2.捨てられた少女2

「泣かなくて大丈夫だよ」


 優しい声が聞こえた。知らない男の声。ゆっくりと首を上げると、ドクターが私を見つめていた。


 そっとハンカチを取り出し、私の涙を拭きとってくれる。ハンカチを受け取って、私は涙を拭いた。手を引かれ、立ち上がる。


「さぁ、行こうか」


 ドクターは笑みを浮かべて、手をそっと肩に回した。背中を押すように、外に誘導する。私はされるがまま、歩いていく。

 でもやっぱりお母さんの言葉が信じられなくて、後ろを振り向いた。


 あんなに優しかったのに、いつも一緒に笑っていたのに、アレが全部嘘だった?


 私はお母さんにひどいことをした人の子供で、ずっとずっとお母さんを苦しめていた。だから、嫌われているのは当然のことなのかもしれない。私だって、嫌なことをされたら嫌いになる。

 でも、だからこそ信じたくなかった。


 あの日々が、お母さんと一緒に楽しく暮らしていた昔の思い出が、全て偽りだと思いたくなかった。

 最近は顔も合わせなくなってしまったけど、でも、間違いなくお母さんからの愛を感じていた。この気持ちがあるからこそ、お母さんが私を嫌っているという言葉が偽りではないかと思えてくる。


 振り向いた先に見えたお母さんは、もらった袋をじっと見つめていた。口元が笑みを浮かべていた。

 金に執着して、ぶつぶつと何を言っているのが聞こえた。ぼそぼそとしか聞こえず、何を言っているかは理解できない。


 でもちゃんと表情を見なくたってわかる。だって、本当に心配しているのであれば、私のことを見てくれるはず。なのにお母さんは、私に目もくれずお金ばかりを見ている。

 あの独り言も、お金を何に使おうか考えているに違いない。


 やっぱり私は、愛されていなかった。


「後ろばかり見ても危ないから、ちゃんと前を見なさい」


 ドクターに言われて、コクリと頷く。真実を知って、悲しくなった。

 家の外に出る時、すれ違い様に変な男たちが中に入っていった。

 体がとても大きく、腕に怖い絵が描いてある。

 その男は、ドクターに頭を軽く下げ、楽しそうな笑みを浮かべていた。


 あの人たちは何だろうと思いながら、ドクターに手を引かれ、停車中の馬車の近くまで来た。


 あの家にはお母さんしかいない。あの人たちはお母さんに一体何の用なんだろう。

 ふと、そんなことを知って、嫌われていた事実を再度思い出す。

 自分とお母さんはもう関係ない、だから忘れてやろうと思っても、余計に頭にこべりついて離れない。


 甲高い悲鳴が聞こえた。家の中からだ。


「お母さんっ!」


「待ちなさい、危ないから」


「離してっ! お母さんが、お母さんがっ」


「でも、あれは君を捨てた人間だ、もう君とは関係ない人間なんだよ」


「ッ………!」


 唇をかみしめて、お母さんのところに行こうとするのをやめた。

 ドクターは、「いい子だね」と頭を撫でてくれる。昔のお母さんとの思い出が脳裏に浮かび、また悲しくなった。


「いいかい、これから見るのは、落ちた人間の最後だ」


 ドクターが何を言っているのか分からず、首を傾げる。でも、すぐに理解した。

 甲高い悲鳴が、次第に大きくなっていく。泣きわめいている声と、すごく怖そうな怒鳴り声。


 家の扉が勢いよく開き、中からお母さんが地面を転がりながら出て来た。

 体がボロボロで傷だらけ、青あざもできている。


 痛々しいお母さんの姿に心が痛くなるのを感じた。散らばるお金には目もくれず、お母さんは家から出て来た大きな男に謝り続ける。

 でも、遠すぎて何を言っているのかちゃんと聞こえない。


 何とかしてお母さんを助けようと思い、駆け出そうとした。だけどドクターに止められ、口をふさがれる。


 やめて、話して。お母さんがあんなになっているのにっ!

 嫌われているとか関係あるかっ。


 でも、大人の力には勝てず、私はお母さんのところにさえ向かえない。


「いいかい、よく聞きなさい」


 分からない、なんでこの人が助けに行こうとする私を止めるのか。


「あれは落ちた人間だ。人生に失敗して、多額の借金をし、これから身を滅ぼそうとしている最底辺の人間だ」


 お母さんは最低の人間じゃない。最近は冷たかったけど、昔のお母さんは優しくて温かいものをくれた、私にとって最高のお母さんなのに……。


「君はお母さんの想いを無駄にするのか?」


 その言葉を聞いて、急に力が抜けた。抵抗するのをやめて、ドクターに視線を向ける。


「…………どういうこと?」


「君のお母さんは知っていたんだよ。自分がどういう状況かね。もう借金した額が多すぎて身を亡ぼすしかなかったんだ」


 それは、今の状況を見ればなんとなく分かった。

 お母さんはたくさんのお金をもらった。あの厳つい男に金を渡せば、普通なら見逃してもらえるだろう。

 だけど、お母さんはいまだに暴行受け続けている。助けに行きたい気持ちと、お母さんの想いが無駄になってしまうという言葉が、心の中でぶつかり合う。


「君のお母さんはね、君に幸せになってほしかったんだよ。でも身を滅ぼすところまで来てしまったから幸せにすることなんて不可能だった。だから君を私に預けたんだ」


「売ったんじゃないの?」


「金は渡したから、売ったという表現はあっているよ。でもね、君のお母さんは私に頼んだ。あの子を幸せな環境で迎え入れてほしいと」


「…………お母さん」


 そんなのってないよ。私はお母さんが一緒にいればそれだけで幸せだった。無視されても、顔を向けてすらくれなくても、お母さんがいてくれたから、今まで生きてこれた。

 自分が身を亡ぼすから?

 別の人に預けて、私だけ幸せになれって、そんなのない。


 気が付けば、頬を涙で濡らしていた。

 助けたいという気持ちを我慢して、歯を食いしばる。


 厳つい男の暴行で、お母さんから血が飛び散った。お母さんと目が合う。

 お母さんは、ゆっくりと口を動かして、私に何かを言った。その言葉は私には届かないし、聞こえない。

 でも、何かを言い終えた後、私に向けて、にこりと笑ってくれた。


 それが、私が見たお母さんの最後だった。


 振り下ろされる鈍器に潰されて、お母さんはピクリとも動かなくなる。

 厳つい男はお母さんを袋に詰めてどこかに行ってしまった。


「ねぇ、お母さんはどうなるの?」


「多分売られる。人は薬になるからな」


「…………そう」


 ドクターは「もう行こうか」と言って私の手を引いた。されるがまま、私は馬車に乗り込んで席に座った。

 脳裏に浮かんでくるのは、先ほどのお母さんの姿。最後の最後、お母さんは笑っていた。私に何かを言っていた。

 その声は私に届かなかったけど、その想いは私の胸に届いていた。


「お母さん…………私、絶対に幸せになるよ。お母さんの分まで、ちゃんと幸せになるからさぁ……」


 瞳からあふれ出る涙が止まらない。手で拭っても、奥からあふれ出てくる。

 大切な者を失って、平然としていられるほど私は強くない。どうしようもない悲しみが、胸の奥で渦巻いていて、それを吐き出したくて嗚咽を漏らす。


 今ここで全部吐き出して、そしたらまた立ち上がるから。ちゃんと幸せになるために、前を向くから、今だけは……。


 でも、この悲しみは、一人で受け止めるには重すぎる。あまりにもつらく苦しい悲しみに、押しつぶされそうになった。

 全て吐いて立ち上がろうとしていた自分の心が、ゆっくりと歪んで、曲がっていく。


 そんな私を、ドクターが抱きしめてくれた。背中をさすり、優しい声をかけてくれる。

 一人じゃないという安心感が、折れそうになった心を支えてくれた。


 私はその支えに必死にしがみつくようにして、目的地にたどり着くまで泣き続けた。

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