第39話 2月2日 アユミ・ショック
翌2月2日水曜朝、鮎美は議員宿舎を出る前にスマートフォンと朝刊を見ていた。各紙の一面には再び鮎美の名が踊っている。
「………アユミ・ショックとか、名付けるか……うちが倒産したみたいやん」
「それだけ芹沢先生の影響が大きいということでしょう」
鷹姫は誇らしげに言ってくれるけれど、鮎美は狙い通りとはいえ調子に乗る気持ちになれない。
「うちは主要通貨の足並みをそろえたインフレが目標なんよ。今の円高、ドル安の継続は好ましくないし。新聞が印刷された時点では76円割ってないけど、スマフォ見ると、もう割りそうやん」
「ニュージーランドの市場は3時間早く開きますから」
「半世紀前、ニクソン大統領が金ドル固定の政策を転換するて発表したんは、わざわざ日本市場が開いてる時間やってん。日本市場が混乱するの見越して、やりおった。ええ根性してるわ、アメリカ人」
「彼らの本質は侵略者です」
「何が、あの人らをそうさせるんやろね……日本と仲国は、めったと戦争してこなんだのに、欧米中東は何回でも飽きんとやりはる……」
「キリスト教とイスラム教のせいでしょうか……」
「アブラハムの宗教か……うちらには、わからんもんやね。あっ…76円割った」
鮎美がスマートフォンの画面を見ているときにドル円相場が75円台に突入した。
「……鳩山総理……野田蔵相、なにやってんのよ、早う市場介入しぃや」
「芹沢先生、お時間です」
「そうやね、うちが焦っても、何もできんね。けど、発言には気をつけていこ」
鮎美が議員宿舎を出て国会へ入ろうとすると、多数の記者が取材しようと集まってきたけれど、事前に介式たちに頼んでおいたので守ってくれる。守られながら、会釈だけはして通り過ぎた。お昼休みは参議院の若手が集まる昼食会で、党の別なく30代以下が庶民的な雰囲気で会話している。話題の中心は、やはり鮎美だったけれど、新しいニュースが入ってきて松尾が言う。
「政府が為替介入を発表したぞ」
「…よかった…」
鮎美は一安心したし、さらに別のニュースが入った。
「アユちゃんに銃弾を送ったヤツ、捕まったよ」
「え? ホンマ? もう?」
「ほら」
音羽がスマートフォンの画面を見せてくれる。犯人は自称民間軍事会社経営の38歳の男で、過去にミリタリーショップを経営しており、送りつけたライフル弾はかつての商品だった。
「ちょっと介式はんと喋ってこよ」
「あ、私も聴きたい」
「私も」
音羽と翔子もついてくるし、松尾も廊下に出てきた。鮎美は廊下で待機していた介式に話しかける。
「介式はん、うちを脅迫したヤツ、逮捕されたらしいですやん。何か知ってはります?」
「私たちも、さきほど連絡を受けた」
「えらい早い逮捕ですやん。なんでやの?」
「送りつけてきた銃弾はNATO弾というものだった」
「それって北大西洋条約機構とか関係あるもんですか?」
「ああ、主に西側諸国で使われているもので珍しくはない。だが、日本で所持している者は多くはない。他に、郵便の消印や投函前後の付近コンビニに残っていた監視カメラの映像、封筒と手紙に残っていた指紋、ミリタリーショップ経営という経歴、これらから届けられた翌日には目星をつけていたらしい。指紋を確かめる最終的な絞り込みに今日までかかったのだろう。一応、訊くが犯人との面識や見覚えは?」
「ぜんぜん知らへん人です。地元でもないし。犯行の動機は?」
「芹沢議員が行った1月24日の記者会見後、円相場が2円動き、それで1500万円の損をしたらしい」
「2円で1500万も……」
「FXだな」
松尾が言い、介式が頷く。
「そうらしい。為替の証拠金取引をしていて大損したことを恨んでの犯行だ」
知念がSPとしての緊張を少し解いて肩を回しながら言う。
「あきれた動機っすよね。逆恨みもいいとこだし。おかげで介式警部は友達の結婚式に出られずじまい」
「そうやったんですか、うちの警護のために、すんません」
「知念! 余計なことは言わなくていい!」
「はっ、すいません! 以後気をつけます!」
知念は敬礼して謝った。鮎美が問う。
「にしても、けっこう犯人に関する情報、わかってたんですね。うちにも教えてほしかったわ」
「捜査情報は秘匿を要する。とくに逮捕までは」
「うちは被害者ですやん」
「芹沢議員の身近な者や学校関係者が犯人という可能性も最後まで排除できない」
「……そうですね……最初の刺傷事件は、学校の後輩やった……」
鮎美は沈んだ表情をしたけれど、すぐに気を取り直して問う。
「ってことは、これで介式はん、知念はんとも、とうとうお別れですか?」
「いや、まだ数日は用心のため、警護任務は続くだろう」
松尾が考えてから言う。
「犯行の動機から考えると今週の値動きの方が、危ないぞ。オレの弟は、円高が進むと見て50万、儲けたらしいから、すっかり芹沢鮎美フィギアを拝むようになったけど、逆だったら投げ捨てたかもなぁ」
「うちのフィギアなんか、あるんや……」
「制服もコスプレ目的とコレクション目的で人気が出て、仲国業者がレプリカを作り始めてるし、過去の卒業生がネットオークションに出した本物は高値がついてる。アユミコスはホコテン復活した秋葉にいけば、よく見かけるらしい。どう思う? 本人としては」
「……ノーコメント…」
そう言った鮎美はトイレに入った。一人で排便を済ませられる喜びを再確認して午後の国会と夕方の連続会議も終え、また詩織が調整した外国メディアの取材に応じるけれど、国内メディアも無視すると悪いことを書かれるかもしれないので静江が選んだ2社の取材に応じ、議員宿舎に帰って、その録画を鷹姫と視聴する。
「うちらの計画、怖いくらい、うまくいってるね」
「芹沢先生のおっしゃることが正義だと誰もが感じるからです」
「中には脅迫しよるヤツもおるよ」
「愚か者にすぎません」
「……。うちにも愚かなところは多いよ。浮かれて足元すくわれんようにしよ」
鷹姫と別れて入浴後にスマートフォンを見たけれど、詩織からのメールは無かった。
「押しと引きがうまいなぁ」
少し淋しいので鐘留へメールを送ると、インフルエンザから回復し熱も引きつつあると返事をもらえたので、金曜の夜には訪ねると送った。
翌2月3日木曜の夜、国会を終え自眠党本部での連続する会議も終えて、鮎美は石永と玄関ロビーで話していた。
「来週からはオレの案内なしでも、大丈夫そうだな」
「はい。けど、来週からは都知事選が始まりますし、国会が終わったら夕方は応援に行く予定なんで、しばらく欠席してしまうかもしれません。すんません」
「いや、謝らなくていいよ。畑母神先生と引き合わせたのはオレだし。芹沢先生は本当に人気者になって忙しいな」
「自分で始めたことも多いですから」
「そうだな。まだ始まったばかりだけど、オンとオフの切り替え、休息も、しっかり取らないと疲れは気がつかないうちに溜まるから注意して。オレも落選して実感するよ、ちょっと背伸びしすぎてたなぁ、ってな」
「はい……そういえば、今週も忙しかったなぁ……ご飯食べるときも人と話して……気が休まるんはトイレくらい……まだ、今夜も取材あるし」
少し気の抜けた声を漏らしつつ、玄関ロビーから外に出る。石永と鷹姫、そして介式たちSPもついてくる。玄関前から党の防弾車に乗ろうとしたとき、騒ぎが聞こえてきた。本部前に集まっていた報道陣の中から不審な男がハンマーを持って駆け出してくる。門前を警備していた警備員を振り切り、鮎美へ向かってきている。疲れていた鮎美は、それを危険と認識するのに時間を要したけれど、介式が前から、知念が後ろから鮎美を抱き庇い、他のSP2名が男を取り押さえている。
「芹沢議員を車へ!」
「はい!」
介式と知念が軽々と鮎美を持ち上げ、車に運び込んでくれる。
「車を出せ! ゆっくり急いで!」
「は、はい」
党職員だった運転手が介式の矛盾した指示を正確に意図を汲み取り、すぐに発車しつつも、ゆっくりと徐行で道路へ出た。まだ、介式と知念は鮎美の頭や胸を左右から抱いていてくれる。少し走ってから運転手が問う。
「目的地は、どこですか?」
「……あ、えっと……鷹姫を置いてきて……しもてるから……。介式はん、なんで鷹姫を置いてきたんです?」
「芹沢議員の安全が最優先される。それに、宮本くんなら大丈夫だ」
言いながら介式は鮎美を抱くのをやめ、知念もやめた。
「うち、とっさで何もわからへんかったけど、鷹姫は怪我してないですか?」
「ああ。おそらく犯人は一名、すぐに取り押さえている。刃物ではなくハンマーのような物を手にしていた。宮本くんは私が教えておいた通り、我々の邪魔にならぬよう、その場に伏せてくれたから無事のはずだ」
「そうですか。ちょっと、電話かけてみます。次の予定も確認せんとあかんし」
鮎美が電話すると、すぐに鷹姫は出た。
「ご無事ですか?!」
「うん、うちは平気よ。介式はんと知念はんのおかげで。鷹姫は怪我してへん?」
「はい」
「そっちは、どんな様子?」
「今、SPが所轄警察に犯人を引き渡しています」
「犯人が、どんな人か、うちを狙った動機とかわかる?」
「20代か、30代くらいの男性という見たままのことしか……武器はハンマーの他に針金かワイヤーのようなものを所持していました」
「ハンマーと針金って……どうする気やってんろ……」
「わかりません」
「とりあえず、次の予定はテレビ局やんな? どこに行けばいいか、教えて、ほんで合流して」
「はい」
鷹姫が告げてくれたテレビ局でニュース番組に出演すると、話題は政策のことより襲撃のことばかりになり、鮎美自身も何もわかっていない段階だったので答えるのに言葉を選び、苦労した。出演が終わると、鷹姫とSPたちが待っていてくれる。SPの数が4名から6名に増えていた。
「うちの警護のために、ありがとうございます」
鮎美は囲んでくれるSPたちに一礼した。時間で交替したのか、それとも取り押さえ現場にいたからなのか、介式と知念がいなくなったのは少し淋しい。次のテレビ局に移動し、またニュース番組に出演した。今度は襲撃事件の話は少なめで、経済の話になった。ニュースキャスターが言ってくる。
「政府の為替介入で円高は止まり、割安感の出た株も買い戻されましたが、どう思われますか?」
「正直なところ、もう少し早く為替介入していただきたかったです。うちの言ったことの影響やとは責任を感じてますけど、ドル円の不均衡はリーマンショックから米経済が立ち直っていないことが主因やと思います。日本株が買い戻されたのは割安感が出たし、うちが投資家でも、そうすると思いますから普通の反応やと思います。問題の本質は、普通の反応の積み重ねで、大きな利益を蓄えるところが出てくるのは良いとして、そこへ適正な課税がされないことやと考えております」
しっかりと答える鮎美に意地悪したくなったのか、ニュースキャスターは別のニュースの後に、また問うてくる。
「今の大相撲、八百長問題は、どう思われますか? とうとう協会の調査に対し、数名の力士が八百長を認めていますが、芹沢さんは高校生として、また議員として、どうお感じになられます?」
「…え…」
相撲なんか、まったく見んし、めちゃどうでもええんやけど……けど国技やから下手なこと言うてもあかんよね、と鮎美は考えを巡らし言葉を選んだ。
「相撲は国技ですから、国技に相応しい形に整っていくのが良いと思います」
「国技であると同時に女性の立場から見たとき、土俵に女性があがってはいけない、というのは、どう感じられますか?」
「……」
あ、この人、うちが女性の権利を大きめに言うのを期待してんのや、と鮎美はニュースキャスターの質問が何を狙っているか気づいた。そして、また言葉を選ぶ。
「普遍的な人権意識と、それぞれが大切にしている文化と道徳、宗教の衝突は今世紀において人類が深く考えるべき問題やと思います。道徳と信仰の自由、これが衝突してしまうこともあり、たとえばカトリックの妊娠中絶問題もそうですし、女性の服装規定に厳しい宗教もそうです。逆に女性による逆セクハラもありますし、ファッションだ、という主張もあり、すぐに答えは出ないと考えます」
「土俵の問題に限っていくと、どうですか? たとえ表彰式でも、女性知事などは土俵へあげるべきでない、とされていますが?」
「……。土俵のことは、大切にしてはる文化やと感じます。うちもやっていた剣道が、ただのスポーツではなく道としての道徳性や、ある種の宗教に近い観念、形而上学的な存在も含むように、相撲もスポーツ試合という面だけでなく儀式というか、宗教的意味合いもあると思います。ということは男女平等ということを押しつけるのは、相撲を大切にするという信仰の自由を犯すことにもなるのですから、そこは控えるべきやと思います」
ニュース番組が終わり、強い疲労感を覚えた。
「はぁ……」
スタジオを出て、鷹姫とSPに囲まれながら防弾車に乗った。
「……鷹姫、さっきの、うちの答え、どう思う? 相撲の話」
「ごく無難で問題のない解答だったと思います」
「…………もし、剣道が女子禁止やったら、どう思う?」
「それは…………」
考え込む鷹姫の頭を撫でた。
「ごめん、ちょっと意地悪いうてみたかってん、ごめんな」
「芹沢先生…」
「なあ、SPさんらは守秘義務あるし、車内は二人きりって考えて、その呼び方、やめてくれん?」
「……」
鷹姫が迷っていると、鷹姫の携帯電話が鳴った。
「はい、芹沢鮎美の秘書、宮本です」
「私も鮎美先生の秘書、牧田です」
「ご用件をどうぞ」
「あいかわらず録音再生みたいな話し方ですね、まあいいです。イタリアのテレビ局が鮎美先生にインタビューしたいそうです。今から浅草に来てもらえますか? たしか、今夜の予定は、もう無いはずですよね」
「はい、予定はありません。芹沢先生に、うかがってみます」
鷹姫が鮎美に問うと、鮎美は頷き、電話が終わってからタメ息をついた。時刻は23時を過ぎている。時差の問題でイタリアでは、ちょうどいい時間なのかもしれないし、鮎美の予定に空きがあるのは早朝か深夜になってきている。
「うちを殺す気か……」
「やはりお疲れですか、今からでも断りますか?」
「ううん、頑張って調整してくれたんやし、受けるわ。うちが影響力を発揮できるんは海外でもパンダやからやねん。パンダなりに頑張るわ」
鮎美は過密スケジュールを受け入れて気合いを入れ直した。
翌2月4日の金曜、国会議事堂の議員食堂にて鮎美は昼食を摂りながら、介式からの報告を聴いていた。他の議員たちも鮎美が襲われた理由や状況に強く興味をもっているので議員食堂は会議室のように静まりかえっている。
「氏名は平井功一、年齢24歳、無職、所持していた凶器は大工作業用の金槌ならびに直径2ミリ長さ約2メートルの針金で、いずれも犯行の直前にホームセンターで購入している」
「どういうつもりで、そんな凶器やったんですか?」
「本人の供述によると、金槌で頭を殴りつけ、針金で首を絞めるつもりだったそうだ」
「うちにはSPついてくれてはるのに、そんな悠長な方法で殺せるわけないやん」
「それも供述によれば、前日に脅迫犯が逮捕されたことで、もう警護されていないだろうと考え、犯行におよんだそうだ」
「アホや……けど、うちも脅迫犯が逮捕されたし、警護は終わりやと思ったから、同じか……介式はんらの判断のおかげやね。おおきに、ありがとうございます」
鮎美は広東麺を食べるのを中断して、頭をさげて礼を言った。未遂とはいえ殺人事件の報告は食事時に相応しい話題ではないとわかっているけれど、忙しい上、他の議員や秘書たちも興味津々なので誰も怒らない。多くの議員は夕方から地元へ帰るので、今もっとも話題となっている鮎美についての情報を知って帰るのは土産話として最高なので皆静聴している。
「うちを殺そうとした動機は何なん?」
「就職がうまくいかず国会議員なら誰でもいいから殺そうと思い、たまたま芹沢議員の報道を見て、選んだそうだ。若い女性で一対一なら殺せるとも考えている」
「……………………………」
鮎美が麺を食べる箸を止め、左手を額にあて深く嘆いた。
「………なんやの……それ……」
「アユちゃん……」
「芹沢先生……」
音羽と翔子が心配してくれる。これで三度目の事件の被害者となり鮎美が傷ついているだろうと、背中を撫でようとしたけれど、鮎美は昼食を再開した。
「ホンマに男ってアホやな」
「「………」」
音羽と翔子が驚き、直樹が言ってくる。
「君は太いというか、タフな女性だね」
「今回は介式はんらが守ってくれはったし、前回のも逮捕されてるし、一回目のは、さすがに、つらかったけど、いつまでもウジウジしてられんもん」
「たしかに、ボクら国会議員は、大なり小なり脅しも受けるからね。うちの事務所にも、たまにカミソリが届くし。自眠から眠主に鞍替えしてから、ひどかった」
「あ、私にも来るよ! とくに供産党に入った直後は多かった! お前を赤く染めてやる、とか脅迫状つきで!」
「私にも来てます。ラブレターも来るけど、無視すると脅迫文に変わるし、かといって相手する気になれませんし」
音羽と翔子が言い、鮎美が介式に問う。
「みんなにもSPつかはらへんの? 危ないやん」
「芹沢議員が脅迫状を、脅しにすぎないと考えたように、大半は脅しにすぎず、いちいち警察も取り合わない」
「ほな、うちにだけSPついてるのはなんで?」
「最初の事件が実行されたからだ」
「……あれは危なかったもんなぁ……」
鮎美は食べ終えて下腹部を撫でた。もう痛くも痒くもないけれど、激痛の記憶は残っている。
「アユちゃんは強いよね。私だったらガクガクブルブルで、もう家から出ないよ」
「キョウちゃんかてカミソリ届いたのに頑張ってるやん」
「あんな脅しに負けてたまるか、って思うから」
「ほな、うちも、いっしょよ。アホな男の脅しなんかに、負けてたまるかや!」
松尾が言ってくる。
「男全部が、そうだと思わないでくれよ。あれは一部だ」
「それはわかってますけど……けど、やっぱり男ってアホなことする人、多くないですか? 極端な話、幼女を連続誘拐して殺すのも男やし、サリン撒いた集団も主要メンバーは男ですやん」
鮎美の発言に音羽が同調する。
「たしかに、女が幼い男の子を誘拐して殺したとか、あんまり聴かないね」
「強姦もセクハラも、ほとんど男の仕業ですし。女性の逆セクハラって言っても、それって見せるだけですから」
翔子も追加したので太田が2杯目のカツ丼を食べながら怒鳴ってくる。
「カレーにヒ素を入れたババァは男か?!」
「「「………」」」
女性陣が黙り直樹が言う。
「なぞの白装束集団、正式名称は忘れたけど、あの集団のトップは女性じゃなかったかな。まあ、サリンは撒かず、スカラーなんとか電磁波も意味不明で、それほど害はなかったけど。あと、ボクにも女性からラブレターは来るよ。そして、ごく稀だけど、自分の髪の毛とか、血を送ってくる。あれは何がしたいんだろう、って首を傾げるよ。君たちは同じ女性として、どうだい? 理解できる? 男に髪や血を送って楽しいのかい?」
「うちは同性愛者やし」
「私にも理解できないよ。一部の男性がバカなように一部の女性もバカなんじゃない」
音羽が両手を挙げ、翔子が問う。
「雄琴先生、それが送ってきたとき、その女性は自殺をほのめかしたりしてませんでした?」
「あ、…ああ、そんな内容の手紙だったかも。交際してくれないなら、死ぬ、みたいな」
「女って自傷行為に走りますから。私も家が貧しいのが嫌で何度か手首に刃物をあてたことありますよ。結局、そんなことに負けるのが嫌で、切ったりしませんでしたけど、切っていたら、その血を銀行にでも送ってやったかも。切ってしまうか、思い止まるか、その差って紙一重だと思います」
「嵐川先生のは同情するけど、交際してくれなきゃ死ぬ、ってのは、じゃあ死ね、としか思えないよ。逆に男が女性へ、抱かせてくれなきゃ死ぬ、もしくは殺すとかほざいてたら、勝手に死ね、もしくは捕まれ、ってなるだろ?」
「それは、たしかにそうですね」
何の結論もえることなく議員たちの昼休みが終わり、それぞれの委員会に出席し、夕方になると東京駅の新幹線ホームや空港に向かう。鮎美は2時間ほど、畑母神の選挙事務所でミーティングをしてから新幹線に乗ったので遅い方だった。
「こんだけ忙しいと、いっそ新幹線に寝台車つくってほしいわ」
そう言って貴重な睡眠時間を得て井伊駅で降りる。党の車が数台迎えに来てくれていて、うち1台は陽湖が運転してきたようで初心者マークがついている。
「陽湖ちゃん、免許取れたんや?」
「はい」
「せっかくやし、陽湖ちゃんの運転する車に乗ろうかな」
「反対する」
「私も反対です」
介式と鷹姫が異議を唱えた。陽湖も疲れた顔で頷く。
「行きだけ私の運転で、帰りは石永さんにお願いする予定なんです。はじめて隣りに教官無しで運転して、もう緊張しっぱなしでしたし、みなさんを乗せて運転するのは万一の時申し訳ないので」
「よっぽど緊張したんやね。この寒いのに、汗かいてるやん」
鮎美は陽湖へ近づいて襟元に触れた。制服のブラウスが汗で湿っているし、陽湖は肌が弱いので制汗スプレーを使わないため、汗の匂いがして鮎美は顔を近づける。
「…」
陽湖が身を引いて防御した。
「何する気だったんですか?」
「ちょっとしたスキンシップやよ」
「そういうところからセクハラが始まるんですよ」
「ごめん、ごめん」
鮎美は謝りつつ党の防弾車に乗った。運転手は熟練した男性で、鷹姫は助手席に座り、介式と知念に挟まれて鮎美は後席に座った。すでに島へ戻るには遅い時間なので六角駅前のビジネスホテルをSPの分も含めて予約しているけれど、鮎美は運転手に頼む。
「ホテルに行く前に、かねやさんの本店に寄ってもらえますか。友達のお見舞いに行きたいので」
「わかりました」
運転手が返事をして発車したけれど、鷹姫が振り返って問う。
「緑野の見舞いへ行かれるのですか?」
「うん」
「………。やめておかれた方が良いと思います」
「なんでよ?」
「緑野はインフルエンザだったのです。芹沢先生へ感染するおそれもあります」
「もう熱も引いてるらしいし、平気よ」
「だとしても、わざわざ芹沢先生が行かれなくても、すでに月谷が花を贈る注文をしたはずですし、十分かと思います」
「顔も見たいんよ」
「それは次の機会でよいのではないですか?」
「次っていうても明日も予定がいっぱいな上、日曜から東京で選挙応援やから明日の夜には東京へ行かなあかんし。その次の土日も、次の次の土日も選挙応援でつぶれるやん。今夜、カネちゃんに会わんかったら月末まで会へんやん。その月末かって、どんな予定が入るかわからんねんし」
「芹沢先生がお優しいのは立派なことですが、私が緑野の立場であれば、これほどに忙しい中、お見舞いに来ていただくなど申し訳なくて顔向けできません。まして、わずかとはいえ感染の可能性もあるのです。もしも芹沢先生が大切な時期に寝込むようなことがあれば、緑野も責任を感じてしまいます。何より、動き出した大事業の黎明期ではないですか、どうか、ご自重ください」
「………。鷹姫とカネちゃんは違うやん」
鮎美は苛立って前髪を払った。
「カネちゃんは、そういうことで責任を感じるタイプちゃうし。むしろ、笑う方やし」
「あれは愚か者なのです」
「っ…なんで鷹姫は、いっつもカネちゃんの悪口言うん?!」
「………」
鷹姫は怒鳴られて黙った。運転手と介式、知念は無関係とばかりに黙っているので沈黙が重い。
「とにかく、うちはお見舞いに行くし。鷹姫は車で待ってい! なんやったら、もう先にホテルへ行ってくれてええし!」
「…………。どうか、お考え直しください」
「うちが行くいうたら、行くんよ。もうカネちゃんにも行くてメールしてあるし」
「たかが秘書補佐の見舞いなど不要です」
「っ、なんそれ?! 自分の方が秘書やし上とか思ってるん?!」
「……そういうことでは…」
「ほな、いっそカネちゃんを首席秘書にするで?!」
「…………。どうして、急に人が変わったように……。芹沢先生は世界を救う方です。救世主となられるお方です」
「勝手な偶像を押しつけんといてよ! うちは、ただの人間やし!!」
「……………」
「…………」
沈黙が続き、運転手が耐えかねて問う。
「ラジオニュースをかけてもよいですか?」
「……どうぞ」
誰に向けられた問いだったのか、不明確だったけれど、この場の上位者として鮎美が返答した。沈黙が重い車内にニュースが流れる。
「ロシアのセルジュコフ国防相が択捉島と国後島を訪問し、各施設を視察したことを受けて、日本政府は遺憾の意を表すとともに領土問題の平和的解決を…」
「ちっ!」
鮎美が大きく舌打ちして言う。
「何が遺憾の意やねん。鳩山直人そのものが遺憾の塊やんけ! 遺憾総理が!」
「「「「………」」」」
「うちが総理大臣やったら、四島に攻め込んで取り返したるわ! 千島列島全部な!」
「……それではロシアと戦争になります」
鷹姫が指摘したけれど、知念と運転手は、言わなければいいのに、という顔をしたものの黙って、とばっちりを避ける。男として険悪な雰囲気の女性2名に何か言うのは本能的に避けたし、介式も仲裁する気は無かった。
「今もロシアとは戦争中やん! サンフランシスコ講和条約にあいつら入ってへんし! 日ソ共同宣言で歯舞群島と色丹島を返すのも実行せんし! 鳩山の爺ちゃんがペーパーナイフもらっただけやん! ちゃんと戦争が終わったわけやない!」
「実質的には戦争が終結していることは誰の目にも明らかです。ここで攻め込んでは我々に大義名分がありません」
「もともと日ソ不可侵条約を無視したんは、あいつらやん!」
「だとしても、我らの同盟国であったドイツが独ソ不可侵条約を無視していますし、何より現在の彼我戦力差は核の保有を考えれば明らかです」
「くっ…」
単に鮎美は思いつき言い出したことが引っ込みがつかなくなって勢いで言っているだけなのに、鷹姫から正論を言われて悔しかった。その気配を隣にいる知念は感じたので、もう黙っていられず平和的解決を模索する。
「お、お二人とも、よく勉強してるっすね! 高校生なのに、ホントすごいっすよ!」
「SPは黙っとれ!」
「はい、すいません」
「核ならアメリカにあるやん! 今は同盟国やし! 思いやり予算で飴ねぶらせてるだけやのうて、たまにはアテにしたらええねん! 一気に千島列島を攻め取って制空権、制海権を守っておったら在日米軍も無視できん! 朝鮮戦争で麗国が米軍をアテにしたみたいに後ろ盾に使たらええねん! どうせ核なんて簡単に使えん! アメリカもベトナムで使わんかったし! ソ連もアフガンで使わんかった! きっとロシアも千島列島では使わんはずや!」
「そんな希望的観測で戦端を開くおつもりですかっ! まして朝鮮戦争では半島全体が焦土と化したのですよ!」
「反ロシアの国々は多い! ウクライナもフィンランドもそや! ロシア軍かて極東に全戦力を向けられんのは日露戦争のころといっしょや! 地続きの朝鮮半島と日本列島はちゃう! ロシア軍に日本海を渡って上陸作戦やるノウハウと根性は無い! しかも在日米軍おってのことや! 大戦終了の火事場泥棒やっても千島列島しか盗れんと北海道に至れんかった連中にできることは少ない!」
「なればこそ核使用の可能性があがります!」
「制空権とってたら空爆はできん!」
「弾道弾による攻撃があります!」
「イージスでの防衛網がある!」
「あれの迎撃率は100%ではなくアテになりません!」
「……くっ……あんたは、うちの秘書やろ! うちの理屈を補完するのが仕事であって反論するのは仕事やない!」
「……。そんな論法は卑怯です…」
「っ…うちを卑怯やて言うんなら、もう辞めてや! もうカネちゃんに秘書になってもらうし! あんたは秘書補佐に降格か……もうクビや! もう、うちのそばにおらんでええわ!」
「っ………本気でおっしゃっているのですか?」
「ああ、本気や! うちの目の前から消えて! あんた見てると……見てると……うっといねん! クビや!」
本当は、いつも抱きしめたくて、その衝動を抑えるのに苦労するので、いっそ存在しない方が楽かもしれない、と勢いに任せて鮎美が言った。
「……………」
「……………」
再び重苦しい沈黙が車内を支配する。数分間の沈黙があって車内に、泣き出した鷹姫の嗚咽が響くので、鮎美は居心地の悪さが数倍になった。
「…ぅっ………ぅぅっ……」
鷹姫は泣き声をあげないように両手で口を押さえているけれど、それが余計に痛々しくて、知念も運転手も可哀想になった。秘書と議員の雇用契約は、とても曖昧で脆い。芸人と芸能事務所にも似た契約書さえないこともある曖昧な関係で、労働者としての権利は薄い、本来は立法府の一員として労働者を守るはずの議員が自分たちの秘書は便利に使い回せるよう意図的に曖昧にしているのかと思うほど、秘書の立場は弱く、それこそ切り捨て、使い捨て、身代わりにできる、まるきり戦国時代の小姓のような存在でもあり、一度の口論や議員の気まぐれで解雇された事例は少なくない。
「……ぅぅっ……ひっく……」
これまで誠心誠意、仕えてきたつもりのある鷹姫はクビと言われて深く傷ついたようで、気の強い風にみえる彼女が泣き声をあげないように口を押さえて嗚咽を漏らし、涙を流している様子は、男として慰めたくなるけれど、今は鮎美が怖いので知念も運転手も何も言えない。かわりに介式が背後から助手席にいる鷹姫の肩を撫でて言う。
「宮本くん、こんな横暴な議員に使われているより、もっと良い仕事はいくらでもある。警察学校だって入れば給料をもらえる。君が泣くことはない」
「……ぐすっ……ありがとうございます。介式師範」
慰められて鷹姫の涙が止まる。すると、逆に鮎美が焦れてくる。
「……………さっきのは本気やないし…」
「「「…………」」」
介式と知念、運転手は、本気でなくても上司に言われると部下はかなりダメージを受けるのに、そんなこともわからないのか、子供じゃあるまいし、……ああ…半分、子供だったか、と思っている。鮎美もパワハラだったと気づいて謝る。
「つい、勢いで言うたんよ。ごめんな、鷹姫。秘書、続けてよ」
「………はい…」
「宮本くん、いっそ君から辞めてしまえ」
「…介式師範………」
「辞めた方がいい。君が深く傷つく前に」
「……………」
「鷹姫、ごめん! ホンマごめん!」
鮎美が身を乗り出して助手席にいる鷹姫の腕をつかんだ。
「うちが悪かった! うちが間違ってたよ! ごめん! 鷹姫の存在は、うちにとって何より大切なんよ! だから辞めんといて! うちはアホやから勢いで、いらんこと言うてしまうけど! そやから、鷹姫がいてくれんと困るのよ! 鷹姫がしっかり反論してくれるから、うちは間違えずに済むの! もう二度とクビなんて言わんから! うちの任期中、鷹姫のクビを斬ることは絶対にない! そやから、うちが間違ってるときは遠慮のう反論して! 鷹姫が教えてくれたやん、秀吉の怒りも恐れず石田三成は何度も正しい進言をしたって! そういう存在が、うちに必要なんよ! そういう鷹姫が必要なん! お願いよ!」
「……芹沢先生……はい、これからも、私はあなたにお仕えします」
「おおきに、ありがとう!」
「よかったすっね! 仲直りして! ね、介式警部!」
「………。知念、お前は喋りすぎだ。SPは、なるべく静かにしていろ」
「はい、すいません」
やっと車内の空気が少し改善し、運転手は分岐点にさしかかったので問う。
「かねやさんへ向かいますか? 駅前ホテルへ向かいますか?」
「……ホテルに行ってください」
鮎美が言い、鷹姫が喜ぶ。
「自重してくださるのですね。ありがとうございます」
「………。カネちゃんには……お見舞いしたいし……けど、……私的なお見舞いに党の車を使うわけにいかへんし……運転手さんも、みんなも疲れてはるやろ……うち、タクシーで行くわ。一人で」
「芹沢先生……」
鷹姫は遺憾の意を表情に浮かべた。鮎美は肩身が狭そうにスマートフォンで地元タクシー会社に電話をかけ、駅前のビジネスホテルに10分後に来るよう頼んだ。また重い沈黙が10分間続き、車列はビジネスホテルに到着した。静江や党の職員は帰宅する予定で、もう島には帰れない鮎美と鷹姫、陽湖、そしてSPたちが宿泊するはずだったけれど、鮎美は呼んでおいたタクシーに向かう。
「もう地元やし…、安全やし…、うち一人で行かせてもらうわ」
「危険です!」
鷹姫が回り込んで道を塞ぎ、介式と知念は警護を続けるのが当然という顔で鮎美についてくる。
「介式はんらも疲れてはるやろ」
鮎美は介式の背中を撫でようとして、セクハラと言われないよう思い止まり、知念の背中を撫でる。
「知念はんも、お疲れさんです」
「い、いえ。任務っすから!」
知念が少し赤面した。知念はスポーツ刈りの童顔なので30代なのに、鮎美たちと歳の差が少ないように見える。鮎美は笑顔をつくって言う。
「ほな、うち一人で大丈夫やし。ちょっとカネちゃんちに行くだけやし一人にして」
「現在24時間体制で警護している。例外はない」
「………」
鮎美が左手で自分の前髪をクシャリと握った。強い苛立ちを抑えている表情なのが一目瞭然だった。不穏な様子を見て、静江と陽湖も近づいてくる。
「どうかしましたか?」
「シスター鮎美、何かありましたか?」
「別に、なんもあらへんよ」
鮎美は説明しないけれど、鷹姫が説明する。
「芹沢先生が緑野へお見舞いに行かれるというのですが、私は反対しています。大事の前の小事ですし、すでに見舞いにも非常識な時刻です。何より警護をつけないなど、ありえません」
もう23時を過ぎている。鷹姫の言い分は正しかったけれど、鮎美はタクシーに乗ろうとする。
「おやめください!」
鷹姫が鮎美の手首を握った。
「……離してよ」
「いいえ、離しません!」
「………。………くっ! うちにはプライベートは無いん?! ちょっと、友達に会いに行くだけやん!!」
「何も今でなくてもよいではないですか!」
「今やなかったら、いつなんよ?!」
「さきほど私に反論すべきは反論せよと言われました! 今がそのときです!」
「っ……。……行かせて…」
「ダメです」
「………行かせてよ! お願いやし!」
叫んだ鮎美が涙ぐみ、一粒ずつ両目から涙を零したので鷹姫が驚く。
「……泣くほど……それほど……行きたいことなのですか……」
「ぐすっ……いきたいんよ……いかせてよ……」
鮎美と鷹姫が感情的になってしまったので静江が間に入る。
「まあまあ、二人とも冷静になってください」
「「………」」
鮎美は深呼吸して涙を拭き、鷹姫も強く握っていた鮎美の手首を離した。
「ご無礼、ご容赦ください」
「……うちこそ、また怒鳴ってごめん」
「それでケンカの原因は何ですか?」
「別にケンカなんかしてへんし。うちはカネちゃんのお見舞いに行くだけやし」
「緑野さんのお見舞いに、それほど執着されて………、そんなに行きたいことですか?」
「……」
静江の穏やかな問いに、鮎美が黙って頷いた。また涙ぐんでいる。静江は大人として察した。
「では行ってください。けれど、せめてSPはつけてください。彼らは党から要請して警護についてもらっている国の人員です」
「…………」
「石永さん、ですが必要性とリスクを考えれば…」
鷹姫の発言を静江は途中で遮った。
「議員だって人間なんです。私たち秘書は大なり小なり、気を抜く時間があっても、今みたいに注目されているときの議員は気の休まるヒマもない。私のお兄ちゃんだって似たような時期があって見ていて心配でしたから。どうしても会いに行きたいなら、行ってください」
「………静江はん、……おおきに…」
「ですけど」
静江は鮎美にしか聞こえない小声で言う。
「明日朝9時からの近畿剣道連盟少年大会には遅刻したり、寝不足ということがないようにしてください。芹沢先生が剣道経験者で大阪代表であったことと、秘書の宮本さんが全国優勝者であることで、連盟の方も来賓として他のスポーツ大会とは比較にならない期待をしています。まして、うなじにキスマークがあるなんてこと、やめてください」
「……はい…」
鮎美は素直に頷いてタクシーに乗った。介式と知念も乗ってくる。
「私も行きます」
「鷹姫は、こんといてよ」
「心配なのです。同伴をお許しください」
「………。鷹姫は明日、剣道指南と演武もするやろ。子供らにちゃんとサービスできるよう、よう休んでおき」
「ですが…」
「介式はんがいてくれはるのに、万一のことがあると思うの?」
「……。わかりました。介式師範、どうか、芹沢先生をお願いします」
「ああ、心配するな」
タクシーが走り出すと、知念が問う。
「芹沢議員と緑野さんって、どういう関係なんすか?」
「………ノーコメント」
「知念」
「すいません」
すぐにタクシーは鐘留の家に到着した。夜中だったけれど訪問することは伝えてあったので鐘留の母親が出迎えてくれる。
「わざわざ来てくれてありがとう」
「いえ、こんな時間になって、すみません」
「あの子は、部屋にいるの。あがってください」
「お邪魔します」
「お邪魔する」
「お邪魔するっす」
鮎美と介式、知念が鐘留の部屋を訪ねる。かなり広い部屋なので三人が入っても余裕がある。
「カネちゃん、調子はどう? ……あ、……まだ…寝込んでるんや…」
「…ハァ……ハァ……アユミン? ……ハァ…」
鐘留はベッドの上で布団をかぶり顔だけ出している。熱のせいなのか、つらそうな呼吸をしていた。鮎美が心配して近寄るのを介式と知念は止めない。暴漢やテロから鮎美を守るのが任務であり、風邪のウイルスから守るのは、任務に含まれていなかった。
「カネちゃん……熱さがったってメールくれたのに……また悪化したん?」
「うん…ハァ……今朝、また……急に……それで病院に行ったら…ハァ……肺炎性…なんとか…かんとか…症候群とか、言われて……ハァ…」
弱々しく鐘留は布団から手を出して鮎美へ向けるので思わず手を握った。
「熱っ…めちゃ熱あるやん」
鮎美は握った鐘留の手が熱すぎて驚く。
「…ハァ…アユミンと過ごした一年…ハァ…楽しかったよ…ハァ…」
「ちょっ…何を死ぬみたいなこと言うてるのん?!」
鮎美の心配が膨らむ。鐘留は儚げな微笑をつくった。
「ごめんね…ハァ…アタシの分まで…ハァ…頑張って…ハァ…アユミンは…ハァ…生きて…ハァ…」
「うっ…嘘やろ? カネちゃん………そ、そや、桧田川先生に……あかん、あの人は内科やのうて外科や……」
「最後に…ハァ…アユミンに…ハァ…会えて…ハァ…よかった…ハァ…」
それだけ言った鐘留は目を閉じ、呼吸を止めた。握っていた手からも力が抜ける。
「ちょっ?! カネちゃん?! カネちゃん! しっかりしてよ! カネちゃん?!」
「医者を呼んでくるっす! いえ、救急車を! あ、まず親御さんに報告を!」
知念も慌てているけれど、介式は冷静に近づくと、鐘留の首筋に触れた。
「脈はある。生きている。気絶しただけか、もしくは…」
「………ハァ! ハァ! ハァ! ハァ…」
長く息を止めていた鐘留は限界が来て呼吸している。
「……カネちゃん?」
「きゃはっは♪ アタシが死んだと思った?」
元気で張りのある声だった。布団の中で手を温めていたカイロを見せてくる。
「…うちを騙したん?」
鮎美が悔しそうに涙の滲んだ目尻を手の甲で拭きつつ問い、だんだん怒れてくる。
「本気で心配したんよ、ひどいやん」
「ごめん、ごめん。でも、アタシだってアユミンが刺されたとき、かなり心配したんだしさ、30秒くらい、いいじゃん」
「う~…」
「それに、さっき部屋に入ってきたとき、アタシが寝込んでるの見て、露骨に残念そうだったよね。せっかく忙しい中、エッチなことしようと来たのに、まだ体調が悪いんだ、って感じに」
「ぅ、うちはお見舞いに…」
「ウソウソ、アユミンの行動パターン、男子だと思えば、けっこう読めるよ。一回ヤらせてくれたし、もう一回ってことでしょ?」
「………」
「どうなの? したいの? したくないの?」
「………」
「黙ってるなら、させてあげないよ」
「…したい」
「ふーん♪ そこの体温計を取って。たぶん治ってるけど確認するから」
「これ?」
鮎美はベッドサイドのテーブルにあった体温計を鐘留へ渡した。鐘留はパジャマの胸元をはだけると体温計を腋に挟み込む。電子体温計は、すぐに鐘留の体温を計測した。
「36.1、うん、平熱。いいよ、エッチしても」
鐘留が了承した途端、もう待ちかねたように鮎美がベッドへあがり、はだけていた鐘留の胸元に吸いついた。
「ちょっ、そんなガツかないでよ。せめてシャワー浴びてからにして。あと、君! そこの君! こっち見ないで背中を向けて!」
根本的には異性愛者である鐘留は男性である知念に注意した。
「すいません!」
すぐに知念は背中を向けてくれる。その間も鮎美は鐘留の肌を舐めていた。
「くすぐったい。きゃはは、だから、せめてシャワーしてからにしようよ。アタシ何日もお風呂入ってないから」
「ハァ…ハァ…カネちゃんの匂い、好きよ」
「とか言いつつ、腋を舐めるとか、マジで腋フェチだね。あと5分だけだよ。アタシ、自分で自分の匂い、嫌だし」
いつも鐘留は女子らしく清潔にして匂いも気づかっているので、はっきりと鐘留の匂いを感じたのは初めてだった。寝込んでいた鐘留の身体からはランとユリの花弁のような香りがして、鮎美は夢中で舌を這わせた。
「きゃはは、く、くすぐったい、きゃははは! 腋ばっかやめてよ、きゃはっは! あん、パンツの中に手を入れるのは、さすがにお風呂の後にしてよ。ヤダ、ヤダ、ヤダって。もお、強引! アユミン、やめて!! その手、外から入ってきて洗ったわけじゃないよね?! お風呂に入らせて! それからアユミンもキレイにして!! でないと、もう拒否るから。お巡りさん、ヘンタイがいます、助けてください。アタシ襲われてます」
「「………」」
介式と知念は黙ったまま動かないけれど、冗談めかしていても本気で嫌がられつつあるので鮎美もやめた。鐘留はパジャマの胸元をなおしてベッドから立ち上がった。
「アタシ、お風呂に入ってくる!」
「いっしょに入ろぉ」
「ヤダ! 待ってて! 男みたいにガツくアユミン嫌い!」
「……ごめんなぁ…」
鮎美は仕方なく待つ。ただ待っていると、興奮は残っているのに疲労感で眠くなってしまい、眠ってしまうと朝まで起きられない気がするので、ベッドから立ち上がった。介式とは目を合わさないように、待ち遠しい30分を耐え、日付を超えた。
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