と人工の光の下に佇む女の子は、艶めかしく髪の毛をかきあげる。
その瞬間にアンタレスが一層強く赤く輝いた気がして、山石琴里という同級生の女の子は本当は蠍の眷属なのかと一瞬だけ錯覚してしまう。
「ホントはルターが言いたかったことはね、自分が死んじゃって自分が認識している『世界が滅亡しようとも』、弟子達に教えた自分の考えっていう『林檎の樹を植える』ことをやめないぞってことなんだよ」
薄暗い闇の中では、山石さんの表情はあまりよくわからない。
真顔で話しているのか、泣きそうな顔をしているのか。
「だからね、林檎の樹なんてもう植えても意味が無いんだよ。何も。何もかも。林檎の樹もね、その樹の下にある大地ごと壊れちゃうんだもん。世界が、ね」
小さな顔をこちらに向けた山石さんの表情がほんの少しの時間だけ見える。
「それでも、私は見てみたいな。世界が壊れる瞬間。なんだか、凄そうじゃない?」
俺の見間違えでなければ、山石琴里は微笑んでいた。
それは何かを諦めた諦観の笑顔でも、狂気に染まった笑みでも無くて。次の日の朝に遠足があるときのワクワクした顔のような、邪気の欠片もない笑顔に一瞬言葉が詰まる。
「ねぇ」
メゾソプラノの声が夜の闇に吸い込まれていく。
「これから、風間くんはどうするつもりなの?」
先程とまるで変わらない声。それでも何か得体の知れないものを感じ、背筋がぞわりと逆立つのを感じる。彼女の屈託のない笑顔から目を逸らし、見なかったことにする。
無邪気ともとれる彼女の問い掛けに、俺は鉄棒を支点に背伸びをしながら答える。
「とりあえず、今夜はもう遅いから帰って寝るよ。明日のことは、明日考える。明後日のことも、明後日考えるさ。それが今をありのままで生きるってことだろ」
太陽の230倍もの大きさを誇る火星にも似た蠍の心臓と、その北側の空に光る大三角と北斗七星は太陽の光を反射して銀色に光る。街灯や月の光が何も無ければ、天の川も見ることが出来そうな星空が広がっていた。数々の星々が光るこの空から、全てを台無しにしてしまうモノが落ちてくるのだ。真っ黒な夜空という広大なキャンパスの上で煌めいて、世界を彩っていく星が美しいだけではない。
ただ、それに気がつくことが少しだけ。少しだけ遅かっただけなんだ。
側頭部を軽く掻きながら首を傾げ、俺は言葉を続けていく。
「俺は今生きてるし、明日どうなるかなんてわかんねぇさ。隕石が落ちる前に大地震とか、台風で死んじまうかもしれない。道を歩いてたら交通事故に巻き込まれるかもしれないし、この辺にはいないと思うけど頭のイカれた奴に殺されるかもしれない。だから、明日考えるさ。明日以降のことは、ね。世界が滅びる瞬間なんて、滅びる直前にわかるんじゃないか?」
田舎の夜の旋律の下、山石さんは椅子の上で体勢を何度も変えていく。月光に照らされた彼女のシルエットが蠢くように変わっていく。
「……わからない、か。そうだよね。明日がどうなるかなんて、わかんないんだよね」
わからない、わからないんだよ。不安だからこそ、人は生きていくし、生きていける。
気が付くと月はだいぶ西側に進んでいた。携帯電話のスリープを解除して待受画面の時計を見ると、23時になろうとしていた。あまり会話を交わした気は無いが、女の子をこれ以上長い時間拘束するのも良くはない気がした。
「――もう遅いからこの辺で帰るわ。いい時間だし、夜道に気を付けなよ」
会話を切り上げ、山石さんに背を向けて家に向かって歩き出す。
こんな時間になってしまったので、家まで送っていくかと声をかけたが大丈夫と返された。多少不安ではあるが、本人が大丈夫と言うならば、その意思を尊重することにした。
残された時間の中で今の俺に出来ることは、今を過ごすことだけだ。どんな結末だろうとも、 きっと最後は笑っていられるように。笑ってアスカに会えるように。
「ねぇ」
数メートル後方から、メゾソプラノの声が俺の背中に向かって届く。
「明日のこれぐらいの時間に、ここに、また来れる?」
俺は振り返ることもなく、右腕だけ上げて立ち去っていく。
一瞬だけ蛙の鳴き声が消えて、静寂がほんの少しだけ現れた。
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