第77話 ウクライナ少女マルーシャの勇気
西暦2022年3月20日、ウクライナの北部ボルズナー市の大通りで18歳になったばかりのマルーシャはネット情報やテレビ報道では知っていたけれど、本当に異国の軍隊が故郷に侵攻してきたことを目の当たりにした。ごく普通の道を戦車が進んできている。
「………」
言葉が出ない。驚き、不安、恐怖、怒り、それらが混合した感情のうねり、今日も無駄だとわかりながら食料品を手に入れるために店へ行こうとしていたところ、突然に見かけた戦車を先頭にした車列は低速で迫ってくる。マルーシャは脚が動かなくなった。
「………」
たまたま道路を横断しているところだったのに、脚が動かなくなったので車列の前に立ち塞がる風になっている。
怖い。
戦車の砲は正面を向いているのでマルーシャからは、真正面だった。車列から拡声器で通告される。
「あなたは、そこを離れるべきだ! 我々の邪魔になっている!」
下手なウクライナ語の発音で、下手な言い回しだった。それでマルーシャは全身に寒気のような嫌悪感を覚えた。こんなウクライナ語を使う連中に、この街を我が物顔で進ませたくない。そう感じて、両手を拡げて、ここを通すまいという意志を表した。ふわりとマルーシャの金髪が揺れる。生まれつきの強い癖毛で、アフロヘアのような拡がりがある。顔立ちは街の中でも美人と評判だったのに、この髪だけは自分では残念に思っていたけれど、今の場合はライオンのたてがみのようにマルーシャの身体を大きく見せてくれている。
「早く、そこを離れなさい!! あなたは命令されている!!」
「誰が、お前らなんかに従うものか」
マルーシャの青い瞳が怒りに燃え、白い頬が朱に染まった。もう戦車は20メートルまで近づいている。
「あなたは殺される未来をもつことになる!!」
拡声器の音は耳が痛いほど、うるさい。下手なウクライナ語を響かされると怒りで恐怖が消える。一歩も動かないマルーシャに対して戦車は減速して止まった。マルーシャと戦車の距離は1メートル。
「これ以上の邪魔をする行為は、戦闘に準じる行為として、あなたを殺します。道を開けなさい」
「お前たちこそ帰れ!! ここは私たちの街よ!!」
「………」
拡声器からの返答はない。戦車の後方にいた装甲車から兵員が6名、降りてきてマルーシャの前に立ち、大きな銃を向けてきた。距離は5メートルほどでマルーシャは半包囲されている。
「抵抗すること、やめろ」
拡声器の話者より下手なウクライナ語で言ったのは日本陸軍伍長の今泉芳樹だった。アジア人らしい平べったい顔つきで、こんな奴らに負けたくないとマルーシャは睨みつける。
「……」
今泉も睨むので睨み合いになる。今泉はマルーシャに向けていた銃口を威嚇射撃のために狙いを街路樹にした。狙いを外しても人的被害がでないように確認してから撃つ。
ダッ!!!
銃声は強烈でマルーシャは再び恐怖を覚えた。今泉が狙いをマルーシャに戻す。
「次に、あなたを撃つ! 私は5を数える!」
「………」
「5!」
「………」
「…フォー!」
今泉はウクライナ語の4を忘れたので英語で誤魔化した。
「3!」
「………」
マルーシャの中で恐怖が再燃してきた。アジア人の顔からは表情が読めない。何を考えているかわからない。まだロシア兵の方がよかったかもしれない。たぶん、この日本兵とは会話が成立しない。言語も人種も違う男に銃口を向けられカウントダウンされると、マルーシャは逃げたくなったけれど、また脚が動かない。もう勇気は萎えたのに、逃げることもできない。
「2!」
「…っ…」
ああ、ここで私は死ぬ、こんなヤツに殺されるの、とマルーシャは息を飲み、空を仰いだ。よく晴れていて太陽が眩しい。澄んだ空を美しく想う。
「1!」
「……」
お母さん…神様…パパ…、と思考がまとまりを欠く。
「0! ……」
ダッ!!!
銃声が響いた。
マルーシャの身体はビクリと震え、失禁して着ていたジーンズを濡らした。けれど、どこも痛くない。撃たれたのは再び街路樹で二度も撃たれたせいで倒れている。
バサバサァァ…
不幸な街路樹は人間たちの都合で植樹され、人間たちの都合で倒されてしまった。今泉が警告を繰り返す。
「次に、あなたを撃つ。私は5を数える」
一つ覚えのようにアジア人が言ってくると、マルーシャは再び勇気が湧いた。今泉を睨む。
「ここは私たちの街、私たちの国! モンゴルへ帰れ!」
「…………。モンゴルから来てねぇし。ビビって漏らしてるじゃん、抵抗すんなよ、くそっ……、マジで殺すのか……脚でも撃つか、拳銃で…」
今泉が日本語で悪態をついた。マルーシャに意味はわからない。今泉は小銃から拳銃に武器を変え、狙いをマルーシャの左脛に定めた。狙われているマルーシャの両膝は震えているし、失禁した尿で細めのズボンは足首まで濡れている。
「オレはゲイだから、女の子に容赦しないぜ」
再び日本語で言った。警告というより今泉自身を納得させるための言葉だった。
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