第34話 1月25日 成功と失敗

 翌1月25日火曜朝、鷹姫は国会に近い場所にあるビジネスホテルの一室で目を覚ました。鮎美には議員宿舎があるものの、秘書には公的な施設がなく議員宿舎へ議員の家族以外が泊まることは、主治医の桧田川が泊まるような場合を除いて、あまり好ましくないので東京滞在中はホテル暮らしになっていた。鷹姫はベッドから起きて洗顔すると、鏡を見てつぶやく。

「……連合インフレ税………ベビーインカム………きっと世界が変わる大事業に……」

 他人より無口な方ではあるけれど、一晩一人で泊まっていると、一言も発しないわけでもなく、一人言を漏らしながらホテルの浴衣を脱いだ。眠るときはノーブラなので鏡へ形のいい乳房が映る。おろしていた髪を手櫛でポニーテールへまとめ上げていると、鏡に両腋の毛も映ったけれど、下腹部の毛を気にしないのと同様に少しも気にせず、ブラジャーを着けてから制服姿になった。

「準備よし」

 鮎美は薄いメイクをするけれど、鷹姫は何もしない。単に議員秘書として着乱れがあっては恥ずかしいので剣道着を美しく着るように制服も正しく着て、鏡に映る自分を見た。

「………鮎美…………あの人は………私を愛している? ……愛……」

 昨日、鮎美は同性愛者だと自分で言った。そのことについて鷹姫は、あまり驚かなかったし、そういうこともあるのだ、と深く考えなかった。むしろ、鮎美が鷹姫にも秘密で記者会見に多くの政治家を集め、一大事業の発表をしたことにこそ、驚いたし心が躍った。ただ、刺傷されたとき、もう死ぬのだと自他ともに思ったとき鮎美が言ったことを、はっきりと思い出している。大好きなんよ、愛してるから、と言われた。

「……どんな顔をして会えば……」

 やや困ったけれど、空腹を覚えたので荷物をまとめ、ホテル2階のレストランで食べ放題の朝食を摂る。食べ放題なので遠慮無く食べていると、周囲から視線を感じたので遠慮しながら食べるものの、視線は鷹姫の制服に注がれていて、議員芹沢鮎美と同じ制服を着ている人間はコスプレ行為を除いて都内には二人しかいないので目立っているのだった。とくに国会へ近いビジネスホテルなので鷹姫と同じく秘書という立場で宿泊している者も多いし、地方公務員や地方議員が出張で泊まっていることも多い。平日火曜ということもあって、ほとんどの客が男性なので鷹姫の存在は浮いている。客の中には鷹姫が鮎美の秘書であることに気づいている者も少なくないけれど、声をかけて知己をえたい動機と、昨日の生放送で表明した容赦なくセクハラは訴えるという姿勢から感じるリスクを天秤にかけ、また議員本人が同性愛者ということで複雑さもあり、ついつい鷹姫にまで同性愛者なのかもしれないという目を向けているけれど、それを問うと、セクハラと言われたとき怖いので誰もが声をかけないでいる。そんな中、一人の体格のいい男が鷹姫のテーブルしか席が空いていなかったので問いかけに来た。

「お嬢さん、ここ空いてるかい?」

「はい。どうぞ。…」

 鷹姫は頷きつつ、つい男の手を見た。明らかに打撃系の格闘技で鍛えた手で、拳の皮膚が厚い、体格は熊のようで真正面から素手で戦ったなら勝てないかもしれないと、考えなくてもいいことを考えながら鷹姫はイワシの蒲焼きを食べる。男も山盛りにしてきたトレーの料理を食べ始めた。

「………」

「………」

 黙々と二人とも周りの客より多く食べている。料理を取りに行って戻ってくるタイミングが同じになったのをきっかけに男が鷹姫に話しかけてきた。

「お嬢さんは芹沢議員の秘書だったりするのかい?」

「はい、そうです」

「おお、そうか。やっぱり」

「……。失礼ですが、どこかでお会いしていますか?」

 鷹姫は男の顔に見覚えがあるのに、思い出せずにいたので素直に問うた。

「オレは、百色正春(ひゃくしきまさはる)。今はクマのプーさんだよ」

「百色さん……あの尖閣諸島仲国漁船衝突事故で映像をネットへ投稿された?」

 鷹姫は元海上保安官で起訴猶予になった百色のニュースを思い出した。

「おう。そうそう」

「私は宮本鷹姫です。……なぜ、クマのプーさんなのですか?」

「いやなに、今はプー太郎だからな。んでもってオレは熊みたいだろ?」

「はい」

「わははは! お嬢さん面白いな」

「……」

 どこが可笑しいのかわからないので鷹姫は黙って白身魚のフライを箸で切って食べる。百色も同じフライを取ってきていたので一口で食べた。

「芹沢議員は刺されたってのに、えらい元気に面白いことを始めたな」

「……」

 鷹姫は相槌が思いつかず、不機嫌でも笑顔でもない顔で二口目のフライを食べる。百色は気にせず話を続けた。

「オレにも畑母神先生から誘いがあってよ。前向きに考えるとは言ったんだが、優男の雄琴と閣下、ドイツ人以外は、みんな女で居心地悪そうだな、と思うんだが、実際の雰囲気は、どうなんだい?」

「今朝が発足二日目ですから、雰囲気というほど決まったものはありません」

「そりゃそうかもしれねぇな」

「集まりとしての名称も未定で、昨夜の懇親会では、愛の会、もしくはマイノリティーパーティーという案がありましたが、賛否両論で決まっていません」

「なるほどな。いっそ芹沢組にでもしたらどうだい?」

「それは良い案ですね。ありがとうございます」

「おいおい、オレは冗談でいったんだぞ」

「………」

 どこが冗談なのかわからないので鷹姫は合挽ハンバーグを箸で切って食べた。

「にしても、お嬢さん、女の子なのに、よく喰うね」

「っ…」

 鷹姫が赤面して顔を伏せた。

「おっと、すまねぇ。余計なことを言っちまったみたいだな。ごめんな、オレは口が軽くてよ、それでクビになったばかりなのにな」

「………。ごちそうさまです。お先に失礼します」

 鷹姫はデザートを取りに行くのはやめて、議員宿舎へ向かった。国会周辺を歩いていても、やはり鷹姫の制服姿は人目を集めているようだったけれど気にせず議員宿舎の鮎美の部屋へついたものの不在だった。

「朝食会に……」

 携帯電話にメールが入っていて、急に谷柿から朝食会へ呼ばれて出席しているとあった。

「昨日のことで何か指導が……」

 鷹姫は朝食会が行われている議員会館へ移動した。小会議室で行われていて、出入口に介式と桧田川がいたので挨拶する。

「おはようございます」

「「おはよう」」

「芹沢先生は中ですか?」

「うん、きっと小言だよ。勝手なことしたから。医師会でも医局でも似たようなもんだし」

「……」

 鷹姫は時刻を見て、黙って待つことにした。しばらくして鮎美と谷柿、その他の自眠党衆議院議員が20人ほど出て来た。鷹姫は議員たちと挨拶を交わしたけれど、介式はSPとして黙って過ごし、桧田川も主治医として黙って車イスを準備する。鮎美が静かに車イスに座ったので鷹姫は押しながら問う。

「朝食会の席上、何か指導があったのですか?」

「思ったより、たいして何もなかったんよ。谷柿先生、優しい人やし、赤ちゃん手当と連合インフレ税については、素敵なことを思いつきますね、の一言やったし。けど、出版社とかを訴えるのには、自眠党の女性職員も一人、派遣して事務処理なんかを手伝ってくれるらしいけど実質は見張り役って感じで、落としどころは相談させてください、って言われたわ。明らかに昨夜のうちに、どこかの出版社あたりと連絡とってる感じで。さすが自眠党総裁、仕事早いわ。昨夜の今朝で、朝飯前に呼び出しやもん」

「そうですか。ところで、愛の会にするか、マイノリティーパーティーにするか、決まりそうですか?」

「ううん、ぜんぜん」

「では、芹沢組というのは、どうでしょう?」

「「「………」」」

「ダメですか?」

「ヤクザやん」

 鮎美は国会が始まる前に多目的トイレへ車イスごと入れてもらい。鷹姫は外に出る。トイレの外には交替の男性SPが2名、立ちに来た。介式が出て来ると、交替を確認して鮎美の警護を始める。非番になった介式は表情が少しやわらぎ、鷹姫に声をかけてくれる。

「非番になった。宮本くんに時間があれば稽古をしないか?」

「はい。予定は……」

 鷹姫は脳内で予定を検索する。これから国会がある鮎美についていても、あまりやることは思いつかなかった。それに鮎美も気づいてくれる。

「ええよ。稽古していよ。どうせ、議場に缶詰やし。桧田川先生はいてくれはるし」

「ありがとうございます」

「うちこそ、おおきにな、鷹姫」

 言いながら鮎美は車イスを押してくれている鷹姫の手に手を重ねた。いつもより恐る恐るという動作だったけれど、鷹姫と手を重ねると安心したように微笑している。自分が同性愛者であることをカミングアウトしたことで、鷹姫がどんな反応をするかは一番の心配事だったけれど、とくに変化は感じなかった。介式が言ってくる。

「宮本くん、せっかくの時間だ。すぐに始めよう」

「はい、介式師範」

 鮎美とは別れて議員会館の剣道場に行くと、しばらくは剣道の稽古をしたけれど、次には素手で戦う技術を学び、さらには実際の場面では道着ではなくスーツや制服姿であるので、それに着替えてから、より実戦的に修練した。

「ハァ…ハァ…、ありがとうござました!」

「ありがとうございました」

 終わると真冬なのに制服が汗で濡れていて、女子更衣室に干しながら、二人でシャワーを浴びる。鷹姫の裸を見ながら、介式が問う。

「芹沢議員から気持ちの悪いことはされないか?」

「え…? はい、されません」

「そうか。……。宮本くんは芹沢議員が同性愛者なのは知っていたのか?」

「いえ、昨日まで知りませんでした」

「隠してたのか……卑怯だな」

「………あれは、言うべきことなのですか?」

「こうして、いっしょにシャワーを浴びているときでも劣情を覚えられているとすれば、気持ち悪くはないか?」

「……気持ち悪いということは想ったことがありません。よく触られますが…」

「それが、すでに犯罪といえば犯罪だ。ずっと警護していて感じたが、昨日言われて、やはりと思った。……気持ちの悪い……子供議員かと思えば、変態議員だったとは…」

 介式はシャワーを浴びながら、鮎美に握られたことのある手を不快そうに見つめた。

「……介式師範は同性愛者が嫌いなのですか?」

「同性愛者に限ったことではない。男の中にも腐ったヤツはいる。まして政治家は、どいつもこいつも腐っている」

「………」

「あの芹沢議員も、口では美しいことを言っても、腹の中は欲望にまみれている。いずれ、正体を現すだろうから注意することだ。もっとも、宮本くんなら鎧袖一触だろうが、薬など盛られたら抵抗できないこともある。注意するに越したことはない」

「……芹沢先生は、そんな方ではありません……」

「君も………宮本くんは、同性愛を、どう思う?」

「………以前は、人の道に外れた愚かな行為だと思っていましたが……今は………よく、わかりません」

「おかしな趣味に毒されるな。人は欲で失敗をする。おのれを律することだ」

「……。はい…」

 シャワーを終えると、昼食を摂るために食堂へ移動し、食べ終えた頃に詩織から電話が入った。午前中の行動を訊かれて答えると、詩織が冷たい声で言ってくる。

「それは、いい身分ですね」

「はい、環境にも師にも恵まれた有り難いことです」

「………」

 詩織が黙り込み、それから舌打ちしてきた。

「…ちっ…、人に舌打ちを聴かせるなんて下品なことはしたくないですけれど、あなたは厭味が本当に通じない人ですね。こちらは、とても忙しくしていたのです。余裕があったなら、手伝ってほしいほど!」

「そうだったのですか、すみません。何が、それほど忙しかったのですか?」

「集団訴訟に参加したいという人からの問い合わせと、連合インフレ税への問い合わせ、どちらもです! 東京事務所だけではさばききれないので、集団訴訟は石永さんが担当で、月谷さんが補助! 海外からも問い合わせがあるインフレ税への対応は私とネットが得意な緑野さん! 宮本さんも英語はできますか?」

「はい」

「……。どのくらい?」

「英検2級なら、合格しただろうと言われています」

「……。合格したわけではないのですか?」

「二年生の頃、受験料が無かったのでクラスメートが受けたテスト用紙を使わせてもらって試してみました結果です」

「………。まあ、いないよりはマシそうですね。石永さんの英語力も惜しいですが、セクハラ写真相談は、あなたや緑野さんでは性格的に、まったくダメでしょうし」

「はい」

「……。とにかく事務所に来て手伝ってください」

「はい」

 鷹姫は東京事務所に出向き、国内とアジア系英語圏からの問い合わせを担当して午後の時間を終え、国会が終わった夕方になって鮎美に呼ばれ議員宿舎へ行く。詩織も行きたいという顔をしていたけれど、昨夜も睡眠時間が少なく、今日の業務も多かったので精根尽き果てた様子で事務所のソファで眠っている。鷹姫が議員宿舎の部屋に入ると、鮎美と桧田川は全国紙の一面を並べて読んでいた。

「うちのことを全部の新聞が一面にあげてくれはったけど、扱い方は、それぞれちゃうなぁ」

「朝田新聞は扱いが小さいね。いよいよ国会始まる鳩山総理うんぬん、芹沢さんのことは二番目で朝槍さんが話した同性婚をメインに紹介してる」

「逆に産慶新聞は畑母神先生メインやし、同性婚のことも、うちのカムアウトのことも扱い小さいし。しかも二面には百色氏と畑母神先生の対談を載せてる」

「あの人の……」

「鷹姫、知ってるん?」

 あえて鮎美はカムアウトのことなど無かったように普段通りという態度で、鷹姫と話すけれど、顔は向けても目は長くは合わせない。そういう様子を鷹姫は気にせず今朝のことを鮎美へ語った。

「なるほど、芹沢組は鷹姫の発想やなかったんや」

「はい」

「日計新聞はさすがに連合インフレ税のことに触れてくれてるなぁ。でも、どの新聞も集団訴訟のことは、ほとんど扱いなしや」

 桧田川が読んでいた新聞をテーブルに置いた。

「そりゃ週刊紙と新聞は資本的につながってるし、印刷所まで訴えるなんて言ったら、これ以上、広めたくないでしょ。それに芹沢さんたちが主張した内容が、あまりに多岐にわたりすぎていて、視聴者も読者もついていけない感じだと思うよ」

「ここからは絞らんとあかんかもな。……」

 おかげで狙い通り、うちのカムアウトのことも全体からみれば扱い小さいし、と鮎美は心配していた自分の性的指向についての書かれ方が大きくなかったので安心しつつ、鷹姫の様子を見る。鷹姫も普段通りで大きな変化はない。避けられることは無さそうで鮎美はポニーテールを撫でたくなったけれど、昨日の今日での接触は朝に手を重ねただけで自重することにした。

「鷹姫、夕飯まだやんな? 天丼とったし、いっしょに食べよ」

「はい、ありがとうございます」

 一昨日までと変わらない雰囲気で鮎美と過ごした鷹姫は夜になってビジネスホテルに戻った。連泊しているので使い慣れたバスルームで身体を洗い、お湯に浸かって想った。

「世界を貧困から救う………鮎美………芹沢先生………あなたは世の光りです」

 明治維新を超えるような歴史の転換点、それに関われることを誇りに思い、そして嬉しかった。

 

 

 

 翌1月26日水曜の夕方、議場の自席で鮎美は本日の審議が終わったので眠そうに首を回した。となりでは翔子が大きく伸びをしている。つい、翔子の胸を見てしまい、それに気づかれた。

「今、私のおっぱい見てませんでした?」

「ごめん、つい」

「本当に同性愛者なんですね」

「今まで、まわりにビアンおらんかったの?」

「う~ん……それっぽい子はクラスにいて女の子同士でキスしたとか、そんな話を聴いたことはあるけど、それくらいかな……。それにしても、予想以上に退屈というか、つらいですね。国会」

「居眠りせんとこ思ても、自分の出番がない上、ぜんぜん自分と関わりのない東北地方の高速道路整備とかになると関心を維持するのがしんどいね」

「そうですね。けど、東北の日本海側って、ぜんぜん高速道路がつながってない」

 翔子が配られた資料をペラペラとめくっていると、音羽が二人に近づいてきた。

「お疲れぇ」

「お疲れさん」

「お疲れ様です」

「って言っても、座ってただけなんだけど、疲れるね。三回も寝そうになったよ」

「うちは五回。議会が成立するには出席議員の数が要るとはいえ、無駄な労力やなぁ。そういえば、開会式に出たことでの処分どないなったん?」

「あーあ、あれ。うん、大丈夫。さすがに出席して処分って、おかしいし。破志本先生も考えてくれて。もしかしたら、来年から参加不参加は各議員の任意になるかもって」

「供産党さんも軟化してくれてはるなぁ」

「自眠も最近、悪いことしないね」

「与党ちゃうしな」

「与党になったら、またヤるんだ?」

「口利きの一つや二つ、やるやろな。うちがやってる陳情の仲介でも、どのラインからアウトなんか微妙やもん。ワイロもらうのはダメやけど、寄付金ならOKとか、官僚への圧力はあかんけど、仲介は良しみたいな」

 そろそろ他の議員たちが退場して通路が空いたので鮎美も立ち上がる。外に出て車イスに乗ると桧田川と多目的トイレに入った。介式は非番で男性SPはトイレ内のチェックだけして出てくれている。

「お腹の傷を診るから、パンツおろしてスカートを完全にあげてみて」

「はーい」

 鮎美はロングスカートへ両手を入れ、下着を膝までさげてからスカートの裾をたくし上げて胸のあたりで握った。桧田川が臍の下から股間まで続く鮎美の傷跡を見つめ、満足そうに頷いた。

「写真撮るね」

「それホンマに流出させんといてくださいよ」

 今までも三日に一度くらい撮影されていた。桧田川は顔を映さないよう胸から下、膝より上を被写界に入れてデジカメで傷跡を撮った。

「ほぼ完治してるよ。ほら」

 撮った画像を見せてくれる。

「ホンマや……もう傷が無かったみたいに…」

 カサブタが取れると、ごく薄い線があるくらいで、ほぼ傷跡は無くなっている。過去の写真と見比べると回復は明らかだった。

「カテーテルは、もう要らないかな。これからは普通にオシッコしてみて、なるべく、こまめに。ウンチは、まだ一人でしないでよ」

 桧田川は鮎美の脚にテープで貼り付けてあるカテーテルを剥がしていき、ゆっくりと体内から抜くと、丸めて専用の医療廃棄物入れに片付けた。

「一応、制服のスカートを持ってきてあげたけど、着替える?」

「はい! やっと管付きの生活から解放されるんや。あああぁ……長かった」

 慣れてはいたけれど、嬉し涙が滲むほど心が躍った。

「じゃ、スカートを脱いで。お尻をこっちに向けて。ウンチを取ってあげるから」

「はい。………これは、あと何日、されるんですか?」

 鮎美の問いに桧田川はゴム手袋を着けながら考える。鮎美はロングスカートを脱ぎ、桧田川に背中を向けると、手すりを握って前屈みになる。桧田川は慣れた手つきで優しく摘便するため、鮎美の肛門へ指を入れた。

「あと数日かな、月末には完全に完治で、芹沢さんとも、お別れね」

「長いこと、ありがとうございました。先生とも、あと数日かと思うと、名残惜しいですわ」

「名残惜しいって、お尻に指を入れられるの癖になりました、またやってください、とか言わないでよ」

「うっ、そういう意味ちゃいますよ。ずっと24時間、こんなに長いこと人と過ごしたことないから」

「今日で17日目かぁ。一度も掻かずに我慢してくれたし、いい子いい子」

 桧田川がゴム手袋をしていない方の手でお尻を撫でてくれると、鮎美は恥ずかしくなって身じろぎした。処置を終えた桧田川はゴム手袋も廃棄して、制服のスカートと下着、生理用ナプキンを出した。

「しばらくオシッコはチビるかもしれないし、ナプキン着けておいて。不安ならオムツにする?」

「ナプキンにします」

 鮎美は下着とナプキンを受け取り身につけると、制服のスカートを履いて鏡を見た。

「あああぁ……やっと…、やっと、この姿に戻れた!」

 嬉しくて飛び跳ねたくなる。桧田川も主治医として嬉しそうに微笑む。

「今夜から、お風呂も普通に入っていいよ。車イスも終了。飛んだり跳ねたり走ったり、息むのはダメ、あと少しの我慢。いっしょに頑張ろうね」

「はい! はい! ありがとうございます! うう! やっと、やっとや!」

 鮎美は飛び跳ねる代わりに腕をウズウズと動かして回復を喜ぶ。笑みを零しながら多目的トイレを自分の脚で出ると、外で待っていた翔子と音羽も上下とも鮎美が制服になったことに気づく。

「芹沢先生、もう車イスでなくていいのですか?」

「アユちゃん、完全復活だね?」

「うん! 走ったりせん限りOKやって! 傷跡も完璧に治ってる! 桧田川先生、あのカメラ貸して。二人にも見てもらいたいわ」

「流出させるな、とか言ったくせに。最初の方はグロテスクだから注意してね」

 桧田川がデジカメを貸してくれ、翔子と音羽にも回復の具合を見てもらった。

「傷跡なんてわからない……」

「どこを斬られたの?」

「これが今日の写真な。三日前は、こう」

 鮎美が過去の写真へ変えていく。

「けっこう長い傷……」

「痛そぉ……」

「最初の頃は、もっと、エグかったんよ」

「はっきり傷がありますね」

「臍から下まで……エグ……この傷跡が残ったらビキニ着れないね…」

「手術前のも見る? めちゃエグいけど」

「「………」」

 翔子と音羽は迷ったけれど、好奇心が勝って頷く。鮎美が手術直前の写真を見せた。大きく斬られた生々しい傷と血が二人を青ざめさせる。

「うわぁ……ひどい……」

「よく生きてたね……血だらけ……」

「うちも死んだかと、思ったわ。っていうか、こんな写真、撮られてるの気づかんかったし。血も、これで拭いてもらった後なんよ。会場やった大礼拝堂の床とか血だまりできて、桜田門外の変でもあったんかちゅーくらい赤かったよ」

「芹沢先生が刺されたのも十分に歴史的事件ですよ」

「これで死んでたら誰がアユちゃんの弔辞を読んだのかな? 生きてたから冗談を言えるけど、シャレにならない傷………でも、クスっ、アユちゃん、あそこの毛、剃られてるんだ。あそこツルツル。フフフ」

「っ…そこは見んといてよ」

 鮎美は恥ずかしいので指先で液晶ディスプレーの一部を隠した。そして、他の議員と話していて議場を出るのが遅くなった直樹が声をかけてくる。

「弔辞は、きっとボクだったろうね。西村先生のと合わせて」

 話の一部が聞こえていたようで言ってきた。

「よっぽど、ひどい傷みたいだね。今は元気そうだけど」

「死ぬかと思うほどやったよ。雄琴先生も、見る?」

 鮎美は指先で下腹部は隠しながらディスプレーを直樹に向けた。翔子と音羽は同性はともかく異性に負傷写真を見せられる感覚に違和感をもったけれど、同性愛者の感覚は自分たちと少し違うのかもしれないと考える。いずれ二人とも直樹と近い年齢の異性と結婚するという意識を大なり小なりもっている。それに対して鮎美は下腹部さえ隠しておけば平気という顔だった。逆に見せられた直樹が動揺して青ざめた。

「っ…す…すまない……血は苦手なんだ……」

「あ、すんません。エグいもん、見せて」

 鮎美も直樹の妹が惨殺されたことを思い出して謝る。よろめきながら直樹は男子トイレへ入っていった。

「アユちゃん、今のは見事なまでの逆セクハラだったよ。レズビアンって男に見られて恥ずかしいって感覚ないの?」

「うん、あんまりないよ。しつこい視線とかベタベタ触られるのは嫌やけど、ドキドキはせんから」

「私たちとは世界の見え方が違ってそう」

「世界かぁ……ええね、こうやってカムアウトして隠さず話せるの。最高やわ」

 しみじみと鮎美は国会議事堂の廊下で天井を見上げた。日本の中心、国家の殿堂、そこで隠すことなく自分の指向について友達と話せる。それが嬉しくて気持ちが高揚してくるし、車イスとカテーテルからも解放されて最高の気分だった。女性議員たちの会話が落ち着いたところへ、木村と最年長議員である村井が声をかけてきた。

「芹沢先生、お元気そうで何よりです」

「ワシらもまぜてくれんか?」

「あ、はい。……うちの傷、見ます? エグいですよ」

「それはまたの機会に。その話ではなくて、畑母神先生もまじえて始められたことに、私と村井先生も入れてくれませんか?」

「っ、はい! 喜んで! でも、ええんですか? どうして、また?」

「私も村井先生も、畑母神先生が好きなんですよ」

「……」

 え、同性愛者って、こんなにいるんや……、と鮎美が勘違いしているのが顔に出ていたので、木村が気づいた。

「いえ、そういう意味の好きではなくて、海上自衛隊のトップから政治家に転身されているところがね。応援していきたいな、という好きです」

「ワシも海軍じゃったしな」

「たしか、潜水艦の艦長やったんですよね?」

「おお、覚えておってくれるかね」

「はい。けど、うちら女の権利をバンバン言うつもりはないけど、やっぱり男の人から見たら、女寄りって感じがしませんか?」

 鮎美が遠慮がちに問うと、木村が神妙な顔で答える。

「妊娠22週から保育園に入るまで、女性へ給料分を出す、赤ちゃん手当でしたね?」

「はい」

「もう40年も前の話になりますが、うちの家内を結婚前に妊娠させてしまってね。当時、私もお金がなかった。事業を立ち上げたばかりの頃で、すまんが堕ろしてくれと、頼んでしまった。それから3年、結婚して一人目が生まれたし、二人目も無事で産まれたが、三人目と思っているときに子宮癌が見つかって、それきりです。今でも悔やむんですよ、あのとき、堕ろさず産むという選択をしていたら……と。男というのは勝手なもので、申し訳ない。せめて今から少しでも罪滅ぼしできれば、と思ったまでのことです」

「そうやったんですか………わかりました。こちらこそ、よろしゅうお願いします」

 鮎美は年配の男性二人が加わってくれたことを心強く思いながら、畑母神に連絡し木村と村井からの好意を報告しておいた。好意の表明は議員同士で、きわめて重要なので静江にも連絡して記録としておくし、畑母神の方では都知事選への応援を頼むだろうと想像する。とくに最年少議員の鮎美と最年長議員の村井が並び立つのは話題になるはずだった。そうして議員宿舎に帰る。他の議員たちは会談や接待などに出ていくけれど、まだ負傷が完全でない鮎美は桧田川と部屋に戻ると、制服を脱ぎながら再確認する。

「普通にお風呂、入ってええんですよね?」

「どうぞ」

「やった!」

 歓びながら入浴して身体と髪を洗った。揚がっても、まだ早い時刻だったので再び制服を着て桧田川が見ていたテレビをいっしょに見る。

「緊急特番! 多田元総理と秘書田仲」

 お笑いコンビをメインにした政治番組が鮎美のことを取り上げていた。

「赤ちゃん手当、これな。あの、あれ、クリスマスあたりから流行ってた児童養護施設にランドセルとか寄付して回る。ダイガーマスクみたいな?」

「違います。赤ちゃんはランドセル背負わないから! はい、今ね、もっとも総理大臣にしたい人、ナンバーワン、芹沢鮎美さんの紹介です。琵琶湖姉妹学園3年生」

「え? ガキじゃん!」

「いやいや、もう成人してるから」

「いやいやいや! どう見てもガキじゃん! ってか、おかしくね? 20歳で総理大臣でもダメだろ? オレが総理でもダメだし!」

「あなた元総理ですから。そういう設定ですから」

「あ、じゃあ、あれだ。この女の子も設定だ。そういう設定の子だ」

「設定かどうかはおいて。一応、議員ですから」

「一応とか言ったらダメだろ。訴えられるぞ。この子、怖いんだろ?」

「ま、パンチラ撮るとね。キレるわね。うん。泣いてたから」

「週刊紙ひどいよな。死刑でいいよ」

「どうやって死刑にすんだよ? 燃やすのか?」

「焚書だな」

「カッコよく言ってんじゃねぇよ」

「パン書だな」

「下品にも言うな。なんだよ、パン書って? マンパンマンのレシピか?」

「パンツが載ってるからパン書」

「訴えられるぞ」

「まさにパンドラの箱、開けるとね、やばいんだ。もうマンドヤの箱ってな」

「お前が死刑だ! 公募して死刑にしてやる!」

 勢いのあるコンビの会話へ、女性芸能人が入る。

「あ、私もさっき、彼女の事務所に電話して集団訴訟に入りました」

「「ええっ? マジで?!」」

「一昨年、かなり嫌な写真を載せられてて、どうにもムカムカしてたし。やっぱり彼女の言う通りだと思うんですよ。一瞬のパンチラ撮って晒すのって芸能人だから痴漢行為じゃないって認識、あらためないとスカート穿けないし」

「オレもスカート穿こうかな。載せてもらおう」

「お前は死刑だから。元総理死刑」

「オレがスカート穿いたら売春できるだろ。で、年金に入れてもらおう」

「ああ、あれな。不確定……なんだっけ。あ、そう、不確定拠出年金。水商売の人が納めておくと35歳からもらえるっていう」

「35歳ババァだからな。年金が要るな」

「お前今、日本の大半の女性を敵に回したぞ。少子高齢化だから35歳以上の方が多いぞ、きっと」

 漫才コンビのかけ合いに、政治評論家が入る。

「あの不確定拠出年金の話、発表するとき代表者は緊張のあまり泣いてましたけど、気になって彼女らのホームページで内容を確認したら、なかなか興味深い内容でしたよ。年金の充実で売春従事者を支援すると同時に、収入をクリアにする。クリアにすることで暴力団を排除していくし、排除しつつ暴力団員の再就職先として風俗店を位置づける。ああいう店は女性ばかりでなく酔客の乱暴を防ぐためにボディーガード的な店員も要しますから、今でも怖面(こわもて)が働いています。こういう人件費もクリアにして、暴力団への資金を断つ。それでいて、売春の合法化というのは国民的議論を要して遅々として進まないので、それは棚上げ。今まで通りソープランドで行われていることや、デリヘル嬢が本番をしているのか、していないのかは触れない。そして、男性身体障碍者などが利用するのに医療費控除のような控除や補助を設定し、また将来的に35歳以上の独身男性が利用する場合も控除をもうけるとしている。控除だけでなく、非正規雇用で長く働いている人には転売可能なクーポン券を出すとも。つまり自分で使ってもいいし、転売して現金化してもいいと、面白いことを考えるものです。まあ、ふるさと納税や地域振興券を真似たのでしょうが、それを風俗で、というのが大胆だ。とはいえ、赤ちゃん手当てなどの福祉から遠い独身男性へ納税者としての負担だけでなくサービスを設定するというのは、不公平感をやわらげることにはなります」

「けど、独身限定じゃん、嫁さんいたら、ダメなんだ? オレ、もらえないじゃん!」

「福祉的要素を考えているのでしょうな。ミールクーポンに近い形の。ゆくゆく性的風俗産業の運営母体を保育園同様に社会福祉法人としつつ、開業地の規制をゆるめ、地域の景観に溶け込むような店舗であれば、摘発しない形にすれば、一部の地域に風俗産業が密集して乱立し、風紀が悪くなることも防げると想定している。実際、ああいう土地のショバ代や家賃というのは、やはり反社会的団体に流れやすいわけで、そこも防ごうと徹底していました。ようするに風俗産業から風俗嬢と末端暴力団員を救い出して搾取をやめさせ、暴力団のトップと地主を干そうという計画ですな」

「徹底してるな。アユミちゃん、弾かれるぞ」

「すでに刺されてるからな。逆に怖いもん無しじゃないか」

「赤ちゃん手当ての財源も、タブーに触れてないか? タックスヘブンって世界のマフィアだろ」

「あれな、仕組みが、よくわからないな」

「お前、バカだからな」

「うるせぇよ、じゃあ、お前が説明してみろよ!」

「だから、お金をいっぱい刷るんだよ。国が、で、国民にバラまくんだ」

「おう、それで?」

「それを一つの国だけでやると、インフレになって輸入とか大変なことになるから、たくさんの国で同時にやろう、って話だよ」

「すると、どうなる?」

「国民みんながお金持ちになるけど、お金の価値は半分、だから金持ちほど痛いし、貯金ゼロだと超ラッキー。たとえ、どこにお金を隠していても、価値が半分になるのからは逃げられない。脱税不可能ってわけだ」

「おお、さすが元総理」

「うん、これオレが考えてアユミちゃんに教えてやったからな」

「ウソつけ!」

 また政治評論家が語る。

「インフレ税という発想そのものは従来からありますし、実質的に機能しています。昔はラーメン一杯が50円という時代がありましたが、今は800円です。自動車や郵便代、衣服なども。また、現在でも各国は通貨安競争を行って、自国の輸出を狙っています。芹沢さんの発想が面白いのは、これを競争ではなく談合でやろう、やりすぎても困ったことになるので、慎重に数%ずつ切り下げていこう。そうすることで財源の捻出と同時に弱小国との平等化もはかれるというものです」

「うまくいくんっすか?」

「各国の協力次第でしょう。当然、富裕層の反発は予想されます」

 テレビは色々な話題に触れているけれど、鮎美が同性愛者であることには、どの番組も深くは触れずにいた。

「うちがビアンなこと、どうでもええのかな? 世間にとって」

「どうでもいいというより、触れにくいんだと思うよ。かたや、がっつりパンチラで裁判するって言ってるし、それで同性愛者です、って言われても、下手なこと言って怒らせたら、また裁判って気がするし。あ、私もうお酒、呑んでいい? カテーテルの操作もないし」

「あ、はい、どうぞ」

「じゃ遠慮無く」

 今までは寝る直前まで飲酒しなかった桧田川は買っておいたライチ味の缶酎ハイを呑み始めた。鮎美のスマートフォンが鳴る。着信は鷹姫からで報告を受けた鮎美は電話を終えると、ガッツポーズして叫ぶ。

「集団訴訟への参加人数が269人! 連合インフレ税への興味ありな問い合わせが海外も含めて39件! しかも二つの経済研究所が試算を始めたんやって! めちゃ勢い出てきたわ!!」

「浮かれるのは、いいけど、そんな派手なガッツポーズしないで。まだ怪我人なんだから」

「総理大臣にしたい人とか言われてるし!」

「はいはい。あ、さっき負傷の写真、けっこう平気で人に見せてたけど。学会と広告で使いたいって言ったらダメ? 学会では患者氏名は伏せるし、広告で使うなら、それなりの料金を払うよ。私、近いうちに独立開業して美容外科やりたいし。今は病院で外科全般だけど、そろそろ開業かなって気分だし」

「学会はええけど……広告は…う~ん……。あ、お酒って、どういう味するん?」

「急に興味もって、どうしたの?」

「だって、なんや祝杯って気分やもん」

「呑んでみる?」

 桧田川は細かい法律を気にせず鮎美に呑んでいた缶を渡した。鮎美も二人しかいないので呑んでみる。

「けっこう美味しいですやん」

「これ、ほぼジュースって味だから。あ、けっこう呑んだね。これストロングなのに」

 桧田川は返してもらった缶が軽くなっていたのでアルコール度数を見る。

「9%だから……まあ、大丈夫かな。外出はしないでね」

「今日はもう鷹姫が報告結果を印刷してもってくるだけやし。外には出ませんよ」

 そう言っているうちに鷹姫が書類をもって訪れ、翔子や音羽と同じくロングスカートから制服のスカートに変化していることを喜んでくれた。

「ご回復おめでとうございます。芹沢先生」

「そんなかしこまらんとってよ。二人きりやないけど、桧田川先生しか、おらんし。な」

「はい、鮎美、元気になってくれてよかったです。ですが、顔が少し赤いですよ?」

「これは…、お風呂上がりやしね」

 うまく鮎美はアルコールで赤くなった頬のことを誤魔化した。

「入浴も自由にできるようになったのですね」

「そうよ。あとで、いっしょに入ろ」

「………」

「冗談やって。そんで、報告の書類は?」

「はい、こちらです」

「紅茶でも淹れるわ。寒かったやろ、ま、座り」

「いえ、私が淹れます」

「ええよ、長いこと運動不足やったし。うちが淹れるから。桧田川先生は、紅茶、どうします?」

「遠慮する。アルコールとカフェインって変に興奮するから」

 桧田川は2本目の缶酎ハイを呑み、鮎美は二人分の紅茶を淹れた。電話で簡単に報告した鷹姫は書類をもとに詳細な報告をしたけれど、それが終わると鮎美は立ち上がって、ソファへ座っている鷹姫に近づき言う。

「少し上を向いて、目を閉じて」

「はい」

 素直に従った鷹姫は何も予想していなかったけれど、横で見ていた桧田川は予想通りに鮎美が鷹姫へキスするのを見た。キスされた鷹姫は言われた通りに目を閉じていたけれど、形のいい眉をひそめている。しかも鮎美は長いキスをして舌先を鷹姫の唇へ入れていく。これまでも頬や首筋など、いろいろなところへ唇や舌を這わせることは多かったけれど、口と口で完全なキスをしたのは初めてだった。

「…ハァ…」

「……」

 鮎美が熱い吐息を漏らしてキスを終え、鷹姫は黙って目を開けた。

「好きよ、鷹姫」

「………。そうですか……」

「うちが総理大臣になったら、うちと結婚してよ」

「……………私には許嫁がいますから」

「っ…総理大臣でも、あかんの?」

「…………………そういう問題では……なく……」

「…………。桧田川先生、少し二人にしてもらえますか?」

「そ、そうだね。ごめんね、つい見てて」

 興味津々で二人を見ていた桧田川は缶酎ハイをもって隣室に移動した。鮎美は攻め方を変える。鷹姫の背後に回って後ろから抱きしめた。

「鷹姫の耳、好きよ」

 そう言って耳にキスをする。くすぐったさで鷹姫は身じろぎした。耳から首筋へもキスを降らせる。

「鷹姫の髪も好き」

 ポニーテールを撫でた。

「鷹姫は、うちのこと嫌い?」

「いえ……」

「好きでいてくれる?」

「………尊敬しています」

「好きって言うてよ。あのときは言うてくれたやん」

「…………好きです」

 言ったところへ、またキスをされて舌を入れられた。同時に鷹姫のスカートへ鮎美の手が入ってきて太腿を撫でてくる。

「…ハァ…」

「………」

「鷹姫」

 呼びかけて、またキスをしようとするので鷹姫は顔を背けて逃げた。

「やめてください。………私に何を求めているのですか?」

「………。立って、こっち来てよ」

「……」

 鷹姫はソファから立ち、手を引かれたのでベッドの方へ歩いた。

「座って」

「はい」

 素直に鷹姫はベッドの端へ座った。鮎美も隣りに座ると、手を握る。

「鷹姫は最高に可愛いよ」

「………」

「うちは鷹姫が大好きなんよ」

「………」

「愛してるわ」

「………」

「鷹姫」

 今度は拒否されないように唇ではなく首筋へキスをして、キスしたまま唇の方へ近づく。鷹姫が逃げようとするとバランスが崩れて二人でベッドへ倒れ込んだ。

「…ハァ……」

「………」

「……」

 黙って鮎美が制服を脱がせようとすると、鷹姫は抵抗した。抵抗されて対抗できるとは思っていないので、鮎美は攻め方を再び変える。

「うちの傷跡、しっかり治ったんよ。見てくれる?」

「はい」

 それは心配だったので見たかった。鮎美は傷跡を見せるために制服を脱ぐ。全裸にまでなる必要はないのに、全裸になった。さすがに裸になると恥ずかしくて赤面する。

「…ハァ……ほら、ここから、ここまで、スパっと斬られてたのに、ぜんぜん、わからんやん?」

「はい、ほとんど、わかりません。まったく見事な治療です」

 鷹姫は指先で傷跡に触れた。触れてくれるのが嬉しくて鮎美は心臓が高鳴り興奮する。

「…ハァ…ハァ……そういえば、鷹姫も噛まれてたよね。傷は、どうなん?」

「そういえば……見ていません」

 毎日入浴しているけれど、気にしていないので見ていなかった。

「見るから服を脱いでよ」

「……」

「心配やし、うちのせいやし、見たいんよ」

「…はい…」

 鷹姫は上半身をブラジャーだけの姿になった。鮎美は傷跡を確認する。やはり傷跡は残っていて、もうカサブタなどはないけれど、皮膚の色合いと皺が違うし、そこだけ産毛も生えていない。

「ごめんな……うちのために」

「いえ、気にしないでください」

「せめて、少しずつでも治るとええのにね」

 そう言いながら鮎美は傷跡にキスをした。自分を守ってくれるために負った傷なので本当に申し訳なくて涙が流れる。

「ごめんな、ごめん」

「どうか、気にしないでください。気にされる方が私もつらいです」

「鷹姫……」

 抱きついて抱きしめた。

「本当に気にしないでください」

 軽く抱き返してくれる。それが嬉しくて抱きついたまま首筋へキスをした。

「…ハァ…ハァ……鷹姫も、裸になってよ」

「…………」

「お願いよ、鷹姫」

「………嫌です」

「……………。お願い、鷹姫」

「嫌です」

「…………」

「もう離してください」

「もう少しだけ、こうしてて」

「…………」

「鷹姫……」

 鮎美はスカートを脱がせようとチャックへ手をかけたけれど、手を払われた。

「鷹姫………」

「あまり裸でいると風邪を引きますよ」

「……ほな、いっしょにお風呂へ入ろ」

「………お一人で入ってください」

「いっしょに入ろぉよぉ」

「……」

 鷹姫は鮎美を押しのけて脱いでいた制服を着て、はっきり言う。

「鮎美、服を着てください。病み上がりに体調を崩しますよ」

「………」

 鮎美は一時撤退を決めて下着と制服を着た。それで鷹姫も安心した顔になってくれる。

「そろそろ私はホテルへ帰ります」

「まだ用事あるし残って」

 やや欲求不満な声で強く言った。

「はい。何の用事ですか?」

「………」

 どうすれば鷹姫を脱がせられるか、何も考えていなかったので、少し考えるために部屋を見回して思いついた。桧田川の医療器具が入っているバックを開け、そこからカテーテルを出した。

「ちょっとこれを体験してもらうから、ベッドに寝て」

「……それを……。…ですが……どうして?」

「身体障碍者の気持ちを知るためよ。うちも体験してみて、初めて気づくこと、いっぱいあったから、あんたも知りぃ」

「……ですが……私は……」

「あんた秘書やろ、うちの命令には従いぃ。ほら、寝て!」

「………。はい」

 鷹姫はベッドに仰向けに寝た。

「パンツ脱ぎ」

「……」

「早く、パンツ脱ぎ」

「………はい…」

 鷹姫は命令に従った。

「膝を立てて、脚を開き」

「……こうですか?」

「そうよ。ええ子やね」

「………」

「ほな、これを入れるし、ちょっと初めは変な感じするけど、我慢しぃな」

 鮎美はカテーテルのパッケージを開封する。何度も挿入されたので、どこが挿入する部分か知っていた。先端が丸くて細い管を鷹姫へ向ける。

「ゆっくり入れるしな」

「……ぅッ…」

「けっこう難しいわ……ここかな…」

「…んッ……」

 思わず鷹姫が両手を股間にやると、鮎美は追加で命令する。

「あんたは障碍者なんよ。両手両脚が自由に動かせへん、何一つできん障碍者なんやから動いたらあかん」

「……はい…」

 鷹姫が手を戻して力を抜いたので鮎美は続ける。

「あ、入った、入った。もう少し奥まで突っ込むよ」

「…ぅぅ……ぅぅ…」

「ほら、見てみ。鷹姫のオシッコが勝手に出て来て、このパックに貯まるんよ」

「っ…み、見ないでください!」

「そんな真っ赤になって恥ずかしがって鷹姫、可愛いな」

「っ…っ…っ…」

「どんなに止めようとしても、勝手に出てくるやん? どう気分は?」

「いや……嫌です……やめて……やめてください」

「途中で抜くと、たぶん溢れるから最後まで採るよ」

「…っ…ぅぅっ……」

 鷹姫が恥じらいで涙を零すと、鮎美は目尻を舐めて涙を拭った。そして、どうしようもなく衝動が高ぶってしまい、鷹姫を脱がせて身体を舐める。乳首を吸い、腋を舐めた。真冬だったけれど、一日中忙しく電話応対を、ときには英語も使ってしていた鷹姫の腋は強い匂いがして、毛が生えているので性器を舐めているような気持ちになる。

「ハァ…ハァ…」

「く、くすぐったいです」

「……」

 鷹姫は身体を舐められることには、あまり羞恥心を覚えないようで鮎美としては面白くない。股間を舐めてさえ反応は薄かったので、鮎美は右手の指先を鷹姫のお尻へやりつつ、舌を噛まれたりしないよう左手の指を鷹姫の口へ入れた。左手の指を鷹姫の舌にからめつつ、右手をお尻の奥に入れる。

「んんっ?!」

 鷹姫がビクリと動いた。実直に手足は動かさないけれど、鮎美の指を噛んでくる。

「痛っ…」

 鮎美は指を噛まれても続けた。痕が残るくらい噛まれてもいい覚悟で続ける。

「んんん! んんん!」

 鷹姫が拒否するような声をあげながら指を噛んでくるけれど、食いちぎられるほど強くはない加減されたものだった。

「お尻も初めは気持ち悪いけど、慣れると、これはこれで不思議な気持ちよさがあるんよ」

「んんん!」

 鷹姫が反応してくれると、ますます鮎美は衝動が強くなり、もう最後の一線も越えたくなる。右手の親指を鷹姫に触れさせた。せめて挿入する前に問う。

「鷹姫…………ここに指、入れていい?」

 話ができるように左手を口から抜いた。

「嫌です! やめてください!」

「………お願いよ。痛くせんから」

「嫌です嫌です! あなたは私を愛してくれているのではないのですかっ?! これでは、ただ欲望の対象にしているだけです!」

「っ…」

 興奮していた鮎美の脳が冷や水を浴びせられたように醒めた。

「ごめん……鷹姫……もう、やめるわ。これ抜くよ。力を抜いてな」

「ぅぅ…」

 ゆっくりと抜かれても鷹姫は尿道の違和感に身震いした。

「抜けたよ。パンツ、穿かせてあげるし足あげて」

「…ぐすっ…」

「ほら、おしまい」

 鮎美は鷹姫のスカートを直して手を引いて起き上がらせた。

「ごめんな、鷹姫」

「……もう帰らせてください」

「うん、送るわ」

「一人で平気です」

 鷹姫は部屋を出て行き、残された鮎美はソファに座って後悔する。しばらくして桧田川が入ってきた。

「どうだった? その顔はダメだった……っ?! どうしてカテーテルが出てるの?!」

 桧田川はベッドに残っていたカテーテルと尿の入ったパックを見て驚き問うた。

「あ……これは……」

「まさか、これを宮本さんに使ったの?!」

「………すんません……勝手に…」

「すみませんじゃない!! 素人が勝手に触っていいようなものじゃないのよ!!」

「…………」

「あきれるわ!! バカ!!」

「……………弁償しますし……いくらですか?」

「………」

 桧田川は怒ったまま黙り込み、鮎美も言葉がないので室内は重い沈黙に支配される。しばらくして、すでに夕食の時間が過ぎているので鮎美は恐る恐る問う。

「夕飯、何を頼みはります?」

「……何でもいい」

「ほな、親子丼にしますね」

 出前を取り、静かさが痛い夕食を終えた。

「……お風呂、入れ直しますし、入ってください」

「…………」

 返事はなかったけれど、鮎美は風呂の用意をした。

「お風呂、準備できましたし、どうぞ」

「…………」

 かなり桧田川は怒っている様子で、黙ったまま動かない。鮎美は居心地悪くソファに座ってから尿意を覚えたのでトイレに向かおうとしたけれど、突然に激痛に襲われた。

「ううっ?! 痛っ! 痛いいいい! あぁあぁ!」

 股間が刺されたように痛くなり、蹲ると尿を失禁してしまった。ナプキンをあてていたけれど、それでは吸収しきれず下着と制服が濡れて床に水たまりができる。

「ハァ…ハァ…ううっ…」

「どうしたの?! 傷が痛むの?!」

 怒っていた桧田川が医師らしく怒りを忘れて駆け寄り診てくれる。

「傷跡は大丈夫。……どうして急に……。どのあたりが痛かった?」

「傷跡より、おしっこの穴あたりが痛かった気がします。そろそろトイレに行こうと思ったら、急に我慢できんようになった感じで、そしたらナイフか錐で刺すような痛みがして。けど、漏らしてしもたら、痛みは消えました」

「尿道に傷でも……あ!」

 桧田川が思い当たる。

「一度、入院中に強引にカテーテルを自分で抜いたでしょ!」

「あ…はい……そんなことしたかも……」

「あれで傷になってるのよ、奥で」

「…傷に……それ、治るんですか?」

「……………」

 桧田川は黙って考え、鮎美を懲らしめることにした。

「治らないよ」

「………治らないって……?」

「カテーテルは先端がバルーン状になるって言ったよね。そのバルーンを膨らませたまま強引に抜いたりしたら、そりゃ括約筋が切れて、オシッコが我慢できなくなるよ。膀胱は尿が一定量を超えたら排出しようとするから、それを止めるのが括約筋で、その状態で尿意を覚えるから。括約筋が切れてると、トイレに行く間もなく漏らすの」

 桧田川の説明を聴いて鮎美の顔が不安そうに青ざめる。

「…………薬とか手術で治らんのですか?」

「医者は魔法使いじゃないから、失明した人が失明したままなように、芹沢さんは一生、オシッコ垂れ流しだよ。気の毒にね。けど、自業自得」

「…そ……そんな……な、何とかしてくださいよ、医者でしょ?!」

「だから医者は魔法使いじゃないの。けど、診断書なら書けるから、それで障碍者認定してもらえば、オムツ代とか補助がでるはずだよ」

「………障碍者……うちが障碍者になるんですか?」

「なるよ。だんだん悪化するし」

「悪化って?」

「尿道の奥で括約筋が切れるなんて普通の怪我じゃありえないから、括約筋を含めた排泄をコントロールしてる神経が、だんだん変調をきたすの。腰の背骨から出てくる神経は腰神経叢って言う、いわば小さな脳みたいに再集結して排泄をコントロールしてるからオシッコのコントロールが狂うと、大便をコントロールする括約筋も本人の意志に関係なく漏らすようになる」

「………」

「そして、いずれ腰神経叢の全体に神経障害が拡がって、腰から下が麻痺するから車イス生活になるよ」

「……い……いずれって?」

「半年から一年。それで歩けなくなる」

「………ぃ……一生?」

「一生」

「……………い、嫌や!」

「嫌なのは他の障碍者もいっしょだから。我慢しなさい。障碍者の気持ち、理解できて良かったんじゃないの?」

「……そ……そんな………うちが……」

 青ざめて蒼白になった鮎美は両手をブルブルと震わせている。絶望に沈んでいく顔を見て、桧田川は調子に乗りすぎている鮎美を反省させる良い機会だと思った。

「私は宮本さんが心配だから診てくる。あの子まで障碍者になったら、あなたの責任ですからね!」

 心配なのは本当だったので桧田川は議員宿舎を出ると、鷹姫が宿泊しているビジネスホテルを訪ねた。ノックすると、すぐにジャージ姿の鷹姫がドアを開けてくれる。室内からコンビニ弁当の匂いと鷹姫の汗の匂いがした。

「ちょっと、さっきのことで話があるの。入っていい?」

「はい、どうぞ」

「ご飯中だった?」

「今、食べ終わったところです」

「誰か来てたの?」

 桧田川は空になった親子丼とカツ丼と幕の内弁当の容器を見て問うたけれど、恥ずかしそうに鷹姫が片付ける。雰囲気と汗ばんだ鷹姫の顔からして、稽古代わりに室内で腕立て伏せ等の筋トレをした後、いつも通りの食欲で三つの弁当を食べ、さらに鮎美とのことがストレスになったのか、二つ大きなデザートを買っていて、生クリーム載せメロンゼリーと、モンブラン風パフェがテーブルにある。

「いえ、誰も。もし、よければ、桧田川先生も召し上がられますか?」

「ううん、お気持ちだけ、もらっておくわ」

 どちらも高カロリーそうなデザートを美味しそうだとは思ったけれど、心から遠慮した。

「私のことは、気にせず食べて」

「いえ、あとで食べます」

 そう言って鷹姫はデザートを小型冷蔵庫に片付けた。

「それで、桧田川先生のお話というのは何ですか?」

「さっき芹沢さんと何をしていたか、教えてくれる?」

「それは…………」

「誰にも言わないし。何より心配だから教えて」

「はい」

 鷹姫は鮎美との間にあったことを説明した。

「そんな、ひどいことされたの……」

「……。気にしていませんから」

「気にしようよ………」

 桧田川は再び考え込みながら、とりあえず診察する。

「カテーテルを入れられたところ痛くない?」

「はい。大丈夫です」

「診せてもらっていい?」

「はい」

 鷹姫がジャージと下着を脱ぐので、桧田川は窓のカーテンを閉めた。

「ベッドに寝て。足を開いてもらっていい?」

「はい」

 ホテルの照明では暗いので、桧田川はペンライトで鷹姫を診た。

「血は出てないから、外に傷はないかな。中に傷があるか気になるから、採られたばっかりで出ないかもしれないけど、お風呂場で、これにオシッコしてみて」

 桧田川は鷹姫がゴミ箱に捨てた幕の内弁当の蓋を取り出して、よく洗い、完全に水分が無くなるようにティッシュで拭いた。その透明な蓋を差し出されて鷹姫が戸惑う。

「それへ………排泄を………食べ物を入れる器なのに……」

「どうせ捨てるし。むしろ捨ててあったし」

「それは、そうですが……行儀の悪いこと、この上ないというか……バチ当たり……。あの…、これはSMですか? そういうことは嫌です。お断りします」

「違う違う。ホテルの部屋で、お弁当箱にさせられると思うから、変なことさせられてる気になるかもしれないけど、実質、医者に紙コップへ検尿させられてるのと同じだから。れっきとした医療行為だよ。疑わないで、オシッコしてきて」

「…はい……」

 鷹姫は弁当の蓋を持ってバスルームへ入った。しばらくして恥ずかしそうに持ってきた。顔を真っ赤にして耳まで赤くしている。

「……少しだけ……ですが…」

「すぐに脱ぐわりに、そういう羞恥心は強いのね」

 受け取った桧田川が、じっくりとペンライトで照らして診るので、鷹姫はとても恥ずかしくて目をそらして問う。

「そんなに……見ないといけませんか?」

「血が混じってるかどうかを診てるの。オシッコを出すとき、痛くなかった? あとカテーテルを抜かれるとき、どうだった? 痛かった?」

「いえ、大丈夫です。……抜かれるときは、変な感じがしましたけれど……痛くはなかったです」

「そう。バルーンを膨らませる操作をしなかったのね。よかった」

 安心した桧田川がトイレに流してくれたので、やっと鷹姫は落ち着く。

「もう下着を穿いてもいいですか?」

「あ、ごめん、ごめん、どうぞ」

「芹沢先生が括約筋を傷めたのは大丈夫なのですか?」

「うん。たぶん2、3日で治るよ。大袈裟にデタラメ医学で障碍者になるって脅しておいたけど、括約筋も切れてはないと思うし、軽い肉離れくらいかな。ただ、肉離れした腕や足で運動したら、とても痛いようにオシッコを我慢すると、すごく痛いから私の指導を守って、こまめに行けば平気なはず」

「そうですか、よかった」

「心配してあげるんだ……えらいね……。でもさ、芹沢さん、かなり調子に乗りすぎだと思うの。カムアウトして怪我も治りそうで、何より記者会見も成功して、世間がチヤホヤしてくれるから、つい浮かれるのは人間として仕方ないとは思うけど、そういうときって足元をすくわれやすいよ」

「そうなのですか?」

「うん、全能感っていうんだけど、物事がうまくいってると、ついつい自分は何をしても許される。そんな勘違いをしてしまう。路上チューとか不倫は文化とかね。あと、若い議員とか気持ちが先走りすぎて、ほんの一言二言、言い過ぎたことが原因で失脚すること多いし、今の今まで努力して積み重ねてきたのに、ほんの一度の失敗でおしまい。世間ってあげるだけあげておいて叩き落とすときは、どん底まで落下させるから。そうなる前に、しっかり芹沢さんには反省してもらいたいの」

「反省ですか……」

「私も賛同した以上は、彼女が失敗するところは見たくないし。今のうちにお灸を据えて今後の糧にしてほしいわけ。宮本さんは介式さんと仲いいよね?」

「はい、親しくさせていただいております」

「介式さんにも協力してもらって反省させるから呼んでもらえる?」

「わかりました」

 鷹姫が電話をかけ、三人で相談した後、桧田川は議員宿舎へ戻った。鮎美は濡らした制服を着替えたようで予備の制服を着ているけれど、ソファに座って沈んだ顔をしていた。桧田川が帰ってきたのにも、すぐ気づかず絶望的な顔をしている。

「ただいま」

「……あ…、……た…鷹姫は、どうでした?」

「………」

 あえて桧田川は冷たい目で鮎美を見下ろして言う。

「宮本さんの身体のことは、彼女の個人情報だから言えません」

「そんなん言わんと、教えてくださいよ。うち丁寧にしたつもりやけど、傷になってたんですか? まさか鷹姫まで障碍が残るとか、無いですよね?」

「障碍が残るか、残らないか、そういうこと他人に知られたくないものですよね。医師は同意書が無ければ、ご家族以外に患者情報をつげることはありません」

「そんな……」

「芹沢さんは、かなりひどいことを宮本さんにしたよね? 彼女、ずっと泣いてたよ」

「…鷹姫が……」

 本当は筋トレした後、いつも通りの食欲を発揮していたけれど、桧田川の言葉を信じた鮎美の脳裏にベッドへ泣き伏す鷹姫の姿が浮かんだ。桧田川は追加攻撃する。

「実質、強姦したみたいなものでしょ?」

「…………」

「ご両親に相談して、警察に通報するかもって」

「っ?! そんな?!」

「私が親だったら許せないよ」

「ぅ…うちは、そんなつもりじゃ…」

 鮎美が頭を抱えて震えるので桧田川は時計を見た。そろそろメールが来る頃で、鮎美のスマートフォンが鳴り、慌ててメールを確認している。鷹姫の携帯電話からのメールだった。

 

 これから警察へ行きます。反省してください。

 

 とだけ、打たれている。読んだ鮎美は青ざめていた顔を、さらに蒼白にして鷹姫へ電話をかけたけれど、向こうは電源が入っていなかった。

「鷹姫……そんな……ホンマに警察へ……」

「あ、通報されたんだ。そりゃそうだよね。あと、カテーテルを勝手に使うのは医師法違反だよ。実は浣腸でも自分で自分へするのはOKだけど、業として他者にやると医師法違反だし。知ってた? 芹沢議員さん」

「っ…っ…っ…」

「私のカバンから無断で盗ったから窃盗もあるよね」

「…っ…っ…」

 もう鮎美はパニックになっていて、あまり話を聴いていない。ソファの上でガタガタと震えて、冷や汗と涙を流している。

「…鷹姫……ごめん……そ……そや……示談……300万円ぐらいで……」

「うわ、お金で解決とか、最低。しかも、安いし」

「ぃ、いくらでも……払うし…」

 鮎美はブルブルと震える指で鷹姫へメールを打ち始めた。

「ぃ、一千万でも……そ、そや、うちが大学に行くお金が浮いたって父さんが……父さんに頼んだら、うちと合わせて二千万でも……。う、うちが逮捕されたら…鷹姫も秘書の仕事が……う、うちが在職してたら……四千万でも……党からの、お金も……。鷹姫……ぃ、…一億でも払うから……」

「それ自分で働いたお金じゃないよね。売春でもして苦労を味わえば? そういえば、女性同性愛者って男相手に売春できるの?」

「…た……鷹姫……お願いよ……電話に出て…」

「まあ、芹沢さんは、そのうち下半身麻痺になるから売春も無理かな」

 桧田川は、そろそろ眠たいので3本目の缶酎ハイを開けて、ゆっくりと鮎美が怯える様子を眺めながら眠った。

 

 

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