第11話 記録より記憶に残る 新庄剛志
阪神の長期低迷時代の選手です(1990年入団)。なんと話題の多い選手なんでしょう。1993年この年初めて規定打席に到達して打率.257、本塁打23を記録しベストナイン初受賞。守備ではリーグ外野手最多13補殺を記録しゴールデングラブ賞初受賞。そのセンスが認められ将来の阪神を背負う選手と期待される。
その1 「センスがないからやめます」の記者会見
引退騒動
オフの11月19日、契約更改交渉後会見にて「野球に対するセンスがないって見切った」と突然の引退宣言。藤田平・新監督との確執が噂されたが、21日に発言を撤回してプロ入り以来初の年俸ダウンで契約更改する
「引退して何をやるのですか?」記者。
「ええ、サッカー選手になります」新庄。野球でセンスがなくてサッカーならセンスがあるっていうのと思いましたが、あの運動力からしたら意外と成功したかとも今となっては思われます。
「恥を知れ!新庄」
1997年7月時点で打率2割1分台と低迷していたにもかかわらずオールスターゲームへファン投票2位で選出されたため出場するが、第1戦(大阪ドーム)で自身の打席ごとにセ・リーグ応援団による応援ボイコットと観客からの「新庄帰れ」コールが起こる。スタンドの横断幕には「新庄剛志 そんな成績で出場するな 恥を知れ」と書かれていた。この件について自身は後年の引退会見においても「あれはもう、耐えられなかった」と語ている。この年4年ぶりでホームラン20本打つも自己最多120三振を記録する。ゴールデングラブ賞受賞。
敬遠球をサヨナラ安打
1999年6月12日、首位攻防の巨人戦(甲子園)12回裏同点一死一三塁の攻撃(投手:槙原寛己、捕手:光山英和)で敬遠球を打ちサヨナラ安打を記録。1球目の外角への外し方がやや甘い投球を見逃し、自身は「これくらいの球(外し方)なら打てる」と感じ2球目の同じような投球を三遊間を抜いて左翼前へ転がした。
大リーグに挑戦します
2000年、打撃三部門でもそれぞれ自己最高でチーム三冠となる打率.278、本塁打28、打点85を記録。本塁打においては「先制、同点、勝ち越し、逆転」の殊勲本塁打が20本あった。ベストナイン、ゴールデングラブ賞受賞。11月の日米野球に出場して20打数以上で打率.409を記録。
フリーエージェント (FA) 権をオフに行使してFA宣言。大リーグのニューヨーク・メッツへ年俸20万ドル(日本円換算約2200万円、メジャー選手最低保障額)で移籍。12月19日の移籍発表記者会見では「やっと自分に合った野球環境が見つかりました。その球団はニューヨーク・メッツです」と発言。
一番面白くなかったのはこの年、オリックスから野手として初めて大リーグ挑戦を発表していたイチローではなかったかと思う。7年連続首位打者の実績で大リーグへ。一方新庄はゴールデングローブ賞以外さしたるタイトルはない。ともに野手1号としての大リーグ挑戦になったのである。「イチローは大丈夫だけど、新庄はあかんで」と誰も思ったし、私も思った。
あにはからん、日本で監督経験のあったボビー・バレンタイン監督からその守備力と、打力では好機に強い打者との評価を得て3番を打つようになった。そしてついに4番「SINJYO」とバックスクリーンに名前が映し出されたのである。日本人初めての4番が誕生したのである。
「見て、見て」と日本人アナウンサーに云う新庄の嬉しそうな顔がテレビに映し出されていた。
2002年には日本人選手初のワールドシリーズ出場をはたし、この年野球以外の表彰では「日本ジュエリーベストドレッサー賞」を受賞。
2003年は故障もあって成績低迷、マイナーに落とされる。3年間の大リーグ、ニューヨーク生活をエンジョイして北海道札幌に移る日本ハムに復帰を表明する。
日本ハム時代
SHINJOと云う名前で、札幌ドームで行われた入団会見の際には「札幌ドームを満員にする」「チームを日本一にする」とフアンに宣言する。ファンサービスの一環として2004年より本塁打時の談話にて独特の打法命名を始めたほか、2004年から2005年にかけて試合前シートノックでかぶりもの(仮面)を着用するというパフォーマンスを行ったり話題数々提供して新庄劇場と評される。
2004年オールスターでホームスチール
球宴でホームスチール
7月11日、オールスターゲーム第2戦(長野オリンピックスタジアム)にて3回裏二死三塁の場面)で、三塁走者の新庄は捕手が投手に返球した瞬間にスタートを切り本塁にヘッドスライディング。オールスター史上初となる単独本盗を記録。ヘルメットが脱げていた新庄は腹ばいのまま、両手両足で地面を叩き続けて喜びを表現する。この試合、オールスターMVPを獲得。
ホームランが取り消されてサヨナラ
なんともややこしいのであるが、実はこうなのである。対ダイエー戦、12-12と追いつき尚も二死満塁とした場面で打席がまわり左翼席へ打球を運ぶ。この場面で一塁走者の田中幸雄は歓喜のあまりに新庄を二塁の手前で迎え、二人は抱き合ってその場で一回転。だがこれによって新庄は前位の走者(田中)を追い越したことになり、新庄にアウトが宣告され本来記録されるはずの本塁打は取り消される。
しかし、新庄は一塁まで到達していて、新庄のアウトより先に三塁走者が本塁へ到達しているので新庄の記録はサヨナラ適時打となり、サヨナラ勝ちは成立していたサヨナラ本塁打が取り消されるのは過去3例目である。
数々の打法令名
阪神との交流戦で、甲子園での本塁打を打った際に阪神ファンからも拍手を受け、打法名「オレを育ててくれたこの球場に感謝打法」と命名。翌12日の同対戦では甲子園左翼席中段まで本塁打を運ぶ。
2006年4月18日、1本目の本塁打に「28年間思う存分野球を楽しんだぜ。今年でユニフォームを脱ぎます打法」と名付け突然の引退表明を行い、ヒーローインタビューで改めて観客へ宣言する。この引退を宣言する命名を最後に2004年より続けてきた本塁打への打法命名を封印する。引退発表からシーズン後半にかけてマスコミの注目度は日に日に増し、新庄のグラウンド内外におけるパフォーマンスは「新庄劇場」と形容されて連日のように報道され、フアンは札幌ドームに足を運んだ。新庄も好成績で日本ハムは優勝し日本一にもなりました。何と幸運の星を持った選手でしょう。
この年ではなかったのですが、新庄劇場でのパホーマンス、オールスターで新庄が打席に入る。なにやらベルトが光っている。三塁コーチに出ていた長嶋が不思議に思って見に行った。なんとベルトのバックルに電光掲示板がしこんであった。流れる文字は「SINJYOで勝つ」であったかと思う。長嶋さん驚くやら、笑うやら楽しんでいました。ピカピカ光っても投手に向いてないので反則にはならないのようでした。
何かと話題を提供した新庄でした。あまり大きい選手ではありませんでしたが、球場で外野席から見るセンターの新庄の背中は大きく見えました。そして外野フライで1点かと思うのを、電光石火のバックホームは何人の選手を殺したでしょう。あの強肩のバックホームを見るだけで入場料を払った値打ちがあろうと云うものです。
引退すれば、大抵解説者をやるのですが、彼は今一切野球に関わらず、インドネシア・バリ島に住居を構え、モトクロス競技の練習を開始して、郊外に練習のための自前のモトクロス場(日本円にして1000万円規模)を作ってバイクを乗り回している姿が久しぶり映像として映し出されていました。
まだまだ語りたい選手もいるのですが、これにて「チョーン、阪神劇場選手編」はお開きとします。巨人よ、ジャイアンツよ。優等生ばっかり集めず、これだけの個性あふれる選手を集めて見ろってんだ!優勝するだけが能ではないんだ。と云いたい。
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