彼女は死に急いでいる(試し短編)
六葉九日
次元α
柔らかい感触が唇から離れない。少年は言葉を発することもできずに、顔が視界を遮る少女が瞑った目を凝視するしかない。シロップのように流れる液体が止まらずに、唇と唇の隙から溢れて、口角から線を描き床に座り込んだ彼の手の甲に滴り落ちる。
それはきっと、自分のものでも彼女のものでもない。
痛みがない。だが、少女の不可解の行動に少年は戸惑った。いや、起こってしまったことを頭で整理するのが精一杯だ。空間と時間は共にフリーズしたように、動こうと思っても動けない。
やがて少女は自分から離れた。両頬が少し桃色に染まった彼女は花のように見えてしまう――赤色が綴りながら咲き誇る花。
彼女は彼に囁く。
「私がいないとすぐこうなってしまうから」
彼女は笑顔を綻んだ。
「でも大丈夫。貴方を触ろうとするやつも、貴方を汚そうとするやつも、みんな私が――」
――消すから。
棘を含む薔薇のように、艶やかに微笑むともう一度唇に触れる。
後ろに朽ちた命があるとも関わらずに。
冷たいコンクリートに押されて、窓から侵入する橙色の光はどうしても悪意だと思ってしまう。少年は辛うじて倒れる机と椅子を捉える。
少年の目に全てを焼き付いた。少女の刃が舞う瞬間を。そのクラスメイトだと呼ばれていた生徒達が、刃の踊りに応じて倒れる瞬間を。
「なんで……」
まるで長い時間を経ったような感覚に陥って、彼女が離れるとやっと言葉を口にできた少年は冷や汗を流した。
なんで、と理由を聞いても彼女は答えをくれないのだろう。だが、この気持ちは一体どこにぶつければいいのか、彼には分からなかった。
「こんなことして、許されると思うのか……ッ」
「ううん? シンのためなら……」
「馴れ馴れしく呼ぶな!」
彼女に向かって怒鳴った。溢れ出す複雑な気持ちを抑えきれなくなる。彼女が、まだナイフを握っていることを忘れたほどに、少年――
別に死んだ人間への憐みでも怒りでも悲しみでも心から湧いたわけではない。ただ、人が目の前で殺されたという現実を受け入れがたいのである。
「……好きだよ」
少女は静かに言った。
「私はシンが好きだよ」
透き通った瞳で見つめてくる彼女を見返すが、甘ったるい告白に彼は心を動かすことはできずにいた。
「今……じゃないだろ……」
「好きだよ」
彼女は壊れた
――しょっぱい。
慎太は思い出した。彼女の殺意が混じった好意の味はまだ舌に、喉に残っている。これが普通なのか彼には分からない。脳は拒否反応が出ていることだけは確かだ。
少女に取られていない手で彼女の肩を掴んで、自分から遠ざけた。
地面に横たわっている死体と濡れたナイフが視線の届ける範囲に入っている。
なあ、と彼は言った。
「自首しよう……」
ぽつりと彼女に告げた。思ったよりも落ち着いている声で驚いたが、彼女の返事を優先された。視線を彼女に戻すと、彼女は大きくした目で自分を見つめている。
「シンと会えなくなるの?」
「そりゃ、そうだ……」
「いやだ。会えなくなるのは、いやだ!」
「ふざけん……」
時間が止まった。
血まみれになったナイフに手を伸ばして、
ぎゅっと柄を握るのは――少女の方だった。
片手でナイフを前に据えて、濁した目で慎太を見る。
「シン」
彼女が冷たく呼んだ。死神の足音が聞こえる。彼女の一挙手一投足が死を呼び寄せるような魔力を持つのだ。
一瞥して彼らを見てしまう。
自分もそうなるのだと、彼はその思考に襲われる。
「シン」
殺される。心臓音が徐々に大きくなり耳元で反響する。目に映す少女の姿が揺れる。刺される。視界が霞んだ。腕が縛られているように命令を従ってくれない。自分の命は自分で守れ。――だが、彼女から逃れるか。
「好きだよ、シン」と彼女は距離を縮める。ゆっくりと、かえって恐怖心を煽る。
もうなんだっていい。今の自分はきっと青くて情けない顔をしているのだろう。先程と違わぬ感じが唇に戻り、最期の晩餐ならず最期の接吻になるなんて、彼はそう思いながら彼女を拒まずに瞼を閉じた。
ひたすら暗闇を見つめる。
痛感がない。
即死ならば痛みを感じれる前に死んでしまうらしいが、ナイフであれば刺される瞬間を感知することを免れない。
人間の気配は残っている。それは少女のものだ。彼は目を開ける――にこりと彼女の笑顔はそこにある。ナイフを握り締めて自分を見つめる少女。
「……殺さないのか?」
「シンをー? そんなわけないでしょ。私が殺したいのは――」
彼女は毒々しく笑った。
――邪魔をしてくる人間達だ。
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