白き聖獣に選ばれた少女~苦しみと悲しみから始まる幸せまでの軌跡~

日向 葵

1.捨てられた少女1

 物陰に隠れながら、私は外に並べられていたリンゴを、こっそりとかばんに詰め込んだ。

 パンパンになるまで詰め込んで、そっと立ち去ろうとしたところで後ろから怒鳴り声が響いた。


「てめぇ、何してやがる」


「やば」


 めんどくさいことになった。

 いつもはいないおっちゃんが、たまたま近くにいたせいで見つかってしまった。いつもはこんなヘマしないのに。ちょっとだけ悔しい。


 おっちゃんが私を捕まえようとしてきたので、腕をするりと抜けて、全力で走り出す。



「待ちやがれっコラ!」


「待てって言われて待つ奴がいるか、バーカっ」


 ぱんぱんに詰め込んだかばんから、リンゴが零れ落ちる。拾いに行きたいところだが、おっちゃんが鬼の形相で追っかけてくる。


 捕まったらやばいと思い、落ちたリンゴは気にせず走る。急いで裏路地に入り、入り組んだ道を進んだ。


 運動不足気味なおっちゃんは、息を切らしながらも追いかけてくる。そろそろ諦めてほしい。近くのごみ箱を倒して来た道を塞ぎながら走ると、気が付けばおっちゃんが消えていた。どうやら振り切れたようだ。

 というか、すでに息切れ気味だったし、案外すぐにバテたのかも。


 いなくなったことで安心した私は、ぼろぼろのかばんの中を確認する。戦利品はリンゴが3つ。あまりの少なさに肩を落とす。これじゃあ腹のたしにもならない。

 こりゃあとでもう一度行かないとダメかな?


 そう思いながら、リンゴの一つにかぶりつく。甘酸っぱい味わいが口いっぱいに広がって、思わず口がにやける。今日のご飯はアタリだ。めちゃくちゃうまい。


 さて、これからどうするかな。


 手に入れたのはリンゴが3つ。そのうち一つは私が食べている。明日も生き延びるなら、もう少し食料を確保しておきたい。

 食料は大いに越したことはないのだから。



 私には家族がいる。大好きなお母さん。昔はとてもやさしくて、貧しくも支え合って生きていた。笑いかけてくれるお母さんの顔が大好きで、私はいつも甘えていた。


 だけどいつからだろう。お母さんとの距離が遠くなったのは。

 あんなにやさしかったお母さんが、次第に冷たくなっていったのだ。私と顔を合わせず、声をかけても返事をしてくれない。お母さんに甘えようと触れれば、打たれて怒鳴られる。


 生活は貧しくて、いつもおなかを空かせているような生活だけど、お母さんから離れる気はなかった。

 今は冷たくて、声すらかけてくれないけど、いつかきっと、昔のような優しいお母さんに戻ってくれる。


 それを信じて私は生きている。一人じゃないと思えるから寂しくはなかった。


 二つ目のリンゴを手に取った。おなかは空いている。何か食べさせろと言っているかのように、大きな音が鳴った。

 じっとリンゴを見つめる。艶のある表面、美しい赤色、微かに香る匂いが胃を刺激する。

 口の中に唾液が溜まるのを感じながら、誘惑を振り切ってリンゴをボロボロのかばんにしまった。


 これはお母さんと一緒に食べよう。


 だから私は一度家に帰ることにした。

 私がいた裏路地から家までは、歩いて数分行ったところにある。もう一度食べ物を盗みに行かないといけなかったので、家には走って向かうことにした。


「ただいまー」


 家の扉を開けて中に入る。ボロボロの家の中で私の声だけが響く。いつものように返事はない。


 今日も返事をしてもらえなかったと落胆しながらも、奥に進んだ。


 この家は、私達の家であり、私達の家ではない。事故物件、不穏な噂が広まって誰もすまなくなった家、だからこそ私たちのような家無しの人間にはありがたい場所だった。

 勝手に住んでいるのは私達だけ。だからこの家にはお母さんしかいないはず。なのに今日は様子がおかしい。

 進むにつれて聞こえてくる知らない人の声。部屋の奥からかすかに明かりが漏れていることに気が付いた。


 恐る恐る扉を開ける。最初に目に映ったのは、真っ白な白衣だった。

 そのさらに奥には、お母さんが大きな袋を抱えて立っている。


「おや、帰ってきたみたいだね」


 私に気が付いた白衣の男が近づいて来た。

 どうしよう、逃げるべきか、でもお母さんはここにいる。敵ではない?

 迷っている合間に接近を許してしまう。

 白衣の男は、私の目の前でしゃがんで目線を合わせた。


「こんにちわ、お嬢さん。私は……ドクターとでも呼んでくれ。それで、君の名は?」


 名前を問われて、私は首を横に振る。答えるのが嫌なわけではない。私には名前がないのだ。優しかったお母さんも、私には名前をくれなかった。その理由は教えてくれなかった。


 とにかく、正しい回答を持っていない私は首を横に振るしかない。だけど私の行動が答えるのを嫌がっていると感じたのか、ドクターと名乗るこの男は「怖がらなくても大丈夫、名前を教えてくれないか」と私に向かって言ってくる。


 どうすればいいのか分からなくなったので、お母さんに視線を向けた。

 お母さんと目が合う。久しぶりにお母さんの顔を見た。痩せこけて、ボロボロに見えた。昔はあんなにも綺麗だったのに。


 お母さんは、私を見て馬鹿にしたように鼻で笑った。そして、ドクターに視線を移す。


「その子に名前なんてあるわけないじゃない。あのゲスの子供だよ、あぁ汚らわしい……」


 汚らわしい? 誰が、私が?

 一瞬、思考が停止する。お母さんが言った意味を理解するまで時間がかかった。

 言葉の意味を理解して、少しだけ胸がきゅっと苦しくなる。

 機嫌を損なわないように様子を伺った。


「…………ねぇ、嘘だよね?」


 うっかり漏れた言葉。お母さんに嫌われていると信じたくない私の心が、勝手に想いを外に漏らす。

 物音で掻き消えそうな、本当に小さなものだったけど、しっかりとお母さんに届いていた。


 軽蔑するような視線が私に刺さる。本当に嫌がっている時に出る、への字の口元、近くにいること自体に嫌悪感を感じているのか、サッと私から距離をとる。


 私が一歩近づくと、顔が歪み、しっしと手を払う。


「近づかないで頂戴、ほんと、気持ち悪い……おえ」


 そこで、私の中の何かが割れた。

 頭の中に浮かんでくるのは、優しかったかつての記憶。頭を撫でてくれたお母さん、貧しくも一緒に並びあってご飯を食べた日々、笑いながら手をつないで歩いたあの道、そんな私の中にある優しい思い出たちが、一つ一つ落ちて砕け散る。


「いやだ、いやだよ……」


 口に自然と力が入る。目が潤んで視界が歪む。こぼれた涙が頬を湿らせた。


「ヤダ、ヤダ、ヤダっ、嫌わないでよ、お母さんっ」


 いやいやと首を振り、お母さんの服にしがみつく。お母さんが持っていた袋から、数枚の金貨が零れ落ちた。目がそれを自然と追いかける。チャリンと、高い音が響いた。


 袋から少しだけ顔を出す、大量の金貨が目に映る。なんでお母さんがそんなものを持っているの?

 ずっとお金がなくて、苦しい生活をしていた。家にないはずのものを、お母さんがなぜ持っているのか、そのことを理解したくなかった。


「何するんだい、このクソガキがっ!」


 腕を振り私を払いのける、後ろによろけて、そのまま私は転んでしまった。

 顔を上げてお母さんを見ると、私が触れていたところを手で叩いて、落ちた金貨を拾っていた。


「ったく、私の金貨になって事するんだい、やっぱりあいつの子供だね、私と血がつながっていると考えるだけでおぞましい。さっさとどこかいっちまいな」


 再び向けられた、侮蔑の眼差し。その視線に私の体は硬直し、立てなくなった。


「なんで…………」


「ん?」


「なんでよ、お母さんっ! どうして私を嫌うの、どうしてそんなこと言うのよ。私は、私はーー」


 泣きながら、私は聞いた。なんでお母さんがそんなひどいことを言うのか。私に至らないところがあったのだろうか。

 ダメなところは直す、いい子にするから、私を嫌わないでほしい、私のそばにいてほしい。そう思って聞いたのに、お母さんから帰ってきた答えは、私が思っていたものと少し違った。


「私を無理やり汚した男の子供なんて、愛せるわけないじゃない。最初は愛そうと思ったけど、やっぱり無理。あなたの顔を見るたびにあの男の顔がチラつくの。もう私の前から消えて、もう私を苦しめないで」


 もう、何も言えなかった。

 私という存在が、お母さんを苦しめていると知ったから。

 もうどうしようもないことだと、知ったはずなのに、涙だけは止まらなかった。

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