第53話 同日9日 イスラエルと日本人、動き出した世界

 同日、日本時間16時、イスラエル時間9時、鮎美たちを乗せたエアパスA321はテルアビブのベン・グリオン国際空港に近づいていた。鮎美と鷹姫にはベッドは当然、シートも無い、ただ広さだけは二人で使うにしてはファーストクラス以上になる会議室が与えられ、その床で仮眠していたけれど、毛布もないので体育館の床にそのまま寝ているような待遇だった。それでも若さと睡眠不足のおかげでカバンを枕にして、よく眠ったし身体の痛さも無い。着陸寸前になって陽湖が起こしに来た。

「起きてください。シスター鮎美、シスター鷹姫」

「う~……おはようさん…」

 鮎美と鷹姫が起きて、髪や制服を整える。ずっと起きていた介式も座っていてスーツにできた皺を伸ばした。

「三人には添乗員用のシートでシートベルトをしていただきます。他の生徒は大切な礼拝を受けている最中ですから、けっして私語したり雰囲気を壊すことなく目立たないよう先に降りてください」

「うん、そうするわ」

 鮎美たちは頷いて会議室を出ると、示された搭乗口そばの簡易シートに腰かけシートベルトを装着した。陽湖も最前列に座ると、シートベルトをし、そしてマイクで機内全体に語る。

「これから聖地エルサレムそばのベン・グリオン空港に着陸します。シスター、ブラザーのみなさん、祈りましょう。飛行機において着陸時がもっとも多く事故が発生しています。もし、今、ここで私たちの命が終わるとしても、みなさんと楽園で再会できるよう深く祈ってください」

「「…………」」

 鮎美と鷹姫は黙って顔を見合わせた。二人が眠っていた間も陽湖は不眠不休で生徒たちを導いていた様子だった。

「今しも信仰告白は受けます。神を信じ、洗礼を望む人は挙手のうえ、名乗ってください」

「っ、はい! 木野崎桜! 洗礼を望みます!」

 出発直後の信仰告白では受洗を保留した桜が大きな声で言った。陽湖が祈りの形に手を組み、満足そうに頷く。

「シスター桜の告白を受けました」

「「………」」

 再び鮎美と鷹姫は顔を見合わせた。着陸寸前に恐怖をあおっておいて仕向ける手法に違和感は大きかったけれど、私語を強く禁じられたので黙り続ける。他にも2名の生徒が受洗を望み、さらに驚くべき告白があった。

「はい! 長瀬良弘! 神を信じ洗礼を望みます!」

「「「長瀬警部補っ?!」」」

 最後尾から知念たちの驚く声が聞こえてくる。男性SPの一人だった長瀬が挙手していた。陽湖はシートベルトを外して機長へ着陸を数分遅らせるよう伝え、最後尾へ歩いていくと騒いでいる知念たちに静かにするよう頼み、長瀬と短い会話を交わすと信仰心を確かめ、背後についてきていた黄色ローブの生徒が差し出すペットボトルから、わずかな水を手のひらに受けると、それを長瀬の頭にかけた。同じことを桜たち受洗を望んだ生徒3名にも施してから着席し、機長に着陸を頼む。飛行機は事故に遭うこともなく、ごく普通に着陸した。搭乗口が開く。陽湖が手のひらで示して降りるよう促してきた。

「「………」」

 降りよか、はい、という意思疎通を鮎美と鷹姫が目線で交わし、無言で飛行機を出る。介式たちSPも降りてくるけれど、長瀬の処遇に困った。長瀬は急な休暇を望み、このままエルサレムにて陽湖から正式な洗礼を受けたいと言い、介式は上司として無責任な任務放棄は認められないと叱る、鮎美と陽湖が話し合ってから決めた。

「長瀬はんには、このまま残ってもらって、陽湖ちゃんとカネちゃんがテロリストなんかに人質に取られんよう、警護してもらいます。うちの秘書補佐を守るのも任務のうちという解釈でお願いします、介式はん」

「だが…しかし……勝手な…」

「信仰の自由は憲法で保障されてますし、本人が望むんやったら、しゃーないですやん。実際、一人くらいSPがカネちゃんと陽湖ちゃんについててくれる方が安心ちゃいます?」

「……わかった」

 渋々介式が認め、長瀬を置いて搭乗口からターミナルへ移動する。歩きながら知念がぼやく。

「長瀬警部補は飛行機が苦手だったすからね。あの脅し、効いたみたいっすね」

「やからって、いきなり入信とかありえんわぁ」

「あ、前からオレらにも月谷さんが、いろいろパンフレットとかくれたし、長瀬警部補は興味をもって非番の日曜日、誘いにのって礼拝に行ってたみたいっすよ。オレってっきり月谷さんが可愛いから、それが狙いかと思ってたっすけど、マジに説教を聴きに行ってたんすね」

「陽湖ちゃん、見えんとこでもコツコツ勧誘活動してるなぁ……抜け目がないというか、うちのSPにまで声かけてたとは、びっくりやわ」

「っすね」

「知念、警護に集中しろ! ここは外国だぞ!」

 介式に叱られて知念は敬礼する。

「はっ!」

 そこからは知念も緊張感を持ち、空港ターミナルを進むと、イスラエル駐在の日本大使館職員とジェトロ職員が待っていた。

「「ようこそ、イスラエルへ」」

「お出迎え、ありがとうございます」

 谷柿あたりから連絡が回ったのだろうと鮎美は察した。

「うちらの戻りの飛行機は、いつになりますか?」

「あいにく日本イスラエル間は直通便が無く、経由便もSPの方々のシートまで確保するとなると、いっそ明日17時発の修学旅行専用機で帰っていただいても到着に数時間しか差がありませんでした」

「そうですか…」

「それに、イスラエル側が非公式ながら芹沢議員と会談をもち交流をしたいと…あっ!」

 説明していた大使館職員が、近づいてきた高齢のイスラエル人を見て緊張したので、相手が要人なのだと鮎美は経験から悟った。せめて外国要人と会話する前には、相手国のことを予習しておきたかったけれど、修学旅行として来たので旅行ガイドブックで知れるようなことしか知らず、また詩織が以前に勤めていたジェトロの職員も来てくれていたので会話したかったものの諦めて笑顔をつくった。

「元大統領のエフラヒム・カシール氏です。今年で95歳になられたはず」

 大使館職員が教えてくれるし、エフラヒムにはジェトロ職員がヘブライ語で鮎美を紹介している。元大統領は高齢にもかかわらず確かな足取りをしていたし、やはりボディーガードを2名つれていた。しかも2名とも大きな銃を丸見えに持っているし、介式たちのような警察職員ではなく軍関係者のようで軍服姿だった。

「ようこそ、イスラエルへ、と、おっしゃっています」

 ヘブライ語が得意らしいジェトロ職員が通訳してくれる。詩織から聴いた話ではジェトロは、もともとは民間の団体であり経団連が海外市場調査のために用意し、2003年からは独立行政法人として日本と海外の橋渡しを経産省や外務省にはできない細やかさで行っているため、いわゆるキャリア官僚的なエリートだけでなく、派遣先国に愛着があったり人脈や言語に通じている人間を卒業大学にかかわらず雇用しているらしかった。留津哲雄(るつてつお)という身分証を着けている職員は壮年で理知的な雰囲気があるのに、剣道か柔道でも続けているのか、体格もいい。頼もしい感じがした。鮎美は通訳してもらいやすいよう関西弁を控えて標準語を使う。

「はじめまして。芹沢鮎美です」

 条件反射で握手をしようと右手を出したけれど、エフラヒムは静かにヘブライ語で何か言い、それが通訳の留津を困惑させ、そばで聴いていた大使館職員も緊張させる。鮎美は気になって問う。

「エフラヒムさんは、何と言われたのですか?」

「…はい……えー……」

 留津は言いにくそうに考えながら言う。

「…あなたとの握手は、今少し、あなたを知ってからにする。ともかくは、あなたを知りたい。とのことです」

「そうですか…」

 鮎美は右手を引きつつ、ユダヤ教の戒律が男性同性愛を明白に禁じつつ、女性同性愛については禁じてはいないものの、どのみち印象は悪いに違いないと、わずかに予習したとき考えていたことを思い出した。そして、はっきりと記者会見でカミングアウトし、結婚も公言している自分の性的指向を、わざわざ会いに来てくれたエフラヒムが予習していないわけはないと感じ、笑顔は崩さずに頭をさげた。

「会いに来てくださり、ありがとうございます」

 鮎美が礼儀正しさを失わなかったことに、留津たち日本人職員はホッと安堵しつつ提案する。

「立ち話も何ですから、近くのホテルに場所を用意します」

 その提案はヘブライ語にも通訳して伝えられたけれど、エフラヒムは別の提案をしてきた。

「私の家は、すぐ近くだ。そちらで話をしよう。とのことです」

「お招きいただき、ありがとうございます」

 緊張しつつも鮎美は応じた。翻訳してエフラヒムに伝えた後、留津が言ってくる。

「芹沢議員、パスポートを貸していただけますか。そちらの秘書さんとSP方の分も」

「あ、はい」

 鮎美たちがパスポートを渡しておくと、空港の入国審査は、ほぼフリーパスで通過できた。空港玄関に大きな高級車が待っていて、それにエフラヒムと鮎美、鷹姫、留津、日本大使館職員が乗り、介式と知念はボディーガードが乗ってきた軍用車に乗せてもらい、他のSPはタクシーでの移動となる。車内でエフラヒムが鮎美にヘブライ語で何か言ってくる。それを聴いた留津が、またも困惑した顔になり、鮎美は何を言われたのか、とても気になる。

「私へ、何と?」

「あ、…はい。……どういう冗談なのか、わかりませんが。直訳すると。日本の新しい外務大臣がイスラエルへ一番に来てくれたことは、ともかくも歴史に残る嬉しいことだ。とのことです。こう訳すしか、ないです。意味がわかりませんが」

「それは、そのままの意味やと思いますから、こちらこそ元大統領にお会いでき光栄です。とお伝えください」

「……、それでは誤解が生じませんか?」

「どんな?」

「芹沢議員が外務大臣のように思われます」

「うちは外務大臣になる予定ですよ、帰国したら。谷柿先生から聞いてはりません?」

「「なっ?! 本当ですか?!」」

 留津と大使館職員は谷柿から鮎美の帰国と、イスラエル側の政治家と会談するならば、そのサポートをするよう頼まれただけだったので激しく驚き、その様子を見てエフラヒムは嘲笑して、何か言った。それを留津が訳してくれる。

「あいかわらず日本の大使館は暢気だな、ハワイを攻撃したときから一つも進歩していない。情報は命だ」

 鮎美は畑母神との会話で真珠湾攻撃の際、宣戦布告が在米日本大使館が宴会をしていたために米側への通知が遅れ、宣戦布告のない不意打ちだと言われた話を思い出したけれど、イスラエルと英米、ドイツ、日本の戦時中の関係も記憶しているので余計な切り返しをせず、質問してみる。

「私が外務大臣になる情報は、どうして知っておられるのですか?」

「あんな風に航空通信でやりとりすれば、ユーラシア大陸中の諜報機関が察知しただろう。もちろん、アメリカも」

「言われてみれば、たしかに…」

「夕べのハトヤマとタニガキを相手にして、自分の狙いを通した少女戦士の舌戦は、しばらく語り草になるだろうな。諸国に丸聞こえだ。日本は第二次大戦後、諜報というものを、どうして忘れたのだ?」

「……。おそらくは憲法9条の平和主義による影響だと思います」

「ああ、あれか。どうにも日本人の考えることはわからんな。あなたは天皇を神だと信じているか?」

「………」

 鮎美は横髪を指先で耳にかけ、左手を唇にあてて考え込み、慎重に答えを選ぶ。脳裏に新年祝賀の儀で見かけた今上天皇と、別室で会見した15歳の義仁親王と、まだ7歳だった由伊妹宮が浮かんだ。初対面で鮎美は総理大臣や両院議長に会ったときとは異質の緊張をした。半分は神とも表現される皇族との対面は、ふらつくような緊張があった。けれど、二度目は負傷見舞いの返礼で、双方とも学生服姿ということもあり、あまり緊張していないし、義仁とも由伊とも人間として会話している。それらをふまえ、鮎美が説明する。

「ユダヤの方々の神に対する観念と、私たちの神に対する観念は大きく違うと感じています。唯一絶対の神と、私たちが感じている万物に宿る八百万の神々については、語り合ってもお互いに深く理解し合うのが難しいようで、私の友人にもアブラハムの宗教を信仰する人がおり、ずいぶん語り合いましたが理解には至っていません。その上で、誤解を恐れず私たちの天皇陛下への感覚をたとえるなら、もしソロモン王の子孫が代々王として引き継がれてきたのなら、それはユダヤの方々にとっても半分、神のような存在として尊敬したり崇めたり、誇りに思ったりされるのではないでしょうか?」

 かなり長い上に率直な見解だったので留津もヘブライ語の単語選びに苦労しつつ訳した。それを聞いたエフラヒムは顎を撫でて頷き、車が彼の邸に到着したので全員が降りた。邸は白と直線が印象的な建築物で父の玄次郎が見たら喜んだかもしれないと思いつつ、鮎美たちは応接間に案内され、紅茶とバクラワというナッツ入りの焼き菓子をごちそうになった。けれど、食べ終えてから鷹姫のお腹が大きく鳴った。

 キュゥ~

「っ…」

 ずっと黙っていた鷹姫が真っ赤になって顔を伏せ、エフラヒムが問う。

「そうか、朝食がまだだったのか?」

「………」

 鷹姫は顔を伏せたまま答えないので、鮎美が答えて訳してもらう。

「はい。機内食が無かったものですから」

「それは……かなりの時間……」

 時差のせいで朝食だけ抜いているように感じるけれど、すでに日本では夕食時が近い。徹夜明けに朝昼と抜いているようなものだった。

「食事の用意をさせよう。何が食べたい? 当家のシェフは日本料理もできるぞ」

「ありがとうございます。せっかくですからイスラエル料理でエフラヒムさんが好きな物を食べてみたいです」

 鮎美の回答に留津は、ただ運がいいだけの女子高生でなく、それなりの応接教育も日本で受けてきてくれたのだと、やっと安心しつつあった。初めは、これが外務大臣か、本国は何を考えているのだ、と半ば混乱していたけれど、元大統領を相手にして非礼のない落ち着いた対応をしてくれているし、気後れもしていない。鮎美と鷹姫は食事を出してもらい、テヒーナアルハツィリームという茄子の胡麻ソースがけと、シシュリックという羊の串焼きをご馳走になった。二人の若い女子が美味しそうに食べてくれるのをエフラヒムは満足そうに見て言った。

「料理は口に合うかね?」

「「はい、とても美味しいです」」

「まだ、食べられそうだな。揚げた魚を出そう。一番の郷土料理だ」

「私は、もうお腹いっぱいで……でも、鷹姫は…」

「………いただいても、よろしいですか?」

「ああ、食べろ、食べろ」

 勧められて鷹姫は油で揚げた魚も美味しそうに食べた。

「刺身を食べる日本人には、その料理は泥臭くは無いか?」

「それが土地の味だと思います。私の郷里の魚も泥の風味がして、それで育つと離れると恋しくなりますから」

 主なタンパク源が琵琶湖の魚だった鷹姫が懐かしそうに言った。ずいぶんと東京生活が続き、地元に帰っても鬼々島まで帰れないことが多いので本当に懐かしい。二人が食べ終わるまでは政治的な話を控えたエフラヒムが鮎美へ問うてくる。

「あなたは日本の海軍トップだった男と盟友だそうだが、日米関係をどうしたいと考えている?」

「単純に単独で国土を守れるなら、それが一番いいと思いますが、近隣国との関係もあり、今しばらく日米同盟は続くと思います」

「近隣国とは?」

「仲国、ロシア、朝鮮半島です」

「いずれ戦争になると思っているか?」

「いえ、あまり」

「なぜだ?」

「どちらにも、戦うだけのメリットが無い上、軍事力のバランスも取れているからです。何より海を越えて戦うのは、どちらにとっても大変です」

「うむ、日本が島国なのは、羨ましいことだな。だが、日本人は戦いが好きだろう?」

「………どの民族にも勇敢な人、とくに男性の中には、戦いが好きな人は数%いると思います。それも一つの才能かもしれません」

 鮎美は考えてから言葉を選んだけれど、エフラヒムが畳みかけてくる。

「あなたも戦いが好きだろう。自身も剣の腕前が相当でオオサカという都市の代表になっている。さらに、その従者は国一番の使い手と聞く」

「鷹姫は従者ではありません。秘書であり友人です」

 かなり自分のことを予習されているようで鮎美は居心地の悪さを感じた。相手は自分の多くを知っていそうなのに、こちらは相手を知らない。元大統領で95歳という情報しかなく、彼がイスラエル国内で右派なのか、左派なのかさえ知らない。会話の落としどころと相手の狙いが見えず、まさに右も左もわからなくて困った。そして困らせて自分の本質を見ようとしているのではないかと勘ぐれてくる。

「剣で戦うのは好きか?」

「……中学までは。鷹姫に負けて以後、引退しています」

 エフラヒムが鷹姫へ問う。

「タカキさんは剣で戦うのは好きか?」

「はい」

「戦争も好きか?」

「いいえ」

「タカキさんも同性愛者か?」

「いいえ」

「鷹姫、帰るよ。ごちそうさまでした」

 非礼な質問に怒った鮎美が席を立って去ろうとするので、慌てて大使館職員が止め、留津はエフラヒムへ性的な質問は日本では非礼に感じることもあり、とくに若い女性は怒りやすいと説明して仲を取り持とうとしてくれる。鮎美を試していたエフラヒムは離席しようとしたことに気分を害した様子もなく、クナファという菓子を二人に出してくれた。チーズとシロップの組み合わせが美味しい菓子で鮎美の気分が少し癒えた。そして鮎美から口を開く。

「失礼ながら私はエフラヒムさんのことを元大統領という以外、存じておりません。イスラエルで、どのような大統領であられたのですか?」

「うむ、私の姉は日本人に殺された」

「っ……それは……大戦中にですか?」

 鮎美の問いを翻訳しつつも留津は、やっぱり知らないのか、あの事件を、と遺族を前にして焦り、手短にでもテルアビブ空港乱射事件のことを説明しようとしたけれど、エフラヒムが仕草で止めて語るので翻訳する。

「1972年のことだ。あなたが産まれる前のことだが、学校の歴史で習わなかったか? それとも興味が無かったか?」

「言い訳になりますが、日本は大戦後、歴史の教育がとても偏り、1945年以前の歴史ばかり習うのです。これには学校教育現場に左派である供産党系の教師が多いこと、政治は右派である自眠党が握ってきたことが影響し、左よりの教育にするか、右よりの教育にするか、中道とはどこか混乱して決まらず、見解の分かれやすい現代史よりも、大学受験での答えが決まりやすい中世近代ばかりが教育されたことが影響しています。お願いできるなら、95歳の先生から教えていただきたいと思います」

「そうか……学校で教えないのか……なるほど。さきほど、あなたと出会った空港、以前はロッド空港といったが、あそこで日本人が無差別に人々を銃撃し何人も殺した。その中に私の姉もいた」

「そうだったのですか……すみません」

「とりあえずは謝るのだな、日本人は」

「………なぜ、そんな事件が起こったのですか? わざわざ、遠いイスラエルまで、その日本人が出かけた理由はあったのですか?」

「我々ユダヤ人がパレスチナ人と争っていることくらいは、知っているか?」

「はい、それは、ときおりニュースになりますから」

「そのパレスチナ人の組織は供産主義的であったし、乱射事件を起こした日本人も供産主義的な組織、日本赤軍に参加していた」

「日本赤軍……」

「それも、知らないか?」

「少しだけ、知っています。山荘に立て籠もって日本の警察と銃撃戦をした事件があったことくらいは」

「その日本赤軍が本来は無関係だった私たちの争いに参加してきた。反アメリカという供産主義らしい動機はあったかもしれないが、資金や武器の提供のような間接的な参加ではなく、自殺同然、自らの命もかえりみない自爆テロとして」

「………」

「カミカゼを知っているか?」

「はい」

「本来、イスラームの教えも、ユダヤ教キリスト教と同じく自殺を禁じている。だが、この事件を契機に、彼らのいう聖戦において自殺同然にテロを仕掛けてくることが始まった。結局、それは9.11テロにまでなる。あの9.11を見て、どう思った? カミカゼだと思ったか?」

「………同じ点もあれば、違う点もあると思います」

「どのように?」

「同じ点は死を覚悟した攻撃だというところです。違う点は日本の神風特攻隊の攻撃は米軍艦船に向かって行っています。民間人を狙ったものではありません。この点が大きく違います。むしろ、民間人への攻撃を遠慮無く行ったのはアメリカ軍の空襲と原爆です」

「あなたはアメリカが嫌いか?」

「………好きではありません」

「嫌いか?」

 老人の目が射抜くように鮎美を見てくる。

「………………正直にいえば、嫌いです。やり方の汚さが、とくに」

「彼らを殺したいと思うか?」

「そこまでは……、もう二度と、殺し合いはごめんです」

「どうも、あなたという人間が、わからないな」

「………」

「あなたはイスラエルが嫌いか?」

「いえ。失礼ながら知っていることが少なく好きとも嫌いとも、ただ、イスラエル料理は好きです」

 正直な答えにリップサービスも付けたけれど、老人は微笑んでくれず、質問ばかりされて鮎美は反撃したくなった。

「私たち日本のことを、どう思っておられますか? 嫌いですか?」

 思い切って質問したけれど、鮎美は腋に汗が湧くのを自覚した。そして、腋の毛を剃ったので先日までと違い、毛が濡れることで汗を吸収したりしてくれない。そのまま腕へ流れ落ちてくる。これでは動揺していることを相手に知られてしまいやすい。無駄毛と言われつつ、ちゃんと役割があり、眉毛が額の汗を受け止めてくれるように意味のある存在ではないかと鮎美は場違いなことを考えてもしまう。腋の毛が無駄でないとすれば、こういう難しい対話や、大きな利害がからんだ交渉時に、汗を見られてしまうと相手へ動揺しているのが伝わってしまう。どうして男たちは女たちへ腋を剃るよう求めてくるのか、もしかしたら、女を支配しやすいためかもしれない、女へ迫った時、その動揺を見て取るためかもしれないとまで考えた。そして何よりエフラヒムに、ここで日本が嫌いと言われると、ますます居心地が悪くなるので墓穴を掘ったかもしれない。老人は紅茶を飲んでから答える。

「アユミさんへの気持ちと同じだ。知れば知るほど、よくわからないな。戦えばロシアに勝ち、負けそうになっても逃げずに自殺攻撃してくる。かと思えば平和が好きだと言い、宗教が違う私たちにも敬意を払う。そのくせ、私の姉を殺した。さらに供産主義を求めているかと思えば、経済大国にまでなる。まったく、ちぐはぐだ」

「………」

「あなたも、ちぐはぐな人物で計りかねる。少女で剣が好きというのは、稀だが、どの国にもいる。けれど、核武装を唱える元軍トップの老将軍と組み、首都での選挙に勝った。極右の思想かと感じるが、逆に供産主義かと思わせるような新税制を唱え、世界に号令してくる。個人生活も、ちぐはぐすぎる。自分は同性愛者だと言いドイツ人の血を引く同性と結婚しながら、同性愛を禁じている宗教学校に在籍している。キリスト教の一派だというが、フランスなどはカルト指定している教団の学校に。また、度胸があるのは確かだろう、何度も暗殺されかけているのに怯えたところがない。当家のシェフが作った料理を疑いもせず美味そうに食べてくれた。それが自殺攻撃までする日本人の気質なのかもしれないが、わからないな、ああ、まったく、わからない」

「……キリスト教学校に入ったのは、たまたま近所にあったからです……それは外国の方には、とても変に見えるかもしれませんが、日本では、たまに普通にあることです」

「では、あなたの信じる神は? やはり天皇か? それとも天皇は王にすぎないか?」

「……………」

 鮎美が考え込む。日本人同士なら、軽く初詣とお盆は寺、と答えれば済むけれど、唯一絶対の神を信仰し、その聖地にいる外国人に、どう説明すれば納得してもらえるのか、神社が祭る神と天皇もつながっているし、神社は自然そのものも祭っている、そのことを説明する言葉選びが難しかったし、さらに強く信仰しているか、と問われると、なんとなくでしかない。仏教に対しても同じで、そもそも詳しく教義を知らないし、とりあえず南無阿弥陀仏と唱えて、先祖を大切にしよう、くらいの軽い知識しかない。一昨年亡くなった祖父が極楽浄土に行ったのか、それとも灰になっただけで無に帰したのか、真剣に考えてもいない。最近でこそ詩織から仏教のことを聴く機会もあるけれど、それも断片的でしかないし、詩織の解釈なのか、世の中で起こることは無常かつ無情、考えたって仕方ない、人生は楽しめるだけ楽しもう、そんな刹那主義が入っている。教義に厳格な陽湖の態度に比して、あまりに奔放かつ非教条主義的だった。それでも鮎美は自分の言葉をまとめた。

「実際のところ私は、ほぼ無神論者です。けれど、天皇陛下は尊崇の対象ですし、亡くなった人のことは大切にしたいと感じます」

「……。日本では宗教観と進化論がぶつからないそうだが、あなたは、どう考えている? 自分も天皇も猿と親戚だということになるが、それでいいのか?」

「私には逆に、それぞれが大切に思う神様ということと、科学的な事実が相容れないからといって、ダーウィンやガリレオを異端と言い出すことの方が理解できません。科学は科学、宗教は宗教で、それぞれに大切にしたい人が大切にすればよいだけで、相容れない考えをもつ人を排斥しようという流れになる方が…」

 愚かだ、と言いかけて鮎美は言葉を選ぶ。

「残念です。自分と違う他者が存在すること、それを歓迎しないまでも、排斥しない社会になってほしいと考えます」

「やはり同性愛者としてはキリスト教が嫌いか?」

「………自分の存在を否定する価値観を嫌わずにいるのは難しいです」

「正直だな」

 エフラヒムは2杯目の紅茶を勧めてくれた。いつの間にか、喉が渇いていた鮎美は素直に飲む。少し場の緊張が解け、再びエフラヒムが問うてくる。

「杉原千畝という日本人を知っているか?」

「「……」」

 鮎美と留津の目が合う。留津から、知っていてほしい、という気持ちが伝わってきたけれど、知らないものを知ったかぶりすることはできない。鮎美は正直に答える。

「いえ」

「そうか。イスラエルでは一番有名な日本人だぞ。1945年以前の歴史にも出てくる」

「すみません、知りません。その杉原は、やっぱりイスラエル人を殺したのですか?」

「っ……クク、ははは! お前は人を笑わせてくれるな。タニガキの笑い声も夜中に響いていたそうだが。クク」

 エフラヒムが仕草で示したので留津が手短に説明してくれ、杉原千畝が大戦中の外交官でドイツに追われるユダヤ人を逃がすため、本国の命令に抵抗して通行ビザを発給し続け数千人のユダヤ人を救ったことを鮎美は知った。そして、自分がどれだけマヌケな質問をしたのかも理解して頬を赤くした。恥ずかしい、ただの女子高生なら知らなくても恥ずかしいと感じないことでも、外務大臣にとまで言われているのに、無知でいたことが恥ずかしくて鮎美は唇を噛んだ。杉原千畝のことは高校三年生で習う日本史の資料集には載っているものの、鮎美は一学期のうちに日本史での大学受験をしないことが決定的となり現代社会の復習に切り替えたので知識の穴になっていた。ただ、知らないことが多いのは若年者として当然なので、その場合の対応は心得ている。

「そんな人がおらはったんですか不勉強でした。エフラヒムさんは杉原を、どう感じておられますか?」

「日本はドイツと同盟していたからな。それを考えると官僚としては自国への裏切り行為でもある。そうしてまでも同胞を助けてくれたことを感謝しているし、自分を犠牲にする精神が杉原にもあったのだろうか、と思っている」

 また老人が鋭く鮎美を見てくる。

「あなたは自国のカミカゼを、どう思っている?」

「…………………やむをえない選択であったと思います」

「カミカゼで死んだ戦士のことを、誇りに思っているのか?」

「………はい」

「そうか。いろいろと質問に答えてくれて、ありがとう。まだまだ日本人というのは理解できないが、少しはわかった気がする」

 そう言ったエフラヒムが握手を求めてきたので鮎美は喜んで応じた。そこへ執事が伝達に来て、邸へ日本大使が駆けつけてきたこと、鮎美が外務大臣となる旨が日本の首相官邸から正式に発表されたことを伝えた。日本大使を交えて今後の予定を話し合い、やはり帰国便の都合で予定通りの修学旅行専用機となるも、それまでの間、イスラエル政府側としては鮎美を外務大臣として歓迎したいということになった。エフラヒムが言ってくれる。

「アユミさんとタカキさんはお疲れのようだ。歓迎パーティーは夕刻からとして、それまで休んでもらえば、どうだ? 部屋を提供しよう」

「「ありがとうございます」」

 徹夜の後に飛行機の床で仮眠しただけの鮎美と鷹姫の顔には疲労が出ていたので、エフラヒムの邸でシャワーとベッドを借りた。機内での不快な体験と、鳩山総理と谷柿総裁とのやりとり、そして他国政府の元大統領との会話で疲労していた鮎美はベッドに横になると、すぐに深い眠りに落ちた。イスラエル時間での18時になり留津に起こされ、制服を着て邸の庭で開催されたパーティーに参加する。

「紹介しよう。日本から来たアユミ・セリザワ外務大臣と、その秘書タカキ・ミヤモトさんだ」

 エフラヒムの紹介で列席していた100名あまりの男女が拍手をくれる。列席者にはイスラエル政府の要人もいたし、鮎美が若いので要人の子供や孫もいて、歳の近い者が他国で大臣になることに興味をもち、いろいろと質問してくれた。それへも丁寧に答え、連合インフレ税についても問われたので熱心に語った。

「タックスヘブンを空爆せよ、という言葉が一人歩きしていますが、あれは私の発言ではありませんし、真意でもありません。また、供産主義ではないかと懸念されていますが、それも違います。分類としては修正資本主義です」

 あまり一気に話すと通訳する留津が大変なので一呼吸おく。

「経済力のある参加各国が協調して自国通貨を多めに発行し、ゆるやかなインフレにもっていきます。そうして10年15年をかけ、通貨価値を半分にする。これによってタックスヘブンに貯め込まれた租税回避財産は実質半減、50%の税金をかけたのと同じことになります。これを財源に各国は福祉政策などを充実できますし、経済力の無かった国との格差も軽減します」

 途中で若い男性イスラエル人が挙手したので頷いて発言してもらう。

「その政策では、タックスヘブンの財産だけでなく、しっかりと納税していた人間の財産も半分の値打ちになるし、ただ流入してきただけのパレスチナ人のような者にも福祉をバラまくことになる。賛成しかねるな」

「現状の制度ではタックスヘブンは永遠に逃げ続けます。結果として、しっかりと現状で納税している人へ、より重い税金が課され、福祉などが維持されるでしょう。この方が不平等です。また世界の富みが上位5%の人間によって50%を占められていることを考えれば、この25%に課税できたとき、しっかりと現状で納税している人の税金を軽減することもできます。そして、私はイスラエルの方々とパレスチナ人の関係を失礼ながら、ほぼ知りませんが、それは在日朝鮮人問題を他国の方が知らないのと同様で、それぞれに複雑な歴史と事情のあることです。したがって、どのような福祉政策を実施または実施しないか、は各国の自由です。その点、EUやソ連とは違います。税収は協調して得ますが、国家支出は各国の裁量のままです。また、私の国でも流入して数年といった過去の納税期間が短い人へ、赤ちゃん手当てなどの手厚い福祉は支給されないか、減額して支給される、といった案を練っています」

 今まで何度も母国で説明したことなので立て板に水で語ると、多くのイスラエル人が頷いてくれた。そして今度は英国の大学院を卒業したという若いイスラエル人女性が手をあげた。

「スイスのような経済力のある国が参加しなかった場合、どうしますか?」

「参加しない場合、自国通貨高に非常に苦しむと考えます。もちろん、輸入は割安にできるわけですから、あらゆる食品、資源が豊富かつ容易に入ってくるものの、一人の人間が食べる量には限りがあり、輸入食品が増えすぎれば食糧自給率の低下を招きますし、国内の第一次産業が苦しみます。資源にしても多く輸入したところで製品化して輸出するとき、他国でインフレが進んでいては、とても苦戦するでしょう。何より、もともと参加しないという選択肢はタックスヘブンを保護するようにも見えますし、スイスはリヒテンシュタインを抱え、ややタックスヘブンよりの国ですから、そういった意味での批判も集まり、苦しい立場に置かれると考えます」

 趣旨の違う質問も来る。

「あなたの同性愛趣味について、あなたの国では許容されているの?」

「……。趣味て……え~……私が同性愛者であることは個人的なことで、このさい、政策とは無関係ですから、時間を惜しみます」

「日本では供産主義者と資本主義者、どちらが多い?」

「明らかに供産主義者は少数派です。それでも、いまだ供産党は残っていますし、供産党議員とも知り合いですが、あまり本気で日本を供産主義化しようとしているとは感じません。単に大企業から税金を多く取って、貧しい人への福祉を充実しよう。日本の軍事費を減らそう、アメリカ軍を追い出そう、そのくらいの団体に感じています。昔は左派の一部が過激化し、イスラエルの方々にも多大の迷惑をおかけし、犠牲者まで出したことは申し訳なく思います。ただ、ここ最近は政治的な理由でのテロは無くなり、ごくごく一部の狂信主義的な宗教テロによって毒ガス散布があったくらいで、かつての過激派は高齢化によって沈静しています」

「宇宙ロケット技術が高く原発も多い日本は、本当はすでに核兵器をもっている?」

「もっていません」

「もとうとする意志はあるの?」

 鮎美が若くて訊きやすい雰囲気があるからか、通常は外交の場では出ないような率直な質問が、やはり若者から飛んでくる。それに鮎美は慎重に答える。

「核保有の意志は一部にはありますが、少数派です」

「アユミ大臣の意志は?」

「日本は唯一の被爆国です。たとえ、核兵器に有用な抑止力があるとしても、世界における核不拡散の潮流に対して、被爆国日本の核武装はきわめて悪影響を与えるでしょうから、私の意志は核武装を否定します」

 単なる核アレルギーでもなく、これまでに石永たちと培った討論の経験も役立ち、自分の意見として言うことができていた。

「ユダヤ人とイスラエル国を、どう思っていますか?」

「よく知らないので、これから勉強し、より友好的な関係でありたいと思います」

「ドイツによるホロコーストを知っていますか?」

「歴史の授業で習いました」

 鮎美は玄次郎から、その犠牲者数について諸説あることを聴いていたけれど、場を弁えて言わないことを選んだ。まだまだ質問がくる。

「再び戦争になったとき、日本はまたドイツの味方をしますか?」

「いつもドイツの味方とは限りません。げんに第一次大戦では対独宣戦していますし、何より、もう戦争が無いことを祈ります。が…」

 疲れてきた鮎美は間をおいて一堂を見回してから言う。

「選べるなら、勝つ方に味方したいと思います」

 それで笑いが起こり、あまり食べていなかった鮎美へ、鷹姫がラム肉の炭火焼きを勧めてくれたので歓談が続き、政治の話は控え目となったけれど、最後にエフラヒムが問うてきた。

「明日の昼過ぎには帰国せねばならないようだが、今一度、アユミ大臣を囲んでイスラエル政府として正式な昼食会をタン・テルアビブホテルで催したい。来てくれるなら嬉しいが、その場合、あなたはエルサレムを訪れる機会を逸してしまう。聖地を見ておきたいという気持ちは、どうだろう?」

 イスラエルを訪れる外国人のほとんどが聖地への訪問を目的としているので、鮎美へ配慮してくれている。鮎美は会釈して答える。

「せっかくのお招きですし、みなさんとの友好の機会を大切にしたいと思います。聖地を訪れる機会は、次の楽しみにしておきます」

 うまく答えてくれる鮎美の態度に、通訳している留津も安心していく。外国赴任していると、日本のニュースやテレビ番組を見る機会は限られるので、最近の鮎美ブームは知らず、ただIMFが県知事とともに発表した連合インフレ税については記憶していたけれど、まさか18歳の女子高生を外務大臣にすると鳩山政権が言い出すとは、どういうことだ?! 日本はもう終わりなのか?! と不安になっていた。その不安は鮎美のそばで通訳していくうちに、消えてきている。パーティーが終わり鮎美と鷹姫を日本大使館の車両でタン・テルアビブホテルへ送る途中、留津は笑顔で言った。

「高校生のあなたが外務大臣と聞いて、一時はどうなることかと思いましたが、なるほど立派な人ですな。感服しました」

「そんな大袈裟に誉めんといてください。自分の地位や立場を勘違いせんように、なんとか努力してるところですさかい」

「そういう慎重さが18歳とは思えませんな。これまでもタレントやスポーツ選手あがりの議員で政務官になった人が外遊に来たのをサポートしましたが、いい人はいいが、ひどい人は、ひどいものでしたから」

「そうなんですか?」

「ええ、そりゃもう。国外に出ると週刊紙などの目が届かないとでも思うのでしょうな。酔って女を買いに行くだの公然と言い出したりする。あ、失礼、女性を前に不適切な話でした」

「いえ、実情は知っておきたいですし。うちはレズビアンやから、男の人のそういう気持ちはわかるつもりです」

「ははは、芹沢大臣は、人を笑わせるのが巧いようですな」

「出が大阪ですさかい。と調子にのって喋るとボロが出るし、おとなしいするつもりです」

「ははは、とにかく安心しましたよ。ひどいタレント議員のように振る舞われると、あとで相手国との関係を修正する我々が大変ですから」

「うちは、うまくやれてましたか?」

「ええ。ヒヤリとしたのはエフラヒム氏が、わざわざ日本料理もできると言われたとき、考え無しに天ぷらが食べたいだの言い出され、あげくに揚げ方がなってない、不味いなどと喚かれた日には悪夢ですから」

「ははは……そんな女子高生大臣は嫌ですね。絵に描いたようなアホやわ」

 鮎美はワガママに振る舞う自分を想像してみた。とても見苦しくて、きっと鷹姫は悲しむし、詩織は黙って去るかもしれない、そして静江は鮎美の利用の仕方を変えてくる気がする。

「あとヒヤリどころか、かなり慌てたのは、エフラヒム氏の質問に怒って席を立たれたときです」

「その節は、すみません」

「いや、あれはエフラヒム氏も悪い。わざわざ芹沢大臣の腹を探るように、怒らせるような質問をして人物を見極めようとした」

「参考までに、ああいうとき、どういう態度がベストやったか、教えてもらえますか?」

「そうですな……いや、あれは、あれで良かったかもしれない。怒るべきところで、怒る人だと感じてもらえる」

「やっぱり試された感じですか……あれ」

「まあ、エフラヒム氏の気持ちもわかりますから、悪く思わないでください。どこの国の人でも18歳の女大臣が来たとなれば、なにかと様子見はするでしょう。様子見という意味で加えて言っておきますが、イスラエルと日本は友好的関係にあるものの、常に盗聴器は警戒してください」

「盗聴器……」

「外交の場では、当たり前のようなものです。なのでホテルの部屋で相手国の悪口を言ったりすると、それは伝わると考えて会話してください」

「……はい、気ぃつけます」

「他にも不安に思うことがあれば、ご滞在中、すぐに私へ連絡ください。今は何か訊きたいことはありますか?」

「えっと……少し話がそれるのですが、以前ジェトロへ勤めていた牧田詩織という人を知ってはります? うちのパートナーなんですけど」

「ああ、牧田さん。はい、わずかな期間ですが南米で同じ事務所になったことがあります」

「南米……そのとき、評判とか、周りでは、どう言われてました?」

「評判ですか……」

 留津が思い出してみる。美人で言語能力も高い詩織の評価は高かった。むしろ逆に彼女のような女性が治安の悪い国に赴任していたのが不思議なくらいだった。そして、元ドイツ警察に勤めていた経験からか、すぐに現地の警察署長や警察官僚たちと仲良くなっていた。ただ、不可解なことは詩織が休暇の日に限って、在留日本人や在留ドイツ人が行方不明になったりした。治安の悪い国なので旅行者が殺されることは珍しくもなく、そして警察も真剣に捜査しない。それどころか、多少のワイロを渡せば目前に犯人がいても見逃してしまう。そういうことがあって留津は気にかかっていたけれど、何も確かな証拠がないうちに詩織は辞めてしまったし、留津が気にかけたのも、たまたま出勤のシフト表と在留邦人行方不明者リストを机に並べていて気づいただけだった。

「優秀な人でしたよ、それに美人だから、人気もあった。ジェトロ内でも、誰が射止めるのか話題になったりもしましたが、まさか年下の女性と結婚というのは意外中の意外ですな。ははは」

 不確かな疑惑を口にしても、それこそ鮎美を怒らせるだけだと判断した留津は言わないことにした。車両がホテルに着く。鮎美たちの車両の前後には軍用車が3台ずつの計6台がつき、うち2台は車というより機関砲を装備した装甲兵器に見えた。

「えらい厳重な警備をしてくれはりますね。うちには自前のSPもいてくれはるのに」

「外国の大臣として警護している面もあるでしょうが、率直にいえば、芹沢大臣の性癖も原因しています」

「うちが同性愛者やし?」

 留津は真面目な顔で頷く。

「はい、そうです。外国大臣が在留中に万一にもテロの対象になればイスラエル政府としては大きな傷になります。その上、宗教上の理由で狙われやすい性癖をお持ちとなれば、こうもなります」

「そうですか………一応、言っておきますけど、日本語の意味として性癖というのは同性愛者に使うのは不適当ですよ。うちらが同性を好きになるのは性的指向です。あなた方、異性愛者が異性を好きになるのも、そのような性的指向であるように。そして性癖は、また別のもので、異性愛者にも色々な性癖があり、同性愛者にも色々な性癖があります。できれば、覚えておいてください」

「わかりました」

「……キレイなホテルやなぁ……」

 タン・テルアビブホテルは外観が虹色に染められていて、鮎美は制服の胸に着けている虹色のバッチを撫で、朝槍のことを想い出した。

「……朝槍先生……」

 発見された遺体は膣に銃口を挿入されて発砲され焼かれた無残なものと聞く。そんなことをした犯人を同じ目に遭わせてやりたいけれど、その犯人も撃たれて焼かれ死んでいて、おそらくは詩織が必死の反撃で仕留めたのだと思っている。

「………詩織はん……忘れたみたいに振る舞ってくれるけど……一番つらいのは詩織はんのはず……」

 鮎美の瞳がイスラエルの夜空を映しながら悲しみに満ちると、鷹姫が心配する。

「芹沢先生、明日も忙しく、またフライトは長時間になり、帰国すれば外務大臣としての業務が待っております。どうか、お休みください」

「そうやね、おおきに」

 礼を言ってホテルの客室に向かう。部屋の外に日本から連れてきたSPの他に、イスラエル軍の女性兵士4名が立ってくれることになっていた。軍服を着て大きな銃を持っている女性兵士に鮎美と鷹姫は興味をもった。

「女性で兵隊さんかぁ」

「車から見えた街中でも兵士を多く見かけましたし、女性も少なくなかったです」

 二人へ留津が教えてくれる。

「イスラエルは女性にも兵役がありますから」

「そうなんや……」

 鮎美は話しかけてみようかと思ったけれど、彼女たちの視線から同性愛者である自分への嫌悪感が見て取れたのでやめた。パーティーで出会った人々と違い、急な護衛任務が入り、その護衛対象が女性であるので女性兵士が選ばれたけれど、少しネットを調べれば鮎美が同性愛者であることは英語情報でもわかるし、命令を受けるときに説明があったのかもしれない。彼女たちが強く神を信じているなら、その分だけ戒律を無視している人間への嫌悪感は強くなるかもしれないし、鮎美だけでなく鷹姫や介式まで同類と見ている感じがする。その誤解をとくのも一苦労しそうなので、このさい諦めて鷹姫と客室に入った。

「明日の朝、お迎えにまいります」

 留津は緊急時の電話番号だけ置いて帰ってくれる。鷹姫と二人になった。

「この国の兵隊さん、多いなぁ。しかも、もろに鉄砲を丸出しでもってるし」

「何度も戦争をした中東諸国と国境を接している危機感なのだと思います。四国程度の面積に900万に満たない人口では不意打ちされてはかなわぬと、つねに備えているのでしょう」

「戦争かぁ……リアルに戦争が身近なんや……。宗教が戦争を生むんちゃうかなぁ…」

 鮎美の言葉を聞いて鷹姫は急に近づいてくる。鷹姫の唇が顔に近づいてきたので鮎美はドキリとしたけれど、鷹姫は小声で鮎美の耳へ囁いてきただけだった。

「芹沢先生、杞憂にすぎないかもしれませんが、留津さんが言うように盗聴を警戒してください。とくに、この国にいるうちに宗教批判はおやめください」

「そやね。……航空通信なんかモロに聴かれてたもんね」

 鮎美も小声で囁き返すと、室内を見回した。盗聴や盗撮の可能性を考えると、女子として気持ちが悪い。もう一度、鷹姫の耳に唇を近づけた。

「バスルームまで何かしてると思う?」

「さぁ……」

「さすがに、それはないかな。お風呂は入りたいし」

「私が先に入って、それとなく確かめておきます」

 鷹姫はバスルームに入ると、制服を脱ぎながら鏡や壁、天井を見るけれど、ごく小型のカメラであったなら、目で見ただけではわからない気がしたので、いっそ湿度で曇らせることにした。シャワーを浴びてから鮎美に謝っておく。

「すみません。行儀が悪いですが、全体を曇らせるため、お湯を飛び散らしています。今なら大丈夫かと思いますので、どうぞ」

「っ…う、…うん…おおきに…」

 鮎美はバスローブを羽織っただけの鷹姫が近づいてきて囁きかけてくれると心臓が高鳴るのを感じた。鮎美からは何度も鷹姫を押し倒そうとしたけれど、自分より一回り身体が大きくて力強い鷹姫から押し倒しに来て抱きしめてほしいという欲求がある。押し倒されて、少しだけ抵抗して諦めて抱かれるまま翻弄されたいという嗜好だった。いっそ見下した目で見られながら、竹刀で翻弄されたいとも思うし、竹刀を身体に挿入されるなら衛生面からコンドームをかぶせてほしい、といった具体的なことを考えたこともある。けれど、そんなことを言えば、剣道を大切にしている鷹姫から本気で軽蔑されるかもしれないので永遠に黙っておくつもりだったし、結婚指輪の感触も忘れていないので冷静に入浴を済ませた。

「疲れたし、早よ、寝よか」

「はい」

 疲れているのと盗聴を懸念していること、そして明日の昼食会でも連合インフレ税について自ら売り込みたいために、静かに別々のベッドで眠った。

 

 

 

 翌3月10日木曜、ドイツ時間での昼12時、ベルリン市街のカフェで詩織からのメールをスマートフォンで見ていたルカスは、いっしょにランチを食べた女性からの質問に答えていた。

「4年前? シオリの部屋に泊まったときか……」

「そう、2007年6月8日のこと」

「あの夜は金曜だったから、シオリと呑んで、たしかに彼女の部屋にいったよ。この話、少し前にも刑事に聞かれた。彼女、何かしたのかい?」

「ちょっとした探偵ごっこよ。ねぇ、お願い、詳しく思い出して」

「詳しくと言われても、ボクは、すぐに寝てしまったから」

「どうして寝てしまったの? ルカスらしくない。本当に寝たの?」

 女性は美しい金髪をゆらして訊いてくる。その金髪とカナリアのような美声が魅力的でルカスは刑事には言わなかったことを告げる。

「寝てしまったのは、たしかだよ。たまにはボクも酒に負けるんだろう。部屋に着いて呑み直してからベッドに、というつもりだったのに。シオリからもらった日本風のカクテルを呑んだ後、すぐに眠くなって。坊やのようにネンネさ。おしいことをした」

「それで朝まで?」

「ああ」

「ということは、その間、シオリが外出していても、わからないのね?」

「まあ、そうなるけど、あんな時間から外出しないだろ。女性が一人で。それより明日も金曜だ。ボクと呑みに行かないか?」

「ごめんなさい、用事を思い出したわ。また、今度ね」

 あっさりと逃げられたルカスは肩をすくめ、コーヒーを飲みながらスマートフォンを眺めた。そしてニュースでアメリカのオパマ大統領が連合インフレ税への参加を表明し、直後に日本の鳩山総理も参加を言い出したので、嬉しくて詩織に国際電話をかけた。日本時間では20時過ぎで詩織は受話してくれた。

「シオリ、とうとう日米が参加するようだね」

「はい、とうとう、ここまで来ました」

 二人とも世界を動かした一員としての喜ばしさがあった。今もタブレット端末でライブニュースを見ながら電話しているので、鮎美の顔も見ている。これからイスラエル政府に招かれての昼食会というタイミングで日米の参加表明を受け、各国の報道機関に囲まれてフラッシュを浴びている。鮎美は神妙ながら堂々とした顔で取材に応えていた。きっと、この放送は世界中の政治と経済にかかわる人間が見ていると思うと、ルカスも詩織も協力者として心が躍った。

「大成功だ。発信国日本の参加表明が遅かったのは残念だけれど、アユミは大臣になるそうじゃないか。日本政府も大胆だな」

「当然の結果です。すぐに鮎美は首相にもなりますよ」

「ははは、それは楽しみだ。シオリも大臣婦人からトップレディーになるわけだし。ボクもドイツとスイスでのベーシック・インカム実現に努力しよう。これは一種の革命だよ。一昔前の世界同時革命は失敗したけれど、アユミの案は格差を縮めはしても皆無にはしないから努力の結果による序列も残るし、紙幣価値を半分にしてバラ撒くとしても、資本家に生産手段などの資本は残るから受け入れやすい」

「そうですね。かつての革命は暴力革命でしたから人心を得られませんでしたが、今回は情報革命がもたらしたスピードと、格差を不満に思う人心がそろい、一挙にここまで来ましたね」

「ああ、インターネットで世界がつながっていることを実感するよ。あ、それは、そうと、気になることがあった」

「どんなことですか?」

「やたらと、昔のシオリとボクの関係、それも4年前の6月8日について訊かれるんだ」

「……。どんな人から?」

 詩織の声のトーンが少しだけ落ちた。

「刑事と、あと逆ナンしてきた金髪の女」

「そうですか。なにか誤解があるのかもしれませんね」

 詩織は答えながら4年前に殺した男性のことを想い出した。ウイーンで出会った声楽隊所属の美男子で、美しい金髪とカナリアのような美声に惹かれて、その喉があげる悲鳴を聴きたくて両目を抉ってから、指を一本ずつ折って楽しんだ。最期にシューベルト作曲の魔王を謳ってもらい、お礼に苦しまないようナイフで心臓を刺した。遺体は発見されていないはずだったけれど、なるべく交友関係のあった人間をターゲットにすることは避けていたのに、鮎美と同じく魅力的すぎたので我慢できず欲望に負けた。その時のアリバイ作りにルカスを利用したけれど、そこを疑われているということは、ある程度の物証も掴まれたのかもしれない。

「……」

 もう鮎美の殺し方も決めている。連合インフレ税が始動した日に誘拐して、お腹を時間をかけて裂くつもりだった。キリストのように手足を固定してから、大津田に斬られたのと同じ場所を、ゆっくり1ミリずつ斬っていく。一度に深さ1ミリずつ。マゾ気もエス気もある鮎美は、きっと始めのうちはハード過ぎるSMプレイだと想ってくれる。けれど、その受け止め方を裏切られて自分が本当に殺されるのだと悟ったときの鮎美の顔が見たい。見たい、絶対に見たい。裕福な家に生まれたのに献身したナイチンゲールや、不自由のない生活を捨てて尽くしたテレサのように、世界中の弱者のことを考え、人類社会をマルクスを超えて動かしつつある自負と、最愛のパートナーだと想ってくれていること、それが幻のように終わって、あとは苦痛と絶望しかないと悟ったときの顔が見たい。それを見るまでに捕まるわけにはいかない。そして鮎美の遺体は隠蔽せずに全世界へ晒したい。きっと歴史に残る事件になる。千年先の歴史の教科書にはジャンヌダルクより、エリザベス女王より、鮎美の名が残ってくれる。殺されるときの最期の叫びと表情もライブで世界に発信したい。そうすれば、まさに鮎美を歴史の中に生き続ける神話的人物にできる。世界の格差を救ったのに、あわれに殺されてしまった聖女として、イエスより広く世界に記憶される。キリスト教圏だけでなく、それこそ通貨をもちいるすべての文化圏で鮎美の名が残り、神話になり、あわれまれ、崇められ、そして詩織は最悪の悪魔となる。そして悪魔として鮎美へ問いたい、イエスは磔にされて絶望したとき、わたしの神、わたしの神、なぜわたしをお見捨てになりましたか、と言ったらしいですよ、鮎美は何と叫びますか、わたしの鮎美、わたしの鮎美、殺させてください、だって、これが私にとっての最高の快感なのだから仕方ないですよね、多様性ですよ、人生いろいろ、人もいろいろです、と。問題は、そこまでして詩織自身が捕まらない方法だったけれど、それが難問で、まだ対策を思いつけていない。かの切り裂きジャックのように、永遠の逃亡者として、逃げ切ってみせたい。早くしないとドイツ警察がICPO経由で逮捕状を日本警察へ回してくるかもしれない、じわりと詩織の腋に汗が流れると入浴していないので匂いが強かった。

「シオリ? 聞いてるかい?」

「あ、ごめんなさい。少し通信状態が悪いようです。また、メールしますね」

 詩織が唐突に電話を切ったので、ルカスは諦めてコーヒーを飲み干した。

 

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