第96話 ミスター・コミュニティ
バンドが演奏を再開する。町長の退屈なスピーチが終わり、みんながほっと一息ついて飲み物を手にする瞬間。そんな感じの音楽だ。ごきげんなジャズ。スウィングのリズム。でもここにはあまり人がいない。半世紀くらい昔なら、きっとこの音楽の元、たくさんの町民が集まっていただろう。子ども達はテーブルの回りを駆け巡り、おとなはあちこちに固まってうわさ話に花を咲かせていたに違いない。
いま実際にここにいるのは、村の集まりにかり出されしぶしぶ付き合っている中年男女が20〜30人。手元にワインやビールなど持ちながら、一応なごやかに談笑しているものの、本心は、勤めを負えて早く家に帰りたい気持ちで一杯だ。よそ者のぼくにだってそれくらいわかる。どうもこれはハズレだったかな。内心そう考え始めながら、手元のワインをすすり、ぼくもなんだか作り笑いを浮かべてそこに座っている。
ほかにどうしろというのだ?
「ぜひこの村の集いを見せていただきたくて」
とまで言って無理に参加させてもらった立場で。
そもそも弟の情報からしていい加減だった。ある日いきなり電話してきて、「ミスター・コミュニティと呼ばれる男を見つけたが会いたいか?」という。ぼくが自発的コミュニティの活用による組織改革論をテーマに研究していることを知っていて連絡をくれたのだ。それはありがたいと思う。それにしても情報があやふやすぎで、おまけに結局は金の無心と抱き合わせの話だった。「調査料込みってことで30万、30万だけ出してくれれば、村まで案内するからさ」
弟の、妙にエコっぽい日本車に乗せられ山道ばかりを4時間はドライブしただろうか。国境近くを走っているようにも思えたが、すでに大公国に入ってしまっているようにも思えた。やがて視界が開けてきて盆地に下りはじめたかと思うと唐突にその村は姿を現した。山間の湖に面した牧歌的な村だった。言葉はどこのナマリともつかぬイントネーションさえ克服すれば、特に問題なく会話もできた。
音楽に合わせて、ひとりの老人がよろりと立ち上がって、ヨタヨタとステップを踏みはじめた。ステップと言えば聞こえはいいが、要するにその場をゆっくり歩き回っているだけだ。地上にいながらにして水中ウォーキングをしているようなテンポとリズムだ。ぱらぱらと拍手が起こるが、どちらかというと「しょうがねえなあ、またあの爺さんかよ」というような拍手だ。何人かは、そっと席を外して会場から駆け去ってしまった。
ぼくは舌打ちをしたいような気分だった。いったいどこにミスター・コミュニティがいるんだ? というよりも、そもそもこんな牧歌的な土地のくせにコミュニティらしいコミュニティさえ存在しないじゃないか。もうちょっとこう、土着な感じで盛り上がってくれよ。これなら、集合住宅の住民組合の年次総会だって、もう少し盛り上がりそうなもんだ。
4本のトロンボーンがごきげんに首を振りながらブローする。ヴァイオリンが陽気にステップを踏みながらからんでくる。ホルンとクラリネットがソロの座を狙って仕掛けるタイミングを虎視眈々と待っている。その時老人が倒れた。と思ったら、思いがけず大きく足を踏み込んだのだった。大丈夫か? あんなに体を大きく動かして。と心配して見ていると、そのまま勢いよくターンして、力強く足を踏み鳴らした。
わあっと歓声が上がる。いまはもうその場にいる者はみんな老人のダンスに釘付けだ。え? どういうことだ? と思う間もなく、遠くからざわざわと群衆の足音がして、「始まってるぞ、もう!」という男の怒鳴り声や「待って待ってこぼれちゃう」という女たちの嬌声が聞こえる。老人はリズムに合わせて素早く左右を向きながらボクサーのようなステップを踏みはじめた。
どこから出てきたのだという夥しい数の村の人々が姿を現し、会場は一気に混雑する。新たに食べ物が登場し、うまそうな匂いがあたりに立ちこめ、ワインの壜がガチャガチャ音を立てる。ビールの樽が次々に担ぎ込まれ、ふくらんだ菓子袋を持った子ども達がわーわーと騒ぎ立てる。その輪の中心には老人がいて、いまや目で追いきれないようなステップを踏みはじめている。
その様子はまるでマリオネットだ。体重というものが感じられない。右足も左足も同時に宙に浮いているように見える。どんなステップを踏んでいるのかさっぱりわからないが、とにかくそれはリズムをとらえ、全身で音楽を奏でている。ターンを決めるたびに歓声が上がり、少々卑猥なポーズを取ると甲高い悲鳴がわく。バンドとの息もピッタリだ。てっきり借り物のバンドかと思っていたが、もちろんそんな訳はない。
やがて老人が手招きをすると一人のやはり高齢の女性がしずしずと出てくる。二人が向かい合ってお辞儀をして、社交ダンスのように身を寄せ合うと、ひやかしの口笛と拍手がわき起こる。音楽は突然優雅なワルツに変わり、二人はひとしきり美しい軌跡を描き、くるくるとあたりを滑るように舞う。それから不意をついたように音楽はテンポのいいジャズに戻り、二人は身を離すと素早いステップの応酬を始める。そのあたりから2組、3組とペアが飛び込んできて、そこはもう最高潮に達したダンスエリアだ。
弟が近づいてきて「どうだい気に入ったかい?」という。ぼくはダンスから目を離せないまま大きくうなずく。もちろん目の前の光景に満足している。だから約束の30万の小切手を気持ちよく渡すことができた。でもこれを見ただけで帰ったのでは研究にならない。そこで激しいダンスの輪からはずれて一息入れている老人の元に案内してもらった。
「あなたがミスター・コミュニティですか?」
「いかにも、わしがミスター・コミュニティだ」老人は荒い息をつきながら、機嫌良さそうに赤ワインを飲み、グラスを掲げた。「遠くからようこそ」
「いえいえ」ぼくもグラスを掲げると質問を続けた。「あなたがどうしてミスター・コミュニティと呼ばれるようになったか教えてもらえますか?」
老人はつぐんだ口をもぐもぐさせながら少し妙な顔つきでぼくを眺めた。それから、よっこらしょ、と立ち上がると、ぼくについてこいと合図をした。「この建物はわしの家なんだが」と言って道路に出るあたりまでぼくを導くとくるりと身軽に向き直り、「これを見てくれ」と言った。そこには郵便受けがあり、その家の住人の名前が書かれていた。コミュニティ、と。
「生まれた時から、ミスター・コミュニティさ」老人はからからと笑い、ちょっと咳き込んだ。「理由なんてないさ。ただの名字だ」
遠くで弟が日本車めがけてダッシュしているのが見えた。まあいいか、と思った。赤ワインのせいか、ぼくは寛容になっていた。それでぼくは手に持ったグラスを老人に掲げてもう一度乾杯した。
(「コミュニティ」ordered by こあ--san/text by TAKASHINA, Tsunehiro a.k.a.hiro)
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