第75話 3月30日 対馬失陥、修羅場、膠着という平和
復和元年3月30日水曜、午前0時、鮎美は小松基地の司令室で畑母神ら国防にかかわる閣僚と軍人たちに囲まれ、対馬から退去させている住民の様子をモニターで見ていた。もともと砲撃を受けたときに女子供を中心に本土へ避難していたので、残っていたのは5000人ほどで養殖業にたずさわる男性と高齢者が多かった。その5000人を強制的に退去させているけれど、由伊が福知山市で人質に取られているニュースを知っている人々は素直に従ってくれている。畑母神が悔しそうに言う。
「くっ、まさか、こういう事態になるとは……」
「悔しいですけど、まずは由伊様を優先せんと」
鮎美は対馬と核兵器を麗国軍へ渡せという犯人グループの要求を2時間検討して飲んでいた。すでに事件発生から4時間が過ぎようとしている。ずっと皇宮車両に籠城している由伊と島津の体調も心配だったし、核兵器は実は模擬核爆弾なので手放してもおしくはなく脅威でもない。
「畑母神先生、対馬の奪還はホンマに簡単なんですか?」
「すでに朝鮮半島南部の海岸線を攻撃する準備はしていたゆえに。仲国との戦闘で海軍、空軍は3割を残すのみとなっているが現代的な戦闘はできる。そして陸軍は仲国との戦闘では、ほぼ無傷であった。島嶼奪還は海軍空軍の支援のもと陸軍が主体となるので、こちらの戦力面は足りる。たいして衛星から観察する限り敵軍は、およそ2000の歩兵と自走砲15両を対馬へ上陸させるため準備しているように見えるが、すでに航空戦力は無く、また海軍にも艦艇は無く自走砲の運搬には民間船を使うようだから、まったく勝負にならない。言ってみれば、竹刀をもった宮本くんが素手の芹沢総理を叩くようなものだ」
「そら、ただのイジメやん」
「向こうは我々が約束を守ると思っているし、核を手に入れるという計算があるのだろう。もっとも、その核は模擬物にすぎないのだが」
「それは見抜かれへんやろか?」
「我々でも解体せねばわからぬし、金正忠が伝えてきたように放射能があることは確認されているので問題ない」
鷹姫が静かに挙手しているので鮎美が問う。
「鷹姫、何かある?」
「はい。古い戦術ですが伏兵をおくのは、どうでしょうか?」
「フクヘイって?」
「対馬の警備隊をすべて引き上げるのではなく、一部を残して隠れ潜ませ、奪還作戦のさいに呼応して攻撃してもらうのです」
「ええ案やと、うちは思うけど……現代戦的に、どうなんやろね。あと、そういうことを対馬へ無線で連絡すると、向こうも傍受して見抜かれるかもしれんやん。今は由伊様の安全が第一やし。けど、鷹姫の案は有効そうやんね。そういう暗号とかないんですか? 傍受されてもわからず、一部を残して潜んでおいてくれ、みたいな暗号」
「……」
畑母神が若い青年のように微笑んだ。
「ある。全体の1割を山へ隠れさせることにしよう」
畑母神が新たな命令をくだしているのを見守りつつ、鮎美も司令室にあるモニターを眺める。だんだんそれぞれの意味が少しはわかってきている。
「あの輸送艦、そろそろ対馬に到着しそうやね」
「はい。そう見えます」
「到着したら模擬核爆弾を港の目立つところにおろして、対馬の兵員を乗せて、それで引き上げ完了やわ」
「ただ……」
鷹姫が少し顔を曇らせる。
「ただ?」
「当然の策略ではありますが、約束を反故にするのは美しくない姿勢で、残念に感じます」
鷹姫の手元には調印書がある。
引き渡し調印書
日本政府は次に記す二つを大麗民国へ引き渡す。
1朝鮮供産主義人民共和国より受け取った核兵器
2対馬の領有権
以上を確かに引き渡し、対馬にいる日本人は即時退去する。また福知山市に在する麗国人勇士5名と1名の遺体が対馬へ安全に帰還することを約束する。
引き替えに、皇族由伊之宮と島津久厚、その他運転手等の要員は即時解放される。
対馬にある日本人個人の不動産を除く財産、車両、重機、漁船、工船、その他船舶、船具、工具器具備品、養殖業にかかる物品および養殖物、家屋内の動産、宝飾品、現金、証券、商品、被服、食品、書籍、写真、家電製品その他すべての動産は90日以内に麗国が日本政府へ引き渡すこと。日本人個人への不動産に対する補償は日本政府がおこなうこと。
以上を確かに約束する。
短い調印書には麗国語と英語の訳もついていた。麻衣子も言う。
「総理大臣に二言があるのは、まずくないの? 社会が混乱するって言ってたのに」
指摘されても鮎美は口角を高くあげて微笑む。
「テロリストとの約束は守らんでもええんよ。これ世界の常識」
「「「「「………」」」」」
誰も異議を唱えない。
「大浦はん」
「はい?」
「ここに芹沢鮎美ってサインして」
「え~……調印書に私が署名するんですか?」
文句を言いつつ麻衣子は偽のサインをする。
「昼間の模擬処刑だって私のパジャマ着せたままするから、みんな誤解して私が大失敗して激怒くらったと思って、変な同情されてるのに。はい、これでいい?」
「おおきに」
鮎美は畑母神と調印書を再確認すると、陸軍のヘリで新屋に福知山市へ届けてもらう。あとは新屋が犯人グループに渡し、由伊と島津を取り戻す予定だった。そして鮎美はフーチンとの会談時刻が迫っているので気合いを入れ直す。
「ふぅ……はぁぁ……よし、行こっ!」
司令室を出て対面通信の準備がされている貴賓室へ向かうため廊下を進んでいると、陽湖と屋城が待っていた。陽湖は借りたパジャマを麻衣子に返して洗濯した制服を着ている。
「これを受け取ってください」
陽湖は頭をさげながら、琵琶湖銀行にある残り2億円弱の預金残高が表示されたスマートフォンを見せている。陽湖のスマートフォンは模擬処刑後に返還されていた。
「おおきに。復興に役立てるわ」
原資が全国の信徒から震災義援にと集められたものなので日本政府の財布に入れてから避難所への支援に使うことに躊躇いは無かったけれど、陽湖が否定する。
「いえ、復興ではなく、あの写真を流出させた私からの損害賠償として受け取ってください」
「賠償金に…………気持ちは……けど、これ、もともと信徒さんからの義援金やろ? あんたが勝手に自分の賠償に使うのは筋がちゃうやろ?」
「信徒のみなさんにも説明して私が一生かけて償います」
「…………」
「お金があることで信仰は狂うのです」
「……まあ、そうやね。あんたの狂いっぷりはすごかったわ」
「お金は悪魔です」
「………また極端な……そういう面もあるけど、通貨が存在せんかったら物々交換になるやろ。害も多いけど人類にとって手放せん必要不可欠な発明品やん。まあ、金本位から紙幣に進化したし、次は電子情報をメインに進化させれば、よりよいかもしれんけど、今のところお金は必要よ、それこそ兵器が必要であるようにね」
「マザー・テレサをご存じですよね」
「まあ、軽く。あんたと違って本物のマザーらしいやん」
「彼女が亡くなったときの資産は日本円換算で48億円だったそうです」
「マジで?! あの人、貧乏人の味方ちゃうん?!」
「彼女も金銭で狂った部分もあるのです。そして、信仰も歪んでいて、貧民が病気に苦しむのを主イエスと同じ苦しみにあると美化し、死を待つ人の家では看取るのみで十分な薬を与えず、本人に承諾無く洗礼を施していました。異教徒へも」
「……狂ったときの、あんたみたいやね……」
「彼女は衰退してきたカトリックが宣伝に使った面も大きいのです。異例に早く聖人にも指定されています。私たちがそれを知っているのはカトリックへの批判として知識にするのですが、ガンジーもまた欲に狂っています」
「そうなん? あの人こそ無欲って感じやけど?」
「彼自身、自分の性欲の強さに悩んでいました」
「そっちの欲か……」
鮎美も金銭欲は自制できるけれど、性欲では多々失敗がある。わかっていても、つい我慢できなくなる。ときに鷹姫にさえ、人が変わったようです、と言われていた。
「彼は13歳で結婚しましたが16歳の頃、父親が死の淵にあるのに、妻を抱いていたと悔いています」
「………」
なんか詩織はんが両親も朝槍先生も死んだのに、元気にエッチしてたんを思い出すわ、うちも似たところあるし、サイコパス要素ありなんかな、母さん死んだのにうちも父さんも切り替え早過ぎたかも、けど、ガンジーは21歳でロンドンで弁護士になって、インド人を令状なしに逮捕投獄できるローラット法に徹底抗戦したんよな、悪法も法とかいうアホな文化に負けんと、そんだけのガッツがある人間って、ある面で強欲なんかも、ガンジーはあとで悔いるだけマシか……でも、男って射精した後は急に性欲が無くなるらしいんよな、女のオルガスムはずっと続いて最高やのに、ちょっと可哀想な性かも、と鮎美が高速で思考しているうちにも陽湖の話も続く。
「晩年にも若い女性を裸ではべらせ周囲が指摘すると、これは修業だ、と反論したそうです」
「……麻原チックやん、その言い訳。うちはガンジーに対する知識は教育漫画で読んだだけやから、そういう方面は当然、カットされてるしなぁ。下手な言い訳せんと、もう素直にヤリたかってんと言えばええやん」
「私も愛也と結ばれて、これほど気持ちのいいことが世界にあるとは思いませんでした」
「よ……よかったやん……おしっこ漏らす趣味は卒業した方がええよ」
「はい、そうします。……いえ、あれも気持ちがいいので、きっと、また私はやってしまいます」
「……まあ……人に迷惑をかけんかったら自由やけど……」
かなり変態的趣味やよ、それ、と鮎美が思っているのは顔に出ていたので陽湖に伝わった。
「はい、私は変態です。もう認めます。それを認めた上で、前に進みます。幸か不幸か、おもらしも飲尿も教義で禁止されていませんから」
「…はは…そうやったね…」
「ラスプーチンはロシアの政治を惑わせ、また性欲の権化だったように言われますが、反面でお金に執着せず気前よく使い、また政治についてもロシアにどうにか戦争することを止めさせようとしていたという見方もあります。性欲が強かったのを否定する見解はないようですが。ロシアの一部ではラスプーチンを民族の平和を守ろうとした聖人と位置づけようという運動もあるくらいに。こう見ると後世の評価って、いい加減で恣意的ですよね。誰しも一つ二つ間違いを犯すし、欲望だってあります。主イエスでさえ、磔にされたとき、わたしの神、わたしの神、なぜわたしをお見捨てになりましたか、と言われています。私も磔にされて、もう死ぬのだと思ったら怖くて怖くて、ただ、それだけでした」
「う~ん……で、あんたの話は何?」
「これからも私は何度も間違いを犯すと思います。今は愛也と結婚して、ただつましく生きられればいいと思っていますけど、また、いつか間違ってしまいます」
「………うん……まあ、そうやって生きていくしかないんちゃう? 間違って反省して。あのテレサでもガンジーでも、つい間違ったんやし。うちも失敗したとこよ。なんとか拉致家族を取り戻しとうて、金正忠に妥協しすぎたわ。人攫いのテロリストに妥協したら、また別の人攫いのテロリストが要求してくる。けど、失敗を悔い続けてもしゃーないし」
「私が反省し続けるために、この2億円を受け取ってください」
「う~ん………」
「あなたを深く傷つけるだけのことをしましたから」
「ほな、この2億弱のうち、200万円は、うちと鷹姫がもらうわ。残りは財務省に入れて復興に使うし、あんたは200万円を信徒さんに詫び入れて分割で返し」
「………それでは少なすぎます、あんなひどい写真を流出させたのに……飛行機の中で撮られた動画も……」
「まあ、うちも流出してたの知ったときはメチャメチャ嫌やったけど、それに対応する時間も無くてほっといたら、あの写真自体が捏造ちゃうかとか、もともと、うちのそっくりさんのエロDVDとかも発売されてるくらいやったし、次々と出てくる世の中の情報に流されて、たいして騒がれんようになってるから」
すでにネット上には鮎美とミクドナルドの性行為が捏造動画であがっていたり、女性政治家だけでなく、金正忠についても独特の髪型が黒電話の受話器に似ているのでイジられた画像があったりするし、鮎美と性交しながら一発で一発やる、と核爆弾を渡していたりする。探せば畑母神と鮎美や、石永と鮎美の性交画像さえ捏造されていて、うんざりするし女性政治家のイジり方はその方向ばかりかと思ってしまう。そうかと思えば石永と金正忠が小さなミサイルを股間につけていてションボリしているのにフーチンと胡錦燈が巨大なミサイルを股間につけて誇っている画像もあって、品のない風刺画になっているし事実の一面を指しているので失笑してしまう。また別の画像では胡錦燈が巨大なミサイルを股間にぶらさげながら、石永の小さなミサイルを許されざる暴挙で巨大な危機と怒っている絵があって笑えた。そしてやっぱりミクドナルドが大人のオモチャとしてミサイルを股間につけて鮎美へ挿入している絵もあった。あまりに色々とあるので流出写真は話題性が低くなっていた。
「きっとカネちゃんが裏で頑張ってくれたんやと思うわ。鷹姫のもそやし。あの動画は解像度が低かったし余計。まあ、精神的な傷つき加減でいうと、うちが30万、鷹姫が170万ってとこかな」
「いえ、私など……」
鷹姫は否定したけれど、まだ傷ついている顔だった。強く恥じている顔が可愛すぎて鮎美は頬へキスしてから言う。
「もらっておき。それでチャラ、忘れて許してあげよ」
「……はい」
「ほな、陽湖ちゃんはこれから、どうする?」
「もしよければ秘書補佐を辞めさせていただき、全国の被災地を回って少しでも人々の役に立ちたいです。一週間ごと、日曜ごとに各地の教会を移動して、与えられたマザーの役割を果たしていきます」
「………ええけど、布教活動はほどほどにな」
「はい。私には償い切れない罪がありますから」
介式に売春を強要したことは二人にも言えないし、謝りようもないので、このまま黙っているつもりだった。ほんの2時間前に前田を訪ね、台湾での祝福による対価で得た日本円で2000万円以上はあった台湾ドル紙幣をすべて渡してきたし、介式の売春による売上も全額渡してきた。せめて前田と結ばれて幸せな家庭を築いてほしいと思っている。陽湖が謝るためにでも他者に言うのは介式をより深く傷つけるし、介式も公表は望んでおらず泣き寝入るしかない女の傷になっていた。そして前田とともに休暇を申請しているので、許可するつもりだった。
「ほなね、陽湖ちゃん、元気でね」
「はい、どうか頑張ってください」
鮎美と陽湖が握手をした。屋城が2枚の卒業証書を差し出してくる。
「お受け取りいただく時間もお忙しそうですから今、渡させていただきます」
「ああ、これな。たしかに卒業やね」
「芹沢鮎美さん、ご卒業おめでとうございます」
「おおきに」
「宮本鷹姫さん、ご卒業おめでとうございます」
「ありがとうございます」
二人とも卒業証書を受け取ると貴賓室へ急いだ。
「芹沢殿」
その途中にも三島が声をかけてくる。法務省関連の確認事項だった。忙しい鮎美は歩きながら三島と会話する。そうして廊下がT字路になっている部分で左側へ曲がったとき、三島は不審な兵士に気づいた。
「…」
陸軍の制服を着ているけれど、目が違う。護衛のゲイツたちは気づいていないが、三島は自身もクーデターを画策した経験があるので、たとえ制服が同じでも意志が違う人間を嗅ぎ分けることができた。反射的に鮎美を庇う。その勘は当たっていて、兵士は拳銃を向けて撃ってきた。
パンッ!
一発目は三島の胸に当たった。
パンッ! パンッ!
二発目三発目は三島を庇う田守に当たる。一瞬遅れでゲイツが防御と反撃に回る。ゲイツは小銃を装備しているので勝敗は明らかだった。だから鷹姫は暗殺者がいた反対側、後方を振り返る。介式と知念に教えられた襲撃者が一人とは限らないということを覚えていて、場の空気が前方への注意に集中している中、後ろを振り向くことができた。
「…」
鷹姫は後方から接近し拳銃を鮎美へ向けようとしている者へ、田守の日本刀へ手を伸ばして抜き、斬りつけた。
ザンッ!
一刀両断に襲撃者の拳銃を構えた両手首を切断し、剣道の胴を打つ形で腹を斬り、まだ油断せず、さらに次の敵を見つけた。次の襲撃者も同じく陸軍の制服を着ているけれど、もう敵意は明らかだった。鷹姫との距離は2メートル、すでに鮎美はゲイツに囲まれていて敵は鷹姫を殺すことに目標を切り替えた。同じ学生服姿ということもあるし、鷹姫を殺せば鮎美へダメージを与えられるという計算もしている。拳銃の銃口が正確に鷹姫の額を狙ってくる。そして撃たれる。
パンッ!
引き金を引かれたとき、鷹姫は気を感じた。剣道で面を打たれるとき、やはり相手の気を感じる、それと同じに額を狙われていると気で感じ、感じたときにはもう身体が動いていた。
ビッ…
剣道で面を打たれず一本取られないよう首を横へ曲げて頭部だけで避けるのと同様に動いていた。おかげで発射された弾丸は鷹姫の右耳をかすっただけ済む。鷹姫の血と髪が飛ぶ。
「たァッ!!」
裂帛の気合いとともに鷹姫は相手へ面を打っていた。竹刀でなく日本刀だったので刃は深く食い込み、脳を両断していた。
「……」
鷹姫は日本刀を抜くため相手の顔を蹴りながら、他に襲撃者がいないか探した。銃声を聴いた他の兵士たちが駆けてくるので見分けにくい。敵味方を識別するはずの制服が偽装のためにアダとなり、誰が敵かわからない。そして鷹姫は血のついた日本刀を構えていて足元には陸軍制服の死体が転がっているので駆けつけようとした兵士も困惑する。ゲイツたちも鮎美を守るため、味方兵へ銃口を向けざるをえなくなる。もう敵はいないのか、本当に3人で終わりかわからない。高木が号令する。
「ゲイツ以外は、こちらに近づくな!! ゲイツ、このまま円陣で総理を庇いつつ貴賓室へ入る!! 宮本さんも囲め!!」
「「「「「はっ!」」」」」
「三島大臣と田守さんが負傷している! 医官を呼べ!!」
高木は鮎美を最優先して防御陣のまま貴賓室に入った。鮎美は自分への襲撃には慣れていたけれど、三島と田守、そして鷹姫が心配だった。幸いにして鷹姫の傷は浅い。けれど、耳の一部が削りとられてしまっている。
「鷹姫……うちのために、また…」
「これしきの傷、どうということはありません。それより三島法務大臣の方は……」
鷹姫も三島と田守が心配だった。借りた日本刀の持ち主は2発も被弾しているし、三島は気合いも心も男であるけれど、身体は女だった。鷹姫の傷を診に来た桧田川が二人の容態を報告してくれる。
「三島さんは弾丸が肋骨で止まってるから大丈夫よ。やたら大胸筋が立派だったおかげね。普通に会話してたよ、かなり我慢強い人」
三島は思春期に女性として発達していく乳房を消そうと、胸筋へのトレーニングを重ねていた。本人の思惑とは裏腹にかえって乳房が目立つ結果になったけれど、今回はその乳房と大胸筋が拳銃弾の威力を弱め、肋骨が折られただけで止まっていた。
「田守はんは?」
「肩とお腹を撃たれてるけど、彼も鍛えた身体で筋肉が厚かったし、大きな動脈も無事だったから、入院1ヶ月ってとこかな」
「よかったぁ……」
安堵する鮎美へ鷹姫が言う。
「はい。不幸中の幸いです。そろそろフーチン大統領との会談の時刻です。その前に、お茶を淹れます」
鷹姫も耳の痛みを我慢している。今は16名のゲイツが室内にいて鮎美を守っているけれど、二人の精神力と切り替えの速さに内心で驚いている。麻衣子の方がショックを受けて医務室へ行っているくらいだった。鷹姫がティーカップを鮎美の前に置く。
「どうぞ」
「おおきに。って、それより傷を診てもらいよ。桧田川先生、お願いします」
「はいは~い、天使のように無料で診てあげよう♪ 参与の給料に含まれてると思って。でも、参与の給料もまだ不明だけど」
桧田川が鷹姫の耳を診る。
「う~ん……」
「どうですか? 治りますか?」
「命に別状は無いよ」
「……そんなことはわかりますって、元通り完璧に治ります?」
「無理」
「…………なんでよ? 治してくださいよ。給料もそろそろ決まりますから。あ、自由診療が必要なら何百万でも払いますし」
「お金の問題じゃなくてね、技術的に難しいの。ほら、よく傷を見て」
鷹姫の耳は上3分の1部分に弾丸が当たり親指の先ほどの面積で削り取られていた。
「耳って形が複雑でしょ。これは耳介軟骨が形成してるんだけど、これの再生医療はまだ京都大学で研究中だし軟骨だけできても皮膚の再生も難しいし、ヘタすると肉芽が増殖してボコボコと変に膨れるの。ほら、格闘家とかで見たことない? ボコボコの餃子みたいになってる耳」
「「あります」」
鷹姫も鮎美も知っていたし、この場にいるゲイツの中にも格闘好きでそうなっている者がいる。
「再生力はあるんだけど、形をキレイに復活させるのは今の技術じゃ無理なの。だから、もう血も止まってるし、縫ったらこのまま自然に任せるしかないの。ごめんね、私に出せるのは痛み止め薬と抗生物質くらい。耳は欠けたまま、このまま傷が塞がるの」
「そんな……」
「芹沢総理、どうか気にしないでください。名誉の負傷です」
「けど……鷹姫かって、いつかは嫁に…」
「いいえ、あなたにお仕えしていくのが、もはや唯一重大な役割であると心に刻んでおります。私が無性愛者に生まれたのもそういう運命かもしれません。この身を尽くしてお仕えでき、これに勝る幸福はありません」
「鷹姫…………」
「宮本さんの可愛い顔は無事だし、ちょこっと耳が欠けてるくらい男も気にしないよ。髪で隠れるし。逆にレズビアンとしては、どうなの? 傷物になると興味を失う?」
「そんなことあるわけないやん! 鷹姫は最高に可愛いよ!」
「ほらね」
「………」
「芹沢総理、どうか気持ちを沈めてください。間もなく国運をかけた会談です。私の傷など些事中の些事、どうかお役目に専念してください」
「……うん、鷹姫の気持ちに応えるわ」
鮎美は深呼吸し冷めかけた紅茶を飲んだ。会談時刻となり外務省の通訳や鈴木とともにカメラとモニターに向かった。フーチンが液晶モニターに映り、鮎美が頭をさげ挨拶する。
「こんばんは、フーチン大統領。いえ、そちらはまだ、こんにちはの時間でしょうか」
「いや、こんばんは、だよ、アユミ。私はウラジオストクにいるからね。カムチャツカの津波被害もあるし、君たち日麗朝仲が色々と騒がしいのでモスクワでは遠すぎるから」
「色々とご心配をおかけしております。また夜分遅くに時間をとっていただき、ありがとうございます」
「気にするな、まだ身体はモスクワ時間なのでね。私のことより、そちらは大変だな、プリンセスが人質に取られ、さきほどスズキから聴いたがアユミも襲われたらしいな。襟に血がついているぞ」
「え…」
皆がドタバタとしていて鮎美の襟に血がついていることにさえ気づいていなかった。三島か鷹姫の血だと思われる。
「すみません。不調法で」
「いや、相当に忙しいのだろう。会談のキャンセルもありえるかと思っていた。今すぐキャンセルしても怒ったりしないが?」
「お気遣いありがとうございます。今のところ大丈夫です」
「そうか、では、本題に入ってくれたまえ」
鮎美から申し込んだ会談なのでフーチンは提案を促してくれた。
「はい、今後、私たち日本と防御的な対等な軍事同盟を結んでもらえませんか? また、経済面、とくに工業面での協力関係を築いていきたいと願っています」
「ふむ。アユミのいう防御的な対等な同盟とは?」
「双方がいずれかの国から攻撃を受けたとき、もう片方は協力して戦う。けれど、竹島、対馬、尖閣諸島の問題は日本が単独で対処します」
「………」
フーチンが黙って考え込む。
「アユミ、それはずいぶんと日本にばかり都合がいい同盟だな。我々ロシアに脅威はない。それにアユミはN友の会だとかいうアメリカ女のパーティーに参加したのではなかったか?」
「あれは核の傘のみの軍事というより商業性の強い同盟です。それにアメリカとの同盟がアテにならないのは学んだばかりのことですから」
フーチンが失笑する。
「クスっ…たしかに。では、アユミの言うとおりにすると、日本は核の傘を二重にかぶることになるが? 露米との重婚同盟とはまたイタリア娘より奔放ではないか?」
「なにしろ人類史上、もっとも核攻撃を受けた民族ですので傘が1本では不安なのです。それに傘の持ち手を握っているわけではないですから」
「たしかにな。だが、小さな傘を手に入れたろう? 隣人に狙われているようだが」
「あれは間もなく隣人の手に渡ります」
「………大胆だな。対馬からも本当に引き上げているようだが……」
フーチンが眉をあげて腕組みする。鮎美は姿勢を崩さず声のトーンもそのままに言う。
「やむをえない判断です」
「なるほど、すべての要求を飲むのだから、プリンセスは解放されるはずだし、私と会談している時間もあるというわけか」
「はい、その件については、そうです」
「では、対等な同盟が日本にばかり有利だという件は、どうだろう?」
「その件について、こちらが提供できるものを記した手紙があるのですが、ウラジオストクまで戦闘機を飛ばしてもよいでしょうか?」
「手堅く情報を守るのだな、そのうえ迅速を心がけるか、そういうところは好きだよ。同性愛者は嫌いだが」
「かつてアメリカのペリーが砲艦で不平等な通商を日本へ迫る60年前、ロシアの優れた統治者エカチェリーナ2世は漂流日本人だった大黒屋光太夫(だいこくやこうだゆう)の帰国を許すとともにアダム・ラクスマンを使わし、日本へ丁寧な形で通商を申し込んだそうです。これを受け入れられなかったことが今から見ると残念ですが二世紀ばかり遅くなったものの、ロシアと日本は良い関係を築けると期待しています。私の性的指向とは関係なく」
鮎美は鷹姫との会話でえた知識を使った。フーチンが片方の口角だけをあげて微笑する。
「フ、いいだろう。手紙を読もう。伝書鳩を飛ばせ」
「ありがとうございます」
一旦、会談は終了となり鮎美は内線電話で畑母神に頼む。すでに滑走路で待機していたF15に搭乗している里華は司令室からの通信を受けると、胸ポケットにある手紙を手袋の先で叩いて存在を再確認し、離陸する。今回は増槽だけの非武装でのフライトだったけれど、いきなりロシア軍が攻撃してくるかもしれないという不安はない。たかが1機の戦闘機を騙し討ちで落として戦功を誇るような国ではないと畑母神も里華も感じている。不安なのは真っ暗闇の中、初めての他国空港に着陸することだったけれど、それは滝橋がこなしてくれた。里華がF15からおりるとロシアの政府専用車が滑走路まで来ていて、それに乗った。日本語ができるスーツ姿のロシア人公務員が言ってくる。
「ようこそ、ウラジオストクへ。これから移動しますが、あまり窓の外を見ないでください。どのみち夜で街並みも鑑賞できませんが」
「はい」
やはりフーチンの所在はできれば隠したいようで里華もスパイではないので言われた通り視線を落としておく。分厚い目隠しをされるよりはずっとマシだったし、少なくともロシアは急に里華を拉致監禁したりはしないだろうし、もし鮎美からの提案が気に入らなくても冷笑するだけで里華を処刑したりはしないと感じているので不安は少ない。むしろ里華には現状で鮎美の方が危険な独裁者に感じるくらいだった。ふと麻袋をかけられて処刑台に磔られた陽湖の姿を思い出した。あのときは食堂でテレビを見ていたけれど、みな麻衣子のパジャマだと知っていたので、いったい麻衣子は何をして鮎美に激怒されているのだろうと男性たちはその話題で持ちきりだった。そんなくだらないことを考えていると、どこかの地下駐車場に着いた。
「おりてください」
「はい」
雰囲気からして、どこかのホテルの地下駐車場のようだった。
「こちらです」
案内されてエレベーターの方へ進むと、同じ女性なのかと思うほど大柄で屈強なロシア人女性がいてスーツ姿だった。
「身体検査をします」
日本語ができる公務員がいい、ロシア人女性は何かロシア語で挨拶くらいはしてくれた感じだったけれど意味がわからないので、こんばんは、とだけ言って里華は両手をあげた。身体検査は入念だったけれど女性の手なので不快とは思わないし、レントゲン検査は無かった。エレベーターに乗って最上階付近の階でおりると、やっぱりホテルだった。エレベーターをおりたところにボーイがいて出入りをチェックしているようだったけれど、ロシア人公務員といっしょなのでフリーパスで進み、明らかにスイートルームという部屋に案内された。入室すると応接間があり、そこにフーチンがいた。ソファに座っているフーチンへ敬礼する。
「日本空軍中尉、石原里華であります」
里華が言ったことを公務員が訳してくれるし、フーチンの言葉も訳してくれる。
「こんばんは。女性パイロットかね?」
「はい!」
「アユミのお気に入りというわけかな?」
「……いえ、違います」
一瞬、里華は不快そうな顔をしたのでフーチンが気づいてくる。
「失礼。あなたは同性愛者ではないのだね」
「はい!」
「日本では同性愛者が増えているのだろうか?」
「いえ! 最近、表立って表明する者が増えただけで、ほとんどは男性は女性を、女性は男性を……その……愛する……という……健全な人が多いです」
言っている途中で里華が恥ずかしくなって赤面したのでフーチンは軽く笑った。
「すまない。つい気になって余計なことを訊いた。手紙をもらおうか」
「はい、こちらです」
里華が両手で手紙を差し出すと、片手で受け取ったフーチンは自ら開封して読み始める。日本語とロシア語訳がついていた。
親愛なるロシア大統領ドミトリー・フーチンさんへ
お時間をいただき、ありがとうございます。
本題ですが、ご存じの通り日本は津波により工業地帯が大きなダメージを受けています。幸いにして沖縄沖海戦では辛勝しましたが、数年以内に工業を復活させなければ10年後の戦力に大きな不安が生じます。
そこでロシアにお願いしたいのは工業の復活へのご協力と軍事同盟です。
これに対する見返りは、
1日本の潜水艦および対潜水艦捜索戦の技術提供
2ロシアと日本による迎撃ミサイルの共同開発
3ロシアと日本による戦闘機の共同開発
4太平洋における海底資源の共同開発と日本からの技術提供
5今回の大震災と巨大津波によって、無主の土地となった南太平洋の島々をロシアと日本が共同統治し50年後に平等に分割すること
手紙を読んでいる途中でフーチンは息をついた。
「ほォォ…」
沖縄沖海戦での日本海軍による潜水艦戦は、まだまだ分析中だったけれど強く注目しているし、さらに北朝鮮からの核ミサイルを2発迎撃した対ミサイル防衛技術は奪ってでも欲しかった。そしてF35は開発が長引き、いまだアメリカ空軍にも納入されておらず初期作戦能力の獲得には、まだ数年を要する見込みだったので今回の大震災で頓挫する可能性も高い。さらに日本の海底掘削技術も魅力的だったし、なにより世界の誰もが大震災の被害に目を向けている中、南太平洋の島々は確かに無人になっているし、不幸にして国家ごと消失しているところもある。アメリカが引き籠もり戦略に舵を切った今、太平洋に進出する大チャンスだった。これをロシア単独でやると国際社会からの批難も大きいし、いずれ仲国と日本、オーストラリアあたりとも衝突していくことになる。そのときロシアは補給線の長さが軛になる。けれど、日本が協力してくれるなら話は大きく変わる。
「……南太平洋……」
フーチンの脳裏に温暖な海洋と島々が去来した。野心的な興奮で白い頬が赤くなる。ロシア人にとって北海道より北にある択捉でさえ南の島だった。夏には日光浴を求めて観光客が行き来している。南太平洋へのリゾートではフランス領ポリネシア、とくにタヒチが有名だけれど、やはりフランス人に間借りしている感じがする。けれど、侵略戦争も要さない、まったく無人になった島なら再び大航海時代が来たのと同じに早い者勝ちになる。今すぐにでも出航させたくなった。
「アユミの目が見ているところは………先の先なのだな……」
フーチンは手紙の続きを読み始める。
海底資源の共同開発について、その利益は日本の排他的経済水域内では日本8:ロシア2でお願いします。新たに取得できた権益圏は5:5でお願いします。
また、ロシアが太平洋に出るための基地として馬毛島および沖ノ鳥島に日本軍と共同の基地を置いてください。沖ノ鳥島については埋め立てによる拡大を共同でおこないたいと考えています。そして軍事同盟が対等であることを内外に示すため、ロシア国内のどこかに同規模の基地を置かせてください。希望としてはバイカル湖付近と黒海付近です。これらの基地における地位協定は内容を対等とし、とくに所属する兵士もしくは要員等が、相手方の兵士や要員、現地民間人へ強姦等の犯罪をおこなったときは、被害者側に裁判権がある形でお願いします。また双方いずれかで犯罪が重なる場合は、派遣する者全員の頭髪および指紋を相互に共有する形でお願いします。その他、すべての内容で対等な友人関係として末永くお願いします。
くわえて、この同盟成立を承諾いただき今日明日にも公表したいのですが、その直後に種子島より使用済み核燃料を搭載したロケットを尖閣諸島へ撃ち込みます。これは日本国内における核実験という名目ですが、狙いは占拠されたままとなっている尖閣諸島を10万年ほど棚上げとするためです。
お騒がせしますが、よろしくお願いします。日本国総理大臣 芹沢鮎美
読み終わったフーチンは深く考え込む。
「……………」
いくつか疑問はあるし、それを手紙で問うより鮎美へ直接に問いたい。フーチンは通信回線の防諜対策強化を命じてから、鮎美へ対面通信をおこなった。
「やあ、アユミ、いただいた手紙は読んだよ」
「ありがとうございます」
「この通信は防諜性を高めた。とはいえ、ぼやかして話すこととしよう。まず4の割合にある8:2だが、7:3で、どうだろう?」
「………ギリギリ、あまり安売りするとあとあと私が失脚しますから、ギリギリ7:3を受諾します」
「うむ。他にアユミはバイカル湖と黒海に、どういう興味があるのだろう?」
「主な狙いは対等さの強調です。定めていく協定についても、お互い様となるはずですから。またバイカル湖には世界でも珍しい湖に浮かぶ有人島であるオリホン島があり個人的な興味があると同時に仲国への牽制です。効果の狙いは馬毛島と同じです」
「たしかに位置的にはそうだな。それに変わったところに着目するものだな。湖に浮かぶ有人島か……ああ、そういえば、アユミはビワコという日本最大の湖の島に住んでいたな?」
「はい。あと、日本にばかり有利な同盟とおっしゃいましたが長期的に見て、日露で仲国を抑えていくのは双方の国益にかなうと思います」
「フ、でなければ私がここまでの話を聴くはずもないからな。だが、黒海は? 仲国と遠いぞ」
「いずれ日本が落ち着けば、逆にヨーロッパで大きな災害が起こるかもしれません。そのとき、私たちも同じですが、どうしても隣国や周辺国とは仲が悪かったりして軍組織による救援というのは受け入れにくいものですが、私たちがイスラエルに助けていただいたように遠い国というのは野心を感じず受け入れやすいものです。こういう助け合いの形が世界のスタンダードになっていけばよいかと考えるからです。したがって対等と言いましたが黒海付近に基地を置く場合、戦車やミサイルなど制圧性の高い兵器は配置しない予定です。いずれ軍の仕事は災害救援が主になれば人類にとって幸いかと思いますから」
「……そんな先のことを考えるのか……、アユミ、お前は、どこまで先を見ている? お前が世界を導くなら、どこへ導きたい? 単純なロシア日本による覇権ではあるまい。これまでの発言を見ていると、社会主義を思わせるが資本競争を否定していない。お前は、どこを見ている?」
「目指すところとしては、やはり紛争は武力でなく裁判と武力牽制で落着してほしいと考えています。現状、国際司法裁判所はハーグにありますが、やはり西欧よりです。アジアにはアジア、アフリカにはアフリカ、南アメリカには南アメリカと、それぞれに物事の落着のさせ方、思想信条があるのですから、それぞれの地域に合った国際裁判所が、より敷居が低く窓口を設け、国際的な企業と企業、企業と国、個人、これらの争いの落着と、そもそも契約時や条約締結時に自分にだけ有利な裁判所を専属裁判所とするのでなく、公平な裁判が見込める国際裁判所を指定しておくのが標準となってほしいと考えています。すくなくとも、とくにアメリカ企業のようにたいてい契約書の最後にカルフォルニア裁判所を専属としておいて自分にだけ有利なようにもっていく国際標準は消し去りたいと」
「それぞれの地域の国際裁判所か………まあ、アユミが生きているうちには実現するかもしれないな……私が見ることはない光景だろう」
「同盟の方、どうでしょう、お願いできますか?」
「あと一つ問いたい」
「はい」
「アユミは北方四島のことを一言も書かなかった。なぜだ?」
「単なる棚上げです」
「2島なりとねだろうと思わなかったのか? 金正忠には、うまく頼んだようではないか? まさか、ロケット砲で核兵器を買うとはな。わらしべ長者のようだ」
「……わらしべ長者って……よくそんな日本のお話をご存じですね? 柔道の達人なのは鈴木先生から聞きましたけど」
「以前に日本の柔道家と雑談しているときに聞いたのだよ」
「そうですか。まあ、キムやん、いえ、金正忠はんには他にも密約があるので、わらしべ長者ほどではないですよ」
鮎美はやっぱり常に衛星などで監視していて小型のロケット砲の運搬までわかるのだと実感しつつ続ける。
「現在、日本軍の戦力は半減しています。回復の見込みも遠いです。もともと核保有を考えてもロシアが圧倒的に有利です。そういうときに領土返還をお願いしても、また別のところで大きな譲歩が生じますし、日ソ共同宣言のまま、今回は棚上げがベストかと思っています」
「いずれ取り返したいと思うかな?」
「………」
鮎美が考え込む。長く考え込んだのでフーチンがせかしてきた。
「北方四島についてのアユミの見解を聴いてみたいものだ」
「はい……見解……公人としては棚上げが現状でベストですが、個人的な見解としては、千島列島、樺太、そして北海道も含めて、もともと日本人のものでもロシア人のものでもなくアイヌ人のものやったはずです。それを300年ほど前から日本とロシアで取り合いしていくうちに樺太を雑居地として両方のものとしたり、樺太と千島を交換したり、ごちゃごちゃと争い合っただけで、これからも争い続けていくのかそのうち話し合いで解決つくのか、また300年ほどかけて考えればよいかな、と思っています。なるべく血を流さないように」
「では300年といわず同盟の条件に日本側の四島放棄を盛り込むのは、どうだ? 解決がつくぞ」
フーチンが仕掛けてきた攻撃を鮎美は予想していたので慌てない。
「それを盛り込めば私は国民の支持を失い、すぐに失脚するでしょう。となれば、他の条項も流れます。現状、実行支配しているロシアがわざわざ形式を求めて、他の実利を見逃すことはないと考えます」
「なるほど、それで棚上げか。いっそ尖閣諸島のように使用済み核燃料を撃ち込んでやろうと思わないのか?」
「いえいえ、それ、同盟話が破綻しますやん。おまけに、四島には人も住んではるし」
「うむ。だが、尖閣諸島にも固有種もいた。人間は住んでいなくとも、それなりの生態系はあるのに撃ち込むのかね?」
「……意外と優しいんですね……うちの方が冷たいのかも……」
「生態系のことは、どう考えて結論したのだ?」
「はい、日本の事故原発にせよ、チェリノブイリにせよ、離島ではなく生物の入れ替わりがある開けた生態系ですけど、尖閣諸島は閉じてます。こういうところで長期に放射能汚染があったとき、生物がどう進化して放射線に対して耐性をつけたりするのか、そういう超長期の実験ができると思えば、死んでしまう生き物には悪いけど、いずれ人類が宇宙で長期を過ごす場合にも放射線の影響は無視できないので、人類全体にとっての意味はあると考えました」
「そうか……閉じた生態系での放射線耐性の獲得実験か……色々なことを考えるものだ。女帝エカチェリーナ2世の名を出した後に女中尉など送ってくるから、私も色々な想像をして余計な質問をイシハラにしてしまったよ」
「…………」
鮎美は意味がわからず黙ってしまう。フーチンが鮎美のエカチェリーナ2世への知識が少ないことに気づいた。
「知らないようだな。あの女帝は愛人が何十人もいたという。孫に玉座の上の娼婦と評されるほどにな。むろん、同性愛者ではないから男の愛人がな。そしてアダム・ラクスマンは江戸幕府へ派遣されたとき中尉だった。それで、私はイシハラがアユミの愛人ではないかと余計なことを考えたのだよ」
「それは……不勉強でした……」
鮎美に知識を与えた鷹姫も覚えていないことだった。もともと鷹姫は日本史に興味を抱くので大黒屋光太夫の幕府での扱いや人生は覚えても、ロシア側の人物については知識が浅くなるし、とくに歴史人物であれ現代の著名人であれ他人の性生活には興味を抱かない。鷹姫は生半可なことを教えていたことを詫びるように被写界の外で頭をさげているけれど、鮎美は冷静に言っておく。
「石原はんとは、ただの友人であるのと仕事上の関係のみです」
「そのようだな」
「後世、色々と言われるにせよ、エカチェリーナ2世は優秀な人だったのではないですか?」
「偉大な先人ではあるな。男勝りの活力も羨ましいかもしれない」
「はは…私は性生活は性生活、仕事は仕事、別々に評価すべきだと思います」
「だから同性愛者が日本の代表であっても関係ない、か?」
「はい」
「……………」
フーチンが考え込む。もう鮎美の性的指向などどうでもよくロシアの国益を考えている顔だった。そして現状で逆にロシアが仲国についた場合、当然に日本は徹底抗戦するし、そのためのロケット砲やスティンガーを鮎美はそろえている。日本を敵に回すのは痛手が大きく、旨味が少ない。日本と手を組めば、仲国を抑え込めるし太平洋に出られる上、技術的な面も魅力だった。今は戦力を減らしているとはいえ、歴史上もっとも海戦経験が豊富な軍隊といってもいい、これからの戦略にとくに潜水艦戦の経験は大きかった。
「フーチン大統領、同盟とご協力、お願いします」
鮎美が畳みかけて頼むと、フーチンは頷いた。
「いいだろう。こちらの担当と鈴木に話を詰めさせ、日本時間13時には公表しよう。ついつい尖閣諸島への作戦を話してしまった。聴かれていないとは思うが、ロケット発射準備を急ぐといい」
「ありがとうございます」
「遅くなったが、よい眠りを」
「はい、お互いに」
通信を終えると、鮎美はぐったりと椅子に崩れた。鷹姫が労ってくれる。
「お疲れ様です」
二人とも睡眠時間としては海岸での死刑執行のあとに、広島県警職員の処分が甘くなることの謝罪と公務員への津波後拾得物横領などの自首を促す動画を収録してから、フーチンとの会談にそなえて仮眠していたので夕食時に由伊が襲撃されたという急報で起こされるまでは眠れていたため問題ない。とはいえ、やはり国家の命運と未来をかけて大国の代表と会談するのは1分で通常業務の1時間分は疲れる。今は緊張が解け、脳もとろけそうだった。
「うん……めちゃ疲れたわ……」
鮎美は手足を投げ出しダラリと首も垂れている。これまでで一番緊張した人間と人間との交渉だった。鷹姫が申し訳なさそうに言ってくる。
「会談中に陛下から、お電話が入っておりました。お疲れかもしれませんが、陛下からのお電話への折り返しが遅くなるのは畏れ多きことです。ご対応、大丈夫でしょうか?」
「……んっ…」
鮎美が両腕を広げて顔をあげ、両目を閉じた。あまり空気が読めない鷹姫でも何度も鮎美とキスしたので理解できる。応えて鮎美へキスをして抱きしめた。鮎美の求めに30秒ほど応じてから頼む。
「陛下をお待たせするのはよくないです。お電話してください」
「用件、聴いてる?」
「はい、由伊様と島津殿が無事に解放されたそうです。おそらくはそれについてのお言葉かと」
「ほな、朗報やし、対応もいらんやん。もうちょっと」
「…………」
鷹姫は制服を脱がしてくる鮎美の手を握って止めた。
「陛下へのお電話をしてくだされば、あとはお望みのままにいたしますから、お願いします」
「………約束よ」
鮎美は鷹姫へ小指をからめてからスマートフォンを受け取り、義仁に電話する。
「もしもし、うちです」
「鮎美さん、ありがとう。由伊を無事に助けてくれて。そして島津も」
「いえ、やれるだけのことをしたまでのことです」
「けれど、対馬の人々には気の毒なことになってしまった……家も無くし……由伊のために………」
「それもそれなりの対応をいたしますので、ご安心ください」
「うん、ありがとう。ただ北朝鮮からの核兵器があったということの報告を私は受けていなかった………どういうことなのだろうか?」
「はい、すみません。様々な事情があってのことで、すぐに報告するつもりでしたが、この電話も盗聴されていないとも限りません。いずれ、お会いして報告いたします」
「そう願いたい。……明日にでも会えないだろうか? 由伊のことの礼もあらためて述べておきたい」
「明日ですか……」
鮎美が迷う。絶対に外せない用件は今のところないけれど暇ではない。とはいえ自分を罷免できる義仁への報告も重要だったし、フーチンとの会談内容も電話では報告できない。そしてそばにいる鷹姫は、断らずに会ってください、という思念を送ってきている。
「予定は未定な部分が多いのですが、お会いできるよう鷹姫に調整させます」
「ありがとう。本当に重ね重ね」
「いえ、もったいないことです」
「……やはり、言っておきたい」
「はい?」
「私は、あなたが好きだ。恋しく想っています」
「………」
「すまない。こんなときに迷惑だろうし……あなたの性質も知っているけれど……どうにも、あなたのことばかり考えてしまうのです」
「…いえ……もったいないことです……」
「………愚かなことを言ってしまった……」
「いえ、人として、その気持ちが一番強いものですから、そう自分を責めないでください」
「ありがとう」
「…………さきほどの、お言葉、やはり私と………結婚ということも考えての、お言葉なのでしょうか?」
「そうでなければ不誠実でしょう」
「……………ありがとうございます……」
「あなたはその性質で今まで多くの男を袖にしてきたのでしょうね。まるで、かぐや姫のように」
「…はは…、そんな優美な人とちゃいますよ………ただの同性愛者です」
「私も官軍を率いてでも、あなたを居留まらせたいほど、胸が騒ぐのです」
「…………どうも…おおきに…」
「明日、会えるのを楽しみにしています」
「はい。では、陛下も、ごゆっくりお休みなさいませ」
「うん、今、由伊が到着したようだ。電話を切ります」
「はい」
鮎美はスマートフォンを置き、タメ息とともに考え込む。
「はぁぁ……」
「陛下のお気持ちは固いようです!」
「…………」
ここにも盗聴してるもんがおった、と鮎美は興奮気味の鷹姫を困った目で見る。上下関係を重んじる性格なのも個性なのでいいとは思うし、自分の出世を望んでくれるのも嬉しく感じる部分もある。けれど、いよいよ総理大臣という地位から、さらに天皇との結婚というサクセスストーリーまで夢を求められると、かなり困惑する。位人臣を極めるという古典的な夢に熱く焦がれてくれているようで、可愛いと想うと同時に困りもする。
「…………」
「ここまで想われて袖にすることなど、それこそ月の住人でなければありえぬことです」
「…………」
総理大臣という地位でさえ最高峰といえば最高峰な上に窮屈でもある。さらに皇后ともなれば、その窮屈さは想像にあまりある。そもそも自分は完全な同性愛者であってバイの傾向は一切ないし、男性へ嫌悪感を覚えることはなくても、ときめきや欲望もまた感じない。たった18歳で総理大臣となった自分の将来は、とりあえずは明日、また範条の一部を公布して総理大臣には長めの任期を定めて政治的安定をはかると同時に政治的腐敗をさけるため再任は不可とする予定なので、その後の人生は未定だけれど男と結婚して子作りという未来は描きにくい。できれば、ずっと鷹姫といっしょにいたかった。
「鷹姫、まずは約束よ」
「はい、どうぞ」
鷹姫は身を捧げてくれる。処女膜だけは残しているけれど、あとは鮎美の欲望のまま昨夜も裸にしてベッドに押し倒している。貴賓室には麻衣子は非番でおらず、外務省関係者も会談が終わったので退室しているけれど、ゲイツが8名もいて完全武装で二人を見守ってくれている。部屋の四方八方に立っていて二人が性行為を始めても退室しない。ドアの外にも8名が守りを固めている。さきほど鮎美を襲った3名のうち1名は陸軍の正式な兵士であり、他2名を手引きして基地へ潜入させたと判明しているので、警戒レベルは最高度になっていた。鮎美と鷹姫はゲイツの視線は気にせず、そしてゲイツたちも女性同性愛の行為を見ても、ごゆっくり、としか思わない。
「鷹姫、上着を脱がせるよ」
「……はい…、ですが、今日は入浴してからにしませんか?」
鷹姫は自分の匂いが気になって言った。以前はまったく気にしなかったけれど、大人の女性として恥ずかしくないようにと腋を剃り制汗スプレーを使うようになると、汗の匂いがすることがとても恥ずかしいことだと認識するようになっている。おもらしを恥ずかしがりもせずに小学校高学年までしていた鷹姫が今では絶対に嫌だと感じているように、腋の毛と匂いを強く恥じるようになっていた。
「ううん、このまま」
「……ですが……今日は……いろいろと…ありまして……汗もかきましたから…」
日付は変わっているけれど、昨日は朝から忙しくて法廷に立ったり、さらには自分の手で小銃を撃ち死刑執行もした上、仮眠はしたものの入浴はしていない。さらに由伊が人質にされた事件では引き替えに対馬を要求され嫌な汗もたっぷりかいた。そして数瞬で終わったとはいえ鮎美の命を狙った者を日本刀で二人斬り伏せている。フーチンとの会談もそばで見ているだけで強く緊張するものだった。おかげで制服の上着を脱がされるとブラウスを着ていても、はっきりと匂う。鮎美は鷹姫へ腋を剃ってもいいけれど、制汗スプレーは使わないでほしいと注文してくるので時間が経つと相応に匂ってしまい、今日一日の緊張と多忙さは今までにないほど匂いを強くしている。鷹姫はブラウスの上から右腋を左手で、左腋を右手で押さえ、恥じらって背を丸くする。鮎美は目を輝かせ、鷹姫の恥じらう姿も匂いも楽しむ。
「鷹姫、右腕をあげて」
「……ですが…」
「お望みのままにしてくれるんちゃうの?」
「………では……ですが……いえ……ど、…どうぞ…」
顔を真っ赤にしながら鷹姫が右腕をあげた。その腋に鮎美は鼻をあてブラウス越しに嗅ぐ。タンポポの根とチーズのような匂いがした。同時に鮎美は自分の匂いも感じた。鮎美も裁判や死刑、収録、由伊そして自分への襲撃、フーチンとの会談と多忙だったので汗臭い。
「うちは先にお風呂入るわ」
「はい、ごいっしょします」
「ううん、鷹姫は入ったらあかんよ。桧田川先生が今日は入浴はさけた方がいいって言うてたやん」
「…はい…そうでした…」
耳の傷のために入浴停止を指導されているのを思い出した。
「鷹姫、背中を流して」
「はい!」
素直に入浴を手伝ってくれた。鮎美はさっぱりと自分の匂いを流して、より鷹姫の匂いだけを濃厚に感じられるようになり、そして鷹姫は衣服のまま入浴介助したので汗ばんだ。
「フフ、鷹姫の匂い、さっきよりすごいよ」
「っ……お…お意地が悪うございます…」
「く~っ! めっちゃ可愛い!」
鮎美が大興奮で鷹姫に抱きつく。何度も匂いを嗅ぎながら、恥じらう鷹姫をゆっくり脱がせ、そして腋を舐める。濃い塩味がして鮎美は血が滾る。疲労も吹き飛んだ。
「鷹姫がいてくれるから、うちは頑張れるのよ」
「はい、これからも、ずっとおそばにおります」
鮎美の総理大臣としての忙しすぎる日々と重すぎる責任、多発しすぎる事態や事件に、それでも精神力を保っていられるのは、鷹姫の存在が大きかった。さきほど死を間近に感じたことも、より生の衝動を強くしている気がする。鷹姫にしても同性愛の指向はないけれど異性愛の指向もなく、ただ鮎美に仕えたいという気持ちは強いので、まるで武将と小姓が衆道に浸るような心地で受け入れている。はからずも深夜であり、由伊が襲撃された事件もフーチンとの会談も終了し、つかの間、鮎美は癒やしを受けることができる。鷹姫の乳首を吸いながら、ショーツの中に手を入れて指先で丁寧に擦った。
「…ハァ…鮎美、そろそろ股間の奥が熱くなってきました。イキそうです。…あ……イキました」
異性にも同性にも性的興味は覚えない鷹姫だったけれど、鮎美が愛撫すると肉体的な反応はあって絶頂を迎えるようになっている。ただ絶頂することに羞恥心は覚えないようで鮎美が感覚を常に報告するように言っておいたので淡々と言っている。
「フフ、鷹姫、素直な身体になってきたね」
「はい、早いと3分ほどでイケるようになりました」
「フフ♪」
鷹姫って羞恥心が発達障害なんよなぁ、おもらしにしても腋のことにしても、それが恥ずかしいことやって教えてあげんと平気でイクもんなぁ、このままじっくり素直な身体に仕上げた後、実は恋人同士でもイクとこを見られるのは、嬉しくもあるけど恥ずかしくもあるって教えたろ、と鮎美は近未来の楽しい計画を考えつつ5回も舌先で絶頂させた鷹姫の股間から離れ、内腿も舐める。さらに膝も舐め、靴下の匂いを嗅ぐ。
「汚いですから、おやめください」
「鷹姫に汚いところなんてないよ」
ありきたりな愛のセリフを聴いているゲイツたちも、言うだろうな、と思っていた。鮎美は靴下を脱がせて鷹姫の足指を舐めようとする。慌てて鷹姫が足を引っ込めた。
「おやめください。私のような者の足を舐めるなど鼎の軽重を問われます」
「かなえのけいちょう、って確か仲国の故事で統治者を軽んじる意味やったね」
「そうです。総理大臣のすることではありません」
「う~ん……いちいち硬いなぁ」
考え方が硬いと言いつつ、鮎美は鷹姫の足を指先で撫でる。剣道を極めた者らしく皮膚が厚くなってゴツゴツしていて女の子の足に見えない。鮎美も三年前までは剣道をしていたので皮膚が厚くなり気にしてケアしたので今では女性らしい踵や爪先を取り戻していた。
「ほな、逆にうちの足を舐めるのはイヤ?」
「いえ、お望みであればいたします」
「ふ~ん♪」
ちょっと面白く感じたので鮎美はベッドから椅子へ移り、足を組んで座ると爪先を鷹姫へ向けた。
「親指から舐めて」
「はい」
予想通り鷹姫は椅子の前に両膝をつくと、恭しく鮎美の足を両手で把持し親指に舌を這わせる。足を舐められるのが気持ちいいのは詩織とも経験したけれど、そのときは相互に舐め合っていた。
「一本ずつ、ゆっくり小指まで舐めてな」
「はい、はふっ」
「………」
鷹姫って真性のMなんかな、けどSMプレイとも、ちょい違う感じなんよな、真性のMよりもっと真性というか、ガチガチに真性な………う~ん……SとかMはプレイの中だけでやるけど、鷹姫は日常生活にも持ち込むというか、生き方そのものやん……かといって常にMで誰からも支配される奴隷ではなくて、上下関係を愛好してて、下に見てる相手にはしっかり上から目線やもんな、それを厭味やなくて天然でやるし……、と鮎美は足を舐めてもらいながら鷹姫のことを考える。
「反対も舐めて」
「はい、失礼します」
鷹姫ってホンマ上下関係大事、序列重視よなぁ……軍隊もそやけど……まあ、人が組織で動くとき階級とか指揮系統は絶対必要やし、福沢諭吉が天は人の上に人をつくらず、とか言うたけど、それぞれの個体の性質として、群れの中には上下関係重視な個体も必要やろ、逆に一匹狼な個体もいるやろけど、狼の群れにもリーダーは要るし、猿がグルーミングするのも序列あるんよなぁ……天は人の上に人つくってるで、天というか自然……むしろ、SMプレイっていうのが平等になった現代に擬似的な上下関係を持ち込んで原始的な欲求を満たすもんちゃうやろか、ヒトにも支配欲と支配されたい欲があるやろ、主従愛とか師弟愛みたいなのも指向というか個体の性質かも、そもそも平等なんて概念ごく最近のことでDNA的にはまだまだ上と下があって自然やろ、と鮎美は考えをまとめ、丹念に足を舐めてくれている鷹姫の頭を誉めるように撫でた。そして言ってみたくなる。
「鷹姫、うちへの忠誠心を言葉にして誓ってみせて」
「はい」
鷹姫は乱れていたスカートとブラウスの裾をサッと整え、正座して両手を絨毯につき、深く頭をさげる。
「御前を離れず令に従い、わたくしの身命を賭してお守りいたします。この一生をすべて捧げ、願わくば来世もお仕えし世々続く限り七生報恩いたすと誓います」
「うん、おおきに」
鷹姫の声に熱が篭もっていて、鮎美の心も熱くなる。やはりSMプレイのようなかりそめ主人と奴隷でなく、ごくごく真剣かつ本気で言ってくれている。それゆえ、鮎美は問いたくなってしまった。ただ、この問いはゲイツにも聴かせるわけにはいかないので指先の仕草で鷹姫を呼び、その耳元に囁く。
「以前に鷹姫は二君にまみえず、って言うたよね」
「はい」
「ほな、もしも万が一というか色々な状況が変化しまくって、どうにも義仁はんが、うちにとって邪魔になるようやったら、鷹姫はうちの命令に従ってくれる?」
「っ…」
鷹姫がハッと顔をあげ、それから深く嘆いた。
「なんということを、お口になさるのですか……」
「万が一の万が一よ。どうにも状況がそうなったとき、鷹姫はどうする?」
「………おそろしいことです……」
「うちの命令でも従えん?」
「……………そのような命令をいただきましたときは自らこの喉を突き、諫死いたします。どうぞ、お間違いにお気づきください、と」
「そっか………いや、まあ、ぜんぜん本気やないよ。そんな必要ないし、あえて仮定してみただけやから、そんな心配そうな顔せんといて」
「……はい…………」
そう言われても鷹姫は深く心配した顔をしている。そしてゲイツに聞こえない声で問う。
「もしや、陛下からのご好意をうとましく想っておられるのですか?」
「う~ん……そんなことはないよ、光栄やなって」
「では、なぜ?」
「鷹姫がどっちをとるかの気持ちが知りたかっただけ。それだけよ」
「…………どうか、二度とお口になさることはもちろん、お考えにもなりませぬようお願いいたします。古来、主上を軽んじて滅びなかった者はありません」
「うん、ごめんな、試したりして、ごめん」
鮎美は気を取り直して欲しくてテーブルにあった紅茶へ入れるシロップを手に取った。シロップの瓶へ指を入れ、その指先を吸う。当然、とても甘い。甘すぎるほど甘い。そして、その動作を見ていた鷹姫の目がもの欲しそうにうつろう。
「鷹姫」
甘い声で囁き、また指先を瓶へ入れると、シロップのついた指を鷹姫の唇へ近づける。
「あ~ん、して」
「ですが…」
草と虫ばかり食べている鷹姫が戸惑う。
「命令よ、あ~ん」
「……」
鷹姫が命令に従い、唇を開いた。そこに指を挿入し舌の上に接する。
「ハァ…」
鷹姫の目が蕩ける。まったく性欲を覚えない分だけ食欲が強いようで滅私奉公の精神に澄んでいた目が欲望の衝動に染まる。鷹姫自身も欲望による衝動がどれだけ強いか知りつつあり、意志や自制心で抑えきれず、お腹の底から湧いてきて頭脳を圧倒してしまうのを感じていた。とくに甘味は鮮烈だった。夢中で鮎美の指を吸ってしまう。
「フフ」
「…ハァ…」
「ほな、次はうちの身体を舐めてもらおかな」
鮎美はセメだけでなくウケも好きなので、全身を鷹姫に舐めてもらい絶頂するつもりだった。そのために身体をキレイに洗ったし、まずはバスタオルをベッドの上に敷いてシーツを汚さないようにする。不遜なことを口にする独裁者であっても貴賓室のベッドが借り物だということを忘れていないので防汚対策してから寝転がると、自分の身体の上にシロップを垂らした。ちょっと冷たかったので次からは温めてからにしようと思いつつ、鷹姫からの熱い視線を肌に感じた。鮎美は指先でシロップを広げて自分の身体の舐めてほしいところへ塗りつける。甘い香りと透明に輝くぬめりを知覚して鷹姫の目の色が変わり、口の中に唾液を湧かせている。今すぐ鮎美の身体へ舌を這わせたいという顔色になってくれたので、あえて焦らす。
「まだ、おあずけよ」
「はい…ハァっ…」
「フフ、ハァっ…うちが塗っていった順番に舐めてよ」
鮎美は自分の指先で右耳朶から首筋、胸の中央から右乳首、右腋、とくに腋は舐めるのも好きだけれど舐められるのも大好きなのでタップリと塗る。自分の指からくる感触がまるで自慰のようで興奮するし、鷹姫は深く考えていないけれど鮎美としては自分の性感帯を露骨に告白しているようなものなので顔が赤くなる。実は巧く舐められると腋だけでイケる。乳首より感じる。
「…こくっ…」
鷹姫は何度も生唾を飲んでいて、おあずけがつらそうだった。
「ええよ、舐めて」
「はいっ」
夢中で舐めてくれるので鮎美は強い性感を覚えるしゲイツたちは見ていて、それはバター犬状態じゃないですか、と思ったけれど黙って見守る。鮎美は追加のシロップを自分の股間に垂らして長く楽しむと、二人で同じベッドで眠った。ゲイツたちは消灯されると半数が暗視ゴーグルを装着し、もう半数は夜目に慣れておく。もともと要人警護の訓練などしていないので、さきほどの襲撃でも前方の敵へ気をとられ、鷹姫の働きが無ければ鮎美を暗殺されているところだった。しかも、暗殺者のうち1名は自軍兵士だったので今後の警戒はより念入りとなる。静かに眠っている鮎美と鷹姫を守ること2時間、寝言で鷹姫が泣き出した。
「……くすんっ……くすんっ……」
「「「「「……………」」」」」
ゲイツたちは、やはり死刑執行や暗殺者2名を斬り殺したことが少女の心にダメージを与えているのだろうと可哀想に思ったけれど違った。
「…お腹が空きました…」
「「「「「………」」」」」
そっちか、と思ったけれど黙って見守る。
「…くすんっ……お母様……鷹は……お腹が空きました……どこですか……くすん…」
鷹姫は寝言で啜り泣きながら布団を噛んだりしている。寝言が続くので、だんだん鮎美の眠りが浅くなり、さらに鷹姫に二の腕を噛まれて目を醒ました。
「痛っ……鷹姫?」
「…くすんっ……お腹が空きました…」
「………寝言か。……痛かったァ……けっこうマジに噛まれたわ」
鮎美は二の腕を撫でる。軽く歯形がついていた。
「もう朝ご飯から、ちゃんと食べいよ」
「…くすんっ……お母様……くすんっ……何か……何かないですか? くすんっ……お腹と背中がくっつきそうです……」
寝言を漏らしながら鷹姫が涙も零している。見ていて可哀想だった。
「はぁぁ……もうシロップも使い切ったし、こんな時間、食堂も閉まってるし」
鮎美が起き上がって悩む。そして財布を捜し、申し訳なさそうに護衛中の三井へ頼む。
「三井はん、悪いんやけど、コンビニまでついてきて」
「営内コンビニはこの時間帯は閉店しております」
「そっか、………近くにコンビニは?」
「ありますが、総理が行かれるとなると最低16名は護衛につきます。他に装甲車数台」
「店員がコンビニ強盗よりビビるやん。………うちはコンビニも気軽に行けん身分になったんやね。はぁぁ……」
「ご注文いただければ自分が買ってきます」
「……うん、ほな、悪いけどパシって。オニギリとチキンとか、とりあえず満足しそうなもん、買うて来たって」
「はっ」
三井は千円札を2枚預かり静かに貴賓室を出る。ドア前を守っていたゲイツにも説明し、持ち場を離れる。少し歩くと廊下がT字路になっている部分を通る。そこは鮎美が襲われた地点で、まだ血痕が生々しく残り石川県警の制服警官が状況保全のために3名立っている。ここを通らないと移動できないので警官たちと敬礼を交わし通過した。
「……」
夜中に通るのは気持ちのいいものじゃないな、と思いながら1階におり建物を出る。建物玄関にもゲイツではない陸軍兵士が歩哨に立っていた。三井の姿を見て問うてくる。
「氏名と階級、何用か述べてください」
とっくに顔見知りの兵士だったけれど、警戒態勢が最高度で敷かれているのでゲイツの三井でさえ誰何され、素直に答えて説明した。
「ご苦労様です」
「お疲れさん」
さらに通用門でも誰何され再び同じ説明をして、やっと外に出られる。
「これ、中に入るの、余計に大変そうだな」
鷹姫が可哀想なので三井は駆け足になり最寄りのコンビニへ入った。
「けっこう品薄だな」
フライドチキンや焼き鳥、おでんは無く、かろうじでオニギリを5つ買えた。まだ定価販売されているけれど、来月から値上げするという告知が店内に貼ってあった。急いで戻ると、通用門でも建物玄関でも誰何と身体検査をされた。やっと貴賓室に戻る。
「おおきに」
「お安いご用です」
「鷹姫、ほら、これを食べい」
「…くすんっ…」
鷹姫は夢遊病状態で差し出されたオニギリを幸せそうに食べた。こういう姿を自覚すると再び強く恥じて落ち込むかもしれないので、そのまま寝かせる。鮎美も再び睡魔に身を任せた。三井は静かにゴミを片付けると、室内での護衛に戻る。日が昇り6時になって交代要員のゲイツが静かに入ってきた。
「「「「「…」」」」」
「「「「「…」」」」」
疲れている鮎美と鷹姫を起こさないように静かに敬礼だけ交わして高木たちが護衛に立つ。日が高くなり閣議の時刻も過ぎたけれど、鈴木たちが深夜会談後なので配慮してくれて鮎美の判断が無くても進められる案件は進めてくれる。けれど11時になって金正忠から急ぎの通信が入り二人とも起こされた。
「う~……」
眠そうに鮎美はそれでも急いで通信に応じる。対面通信だったけれど身支度ができていないのでカメラにハンカチをかけた。
「なんや、アユミ、サウンドオンリーかいな。せっかく一発ネタ用意してたのに」
金正忠は側近なしで一人で通信していて、鮎美を笑わせようと黒電話の受話器を頭に載せていた。
「はは、こっちは見えてるよ。朝から元気やね」
「おう、最高指導者たるもの元気が基本やで!」
金正忠は血色のいい顔で溌剌と答えている。
「アユミの笑顔が見とうて身体はってやったのに」
残念そうに黒電話の受話器をポイっと投げた。
「顔、見せてくれや」
「今、起きたばっかりなんよ」
「ワシとおまんの仲やんけ」
「……ほな、ちょっとだけよ」
友好関係は崩したくない。鮎美は全裸で眠っていたのでカメラの角度を調整し、乳房が映らないようにしてからハンカチをどけた。髪を手櫛で整える。
「お、もしかして裸か?」
「それは国家機密よ」
「うまいこと言うて。まあ夕べは遅くまで大変やったやろ」
「めちゃ大変やったわ。ほんで、キムやん、どういう用件なん?」
「せっかくアユミにやったもん、あっさり南朝鮮に盗られたもんやなぁ」
昨夜の出来事は世界的に知られているので、贈り主が残念そうに言ってきた。
「すんません、他に選択肢がのうて」
「まあ、お姫さんを人質にされたら、しゃーないわなァ。にしても、対馬までとは気前がよすぎるやんけ、どうせ、すぐ取り戻す気やろ?」
「はは…、どうですやろね」
鮎美は盗聴を心配してボヤかした。今すぐにでも鮎美が決断すれば対馬奪還作戦は開始されるけれど、鮎美自身が寝起きなので状況把握が先だった。金正忠も盗聴のことは忘れていない。
「とはいえ、これからはワシらも平和主義でいけるとええけど、ちょい伝えたいことがあるねん。サトちゃんをこっちに飛ばしてや」
「石原里華はんのことなん?」
「そやそや、ちょいと手紙があんねん。パシらせてくれや」
「ほな、すぐ行かせますわ」
通信を終えると鮎美は畑母神へF15の発進を頼んだ。里華は昨夜、ウラジオストクのホテルで軽い歓迎を受け深夜だったけれど、ボルシチを勧められて食べてから帰ってきて今日は非番として休んでいたものの、金正忠からの指名だったので飛ぶことになった。一応は空対空ミサイルをつけて里華の操縦で離陸し、朝鮮半島に至る。今回は滝橋が対仲戦から連続勤務となっていたので別の男性パイロットが相棒だった。
「北朝鮮か……」
かなり緊張しているのが伝わってくる。里華も一度目はそうだった。少し前まで北朝鮮は敵地だったし、今も完全に信用していいとは感じていない。
「鵜飼中尉、自分は二度目ですから着陸までやってみます」
「そうか、頼む」
「はい」
そのまま里華が操縦し、超低空で案内された滑走路を目指す。前回とは別の基地に金正忠は移動していたようだったけれど、昼間なので目視で滑走路も確かめられるし、里華は慎重にF15を初めての滑走路に着陸させた。
「いってきます」
「おう」
緊張はあるけれど、一度目ほどの不安はない。滑走路におり立つと前回と同じ北朝鮮軍士官が挨拶してくれる。
「ようこそ、再び我らが共和国へ。何度でも、いらしてください」
「ありがとうございます」
「身体検査をさせてください」
「どうぞ」
素直に里華は身を任せたけれど、二人の男性兵士が前回よりもベタベタと身体を触ってきたので、とても不快だった。前回は兵士の方も緊張していたので里華が武器を隠し持っていないか、そこを慎重に調べている触り方だったのに今回は女性の身体に公然と触れるという喜びに満ちた触り方だった。里華は胸まで揉まれたので、きつく兵士を睨んだ。それで恐れてやめてくれる。いっそ、あとで死刑にしておいて、と言いたくなったけれど本当に実行されると、それはそれで夢見が悪いのでやめておく。
「少尉殿、こちらです、どうぞ」
「はい。ですが、中尉です」
「これは失礼。昇進されたのですね、おめでとうございます」
「ありがとうございます」
ちょっと複雑な気分で微笑み、滑走路から施設建物へ入る。今回は目隠しをされずキョロキョロしないように言われただけで廊下やエレベーターを進み、豪華な地下室で金正忠と再会した。敬礼する。
「石原里華日本空軍中尉、参りました」
「お、二度目となると堂々と来おるな。前回はビクビクしとったのに、ええ根性した女やんけ」
「…ありがとうございます。お手紙をいただきに参りました」
「トンボ帰り、ご苦労さんやけど、これ渡しておいてくれ」
手紙を渡される。
「はっ」
「あと、土産にこれやろ。おまんとアユミに」
テーブルの上に壺が二つあった。
「これは……」
「キムチや。定番やろ」
「……キムチですか…」
「なんや、辛いもん苦手か?」
「いえ……その……機内に持ち込むのは、ちょっと…」
壺はタケノコの皮のような物で封がされている。
「戦闘機の機内は狭い上に減圧されるので、こういう物を持ち込むと中身が出てしまう恐れがあり、大変申し訳ないのですが…」
「そら大惨事になるなぁ。ほな、なんか欲しいもんあるか? おまん子供は?」
金正忠が男の子が喜びそうなデザインのペーパーナイフと、女の子が欲しがりそうなチマチョゴリを着た民芸品の人形を持っている。
「子供はいませんが、姪が一人おります」
「ほな、これやるわ」
「はい、ありがとうございます」
笑美に土産をもらえて里華も嬉しかった。手紙は胸ポケットに入れ、人形を抱いてF15に戻る。
「おかえり。人形をもらったのか……」
「はい、姪に」
「……検査は…まあ、必要ないか、その気ならとっくにやれる」
「ですね」
里華は操縦席のわきにあるわずかな物品を入れられるスペースに人形を納め、ベルトを締める。北朝鮮士官と兵士が見送ってくれているので鵜飼と敬礼してから風防を閉めた。離陸し、すぐに日本へ帰る。小松基地の滑走路からエプロンへ移動すると、鮎美が16名のゲイツに護衛されて待っていてくれた。
「こちらです」
里華は手紙を差し出したけれど、鮎美ではなく鷹姫が手を伸ばして受け取り検査する。
「芹沢総理、私が開封してよろしいですか?」
「ええよ。きっと、大丈夫やろ」
「念のためです」
鷹姫は鮎美へ背中を向けて、ゆっくりと開封し中身が手紙だけであることを確認すると、読まずに鮎美へ渡した。
アユミへ
おまんにやった模擬核爆弾な、あれ遠隔で電波飛ばして爆破できるねん。
しかも、だいたい50%の確率で核爆発を起こせるかもしれん。
小型化に挑戦する過程でオヤジが造ってた試作品なんやけどな、不発やったら火薬の爆発力だけやから、せいぜい周囲50メートルを吹っ飛ばせるだけやけど、うまいこと核爆発が起こったら0.5キロトンくらいの爆発が起こせるはずやねん。
鮎美が読みながら、つぶやく。
「遠隔で………やっぱ信用できんなぁ……」
そういう感想を鮎美が抱くことは見こされていたようで続きがある。
ま、もしも約束の金塊をくれんかったときの保険や、悪く思うなや。
ほんで、まさか南朝鮮の手に渡るとは思わんかったし、今は対馬にあるやろ。いっそ、あいつら吹っ飛ばしたろか? それとも、嬉しそうに半島へ持ち帰って、もしかしたら羅老号たらゆうロケットに無理くり載せられんか試しよるかもしれん。そんとき吹っ飛ばす方が最高なんやけど、アユミが対馬を取り返すのに助けになるようやったら、金地金20キロで対馬でやったるで。まあ、確率50%のシュレディンガーの猫やからな、不発やったら報酬なしでええわ。
どないする?
返答の暗号を決めるわ。
対馬で起爆させてほしいんやったら、キムやん最高、って言うてや。
対馬では起爆させてほしいないんやったら、キムやん男前、や。
ちなみにもらったロケット砲はもう前線に配備したし、おまんら攻め込むのに合わせてやりたいわ。
決めて連絡くれや。
読み終わった鮎美は司令室へ行って畑母神の意見を訊いた。
「そんな助力が無くとも対馬は取り戻せるし、むしろ放射能汚染が心配だ。不発だったときの処理も一苦労する。ぜひとも対馬では起爆させないでほしいな」
「わかりました、ほな、そう伝えます」
すぐに鮎美は再び金正忠に通信した。
「キムやん、手紙は読んだよ。まあ、それはそれとして、こうやって見ると、キムやん男前やなぁ」
「フ、決まってるやろ」
「とくにその髪型、カッコええわ」
「これ、毎朝しっかり時間かけてるからな」
「ほな、また手紙の返答は、そのうちね」
「おう、またな」
たとえ盗聴されていてもわからないように伝えて通信を終えると貴賓室で朝食兼昼食をとる。食べ終わった頃に石永と静江、長瀬、2名のゲイツが入室してきた。長瀬とゲイツらは敬礼し、静江は深々と頭をさげ、石永は妹の背中を撫でた。
「私のせいで本当にご迷惑をおかけしました」
「もうええよ。今から出発なん?」
「はい」
静江は発表した通り事故原発にもっとも近い避難所で六ヶ月のボランティアに従事する予定であり、その間の警護には長瀬と2名のゲイツがあてられている。これから出発なので挨拶に来たのだった。
「静江はんを罠にハメた議員らはきっちり処罰するし、向こうでも元気にやってな。……理論上は大丈夫なはずの放射線数値やし」
「はい……私たちが大丈夫だと発表しているものですから……大丈夫だとは思っています……」
それでもやっぱり不安だったけれど、行きたくないとは言えないので向かう。むしろ警護にあたってくれる3名に申し訳なかった。
「静江、なんとか時間をつくって、たまに視察へ行くようにするから頑張れ」
「はい、お兄ちゃん。迷惑かけて、ごめんなさい。では、芹沢総理、行ってきます」
「うん、いってらっしゃい。……」
鮎美は退室しようとする静江の背中を見つめ、そして声をあげた。
「静江はん! うちに今の知識があるんわ、ほとんど静江はんのおかげよ! あんたが半年で色々教えてくれたおかげで、うちは効率よぉ勉強できたわ!」
「っ…」
教育役だった静江は短期間で大学課程と大学院で学ぶことの中から議員として知っておくべきことを選び、また社会常識や裏事情なども語ってくれていた。鮎美と鷹姫の学ぶ姿勢もよかったけれど、これほど短期間に成し得たのは効率よく選択してまとめてくれた静江の功績が大きかった。
「おおきにな! 静江はんが望むなら、またいっしょに石永先生と頑張って! 官房長官にも首席秘書が要るやろし!」
「っ…ぅっ…ぅっ…」
静江が振り返って大粒の涙をポロポロと零し、深く頭をさげて言う。
「今度こそ…今度こそ、心を入れ替えて、…ぐすっ…芹沢総理に仕えます。ぅぅ…ありがとうございます…」
涙を拭きながら退室していった。鷹姫が言う。
「芹沢総理の懐深きには感服いたします」
「一回の失敗で人を切ってたら、すぐに誰も周りにおらんくなるやろ」
「はい、その通りです」
次に鈴木と畑母神がロシア側とまとめた同盟文書をもってきた。フーチンと決めた内容と大差なかったけれど、黒海付近への日本軍基地設置については5年後に再度話し合って決めると改定されていたものの、鮎美に異議はなかった。加えて共同で世界に発表するさい、お互いの戦闘機をウラジオストクと小松に派遣し合い、カメラの背景にしようという提案があった。
「ええ提案かもね、鷹姫、どう思う?」
「さすがはロシア大統領です」
「畑母神先生、間に合います?」
「ギリギリなんとかなるが、……さすがに騙し討ちは無いだろうし……うむ…」
畑母神が釈然としない様子なので鮎美が問う。
「なにか、ありますか?」
「自衛隊は発足時から北朝鮮とソ連、ロシアに対抗してきた。近年でこそ仲国が目立っているが、私が現役の頃…、いや、今も現役なのだが、若い頃にはまさにソ連こそ脅威という頭で動いてきたので、そうすぐに切り替えられないのだよ」
「ああ、なるほど、せやけど、武田と上杉も長年やり合ったけど状況の変化で同盟してますやん。北条、今川、武田も」
「そうだったが、あれは同民族という面もある……いや、たしかに第一次大戦ではドイツと敵対したが、第二次では友人だった。逆に日英同盟は破綻している。状況が目まぐるしく変わる時代に老兵の感傷は捨てねばなるまいな。すぐに準備させよう。もう一度、石原中尉を含めた3機としようか? 撮影時に絵になるだろう」
「それは気の毒かも、石原はん睡眠不足やろ。こっちに残ってもらって、向こうから来た戦闘機パイロットと並んでもらうのは?」
「うむ、そうしよう」
決まると、すぐに小松からF15が3機飛び立ち、ロシアからはCy27が6機派遣されてきた。その6機と同じく6機のF15を滑走路に並べるため、畑母神は修理中で自走できない2機も牽引して並べさせ、なんとか数合わせした。準備に時間がかかり13時を少し過ぎてから鮎美とフーチンは小松とウラジオストクから世界全体に向けて同盟を発表した。当然、世界全体が驚きと今後の情勢予想に騒ぎ立つ中、鮎美は石永に頼む。
「石永先生、HⅡロケットの発射に入ってください」
「了解した」
「畑母神先生、全軍を臨戦態勢に」
「もうしてあるよ」
現状、尖閣諸島には仲国軍が設置した仮設式灯台と国旗が立ち小隊がテントを張って駐屯している。放置しておけば南シナ海の島々のようにコンクリート製の建造物を建て既成事実を積み重ねるのは明らかだった。鮎美は滑走路から急ぎ広報室に入ると着替える。ゲイツや斉藤の他に男性官僚などもいるけれど、時間がないので気にせず更衣する。時間も大切だったし、イメージ戦略も大切なので、いつまでも女子高生の制服姿で映るのはやめ、本来4月1日から着るつもりだったスーツスカートが片町のデパートから仕上がってきたので身につけた。鷹姫も着替えている。
「よし、ええ感じやね」
「はい、ご立派です」
鮎美は真っ白なスーツスカートでブラウスも純白、ストッキングも白、パンプスも白という白装束でネクタイだけは真っ赤だった。
「上着は無い方がええかな」
鮎美が上着を脱ぐと、より真っ赤なネクタイが目立つ。白地に赤、日本国旗を想起させる姿だった。もう議員バッチも他のバッチもつけず、鮎美そのもので総理大臣という表現だった。ブルーリボンのバッチは北朝鮮との敵対意志を含み、けれど拉致被害者が全員戻ってきたのかには解決しない問題があるので学生服とともに置くことで政治的な曖昧さを駆使して幕引きとする。レインボーブリッジのバッチは鮎美は一部の少数者の代表ではなく日本国全体の代表であるという意味から置いた。鮎美の髪を整えてくれる鷹姫も着替え終えていて、動きやすい黒のズボンスーツ姿で上着なし、代わりに防弾チョッキを着ている。知念たちが着ているような目立たないシャツの中の防弾チョッキではなく大口径の銃弾でも止められる厚い防弾チョッキで何かあれば鮎美の盾になる意思表示だったし、腰に警棒をさげていた。いずれ訓練を受け拳銃も装備するつもりだった。
「そういえば、ずっと気になってたんやけど、田守はんが持ってた日本刀、あれ銃刀法的にどうなんやろ?」
「オレもそれは気になってた」
石永も新調したスーツを着ながら言い、畑母神は元帥としての軍服を着つつ言う。
「うむ、誰かが問うているかと思ったが、どうなのだろう?」
話題となっている日本刀を振るった鷹姫が答える。
「法務大臣の臨時代理人と指名されたおり、儀仗的な意味合いと混乱期の自衛のためという名目で省令で適法にされていたようです。それ以前は震災の非常時であり財産として持ち出して自衛のために持っていたということで処理されていました。かなりの名刀で登録もあったようです」
「財産の持ち出しかぁ……うまいこと言うなぁ。絶対ホンマはクーデターのためやで」
「不屈の闘志は立派だが、……」
畑母神が苦笑いし問う。
「彼女、いや、彼の容態は?」
問われたタイミングで三島が広報室に入ってきた。
「間に合ったようであるな」
「三島はん、動いて大丈夫なん?!」
「この程度、かすり傷である。田守もすぐ治る。かっかかっ!」
三島は胸に包帯を巻き、以前から愛用している独自に造った軍服のような服を羽織っていた。顔色は悪くないし目は闘志に満ちている。鮎美は庇ってくれた礼を言い、握手を交わした。石永がロケット発射100秒前だと告げ、斉藤が用意した大画面液晶モニターの前に鮎美を中心にして並ぶ。日の丸のような服の鮎美が真っ直ぐに立ち、モニターには最終カウントダウンに入ったHⅡロケットが映るという構図で斉藤が撮影と同時配信をする。鮎美が真顔で語る。
「私たち日本政府は度重なる我が国への攻撃に対し強い警戒感をもっており、今後のためにロケット発射実験をおこないます。弾頭は実験的に使用済み核燃料とし、目標は領土内である尖閣諸島、魚釣島です」
「55、54、53」
種子島宇宙センターからのカウントダウンも続く。鮎美はカメラを見つめ言う。
「尖閣諸島は無人島のはずですが、もしも誰か滞在されているなら、ただちに避難してください。弾頭は爆発しません。ただの使用済み核燃料です」
仲国陸軍の小隊がいることを知っていても、それは仲国政府が公表したことではないし日本政府としてはあくまで自国領内の無人島という認識で白々しく言った。同じ内容は沖縄海域の海軍艦が英語無線で発信しているし、ラジオ波などでも流している。
「30、29、28」
もはや仲国軍が種子島へ戦闘機を飛ばしても弾道弾を撃っても間に合わない。そしてロシアとの同盟公表直後というタイミングなので仲国軍が大きな動きに出ることはないと鮎美も畑母神らも予想している。それでも警戒を最大限にし、対馬のことは後回しになっていた。
「5、4、3、2、1、点火」
ロケットが飛翔する。まばゆい光がモニターから発せられ、一瞬だけ鮎美の顔は逆光になり、暗くなって目だけが光っていた。今度は石永が語る。
「先の沖縄沖での仲国軍との不幸な衝突は双方に大きな犠牲を出しました。日本政府としては、このようなことが繰り返されないことを願い、また1972年の周恩来首相と田中総理が結びえた日仲国交正常化の基本精神に立ち返り、これからの関係再形成を考えております」
暗に当時の両首脳が尖閣諸島の領有権を棚上げにしたことを言った。鮎美は日本製ロケットに100%の信頼をおいていて楽観していたけれど、用意した石永はHⅡロケットも20回に1回程度は失敗しその信頼は95%程度で、そもそも技術に100%は無く搭載した弾頭からの放射線が機器に与える影響と、震災直後という無理なタイミングで技術者たちに準備させたことを考えると、無表情を保っていたが祈るような気持ちだった。
「弾着、今!」
狙い通りに命中したことが観測された。石永が息を吐き、鮎美はこれで日米対仲露という膠着状態から米が抜けたことによる争乱が日露対仲という構図に変化し再び膠着状態という平和に至ると確信し、今頃は胡錦燈が苦笑し仲国軍の将軍たちが真っ赤な顔で怒りペンやコップを投げているのではないかと思い、つい微笑んでしまった。鮎美は頭をさげずに配信を終え、司令室で畑母神たちと仲国軍の様子を見守ったけれど動きは無かった。尖閣諸島にいた小隊も通知のおかげで弾着までに海へ逃げていて死人は出ていない。畑母神が鮎美に言う。
「予定では仲国軍に動きが無ければ、対馬奪還作戦を発動するつもりで、もう長崎と山口の部隊は準備できているが、……いまだ島内に模擬核弾頭があるのでは……」
「シュレディンガー爆弾は、どんな様子です?」
「大型の民間船に積み込もうとしているところだよ」
石永が悔しそうに言う。
「出港したところを潜水艦の魚雷で沈めてやりたいな」
「海洋汚染するしあかんやろ。キムやんはロケット基地に運び込みよると予想してたよ」
「オレたちと似たような発想だな。問題は北に向けるか、我々に向けるか、不明なところだが…」
「まあ、撃つ前にキムやんがドンとやるやろ。対馬に上陸した麗国軍の様子はどうです?」
「やはり我々が奪還に乗り出すのではないかと警戒している。一応、約束通り個人宅を荒らすようなことはしていない様子だ」
「警戒中か……畑母神先生、対馬の奪還は本日は無しでいきましょ」
「うむ、そうしよう」
「鷹姫、予定通り広報室で範条の公布をやろ」
「はい」
対馬奪還作戦発動と同時予定だった範条の公布を鷹姫と生放送で分担して読み上げる。
総理大臣と諸機関
20総理大臣は国会議員の中から国会の決議で指名され、天皇が任命します。ただし、非常の事態によって国会議員の員数が全体の3分の1以下となる場合もしくは著しく選挙結果における政党の議席数に比して偏りが生じて欠員した場合は、天皇が任意に任命します。
21総理大臣はその他の国務大臣を指名し、天皇が任命します。
22天皇は総理大臣が相応しくない者であると判断したとき、民意を鑑み、いつでも罷免することができます。
23総理大臣の任期は12年とし途中6年目において継続の可否を問うときは各議院の総議員の3分の2以上の賛成で国会が発議し、国民に提案して過半数の賛成を必要とします。
24国務大臣の任期は指名した総理大臣の任期が終わるとき同時に失職します。
25総理大臣はいつでも国務大臣の罷免を天皇へ奏上できますが、罷免は天皇が判断しておこないます。また、国務大臣は自らの健康等抜き差しならない事態を除いては、自ら辞任することは慎まねばなりません。
26総理大臣は全体の奉仕者であって国会議員として選出された地区において、国会議員として失職しても総理大臣たる地位を失わず、また国務大臣も同様です。
27国務大臣は過半数を国会議員の中から指名することとしますが、非常の事態においては相当な者を指名でき、他の公職と兼務することも可能とします。
28総理大臣は再任不可とします。この条文を改正するには特別に国民の20分の19の賛成を要します。
29行政権は総理大臣にあり、他の統治権も総攬します。
30総理大臣に現役の軍人が就任することは不可とします。また国務大臣の4分の3以上が文民であることを要します。
31総理大臣は行政権の行使について、天皇と国民に対して責任をもちます。
32国会は総理大臣が任期を終えたとき、もしくは欠けたとき、次の総理大臣の指名を、すべての案件に先だっておこなう義務があります。衆議院と参議院が異なる指名を行い、律条の定めるところにより両議院の協議会を天皇の御前にて開いても一致しないときは、天皇の判断により任命されます。
33総理大臣が欠けたときは、他の国務大臣が指名されていた順位に従って引継ぎますが、新たな総理大臣が指名され天皇が任命されたとき、すべての国務大臣は失職します。また、すべての大臣が欠けたときにそなえ、総理大臣は居所から離れた地方の知事を20名以上順位をつけて指名しておくものとします。
34総理大臣は議案を国会に提出し、一般国務および外交関係について国会に報告し、ならびに行政各部を指揮監督します。
35総理大臣と国務大臣は協力して国を統治し、次の事務を行います。一、国務を総理します。二、外交および防衛をおこないます。三、条約を締結し、国会に報告します。四、官僚に関する事務を掌理します。五、予算を作成し国会に報告します。六、この範条および律条の本旨と道理を鑑み、国令を制定します。七、大赦、特赦、減刑、形の執行の免除および復権を決定します。
36国令には、すべて主任の国務大臣が署名し、総理大臣が連署することを必要とします。非常の事態においては30日以内まで、いずれかの署名にて有効とします。
37規律権とは、この範条の範囲にて律条を制定する権限とします。
38この範条に特別の定めがある場合を除いては規律権は国会にあります。
39衆議院は立候補制による普通選挙かつ秘密選挙で選出された国民の代表とし、参議院は無作為に選出された国民の代表とします。両議院の定数は選挙規律委員会が律条にて定めます。両議院は選挙規律委員会に要望を提出することができます。
40選挙人および被選挙人の資格は選挙規律委員会が律条にて定めます。ただし、日本国民を差別してはなりません。
41衆議院の任期は4年とします。ただし、衆議院解散の場合には終了します。
42参議院の任期は6年とし、3年ごとに議員の半数を改選します。任期を終えた参議院議員は国民審査を受けた上で再任することができます。ただし、再々任はありません。
43選挙区、投票の方法、その他の両議院の議員の選挙および地方公共団体の選挙に関する事項は選挙規律委員会が律条で定めます。選挙人、被選挙人は選挙規律委員会に要望を提出することができ、選挙規律委員は紳士に審理する義務を負います。
44何人も同時に両議院の議員たることはできません。
45両議院の議員は議会でおこなった演説、討論、表決について院外で責任を問われません。ただし、不規則発言は慎まねばなりません。
46国会の常会は毎年1回召集します。
47総理大臣は国会の臨時会を召集できます。両議院は各議院の4分の1以上の要求があれば各議長が臨時会を召集できます。
48衆議院が解散されたときは40日以内に選挙を行い、選挙日から15日以内に国会を開かなければなりません。
49衆議院が解散されたときは参議院は同時に閉会となります。ただし、緊急の必要があるときは緊急集会をおこなうことができます。
50非常の事態によって各議院の員数が全体の3分の1以下となる場合、衆議院においては県知事を、参議院においては県議会議長を国会議員とみなすことができます。ただし、危難が去り公正な選挙がおこなえる準備が整ったときはただちに選挙をおこなわねばならず、遅くとも3年以内に実施しなければなりません。
51両院の併設を禁止します。非常の事態によって両院が同時に失われることを避けるため、近くとも両院は100キロメートル以上は離れて設置されねばならず、望ましくは300キロメートル以上をよしとします。かつ総理大臣の居所も両院と100キロメートル以上は離れることを要します。また、いずれも標高の高い場所を選定するよう努力することとします。
52選挙規律委員会は両議院の議員の資格に関する裁判をすることができますが、当該議員の議席を失わせるには出席委員の3分の2以上の議決を要します。
53両議院は、その総議員の3分の1以上の出席がなければ、議決することはできません。
54両議員の議決は、この範条に特別の定めがある場合を除いては出席議員の過半数を要し、可否同数のときは議長が決します。
55両議院の会議は公開とします。ただし、出席議員の3分の2以上の多数で議決したときは秘密会を開くことができます。
56前条の定めにかかわらず報道委員は傍聴できます。ただし、秘密は守らねばなりません。
57秘密会の議事録は99年以内に公開することとします。
58秘密会以外の議事録は公表しなければなりません。
59出席議員の5分の1以上の要求があれば、各議員の表決は議事録に記載しなければなりません。
60両議院はそれぞれ議長その他の役員を選任します。
61両議院は院内の規則および手続きを定めることができます。
62両議院は院内の秩序を乱した議員を懲罰できます。ただし、議員を除名するには出席議員の3分の2以上の議決を要します。
63律条案は、この憲法に特別の定めがある場合を除いては、両議院で可決したとき律条となります。衆議院で可決し、参議院で異なった議決をした律条案は、衆議院で出席議員の3分の2以上の議決をえたときは可決され、律条となります。
64前条の定めは両議院の協議会を開くことを妨げません。
65参議院が衆議院の可決した律条案を受け取った後、国会休会中の期間を除いて60日以内に議決しないときは、否決されたものとみなすことができます。
66両議院はそれぞれ国政に関する調査をおこなえ、証人の出頭および証言ならびに記録等の提出を求めることができます。
67大臣は国会に出席し発言することができます。
68大臣は国会に求められたときは、国務に妨げのない限り出席する義務を負い、欠席するときは副を出席させなければなりません。
69両議院の議員で構成した弾劾裁判所で、罷免の訴追を受けた裁判官を裁判できます。
70裁判権は、この範条に特別の定めがある場合を除き、裁判官もしくは裁判員が行使します。
71通常の裁判は最高裁判所と下級裁判所にておこないます。
72非常時に強い必要性のあるときは総理大臣は特別裁判所を設置できます。
73総理大臣は統治行為にかかわる強い必要性がある場合を除き、裁判所の判決を変更もしくは無視できません。
74防衛大臣は麾下の人員に関する限り軍律裁判を行うことができ、軍律裁判には一名以上の文官の裁判官が裁判にかかわることとします。
75最高裁判所は裁判権に関する規則を定めます。
76検察官は裁判所の規則に従わなければなりません。
77裁判官は心身の故障により職務をおこないえないと裁判により決定された場合を除いては、弾劾裁判によらなければ罷免されません。総理大臣は裁判官の懲戒処分をおこなうことはできません。
78裁判員は国民の中から無作為に選出され、裁判にあたる自覚のある者に任命されます。任期は一つの事件ごととし、相当の報酬を受けます。裁判官は判例、範条、律条を超え、道理において判決するとき、必ず裁判員を加えた裁判をおこなうこととします。
79その他の裁判員に関する事項は律条により定められます。
80裁判官に関する事項は律条により定められます。ただし、最高裁判所の裁判官は総理大臣が指名し、天皇が任命します。
81最高裁判所の裁判官は衆議院の選挙にさいして国民審査を受けます。
82前条の国民審査は10年を経過したとき再審査の対象となり、その後も同様とします。
83国民審査は投票者の多数が裁判官を罷免することを可とするとき、罷免されます。
84審査と裁判官の定年に関する事項は律条で定めます。
85下級裁判所の裁判官は最高裁判所が任命します。
86裁判官ならびに裁判員の報酬は不当に減額することはできません。
87最高裁判所は律条、国令、規則、処分等が、この範条と道理に合うか審査する権限を有します。
88裁判は公開とします。
89裁判官および裁判員は全員の一致で裁判を非公開とできます。ただし、報道委員は傍聴および記録の閲覧ができます。
90軍律裁判は防衛大臣の決定により非公開とできます。ただし、30年以内に兵器に関する機密を除いては、記録および証拠を公開することとします。
91報道委員の任期は5年とします。再任を妨げません。
92報道委員の存在は民間の報道を妨げません。
93報道委員は日本放送協会を除いては個人とします。
94報道委員の定数は100以上とし、それぞれが与えられる予算は選挙による獲得票数と比例することとします。日本放送協会は10年以内に漸次受信料を減額し11年目には受信料を廃し、報道委員としての報酬のみで運営することとします。ただし、他の報道委員と同じく著作権料、広告料、原稿料等をえることは妨げません。
95報道委員の選挙については選挙人は一人につき3票以上を投じることとします。
96何人も報道の自由を有します。ただし、何人も何人かの婚姻、恋愛、性的指向、性行為について報道することはできません。ただし、本人が本人の意志に基づいて本人についてのみ表現することは自由です。
97公務員は公務についてのみ責任をとり、何人も公務員の私生活について報道することはできません。
98何人も何人かの婚姻、恋愛、性的指向、性的趣味、性行為、衣服に隠れた身体の部分ならびに下着について報道したときは、生じた被害の3倍の損倍賠償責任を負います。
99土地処分委員の選挙に関する律条は選挙規律委員会が制定します。
100土地処分委員は11名以上の合議体で審議し、過半数の賛成をもって決議します。
101土地処分委員の報酬は前年度の全労働者平均賃金の2倍以下とし、任期は4年とし半数改選とします。再任は偶然に再び選出される場合を除きありません。
102土地処分委員会は非公開とし、議事録は30年以上公開されず、議事録に各委員の氏名は残らないものとします。
103主要な道路や交通機関、国の防衛、住民全体にとって重要な施設等のための土地収用は原則として実行され、土地処分委員は対価を決議するのみとします。報道委員は土地処分委員会を傍聴できますが衝立等による遮蔽により、各委員の顔貌および姿を見ることはできないものとします。
104土地処分委員会に提出された行政機関等が作成した資料は即時公開されます。
105軍権は国民と天皇、国土を守るため、あらゆる手段と処分をおこなえます。ただし総理大臣と防衛大臣は連帯して、天皇と国民へ責任をとります。
106公務員はすべて相当の報酬をえるものとしますが、最大でも前年度の全労働者平均賃金の8倍を限度とします。ただし、立候補による選挙を要する職については選挙費用の支給を得票数に応じて落選時もおこない、とくに若年で資産の少ない者が紳士に選挙活動に取り組んだときは手厚く配分することとし、この支給審査は選挙規律委員会がおこないます。
107行政権、規律権、裁判権、選挙規律権、公的報道権、土地処分権、軍権それぞれの職務にあたる者は職務中、現行犯でなければ逮捕されず、訴追されません。ただし、このために訴追の権利は害されません。
108公費に準じる公的医療保険によって収入をえる保険医は、すべての収入を含めた年収の上限を前年度の全労働者平均賃金の5倍を上限とします。また経費の審査は公務員に準じて厳格とし配偶者、家族等への利益の付け替えは禁じ、家族労働についても他の従業員と同様の計算に基づく人件費のみ計上可能とします。かつ民間企業経営においても経営層と末端労働者の時間あたり賃金格差を100倍までとし、この計算のもととなる経営層の利益には自社株式によって生じる額も含め、これらの経営調査には地方税官吏でなく国税局が直接にあたります。
読み上げが終わると、鮎美は鈴木と新屋と並び、情勢と各条文について説明する。鈴木が柔和な笑みをカメラに向け、国民に語りかける。
「いきなりロシアと軍事同盟と発表され、驚いている方々も多いかと思います」
そう切り出しつつ、鈴木は在日米軍の撤退と米国の分裂、さらに日本軍の損失と、損失の回復を早めるため、近隣諸国ではロシアが最適であることを機密に触れない範囲で説明した。次に鮎美が北朝鮮との関係を説明する。
「新しい指導者の金正忠代表とはお互いに年齢が近い、というよりも若すぎる指導者として気の合う部分も多く、また彼はとても日本語に堪能で、とくに関西弁が完璧ということもあり、うちと話し合ううちに拉致家族の解放も受けてくださり、うちと彼とは、キムやん、アユミと呼ぶような仲です。ただ、国民の皆様に断っておきますが、前々から私の発言、とくに経済面で社会主義的な部分を感じるというご指摘もありますが、うちは修正資本主義路線であり、自由な競争を尊重しています。ただ、格差の行き過ぎは、いかんということで、さきほど公布した範条の108では収入の格差を100倍までとしています。これは単純には、たとえば年200億円の利益を出す会社があったとして、そこに社長を含め101人が働いていたとします。このとき社員100人へ払う賃金が平均500万円で合計5億円の賃金やとしたら、残り195億円が社長の収入ですが、ここまでの格差を、いっしょに仕事をしている者でつけるべきでしょうか? もちろん、創業者である社長の貢献は大きいでしょう。けれど、彼一人では事業は成功しません。その成功と利益に貢献した社員への配分として、末端と頂点で100倍を限度とする。つまり100億の利益を手にするなら、せめて末端へも1億を払ってやりなさい、という道理です。もちろん、こういうことを、すぐに実施することはできませんし、すぐに無理な強制をすると、経済が混乱しますので長期をかけて税制を調整する中でおこないます」
新屋が引き継いで言う。
「芹沢総理が条文108から触れましたが、まずは条文20から順をおっていきましょう。条文20は総理大臣の決め方と、今回のような非常事態で、どうするか、です。たまたま生き残った一人だけの国会議員だった芹沢総理が私たち閣僚の助言も聞いてくださり、様々な事態が起こってもパニックにならない人でしたから幸いでしたが、たとえば少数政党だけが生き残り与党は壊滅するようなとき、具体的に考えれば党大会などで少数政党が地方へ出ているときに首都で壊滅的な災害が発生したり、逆に与党が党大会を開いている場で大爆発が起こるなどのとき、ともかくは天皇陛下にご判断いただこうという条文です。次の21は読んでいただいたまま、そして22は非常事態の場合はもちろん、政治的な安定を目指すため23で総理大臣の任期を長めに取りましたから、逆に来月再来月となって芹沢総理が暴走したときは22が力を発揮します。今すぐ選挙をおこなうべきだ、という声もありますが、そもそも人口さえ把握できていないので有権者の特定など、まだまだ時間がかかります。また県内の大半が壊滅状態という県もあり、選挙区の見直しも必要で、そこに来て諸外国とも緊急の対応を要する事態が次々と生じております。そのため大臣がコロコロ変わるというようなことは絶対にさけるべきで、このようになっております」
鮎美が読めばわかる24を飛ばして25を説明する。
「総理大臣の権限が暴走するのをおさえるため25で国務大臣の罷免に陛下のご判断をいただいております。一人二人ならまだしも気に入らない者を次々と取り替えていくような総理大臣であった場合にストップをかけるものです。また、逆にちょっとしたスキャンダルで大臣が自ら、辞めます、と言い出すのも止めています。今までの政治では、ひどいと1ヶ月ほどで辞めている大臣もおられ、それがせめて大金のワイロや巨大な不正ならまだしも、失言だとか、過去の不倫だとか、そういうことでは政治の安定がはかれませんので、簡単に辞めないようにしています。26は地元優先の考えを抑止するものです。これまで大臣になったら地元に大きな利益があるだろう、そんな甘い考えもあったでしょうし、大臣も応えて道路建設から事業誘致まで、いろいろと地元優先してきましたが、大臣とは日本全体の発展を考える者です。総理大臣が本気で地元を優先し始めたら、ものすごい不平等が産まれますので、それを避けるためのものです。27では従来の考えに加えて、今回のような事態で、防衛の専門家だった畑母神先生や経済に明るい加賀田先生などを引き抜けるようにしています。そして28ですが総理大臣に権限があり任期が長い分、独裁の固定化をさけるため再任不可としています。政治的な安定を考えると諸外国でもフーチン大統領のように長く働かれる方が必要ですし、逆に長すぎていつまでも、というのも問題ですから、こう決めました。この条文の改正には95%の賛成が要るので、改正はまず無理です。逆に、そこまで皆さんに求められている人なら、いいかもしれませんが、きっと無理でしょう」
また新屋が引き継ぐ。
「行政権が29で総理大臣にあるというのは違和感ないと思いますが、他の統治権まで総攬するのには疑問があるでしょうが、よど号ハイジャック事件などで超法規的対応をしたのが司法権、裁判権への干渉ではないか、最近では尖閣諸島仲国漁船衝突事件もありますが、こういったやむをえない場合は総理大臣が決めていく、としています。その分、やはり先の大戦で軍部が政治を占めた反省もあり30で総理大臣が文民であること各大臣も多数が文民であることを規定しています。31、32、33はそのままの意味ですが33にある20名の知事を今から発表します。もう無いとは思いますが核ミサイル攻撃や大震災、さらには想定不能の事態、芹沢総理は恐竜を滅ぼした隕石もあげられましたが、絶対に無いとはいえず、現在は小松と金沢、福井に大臣は分散していますので一挙に欠けることは本当に無いとは思いますが念のため、決めております。宮本秘書官、お願いします」
「はい」
鷹姫が被写界に入ってきて発表する。鮎美には知事で選出できるような者は、もう招いているので主に石永と久野、鈴木が相談して決めた20名の順位を鷹姫が読み上げた。さらに鈴木が説明を続ける。
「50ですが、富山で立ち上がった議会は身分にバラつきもあり、また政務活動費問題など残念な部分もありましたので、こちらで県知事と県議会議長をあてます。ただ、議長となっている方でも政務活動費で問題が出ている人もおられるので、議会の立ち上げには今少し時間がかかりますが、いずれ知事と議長にお願いしますので日程調整など、ご連絡します。また51で今回の反省を活かし、両院は離します。この候補地も近く発表しますが、関係者への接待など、おやめくださいね。本当に昨日は可哀想な感じでしたから」
鈴木が静江のことに軽く触れ、鮎美が56を語る。
「報道の自由は本当に大切ですので、前条55で秘密会を規定しましたが、報道委員は秘密会を傍聴できるとします。ですが、すぐさま報道できるわけではなく解除を待ってもらいます。今現在でいえば、北朝鮮から私たちが輸送艦で運んでいた物が何であるのか、どういう必要性があって、どういう取引があったのか、今は国防上の秘密につき申せませんが、高い守秘義務をかして知る権利を守っていきますし、次の57にあるよう99年以内には明かします。少し飛ばしますが68で従来は国会に縛られた大臣を国務のために解放します。とくに外務大臣などは海外に出向く必要性があるのに、国会会期中に縛られるのは不合理ですから、副大臣でよしとします。総理大臣の場合は官房長官を副としますが、いずれ官房長官は副総理大臣と改称するつもりです。また飛ばして70で裁判員を範条で明文化しました。そして昨日のような裁判は72で特別に設置しますが、できれば控えたいと思っています。とはいえ、あの田熊のような犯罪者が出てきたときは、やはり迅速に裁きます。73でも再び裁判権より統治行為を優先しています。かつて津田三蔵という男がロシア皇太子に暗殺未遂を犯す阪本事件というものがあり、ロシアとの外交関係を大事にしたい明治政府は裁判所に厳罰を求めましたが、大審院は罪刑法定主義と裁判権の独立を守り、今でも誇りある判決をくだしたとされていますものの、振り返って総合的に考えたとき、はたして日露双方のためになったでしょうか。逆に私たちが大切にする皇族が海外で同じく傷つけられたとき、そして言うまでもなく昨夜のような事件で、もしもお傷を負わされていたら、私たちはどれほど怒ったでしょうか。この阪本事件がのちのち日露戦争の遠因ともなっていき双方に夥しい戦死者を出しますし、皇太子は傷の後遺症に苦しまれてもいます。一人の凶行が歴史に与えた影響を考えると、はたして杓子定規に裁判所の独立と罪刑法定主義を守るだけというのも人類の知恵といえるのか、よりよい判断をする余地をつくっておきました。74の軍律裁判とは、いわゆる軍法会議です。これまでPKOなど海外派遣で現地の方を強姦するなどの残念な事件は無かったわけですが、今後も永遠に無いと考えるのは見込みとして甘すぎますし、私たちにしても在日アメリカ軍兵士による犯罪に怒りを覚えていたわけですから、こういった規定も必要です」
鈴木が替わる。
「諸外国でも軍法会議は普通にありますし、むしろ無いと戦犯を裁けません。さて78でプロの裁判官だけでなく市民感覚で裁く裁判員について触れています。ここで言う道理とは、物事の道理ですね。すでに芹沢総理が言っておられましたが、100億円を悪質に儲けたのに罰金が2億円では、物事の道理に反する、けれど、罪刑法定主義では、それほど高額の罰金は条文に無いから無効、となるを防ぎまたそれを職業的プロでありつつも世間感覚は乏しくなりがちな裁判官だけで判断しないということです。あと説明を要するのは89で非公開とした裁判でも、報道委員は傍聴できるとした点です。これまで裁判の傍聴は公開のものは自由、席が足りなければクジ引きで一般の人も報道関係者も平等でしたが、高い守秘義務と責任をもつ報道委員は常に傍聴できるとします。事件によっては配慮も必要ですが、書記官なども同席するわけですから非公開といっても聴く人はいます。そこに報道委員も加わるわけです。そして、報道委員は国民からの選挙による審判がありますから、自覚が求められます。90で、さすがに軍事については非公開を設定しましたが、いずれ公開されることは規定しました」
再び新屋が説明する。
「まったく新しい制度となる報道委員ですが91にある通り任期は5年で国民からの選挙で信託を受け続ける限り、再任できます。ただ、落選しても個人で報道できますし、そもそも当選しなくても92にある通り報道できます。単に国から予算と報酬がもらえず、また非公開の裁判などに入れないというだけです。93と94でNHKに触れていますが、国営放送であるNHKは報道委員制度に組み込みます。また長年、国民の負担となっておりました受信料は廃止していきます。あと報道委員の選挙について細かいことは選挙規律委員会が公平公正を旨として決めていくわけですが95で3票以上としておりますのは、報道に偏りが生じないようにするためと、報道の多様性を保つためです。一人の報道人に投票するだけでなく、選挙人が信託したい報道人を三人以上は選べるように、というシステムです。NHKはかなりの組織票が見込めますし、受信料を廃止するからといって即時解体といった乱暴なことはしません。むしろ、国民の信託をえて存続しつづける道もあるわけです。さてさて96ですが、誰それがホモであるとか、どういう性行為が好きであるか、といったことは報道の自由と、個人の人権を考えたとき、常に個人の人権が勝るとしています。よく石永官房長官がホモであるという、くだらない記事を見かけますが彼自身は否定していますし、そばにいて彼に同性愛の指向は一切感じませんし、愛妻家です。そもそも官房長官の業務内容について批判されるのであれば報道の意義があるでしょうが、ホモかもしれない、というのはまったく意義のないただの中傷です。政治家や芸能人に対して、これまで有名税といって人権侵害してきましたが、これを封じます。97にもあるように公務員は公務についてのみ、批判されるべきであり、私生活は関係ありません。さらに98でも明確にしていますが、他人のプライベートな部分について、ほじくり返すことはできません。何人も何人かの、とあるわけですから、私をパンツ大臣と呼ぶのもダメです。……………」
新屋は配信動画を見ている視聴者が大きく反応しているだろうことを予想して長い間をおいた。きっと一部では言論封殺だと憤っているに違いないとも予想している。そして覚悟を決めて続ける。
「実は私は女性の下着には、まったく興味がありません。…………」
また長い間をおいた。軽い笑顔をつくる。
「嘘をつくな! という全国からの何百万というお声が聞こえてきそうですが、本当です。芹沢総理のパンツをもらったから忠誠を誓っているだとか、そういう根も葉もない噂もありますが、彼女のパンツにも、また女性の身体にも興味がありません」
つくり笑顔をやめた新屋は真面目な顔で告げる。
「なぜなら、私はゲイだからです。男性の身体にしか性的な興味を覚えません。男性の下着に興味を覚える趣味もありません」
「「………」」
鮎美はこの条文を新屋が説明するにあたってカミングアウトすることを事前に聴いていたので頷いただけだったけれど、鈴木は少し驚いた顔になり、そしてベテラン政治家らしく落ち着いた笑顔になっておく。
「パンツ大臣と私が呼ばれる理由になった若いころの過ちですが、女性の下着を盗んだのは本当です、そして示談に至っています。なぜ、ゲイのお前がパンツを盗むんだ? と思われるでしょうが、当時の私はどうにか女性へ興味がもてないか、いろいろと悩み、いっそ間違ったこととわかっていて下着でも盗めば興奮できるかと思い、被害女性には大変申し訳ないことですが、犯行に至っています。ただまったく興奮できず、後悔と自己嫌悪しかありませんでした。また、私は結婚していたこともありますが、それも代々議員という家庭に生まれたので、周囲の期待に応える形で結婚しています。子供もできましたし、子供も愛していますが、私がゲイであることに変わりはありません。男性にしか興味がなく、好みでいうと、やや日焼けしたラグビー体形の人が好きですから、実は石永官房長官が好きだったりします。もう今、言ってしまったので今後は避けられるかもしれませんが、内々での会合などで彼がふざけてチョークスリーパーをかけてくれたりするのは一つの幸せでしたよ」
「あ~、わかるわ」
鮎美がチョークスリーパーを鷹姫にかけてもらったことを思い出している。
「ゲイの感覚はわからないと思われるなら、単純に異性愛の男性が芹沢総理からチョークスリーパーをかけられたらと想像してみてください」
全国の男子が鮎美の大きめの乳房の感触を首筋に感じる想像をした。
「そういうことです。きっと、もう石永官房長官は私にやってくれないでしょうね。あとゲイの私が言うのですから確かですが彼はゲイではありません。そして私がゲイであるとか、官房長官がそうでないとか、そういうことは業務に関係がありません。そういったことを報道して政治家のイメージを落とそうとするのは卑劣です。ゆえに、そういった報道を封じます。もちろん、金銭にかかわる不正や公金のあつかい等について報じられるのは当然です。思い返せば我々も眠主党へ、鳩山総理の贈与税問題について責めかかりましたし、細野議員の不倫問題についても同様でしたが、前者は当然としても後者は少なくとも彼の政策や能力とは無関係であり、怒るのは当事者である奥さんのみでよかったかもしれない」
鮎美が追加する。
「ある政治家がレズであるかどうかは政策とは無関係です。やのに、ものすごい騒ぎ立てる。こういうことがあるので新屋先生もカムアウトをずっと躊躇ってきはりましたし、若い頃に苦悩の試行錯誤として異性の下着を盗んだりもしてはりますが、それと今現在の業務は無関係です。とくに昨夜は由伊様を人質にした犯人グループへの交渉にあたってくれはり、犯人グループが由伊様を解放したのちも運転手を人質にして逃走中の保身をはかろうとするのに対して、自ら人質になってくれはり犯人らが舞鶴湾を出るまで付き合いはりました。おかげで無血に事件は解決しています。これは名誉ある業績ですし、今後もパンツ大臣と報じるようであれば侮辱罪として逮捕し、生じた被害の3倍を賠償させます」
再び鈴木が説明に戻る。
「99からの土地処分委員は読んだ通りですが、103にあるように国の防衛など重要な場合は土地を接収します。さきほどフーチン大統領と芹沢総理が発表されました馬毛島への基地新設も無人島ですが所有者には、これから選出する土地処分委員が適正と判断する額が支払われます。沖縄には日本軍の基地をおくのみとし外国軍は入れません。最低でも県外、とおっしゃった鳩山総理の言葉を実現しておきます。次に軍権ですが、あらゆる手段を防衛のためにはとれるとします。残念ながら戦争のような緊急時は規則や手続きを優先することはできません、それが道理でもあります。そして106で決めた公務員の報酬限度ですが、最高裁判所の裁判官であれ、大臣、議員、キャリア官僚、例外なく平均賃金の8倍まで、前年度でいえば330万円でしたから2640万円です。国民の平均があがればあがるほど上昇しますし、さがればさがります。同じように108で公金に近い公的保険から収入をえる保険医にも上限をもうけ5倍ですから1650万円までとします。ただ、こういった改革は性急におこなうと社会が混乱しますので10年ほどかけ、ゆっくりと変化させます。以上です」
説明を終えた鮎美たちはそれぞれの業務に戻り、鮎美は貴賓室でワンコとヨンソンミョに面会する。由伊が人質にされたことで今泉らが護衛についていてさえ鬼々島においておくのは危険だったし二人とも無事ではあったものの他の各地では排他的な死傷事件が起きている。由伊は無傷だったけれど、対馬のことが原因とみられ在日麗国人が被害に遭っている。その犯人は大勢で襲ったとみられるのに目撃証言はえにくく、警察の捜査も消極的だった。貴賓室に今泉に連れられ、ワンコとヨンソンミョが入ってくる。
「二人を連れてきました」
「失礼します」
「………」
ワンコは頭をさげたけれど、ヨンソンミョは直立している。鮎美は椅子から立ってワンコと握手する。
「ワンコちゃん、いろいろ振り回して、ごめんな」
「いえ、犬山市にいても、どういう目に遭ったかわかりませんし、護衛がなかったら殺されてたかも」
「ヨンソンミョはん、はじめまして。芹沢鮎美です」
「………」
ヨンソンミョは差し出された鮎美の手を見つめ迷ったけれど麗国語で、はじめまして、と言い返して握手に応じた。鮎美に意味がわからないだろうと、ワンコが通訳する。
「彼女は、はじめまして、と言っています」
「「…………」」
鮎美とヨンソンミョの間に沈黙が訪れる。鮎美としては受け入れた難民の一人だったヨンソンミョを利用したという後ろめたさがあり、しかも利用が済んだので難民キャンプへ戻すつもりだった。ヨンソンミョとしては難民として受け入れてもらいはしたけれど、他の難民船を追い返す指示をしていた総責任者が鮎美だと感じているし、衣食住を与えてくれたことに感謝はあっても利用された屈辱感もある。ヨンソンミョの目に会えて嬉しいという好意はなく、むしろ敵意に近い色合いがあったので鷹姫は静かに鮎美を守るため半歩進み、腰の警棒をとめているボタンを外した。少しでもヨンソンミョが不審な素振りを見せれば、容赦しないつもりだった。鮎美が空気の悪さを感じ、苦い微笑をつくった。
「ヨンソンミョさん、あなたを利用して、ごめんなさい。報酬は約束通り支払います」
「………」
ヨンソンミョは小声の麗国語で、受け取らない、と言った。
「えっと……彼女は、……受け取りを、しない、と言っています」
ワンコが戸惑いつつ訳してくれた。
「そうですか……気が変わったら、受け取ってください。ヨンソンミョさんには難民キャンプに戻っていただく予定です。よろしいですか」
「………」
ヨンソンミョは黙って頷いた。それで鮎美は日本語を話さないけれど、聴いて理解はしているのだと察した。ヨンソンミョが室内を見ると8名のゲイツが小銃を持って護衛している。彼ら全員、男性同性愛者だという話で実に気持ちが悪い国家に成り下がったものだと吐き気がする。鮎美と握手をした手も気持ち悪くなってくる。そういう感情が表情に出ているので鮎美は促す。
「今泉はん、送ってあげて。最期まで護衛はしっかり」
「はっ!」
今泉に連れられてヨンソンミョは出て行くけれど帰り際にワンコへ麗国語で、私は愛国心と誇りを忘れはしない、と言った。言われたワンコが悲痛な顔をするのでヨンソンミョが退室してから鮎美が問う。
「ワンコちゃん、さっきなんて言われたん?」
「……。私は愛国心と誇りを忘れない、と」
「そっか………」
「………」
「ワンコちゃんは、どうする?」
「私は麗国も好きですし、日本も好きで………どっちつかずのフタマタ女です……」
ワンコが顔を俯かせる。鮎美は問い方が悪かったことに気づいて謝る。
「あ、ごめん、そういう意味やなくて、これからどうするかってこと」
「これから……」
「犬山市に戻るならそこまでは護衛をつけるけど、それ以後の特別扱いは難しいし、人手も余ってないから……けど、今、全国各地で対馬のこともあって排斥行為が頻発してるし、危ないのは危ないんよ。いっそ、ヨンソンミョはんと同じように難民キャンプで保護しよか? あそこなら護衛あるし、しかもトラブル予防に女性兵士と婦警メインで守ってるから」
言われてワンコが淋しそうに首を横に振った。
「いえ………そこに行けば行ったで、また私は、よそもの扱いされます。ヨンさんにも軽蔑されてますし」
「なんでよ?」
「怒った日本人のお爺さんに殺されそうになったとき、とっさに私は言っちゃったんですよ。私は日本人寄りの在日麗国人だって、ほとんど日本人です、天皇陛下万歳、って。そしたらお爺さんは斬りつけてこなかったけど、今度はヨンさんに裏切り者って思われたみたいです。私は仲良くなりたかった……」
ワンコが涙を浮かべたので鮎美は気の毒で胸が痛くなった。
「ワンコちゃん………」
「どっちからも差別されるって、いったい私ってなんなんだろうって思います。けど、難民キャンプにいる人たちだって日本でも良く思われてないし、麗国へも帰れない……総理の恋人だった牧田さんもドイツ人とのクォーターだったらしいですね?」
「うん……らしいわ。75%が日本人の血やから、見た目、ほぼ日本人やったけど」
「私は100%麗国人の血筋なんですけど、見た目は日本人と変わりません。なのに、どっちからも……」
「………そうやね………ワンコちゃん、行くとこがないなら小松基地にいる? ここなら襲撃はないし………あ、そや、いっそ、うちの秘書にならん?」
「総理の秘書にですか?」
「そうよ。いろいろあって2名ばかり欠けたし」
「それは願ってもないことですけど……」
ワンコは鮎美のそばにいる鷹姫を見る。鷹姫からは差別的な視線や迷惑そうな顔はされない。鮎美の人選なら、それに従うという顔だった。鮎美が問う。
「ためらう理由あんの?」
「……これだけ日本中で、そして麗国の方でも、在日や在麗の人が襲撃されてる中、総理の秘書に在日っていうのは……」
「うちは多様性を受容する世界にしたいんよ。今、さすがに各地の在日襲撃事件を起こした日本人の犯人を徹底捜査して厳罰に処すってことは反感が大きいから無理やけど、ワンコちゃんが秘書になってくれたら少しは抑止にもつながるかもしれんし。とくに、ワンコちゃんみたいなほぼ日本人寄りって在日なら、それはやっぱり日本人やろ。大震災があっても戦争があっても日本に居続けたんやし。逆に、大震災と戦争で向こうに帰ったり、向こうで様子見してる人はやっぱり軸足がそっちにあるんやろし。差別を無くしたいとは思っても、戦争中の敵国人っていうのはどうにも扱いに困ったもんでもあるけど、それだけにワンコちゃんが秘書になってくれる効果はあると思うよ」
「………では、一つ、お願いを聴いてもらえますか?」
「ええよ」
「私、帰化しますから、名前をください。総理の命名で」
「うちの………」
「ダメですか?」
「いや、ええよ。……名前………。うちは子供を産むつもりはなかったから命名とか考えたことなかったけど……え~っと……」
鮎美が考えながら問う。
「犬っぽい名前がいい?」
「いえ、脱イヌでお願いします」
「脱イヌでかぁ…………ほな、鷹沢美姫(たかざわみき)は?」
「………そんな立派な名前をもらってもいいんですか?」
「立派っていうか、ちょい混ぜただけやん。柴田と丹羽を混ぜて羽柴みたいな」
明らかに芹沢鮎美と宮本鷹姫を混交しただけで、あまり深く考えた名前ではないので鮎美は恥ずかしかったけれど、ワンコは喜ぶ。
「ぜひ、それで!」
「ほな、そうしよ」
「ありがとうございます」
美姫は喜びながら新しい名前と陽湖が残していった議院記章を受け取った。しばらくは見習いとして鷹姫の後ろにつく。なのに、真逆のような情報を高木と泰治が報告に来る。
「芹沢総理を襲った3名ですが、基地内へ2名を手引きした者は3年前に陸上自衛隊へ正規の入隊をした者でしたが、調べたところ父親が麗国人、母親が朝鮮人で日本へ帰化していたようです。他2名は身元不明、簡易なDNA検査の結果、高い確率で朝鮮民族系であるとのことです」
高木に続き、泰治が言う。
「犯行の目的は趙舜臣が対馬を手に入れるのを妨害するのが目的だったらしい。どこの国でも対立する派閥はいるからさ。由伊ちゃんを人質にしたグループは別のグループというか、どちらもKCIAの残りから生まれた工作組織らしい」
泰治に対して鷹姫が叱る。
「国友! 高貴のお方に対し無礼な言い草はやめなさい!」
「……たった7歳の女の子だよ?」
「泰治はん、それでも皇族なんよ。半分神様、あんたかてプロテスタントなんやから、イエスくんとかマリアちゃん言うてる人がいたら、どことなくムカつかん?」
「まあ、たしかに…」
「というか、なんで高校生にすぎん泰治はんがバリバリに国際裏組織の裏情報を仕入れてきたん?」
「密告があったからだよ。ボクらSSSSのところへメールが来て、そこに書いてあった。送り主は襲撃グループの一員だったけれどもう抜けたかったし、身体は男性、心は女性の性同一性障碍者に生まれ仕方なく男として生き愛国心もあって、どのみち普通の結婚に興味が無かったから危険な工作員になった。けど対馬を手に入れた方法に嫌気がさし、そしてそれを妨害するため芹沢総理を暗殺するということになり、心中では芹沢総理のことをマイノリティの一人として応援していたのに、という気持ちから離反したらしい。だから、もしかしたら襲ってきたのは4名だったかもしれないらしいよ」
「……それ、裏は取れた情報なん?」
「いや、一方的にメールを送ってきただけだよ。けど、昨夜の暗殺未遂事件はまだ報道してないだろ?」
「そっか、それを知ってるってことは………その人に連絡とれるの?」
「もう、ひっそり生きていくってさ。ハンドルネームは茶葉アスカ、メールを送ってくる前からネット上でSSSSの一員でもあってデマ抑止でよく働いてくれていたんだ。とくにトランスジェンダーのことと在日外国人への差別的なデマを巧く抑えてくれててSSSS内でも幹部になりつつあった。さすがは工作員、潜り込むのが巧いよ。義隆なんか完全な女性だと思って会いたがってた。けど、もうアカウントは無反応、一応は緑野さんに、いや芹沢鐘留さんか、あの人に追跡を頼んだけど電子的に追えても、そこに居ない可能性は高いってさ」
「もう、ひっそりか………いっそ他人の戸籍でも得て生きるかやね。こんな時期やし姿をくらますのは簡単やろ」
「おいおい、君がそれを言うのかよ」
「国友、芹沢総理に対する口のきき方もあらためなさい」
「「別にそれは同級生…」」
鮎美と泰治が異口同音しかけ、泰治が続ける。
「もともと同級生なんだし、いいだろ?」
「いつまでも同級生気分でいるのはやめなさい。場を弁えるべきです」
「う~ん……そういえば、制服からカッコいいスーツに変わったね。二人とも」
「ちょい予定を早めたんよ。4月1日からのつもりやったけど、諸外国に学生総理ってナメられるわけにいかんし」
「なるほど……まあ、そういうことなら、ボクもあらためた方がいいのかな……どう思います? 高さん」
泰治は高木に問うた。
「自衛隊でも軍でも、階級重視だから相手の年齢が上だろうが、同じだろうが、階級で上下が決まる。二人も今は仕事中なわけだから、それに合わせた方が良い。プライベートで会うときは別だけど」
「合わせてか……」
「今は戦争中も同然で、一瞬の迷いが生死を分かつからな」
高木が尊敬している目で鷹姫を見た。泰治が思い出す。
「戦争中か……70年前の戦争でも日本キリスト教団は国へ戦争協力したんだ。敗戦後、それは間違いだったと公表したけれど……合わせたんだろうな、時代の空気に」
鮎美が言う。
「あの時代にキリスト教思想なんて敵対もええとこやん。属性が違うというか、むしろ工作員かと疑うわ」
「だから、天皇陛下万歳となったわけか」
「集団が生き残りをかけた闘争をしてるときやしね」
「じゃあ…」
泰治も背筋を伸ばし、鮎美に告げる。
「報告は以上です、芹沢総理」
「ご苦労さん」
高木と泰治が退室し、鷹姫も退室して明日、義仁と鮎美が会う場所と時間を調整する。京都と小松の間にあって緊急時にどちらも1時間程度で帰ることのできる余呉湖湖畔にある国民休暇村施設を選んだ。そこで二人に同室で一泊してもらうつもりでいる。貴賓室でゲイツに囲まれつつも鮎美と二人になった美姫は遠慮がちに問う。
「やっぱり、私が総理の秘書というのは、まずいのでは……」
「ワンコちゃ…美姫ちゃんのことは信用してるし、気にせんとき。あ、でも…」
「はい?」
「美姫ちゃんの両親が人質に取られて、うちを殺せと脅されるパターンはありえるから……、ご両親、どうしてはる?」
「あの日から連絡が取れてません。おそらく津波で……」
「そっか……」
二人が抱き合って慰め合い、それから美姫が言う。
「私が秘書になるにあたって全国へ説明する動画を配信するのは、どうでしょうか。私も決意を表明します。とくに今回の対馬を脅し取ったのは、恥を知るべきだと思います。そして私は完全な日本人として天皇陛下万歳と叫びます」
「天皇陛下万歳か………」
鮎美は乗り気でない様子だった。
「なんか、いつか来た道を、また行く感じやね。まあ、いつも通る道なんかもしれんけど、うちはロシアとの同盟で膠着状態を作り出したんよ。冷戦やフォークランド紛争が総力戦にならんかったように沖縄沖海戦でおしまい。そうもっていくつもりやから、あんまり戦意高揚させてもなぁ……あと、対馬に上陸した部隊には油断してもらって、そこを叩くつもりやから、恥を知れ、と正面切って言うと、いよいよ来るぞ、となるから諦めた風に思わせたいんよ。そのための罠も仕掛けたし」
「罠をですか……どんな?」
「住民へ退去する前にな、家の敷地内の玄関前とかにビールやお酒を置いて麗国語で、個人の財産には手をつけないでくださいお願いします、とメモを貼りつけるように指示したんよ。だいたいの住民がやってくれてるわ」
「そこまで卑屈にならなくても……」
「ちゃうよ。きっと油断したら呑みよるやろ。一人二人が毒味して大丈夫やったら、ドンチャン騒ぎになるかもしれん。そうして寝込んだところを襲う。これ戦国時代によくあるパターンやわ。しかも敷地内にあった財産に手を出したことにもなる。誰も呑んでいいとは書いてない、むしろ手をつけるなと書いたはず。フフ、つまりは調印書違反や。こっちが攻め込む、大義名分もできる」
「うわぁぁ……卑怯というか……姑息ですね」
「戦いとはそういうもんよ。うちが麗国側の人間やったら竹島を奪った李大統領も、対馬を奪った趙舜臣も尊敬するわ。うまくやりましたね、閣下って」
「……。そういう人たちでないとトップは勤まらないのかもしれませんね」
「日本は、うちら政治家が汚れ役、天皇陛下が輝く君主でうまくまとまるねん」
「なるほど……」
美姫が妙な納得をしていると、鷹姫が戻ってきた。
「芹沢総理、明日のご予定ですが、陛下への政情報告後は…」
義仁と鮎美に同室で泊まってもらう予定でいることを黙っていると、鮎美が怒るのは目に見えているので鷹姫は正直に話した。
「……鷹姫………そんなに、うちと陛下に結婚してほしいのん?」
「はい」
「………うちが同性愛者やって理解してくれてるのに……」
「皇統の存続は差し迫った課題です。陛下のお気持ちが向けられている女性は、これに応じるべきです」
「……そら、たしかに、うちにも子宮はあるけど……もっと、良家のお嬢さんとかの方がええんちゃうの? 公家とか武家とか、大企業の令嬢とか、うちよりむしろ鷹姫の方が血筋は確かやろ。代々続く剣道場で1000年前から家系図あるらしいやん」
もともと鬼々島は源平の合戦での敗者が逃げ込んだ島なので、全島民が武家筋であったし、以後は戦火も空襲もなく寺に過去帳は長く残っていて鷹姫の家は源氏だった。
「私の家は源氏とは名ばかり、みやもと姓も、みなもと姓からくだったものです」
「十分に確かすぎる血筋やん。うちの家は戸籍も大阪ごと流れたよ」
「それ以前に自眠党の議員先生方がセクハラ写真訴訟を起こしたときにお父様の玄次郎様に頼み、出自を調べていたそうです。そのときは偏見から朝鮮系か被差別層ではないかと。ですが、逆に確かな血筋であることがわかったそうです」
「あんた、うちの家紋とかも調べて、わざわざ幕まで秘かに造ってくれたもんなぁ……うちの家って、どんな家系なん?」
「芹沢家が大阪に移られたのは明治以後で、それ以前は静岡にいらしたようです。山寺に記録があり古くは1193年、駿河の芹澤茂幹が初代であり鎌倉幕府に仕えています。秀吉の小田原征伐のさいには芹澤国幹が芹澤城で抵抗している記録があり、家康に芹澤通幹の代から仕えており、新撰組の初代局長であった芹澤鴨も係累です。そして初代茂幹の父は多気義幹であり、多気氏は常陸の国、多気権大夫が始まり、それ以前は平繁盛、平高望であり賜姓皇族です」
「……うちは平氏やったんや………鷹姫は源氏で……」
「平氏の祖は桓武天皇です。つまりは十分な良家であり、再び姓を昇華され皇家へ嫁ぐにふさわしきお方です。もはや運命といえましょう」
鷹姫の目が輝いている。鮎美は引いた。けれど鷹姫から強いオーラを感じる。もともと大好きだった歴史と自分が仕えている鮎美がリンクしていて、しかも天皇から皇妃にと想われているので、かなり興奮している。
「鷹姫……」
「是が非でも」
そして皇統の存続という命題にも熱い想いを抱いているし、由伊の身に危険があったことで、それは日本中の共通認識ともなっている。鮎美がロシアと同盟を組んだことで外患は去り、あとは対馬での局地戦があるくらいで、残っている重要な課題は15歳の義仁と7歳の由伊しか皇族がいない、ということだった。由伊が安全に出産できるのは10年後になるし、やはり男系が好ましい。これまで多くの問題を解決してきてくれた鮎美に、あと一頑張りしてほしい。とにかく皇統の子供を増やして欲しい、という圧力を鮎美は下腹部で感じた。
「け、けどな、源氏も平氏も、どんどん子孫を増やしたやろし、そこらにいっぱいおるやろ。きっとDNAとか調べたらバンバン出てくるで。確かな血筋いうても、みんな確かにホモサピエンスやし、何万年前から続いてるよ。うちが言う良家のお嬢さんは、もっと上品な感じでの話よ。こんな下品な関西弁の女あかんて」
「お言葉は状況に合わせて使い分けていらっしゃいます。宮内庁の方でも同性愛者であるということで当初は懸念されていましたが、同性愛者の子が必ず同性愛者になるわけではないという認識もあり、また芹沢家の出自が良いこともあり、ご結婚を望む声もあがってきております」
「え~……」
「それに何より陛下のお気持ちが大切です」
「………うちの気持ちは?」
「……。どうか、ご理解ください。今夜、私の身を捧げます。私の身体をすべて完全に。ですから、それを最期にあとは国のため耐えてください。私も一生、草と虫を食べて過ごします」
「それ、たぶん半年もせんうちに二人とも精神の病気になると思うわ」
「いっしょに耐えますから、お願いします」
「あんた夜中に寝言で、ご飯、ご飯、言うてるよ。うち夕べ、当直やった三井はんにコンビニまで走ってもらったもん。鷹姫にオニギリ食べさせるために。あんた寝惚けてたから覚えてないやろけど五つもペロっと食べて寝たんよ?」
「……あれは夢では……なかったのですか………」
鷹姫が腹部を撫でる。なんとなく草と虫以外の、もっと栄養のある物が入っている気がするし、心も落ち着いている。
「無理やって。現代の食生活に慣れたもんがこれから一生、草と虫なんて。すでに夢遊病に近いよ」
「…………いいえ、耐えます。今夜から自分を縛って眠ります。ですから、どうか、いっしょに欲望に耐えてください」
「………………そういう苦楽をともにするのは…………やっぱり人間に快楽は必要よ」
鮎美はベッドサイドにある小瓶から自分の手のひらへシロップを注いだ。輝いていた鷹姫の目が曇り、別の光りを宿す。理屈で求める至高の目標から、純粋な欲望に色合いが変わる。
「鷹姫、舐めてみ」
「……いえ…もう…」
「今夜が最期やと思って、舐めてみ」
そう言われると鷹姫は鮎美の手を舐めていた。一度舐め始めると止められない。傍観している美姫はエロティックさを感じた。鮎美は指先で鷹姫の頬を撫でる。
「なぁ、鷹姫、この甘さが最期でええの?」
「……はい…一生、耐えます」
「う~ん………」
鮎美が考え込む。鷹姫は断言したけれど、お腹はつらそうに鳴いている。
「たしかに皇統の存続は課題やけど……女なんて、いっぱいおるやん。よりによって同性愛の、うちでのうても……」
「新屋先生や舟崎さんもそうでしたが、他にも同性愛者であっても結婚して子供をなしている人々は多いようです」
「……まあ、子供は可愛いやろけど……だいたい皇族なんて窮屈すぎるし……陛下のお母さんかて民間から嫁いで心の病気にならはったやん。男の子が生まれて、やっと安定しはったけど……だいたい、うちらが公布した範条でも総理大臣と天皇の結婚なんて想定してないし……権力が合体してゴチャっとなるやん。うちは総理大臣を辞める気はないよ。少なくとも同性婚制度が安定するまでは。異性愛者に多数決で改変されんように」
「総理大臣の任期に終わりはありますし、皇妃と総理大臣の兼務を禁止する条文はありません」
「道理に合わんことない?」
「結婚の自由は最大限に尊重していくはずです」
「……うちの自由を奪っておいて、それを言うか?」
「どうか、お願いします」
鷹姫が土下座に近いほど頭をさげてくる。鮎美は問うてみる。
「ほな、鷹姫は、うちが誰かと結婚しろって命じたら結婚する? あんたの結婚の自由も奪われても文句ない?」
「はい。人に強制したのですから、その道理があってよいかと思います」
「あんた、もともと許婚OKな人やもんなぁ………けど、外国人やったり、もしかしたら、男でなく女と結婚せい言うても結婚する?」
「はい」
「……………そこまでして、うちに陛下との結婚を求めるんや……」
「お願いします」
「はぁぁ………………」
タメ息をついた鮎美はもう土下座している鷹姫を見つめ、その髪が動いたために欠けた耳が見えているのを心苦しく感じた。自分を守るために負ってくれた傷だった。他にもある。ミサイルの破片から守ってくれて背中をガラス片で切り、縫った。大津田を取り押さえるときに肩を噛まれてもいる。三度、命を救ってくれた大恩人が土下座して頼んできている。自分の同性愛指向を理解してくれていないわけでもない。しばらく悩んだ鮎美は再び問う。
「鷹姫」
「はい」
「ホンマに、うちが陛下と結婚したら、あんたは誰とでも結婚するね?」
「はい、二言はありません」
「わかった。そうしよ。あんた、今から、もう草と虫のご飯はやめい。ちゃんと栄養のあるもん食べい」
「ですが…」
「ええねん、結婚の方を強制するから。うちの言う通りにしてもらうしな」
そう言った鮎美は新たな構想を鷹姫に語り、範条の一部を書き加えた。
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