第33話 1月24日 第177回国会、芹沢鮎美始動

 翌1月24日の月曜朝、鮎美は議員宿舎の自室で身支度をしていた。なるべく大きな動作はさけた方が良いので鷹姫と桧田川が着替えを手伝ってくれる。

「うちは今は着替え一つにも人の手に頼る……。前に鷹姫と視覚障碍者の体験をしたけど、あのときは短時間やったけど、こうやって朝から夜まで……夜も自由に寝返りできん状態ちゅーんは、精神的にも肉体的にも、かなりの負担やね。本人だけや無くて、まわりで助けてくれる人も」

「あの話は他言無用ではなかったのですか?」

「桧田川先生は医師やし、守秘義務があるからええんよ」

「どんな体験したら人に言えない障碍者体験になるわけ?」

「鷹姫が全盲の人で、うちが盲導犬ですわ。事情を知らん人が見たら、変な行為に見えますやん?」

「盲導犬かぁ……あれの育成って大変らしいし、年老いて役目を終えた盲導犬を引き取る事業もあるらしいよ。癌の多い犬種だから、かわいそうな最期になることもあるみたい」

「犬も癌になるんや?」

「らしいよ。私は人医、人の医者だから、詳しく知らないけど。はい、終了」

 身支度が終わり、今日も鮎美は上半身は制服、下半身は黒いロングスカートという服装になった。車イスに乗り、鷹姫に押してもらって廊下へ出ると介式と男性SP、それに翔子が待っていた。翔子も国会開会式なので新調したスーツとスカート姿だった。

「翔子はん、元気そうでよかったわ」

「そんな…芹沢先生の方こそ大変で……お怪我は、どうですか?」

「うん、順調よ。心配おおきに。ほな、遅刻せんうちに行こか」

 国会開会式は参議院で開催されるので議院宿舎から車イスで移動すると、少し回り道しなければいけない部分もあり、やや早めに行き、議事堂内では車イスから立ち上がって自分の脚で、決められていた自席に座った。

「…………」

 とうとう国会議員としての議席に座る。鷹姫と介式、桧田川らは外で待ち、翔子は同じ自眠党となったので配慮があったのか隣席になっていた。鮎美の右手が少し震えているので翔子が心配する。

「大丈夫ですか? 手が震えて…」

「………」

 鮎美は震えていた右手を左手で押さえた。

「この感じ………懐かしいわ……」

「懐かしい? 国会議事堂が?」

「ちゃうよ。いよいよ始まるんやな、うちの戦いがって想う気持ちよ。剣道の試合前も、そうやった。この震えは武者震いよ」

「今日は二度の本番がありますから気合いが入ります」

「翔子はんも、うちらに賛同してくれて、おおきにな」

「私は芹沢派ですから」

 すっかりなついてくれた翔子からは尊敬の眼差しを感じる。他の議員たちも少しずつ入ってきた。眠主党の直樹も、それほど遠い席ではなかったので声をかけてきた。

「やぁ。弔辞、頑張って」

「頑張るようなもんとちゃうけど、頑張りますわ」

 直樹も鮎美の計画に賛同してくれていると詩織から聞いているけれど、今は秘匿を優先して、とくに何も言わず、西村の弔辞についてだけ触れて離れていった。直樹と鮎美の、どちらが弔辞を述べるかについては本人たちの知らぬところで眠主党と自眠党が取り合いをしていたらしいけれど、二人とも争って得たいようなものではないので決まったことに異議はなく、直樹はあっさりとしていた。そろそろ多くの席が埋まり、真冬でも暑苦しいほど燕尾服の紳士たちで議事堂は埋まる。国会開会式は参議院へ衆参両院の議員が集まり執り行われるので、参議院議員203名が男女半々、年齢も各世代ほぼ均等なのに対して、従来通りの選挙で選ばれている衆議院議員1200名は9割が男性で、しかも50代から70代に集中している。合計1403名が参加するには席が足りず、傍聴席を使っても立ち席があるほどだった。そんな密集した中で、がらんと一部に空席が続く一帯があり、とても異様だった。

「あそこは供産党か……やっぱり、今年も参加せんのや」

「え? 供産党は開会式に参加しないのですか?」

 翔子が問うてくる。まだ政党に所属して日が浅いので、知らないようで鮎美が教える。

「戦後ずっと欠席やって。理由は国民主権なはずやのに、天皇陛下が政治的な内容も含む、おことばを述べられるのが、気に入らんらしいわ。憲法の国事行為を逸脱するて」

「それほど政治的な発言があるのですか?」

「いんや、毎年ほぼ同じおことばで、たいして政治的やなかったよ。どっちかというと、あの玉座っぽい高いところから、国民を見下ろすのが気に入らん感じやと思うわ」

 鮎美が見上げる先には議長席や事務総長席、大臣席などがある壇上があり、そこを今だけは広くスペースを空けて、天皇の着座する御席が置かれていた。

「ま、どう見ても王様か皇帝の席やちゅー見解は、うちも理解できるけど、だからって欠席するのは、どうかと思うわ」

「そうですね。そういう態度は私が言うのも何ですけれど……あ、一人だけ…」

 翔子が供産党議員たちのために空席になっている場所に一人だけ若い女性議員が進んでいくので注目し、鮎美も見る。ライトグリーンのスーツスカートを着ている20代前半の女性議員で、ほっそりとした華奢な肩は陽湖とも似ている魅力があり、鮎美には見覚えがあった。

「キョウちゃんやん」

「あの人、もしかして党の方針に逆らって出席を?」

「みたいやね。顔が硬いもん」

 音羽は緊張して強ばった顔つきで決められた自席に座ると、まわりに誰もいない中、背筋を伸ばして膝に手を置いている。全員が欠席するはずの供産党議員が一人だけ顔を出したことは、他の議員たちにも注目され、話題にされているので、ますます音羽は緊張してメイクしていても顔色が悪くなっている。それでも堂々と座っていようという決意が感じられる目をしていた。

「キョウちゃん、キョウちゃん」

 あまり大声を出さないように鮎美は手を振った。音羽が気づいて鮎美を見て、一瞬手を振り返そうとしてやめ、それから数瞬迷って、手を振り返してくれた。さらに可愛らしい安物っぽいナイロン製のライトグリーンベルトの腕時計を見て、まだ少し時間があったので、鮎美たちの方へ歩いてくる。誰かと話して緊張を解きたいのが、よくわかったので鮎美は笑顔で迎える。

「元気そうやね、キョウちゃん」

「アユちゃんこそ、元気そうでよかった。怪我は、もういいの?」

「完全やないけど、元気やよ。なあ、キョウちゃん、一人だけ参加なん? 党内で」

「うん……」

「なんで?」

 鮎美の率直な問いには周囲の議員たちも興味津々なので雑談していた声が消えて静かになる。

「だって普通に考えて開会式って出るものじゃない? なのに、党のみんなが絶対ダメって言うし。絶対ダメって言われると、逆に絶対出たくなるし。ダメな理由が天皇がどうのこうの、意味不明だったから。いい人たちなんだけど、変に頑固なとこあって話し合ってもラチあかないし」

「なるほど。けど、それで党内での立場は、大丈夫なん?」

「処分するかもって言われたけど。なら、すれば? って言い返した。女を舐めるな、って感じ。争いは話し合いで解決するって言ってたくせにさ、決裂したら処分っておかしくない?」

「ええ根性してるやん。追い出されたら、拾ってあげよな」

「え~……自眠はお金に汚いから嫌。いっそ、若い女の子だけで何か政党をつくろうよ。アユちゃんの秘書が誘ってくれた超党派連盟も面白そうだけど……あ、…」

 音羽は何か考えたようで少し黙り、それから鮎美に顔を近づけてくる。それが密談したいという意味であることは、政治家になる前、女子小学生になったときから本能的に知っている。鮎美も心得て音羽の唇へ自分の耳を近づける。緊張で口が渇いた音羽の健康的な口臭を感じると、鮎美はキスしたい衝動が燃え上がったけれど、自制した。

「党の人に訊いたら、アユちゃんのグループに入るのもやめとけって言われたけど、今からでも間に合う?」

 鮎美は頷いて、今度は唇を音羽の耳へよせる。

「もちろん、歓迎よ。なんで気が変わってくれたん?」

「今週号の週刊紙に私もパンチラ写真、載せられた。アユちゃんと同じパターン、壇上で椅子に座ってるとこ、膝の隙間からスカート狙われた。めちゃ眩しいフラッシュ焚かれて、ずっと手で押さえてたのに立ち上がるときの一瞬を撮られてた」

「懲りんヤツらやな。とことん懲らしめたろ」

「うん、叩きのめそう」

 囁き合った後に笑顔で拳を合わせたので、ますます周囲の議員たちは興味をもっているけれど、内容は漏れていない。定刻が近づき、音羽は席に戻った。いよいよ開始時刻なので静かになり、国会議員以外の参加者である最高裁判所長官、会計検査院長、議員でない国務大臣もそろって起立する中、天皇が入場し御席前方の階段を登って着座した。演壇へ久野にかわって新たな衆議院議長となった眠主党の横道高広が議場に向かって式辞を述べ、それが終わると天皇が議場に向かって、おことばを述べる。

「本日、第177回国会の開会式に臨み、全国民を代表する皆さんと一堂に会することは、私の深く喜びとするところであります。国会が、永年にわたり、国民生活の安定と向上、世界の平和と繁栄のため、たゆみない努力を続けていることを、うれしく思います。ここに、国会が、当面する内外の諸問題に対処するに当たり、国権の最高機関として、その使命を十分に果たし、国民の信託に応えることを切に希望します」

「………」

 例年通りやん、どこが政治的やねん、と鮎美は黙って心中だけでタメ息をついた。これから大役があるのに不思議と緊張しておらず議長に呼ばれるのを待つ。たとえ失敗しても、いきなり刺されたりすることはないという開き直った余裕だった。鳩山総理をはじめとする閣僚による施政方針演説などが終わり、いよいよ弔辞となった。

「議員西村広松君は、昨年12月20日逝去されました。まことに痛惜の極みであり、哀悼の念に堪えません」

 日本国1億2千万人の代表たる千数百人が静かに居並ぶ中、鮎美の名が議長に呼ばれる。

「芹沢鮎美君から発言を求められております。この際、発言を許します。芹沢鮎美君」

 形式的には鮎美が求めて弔辞を述べたいということになっているので、前例通りの言い回しで呼ばれた。

「はい!」

 鮎美は自席から立ち上がり、自分の脚で議場を歩いて進み、ロングスカートの裾を踏まないように、ゆっくりと登壇する。

「……」

「……」

 天皇と目が合い、目を伏せて一礼した。それから議場に向かって一礼し、原稿を読み上げる。

「議員西村広松先生は、平成22年12月20日、胃ガンのため逝去されました。享年70でありました。まことに痛惜哀悼の念に堪えません」

 原稿は鷹姫が前例を模範として、西村の活動や人生を調べて書いたものだった。鮎美は、はっきりとした大きな声を議場に響かせる。今ばかりは傷跡完治のことも忘れた。

「西村広松先生は平成21年10月、阪本市再生会病院において、現在の医療では治ることのないステージ4の進行ガンであるとの確定診断を受けられました。胃ガンは国民の中でも罹患率が高く、その克服と予防が今後の課題とされるガンです。以後、西村広松先生は末期のガン患者として、常に死を意識しながら国会議員の仕事に全身全霊を傾け、一年二ヶ月の月日を懸命に生きられたのであります。私は、ここに西村広松先生の御霊に対し、謹んで哀悼の言葉をささげます」

 鮎美は一呼吸おいて目を閉じ、弔辞を再開する。

「西村広松先生は昭和15年、福井県敦賀市にお生まれになり、その後は京都市、井伊市、阪本市と転居されました。先生が4歳のとき、アメリカ軍が阪本市を空襲し、その帰路において爆撃機を護衛していた戦闘機があぜ道にいた先生の姿を見つけ、機銃掃射してきたそうです。先生はとっさに田へ逃げ込み、事なきをえたのですが、わき腹にカスリ傷を負われたそうです。わずか数センチでもズレていれば、そこで終わりだったと物心ついてから何度も周囲に述懐されています。けれど、このときの空襲で阪本市で働いていた父親を亡くされておられます。投下された爆弾は後に長崎へ投下されるプルトニウム型原爆ファットマンと同形、同重量、同寸法で通常爆薬を充填した原爆投下演習用の模擬原爆パンプキンです。西村先生は後に、亡きがらとなった父の頬を母が撫でていた姿と、お前が生きていてくれて良かったと抱きしめてもらったことを鮮明に覚えていると言い残されています」

 この部分を推敲した鷹姫が妊娠中だった母親を事故で亡くしたことを想い出して泣いたかもしれないと想うと、鮎美も涙を流した。弔辞なので涙はたむけになるけれど、声は泣き声にならないように気を張って読む。

「西村先生は戦後、父親を亡くされたことで経済的に苦労され、進学を諦め東京の日本橋にて呉服商へ丁稚働きに出られるも華麗な呉服の世界が肌に合わぬと3年で帰郷された後は堅実な左官の仕事に就かれ、その道一筋に67歳までお勤めされます。この間にご結婚され一男二女を育て上げられました。地元の阪本市を愛され、参議院議員に当選されてからは諸政策には是々非々をもってのぞまれつつ、阪本城の遺構を保存し、多くの人々が訪れるような美しい場所にしたいと、風景保存会を設立され、精力的に活動されていました。西村先生が大切に愛された阪本城について少し説明いたします。この城は、かの明智光秀公の居城として築城され、琵琶湖に面し京都に近い要衝として、安土城とつながる織田政権にとって重要な城で、その壮麗さについてはポルトガルの宣教師が安土城に次ぐ日ノ本2番目の城だと書き残しています。それほどの城でありながら歴史に埋没したのは、ご存じの通り光秀公の本能寺の変からの転落にありますが、西村先生は史上に咲いた一輪の花として愛されました」

 鮎美は流した涙をそのままに原稿から議場へ視線をあげて読む。鷹姫が書いてくれた原稿なので、ほぼ暗記しているし、アドリブで変更するつもりは一切無かった。

「議場の皆様に申し上げます。この国のありようは先人たちが命をかけて築いてきた一瞬、一瞬の歴史の積み重ねです。そして、私たちは今、国民の代表であります。これからの国のありようについて、この国会において真摯に、真剣に、そして徹底的に議論しようではありませんか」

 ゆっくりと鮎美は議場全体を見渡した。高い壇上からだと、前列から最後列、そして傍聴席まで、すべてが見えるし、全員がこちらを見ている。鮎美は千を超える議員たちの視線を受けて、怯みよりも勇みが湧いた。人と会うことの極端に少ない入院生活より、この場こそが自分の居場所だと感じる。

「西村先生は平成21年、阪本城の風景保存会を任意団体から法人格のあるNPO法人へ導かれました。新しい一歩で活躍しようとなさっていたやさき、病魔に侵されておられました。平成22年2月、西村先生は委員会での質問に立たれ、抗ガン剤による副作用に耐えながら、渾身の力を振り絞って文部科学省の城郭保存に関する姿勢を質されました。命を削って、立法者の責任を果たされました。先生は12月20日、よみの国へと旅立たれました。その最期に私を呼んでくださり、病身をおして声を絞りだすように次の如く、おっしゃいました。阪本の城下町を人々が訪れるようなええとこにしたい。琵琶湖の中にまで続く石垣の痕跡も利用してな。と、生涯の多くを左官仕事に打ち込まれた西村先生にとって城木造部分が焼失しても残る石垣はことに思い入れが深かったのだと想います。その後間もなく息を引き取られました」

 鮎美は演技ではなく本当に胸へ痛みを覚えたので両手を胸の前で組み、涙の粒を零しつつ、顔を天へ向けた。西村の死は鮎美にとって、死の直前までは他人事だったけれど、今では生涯忘れない一期一会だと想っている。その想いを声にしてあげる。

「バトンを渡したしの、タスキをつないで、しっかり引き継いでくれや、そうおっしゃる西村先生の声が聞こえてまいります。先生、あなたは国民の誇りであります。ここに、西村広松先生の国と地域、歴史への愛、気骨あふれる気高き精神をしのび、謹んで御冥福をお祈りしながら一同を代表して、お別れの言葉といたします」

 鮎美は弔辞を結ぶと、黙祷してから一礼し降壇した。天皇が退場し、開会式は完全に終わった。鮎美は少し疲れたので自席に腰を下ろした。翔子はもちろんのこと、他の自眠党議員たちが口々に誉めてくれる。とくに谷柿がわざわざ声をかけに来てくれたときは礼儀の上でも立とうとしたけれど、手で制してくれた。

「そのままで。お疲れ様でした、芹沢先生、素晴らしい弔辞でしたよ」

「ありがとうございます」

「これから退院の記者会見をされるそうですね」

「はい」

「あまり先走ったことはしないでくださいよ」

「……。…」

 鮎美が目を泳がせた。どういうルートで情報をつかまれたのか、どこまで知られているのか、静江や石永にも黙っていることを、知られているようだった。谷柿は穏やかに忠告すると、他の議員たちへも声をかけていき、鮎美とは離れた。鮎美は通路が空く頃合いを見計らって立ち上がり、議場の外に出た。介式と桧田川、鷹姫が待っていてくれた。

「お疲れ様です」

「お疲れ」

 鷹姫と桧田川が労ってくれ、介式は鮎美のそばに立つと、鮎美ではなく周囲に目を配って警戒する。鮎美は車イスに座りながら問うた。

「国会内やのに、そんなに警戒せんでも大丈夫なんちゃいますの?」

「不快でしょうが、ご理解ください」

 介式は一瞬だけ、鮎美を見て短く答えた。

「不快なことないよ。おおきに、ありがとうございます」

「……」

 介式は鮎美から感謝を込めて手を握られて困る。

「……。芹沢議員、私の手を塞がないでください。いざというとき対応が遅くなります」

「そうやね。気ぃつけますわ。介式はんの手、強そうで頼もしいわ」

「……」

「芹沢さん、そろそろトイレに行っておく?」

 主治医の問いに鮎美は感謝と恥じらいで答える。

「あ、うん、そやね。お手数ですけど、お願いします」

 鷹姫に車イスを押してもらい、多目的トイレに入る。鷹姫は車イスを固定すると、すぐに多目的トイレを出て、扉の前に立つ。男性SPも1名、そばに立ってくれた。音羽が近づいてきて問う。

「アユちゃんは一人でトイレができないくらい悪いの? お腹の下のあたりを刺されたらしいけど、ちゃんと治るの?」

「……。そういったことにはお答えできません」

 鷹姫は介式と同じような答え方をした。まだ鮎美は下腹部の皮膚に張力がかからないよう息むこともできないし、尿もカテーテルを通じて足元のパックに貯めてもらっている。そういう姿を自分だったら絶対に他人へ知られたくないので鷹姫は唇を固く閉ざした。それで音羽も配慮して訊くのをやめて待つ。他の議員たちも通りがかりに鮎美が医師同伴で多目的トイレに入るのを見ており、若い女性が気の毒にという目はくれていた。一方で鮎美はトイレ内で桧田川から処置を受けて衣服を整えると、ずっと制服の内ポケットに着けていた虹色のバッチを表に出して胸襟へ着ける。

「……う~ん……位置が……並べたいのに、ぎちぎちや」

 議員バッチと虹色のバッチ、そしてブルーリボンのバッチを三つとも同じ高さに並べて着けたいのに、女物の制服では胸襟の面積の都合上、どうにも狭くて不格好だった。鏡を見て悩む鮎美へ桧田川が提案する。

「いっそ胸襟は議員バッチだけにして、その二つは胸ポケットに着けたら?」

「その手もあるね」

 やってみると、美しく決まった。

「よっしゃ」

「じゃ、いよいよ行きますか」

 桧田川も、めったに確認しない自分のバッチが歪んでいないか手で触ってから鮎美の車イスを押して、多目的トイレから出た。待っていた鷹姫と音羽はバッチのことには気づかず、音羽が自分に関わることを問う。

「アユちゃん、さっきの話、私はこれから、どうすればいい?」

「キョウちゃんとは打ち合わせする時間もないし、このままついてきて。頭数に使って悪いけど、顔を出してくれてるだけでいいよ。訴訟への参加手続きは、すぐに弁護士さんに頼むし」

「OK、泣き寝入りなんかするもんかよね」

 音羽も連れて進むと、年齢の近い同性議員なので仲良くなるのは自然という見方もあるものの、やはり自眠党と供産党なので周囲が注目してくる。その視線を受け流して赤坂にあるホテルへ移動した。ホテルの大会議室では、すでに記者会見の準備が終わっていて、鮎美たちが控え室に入ると、詩織が呼びかけてくれた朝槍、畑母神、直樹、夏子、翔子、三島などの他にアイドルや芸能人、ニュースキャスター、以前に鮎美へ陳情してきた女性団体の代表などがそろって待っていた。

「みなさん、うちの呼びかけに応じて、お集まりいただきありがとうございます」

 鮎美が挨拶を始めたのに詩織は小声で、すいませんトイレに、と言って控え室を出て行く。朝槍もついていく途中で桧田川と目があった。直接の面識は無いけれど、同じバッチを着けている者同士、あしからず会釈したし、何より朝槍にとっては鮎美がバッチを着けてくれていたことが、とても嬉しい。なので詩織と女子トイレに入ってから戸惑いつつ言った。

「ねぇ、シオリン、本気でやる気?」

「はい、本気です」

 あっさりと当然のように詩織は頷きながらスカートをたくし上げ、下着をおろした。二人で一つの個室に入っているので誰にも見られることはないけれど、ホテルのトイレなので女性記者も出入りする可能性や隣りの個室にいる可能性もあり、ごくごく小声で耳へキスするほど、唇を近づけて話し合っている。

「全国放送されるのに? つまんない開会式より、この記者会見の方がずっと注目されてて視聴率すごいはずだよ。長く入院してた芹沢先生が、とうとうカメラの前に出てくれるってことでさ。しかも、ただの退院挨拶じゃないことは控え室に出入りしてるメンバーを見れば記者たちもわかるはずだし。きっと生放送で日本中に流れるよ」

「だからこそ興奮するんじゃないですか。こんな大舞台で大まじめな話をするのに、私はいくつもバイブをつけてイクなんてこと世界中で知ってるのはナユだけですよ」

 そう言って詩織は便座に座り、ウォッシュレットで股間の前後をしっかりと洗った。それから求めるように背中を向けて両手でお尻を広げてみせるので朝槍は仕方なく舌を入れて、前からは指で刺激して、いっそこの場で絶頂させようかと思ったけれど、詩織は寸止めを要求した。

「ハァ…そろそろ、これを入れてください。数珠になっているのを後ろに、前には凸になっているところを奥まで入るように、あとツブツブがクリにあたったままになるようにテープで強く貼り付けてください」

「……こんな凶悪そうなバイブ……生放送中に喘ぎ声を出したら、どうする気?」

「あと、これを乳首にお願いします。挟むようになっていますから、強めに挟んでテープで貼り付けてください」

「………」

 もう忠告を聞いてくれないので朝槍は言われるままに準備しつつも、やっぱり気が引けた。

「芹沢先生も私たちのバッチを着けてくれて。いっしょに連れてきてたお医者さんっぽい人も着けてくれてたのに、とうの私たちが、こんなフザけたことしてるなんて知ったら……私たちのこと、どうしようもない変態だって偏見が……」

「これがリモコンです。操作を覚えてください。こっちは乳首につけているバイブのリモコンで、どちらも片手で操作できますから、ナユの左右のポケットに入れて容赦なく責めてください。私が発言している間は、とくに」

「………」

「あと10分ありますから、操作を覚えるついでに何度もイカせてください。もしかして私が満足したら記者会見中はやめるかもしれませんよ」

「……わかったよ」

 わずかな望みをかけて朝槍は巧みに操作しつつ、リモコンだけでなく舌も使って詩織を高まらせたし、何度も絶頂させたものの、女性の絶頂は男のように一度で終わるものではないことは悉知している。やはり詩織は記者会見が始まる時刻になっても、やる気満々だった。二人で女子トイレを出てから、朝槍が乗り気でない顔色なので脅迫する。

「もし、記者会見中に私を3回以上イかせてくれず、3回以上イかせてくれた後でも焦らしではない手加減を感じたら、どうすると思います?」

「………どうするの?」

「私は泣き出して朝槍先生に無理矢理こんなもの着けられましたって言います」

「ちょっ……それ……私が破滅…」

「破滅したくなければ、ちゃんとしてください。リモコンを操作するだけじゃないですか。何食わぬ顔でスイッチを入れたり切ったり、それだけのことです」

「…………」

 もう逃げ道が無いことを朝槍は思い知りつつ、せめてバレないことと記者会見の政治的目標が達成されるよう祈りつつ、控え室に入った。鮎美が詩織を見て言う。

「トイレ長かったけど、調子悪いん? うちの頼んだことで、かなり疲れたんちゃう?」

「疲れはしましたけれど、やり甲斐はありました。そして、ここからが本番です。私は人前で話すのは経験が少なくて、もし緊張してあがってしまったらフォローしてください」

「………」

 嘘つけ、と朝槍は思ったけれど、鮎美は労うように詩織の背中を撫でた。肌が敏感になっている詩織は気持ちよさそうに目を細めているし、目線で求めてこられたのでスイッチを弱で入れた。詩織は熱いタメ息を漏らしたけれど、モーター音は外に漏れなかった。控え室より記者会見場は、もっと雑音が多いので音は問題なさそうだったけれど、やはり演説の最中に絶頂するつもりでいる詩織の喘ぎは心配この上ない。何より鮎美が真剣に同性愛の問題に取り組んでくれているのに、大きく裏切っていて申し訳なかった。詩織が淫靡な野望に光った目で告げる。

「鮎美先生、定刻です」

「おっしゃ。いざ出陣や!」

 鮎美は雄々しく頬を両手で叩いて、自分の脚で記者会見場へ向かう。続いて夏子、畑母神、朝槍、直樹、三島、他の女性団体代表、詩織、翔子という演説の順番で歩く。桧田川や音羽、アイドルや芸能人などは賛同者として列する。長時間の記者会見になる予定なので全員に椅子が準備されていて、そこに着席した。鮎美がマイクをとり話し始める。

「本日はお集まりいただき、まことにありがとうございます。この通り、私は元気に回復しつつありますので、ご心配くださった皆様方、重ねてお礼を申し上げます。ありがとうございました」

 鮎美は一度、起立して一礼してから、触らないように下腹部へ手をやる。

「まだ傷に障りますので、座ってお話させていただきます」

 鮎美は着席してマイクもスタンドに固定した。

「さて、刺された私が犯人に対して、どのような発言をするのか、そこに大きく注目されていることと思います」

 すでに入場した時から激しく焚かれていたフラッシュがより激しくなる。鮎美は日本国民のすべてとは言わないまでも大半に見られている覚悟で語る。

「まず、私を刺した人、名前は伏せさせていただきますので彼とします。彼に対し、私は先に謝っておくことがあるので、どうか彼がこの放送を見る機会があることを祈りつつ、謝ります」

 鮎美は感情が高ぶって早口になりそうなのを自戒して一呼吸おいた。

「ラブレターをくださったのに無視してしまい、ごめんなさい。勇気を出して告白してくれはったのに、完全に無視して忘れてしまい、本当にごめんなさい」

 鮎美は頭を下げ、それからカメラの列を見上げる。

「少し言い訳させてください。あのデートに指定してくれはった日、うちは当選して初めての市議会議員選挙を応援するという仕事があり、とても忙しかったのです。それでも返事だけはすべきだと考えて、自分の代わりに秘書にでも行ってもらおうかと思っていましたが、それが党費で給料を払ってもらっている秘書の私的利用になる気もして、かといって自分の多忙さでは無理で結論が出ず、とくに指定の時間は選挙において出陣式という大切な式典にかかる時間であったので、どうにも行けなかったのです。ごめんなさい」

 また鮎美は頭を下げた。

「あと一つ、あの当時は自眠党に入ったばかりで、いろいろと指導をうけ、勉強することも多く、そして党からは、彼氏はつくるな! とアイドルのように注意されていて、どんな男子に告白されても、きっと断っていたと思います。それでも自分を好きになってくれた人が、どんな人か知ろうともせず、まして断りもせず無視したことは申し訳なく想います。せめて無視せず、断っていたら、こんなことにはならなかったのではないかと深く後悔します」

 鮎美はテレビカメラを探して、いつか大津田が映像を見ることがあるかもしれないと想いながら言う。

「ごめんな、シカトして。後になって手紙くらい送ろうかと想ったけど、連絡先もわからんで、どうにも忙しいて忘れてしもたんよ、ごめん」

 鮎美は深く長く頭を下げた。

「私を刺すという凶行に彼が及んだ責任の一端は私にあったと思います。私、個人としては傷の治りも進み、また一部の報道で彼が発達障碍を患っていたということもあり、彼には罰より療育こそ必要ではないかと考える部分もあります。けれど、これも一部報道であり確定事実ではないかもしれませんが、三重県に彼が住んでいたとき、他の女子に傷を負わせ、結果としてその子が自死してしまったことを考えると、また、その子の家族の気持ちを考えると、次の被害者を生まないための方法も必要ではないかと考えます。いずれにしても、罪刑法定主義にのっとり犯行時の法律によって適正に司法機関が判断を下すことかと考えますので、私から彼へ言及することは以上です。けれど!」

 鮎美が語調を強めた。

「この事件の真犯人に対しては、うちは容赦なく報復したいと考えていますし、その準備はできています!」

 記者たちも、そしてカメラの向こうの視聴者たちも、真犯人などいるのか、と強い疑問に戸惑っている。その戸惑いがピークに達して一部の記者が、まだ質問時間ではないのに問うてくるまで鮎美はたっぷり間を取ってから、焦らしの後の快感である答えを与える。

「真犯人とは! うちを特集した週刊紙です!」

 今も記者会見場のどこかにいるだろう週刊紙の記者を睨むように前を見て続ける。

「あの悪意に満ちた報道とは言えぬ報道! 報道の名を借りた悪! ありもしない、そして自分たちさえ可能性はないとわかっていながら私と細野先生や、私と雄琴先生に何か不倫のようなことが有ったかと表紙を見ただけの人には誤認させる書きよう! あの週刊紙を見た彼は、刃を私に突き立てることを選びました! 告白を無視したくせに権力ある男には媚びる女、スカートから下着を見せつけ男を誘う下品な女、こんな女は糾さなければいけない! そのように発達障碍の彼は思考してしまった。報道機関には、真実をわかりやすく伝える道義的義務があるにも関わらず! また色々な読者がいて、読み手の知的レベルによっては誤解される可能性を極力排除すべき配慮も必要だと自覚すべきであるにも関わらず! いたずらに、わずかな写真から疑惑を捏造し、無用の凶行を発生させた責任!! この責任は重大かつ明白であると私は強く批難します! はっきり言います、うちを刺したのは、あの週刊紙です!! 真犯人は週刊紙であり、包丁やナイフに罪がないように、週刊紙にただ踊らされて包丁を握った彼にも罪はない! 真に罰するべきは、あの記事を書いた記者! 写真を撮ったカメラマン! 編集者! 出版社! 印刷所! 書店です!」

 鮎美の断言にどよめきが起こり、それに答える。

「印刷所や書店まで含めるのかと、驚きのことでしょう、これについては後述します。そして現在の法体系では、この真犯人に直接的な刑事罰をかすことはできません。また、今後も言論の自由という大切な権利のことを思えば、報道機関に出版内容によって刑事罰がかされるような法整備はすべきでないでしょう。けれど、実質的犯人を今回の件で見逃すことはしません! きっちり訴えます!」

 鮎美が合図すると、アイドルの一人が立った。

「彼女は愛知県犬山市のローカルアイドルでワンコちゃんです。うちと彼女の共通点、わかりますか?」

 鮎美は問いを発したけれど、答えを待たずに話を続ける。

「そう、あの週刊紙にパンチラ写真を載せられたうちの一人です」

「ワンコちゃんです! 犬山市をよろしく! って、そんな場合じゃないですよね。今回は芹沢さんに賛同してます。いっしょに頑張ります! あと、犬山市名物ゲンコツ、美味しいですよ!」

 この記者会見では、今しかチャンスがないのでワンコは最大限にローカルアイドルとして地元を売り込み、着席した。鮎美は真剣な声で話を続ける。

「さて、みなさんが電車に乗っているとき、向かいに座っている女子高生のパンツを撮影してネットにあげたりすると、即逮捕されて、えらい目に遭うというのはわかりますよね。では、なぜ、うちを含めた女性議員、アイドル、芸能人、ニュースキャスターなどの下着写真や下着のラインが明らかな写真を出版しても大丈夫なのでしょうか?」

 この問いにも答えを待たず語る。

「そう、公人だから、という理由です。他に、壇上に座るとき撮られるような短いスカートを履いていたからだ、という落ち度の指摘もあるでしょう。胸元の開いた服も同様です。立つとき、座るとき、物を拾うとき、ちょっとした動作で撮れる一瞬を狙っています。公人が公の場で行った行為だから撮影して出版してOKという認識なのかもしれませんが、そのへんの女子高生が公の場である電車内や駅で、立つとき、座るとき、うっかり下着を見せてしまったところを撮影して出版するのと、法律上は何らかわりません。公人と私人で名誉毀損の扱いに差があるのは、公共の利害に関する事実にかかり、かつその目的が専ら公益を図ることにあったと認める場合のみです。そして、いわゆる痴漢行為を罰する迷惑防止条例には被害者が公人、私人であることによる扱いの差はありません。ここまで言えば、おわかりでしょう。名誉毀損罪と迷惑防止条例違反で、うちらは行為にかかわったすべての当事者を訴えます。カメラマン、記者、編集者、出版社、印刷所、書店、すべてです」

 また、どよめきが起こる。

「書店や印刷所までは、やりすぎではないかとお考えになるでしょうが、ネットに同意無く卑猥な写真をアップされた女性がプロバイダーに公開の停止を求めることはできますよね。停止の求めがあったのに漫然と放置すれば責任を問われることもあります。ひるがえって印刷所がすべての印刷物をチェックするのは不可能だ、という言い訳もあるかもしれませんが、うちが載せられた週刊紙では表紙に明白にパンチラ写真である旨があり、少しでも善良さをもってチェックすれば、きわめて容易に発見できたでしょう。これをしなかった責任を今回は問います。名誉毀損罪の公訴時効3年、刑事告訴できる期間は6ヶ月です。加えて民事的な不法行為による損害賠償請求の時効は3年。今から3年に遡って、週刊紙や写真誌に同意無く精神的苦痛を感じるような写真を載せられた人たちを集め、集団訴訟します。すでに賛同してくれはったアイドル、芸能人、ニュースキャスターのみなさんを紹介します」

 鮎美は賛同者を紹介していき、また話を続ける。

「今まで一人一人では泣き寝入りしていたケースでも、集まって力になれば、きっと勝てます。また、この裁判に対しては裁判所に女性裁判官が担当することを求めます。普通、裁判官の忌避には裁判の公正を妨げるべき事情があるときに限られますし、そもそも女性裁判官の数は少数ですが、今回の訴訟は証拠として大量に、私たちにとって男性に見られたくない写真が提出されることになるでしょう。したがって、裁判官だけでなく訴訟にかかわる書記官、鑑定人などにも可能な限り女性であることを求め、また被告が立てる代理人たる弁護士にも、被告に良心が残っているなら、女性弁護士を選んでくれはることを強く期待します」

 鮎美は長く話したので手元の水を一口飲んだ。

「過去3年分の写真で、この訴訟に賛同してくれる方、どのくらい集まるかわかりませんが、うちらが被った精神的苦痛として請求する額は1部あたり1000円です。つまり1万部の発行部数があれば1000万円となります。この設定理由は単純です。もし、自分のパンチラ写真を撒かれたとき、それが50枚なら5万円、100枚なら10万円、そのくらい求めようと考えたからです。また、被告は複数におよび訴訟テクニック上、できるだけ連帯責任を追及しますが、フリーのカメラマン等、零細な事業者については個別に少額で示談します。大手には大手なりの大きな責任を問います。これでは法的恫喝ではないか? と思われるでしょう。そうです、これは恫喝です。そのくらい強く私たちが怒らないとセクハラは無くならないでしょう。会社内での小さなセクハラも、曖昧なうちは何度も繰り返しますよね? こちらが怒鳴るほど強い拒否をしないと、いつまでも笑って誤魔化す。そして繰り返す。報道機関の役割とは何ですか? 公人のパンチラを追いかけることですか? 違うでしょう。横領や談合、不正を見つけて報道したり、これから行われる政策の利点と欠点を国民に紹介することであったり、野党が示す対案を紹介したり、隠れた被害者、今回であれば自死した女子のことなどを取り上げることです。そういったところに心血を注いでいただきたいのです。そして今も、かなりの枚数を撮影してくれてはりますよね? うちは今日は事情があってロングスカートですけど、それだけ何百枚も連射してくれはったら、他の女性賛同者が動いたとき下着が写ったりするでしょう。それを撮るなとまでは言いません。取材は自由です。けれど、わざわざ何百枚もの中から下着が写った一枚を選び出して出版する、そこには公益性も良心もありませんよね。スカートを履けば、見えるときは見えるでしょう。けれど、撮って晒すのはやり過ぎです。花でいえば、桜は見るものであって、枝を折って傷つけるものではないのです」

 鮎美は原稿を見ずに話していたけれど、次の話題はより複雑なのでメモを開いた。

「お話をかえさせていただきます。ご質問などは私たちの方向性を示してから、お受けします。さて、現在、眠主党が子供手当を大きく増額する政策を検討され、これが公約の半額程度で落ち着きそうですが、私は政治を勉強し考える中で、対案を考えましたので紹介させてください」

 話が糾弾ではなく表明になったので鮎美は一礼してから続ける。

「少子高齢化を解決する施策として子供手当も良いかもしれませんが、私は同一労働同一賃金の原則から、妊娠と育児をする女性に対して全女性労働者平均賃金を国が支給し、個別の企業が負担している産休や育児休暇中の手当は努力義務に変えるべきだと考えています。概要としては妊娠22週以降から子が幼稚園もしくは保育園に入所するまでの期間、月額21万円を支給するという施策です。この施策の利点は、そも日本社会の大半を占める中小企業において産休育休は与えられるケースが少なく、非正規雇用においては言うまでもありません。産休育休は一部の優良な企業と公務員である場合くらいに限定され、ここに女性間において大きな不平等が生じています。妊娠が労働といえるのか、という問いの答えよりも、妊娠育児は食料生産と同じくらい社会にとって重要なことであり、社会に対する貢献です。この貢献に報いるに平均賃金をもってあてるわけです。これによって多くの中小企業経営者を悩ませる女子雇用のリスクは激減すると同時に女性間の平等化がはかれます。すなわち、高給取りであろうが、無職であろうが、同じ月額21万円ということです。妊娠が中絶される年間件数は10万~20万で推移していますが、もし、この半分が産まれていたら少子高齢化は問題にならなかったくらいです。とくに私も含めた10代での妊娠は多くが中絶されていますが、生物学的には妊娠に適した年齢です。もし、月額21万円が支給されるなら産むという選択をした18歳、19歳は多いでしょうし、この国の法律は16歳から女子に結婚の道を開いています。さて、ここで当然の声があるでしょう。それでは無責任な妊娠を誘発する、という声です。では逆に考え、無責任な妊娠とは何でしょうか? 若年労働者の多くが非正規雇用となる中、いったい責任ある結婚をして出産ができる層は何%いるでしょうか? きちんと企業が雇用という社会責任を果たさない中、それでも人口を維持するには国が妊娠に責任をもつべきだと、いえ、国ではなく国民全体が責任をもつべきだと考えるからです。とくに社会が複雑化し、教育が高度化したことで女子の大学進学率も向上しましたが、大卒時には22歳です。ここから3年働けば25歳、けれど妊娠に適した期間は18歳から27歳です。そして子は一人ではなく二人以上を産まなければ人口を維持できません。女子にとっては、あまりに忙しいですし、女子を雇用する経営者にとっても、たった数年働いてくれただけの労働者に長い休暇を与えねばなりません。この軋轢を解消するには、個人や企業の努力ではなく、国すなわち国民全体の平等な負担が必要です。この施策が実行された場合、中絶件数は激減し、ゆるやかに少子高齢化は解消すると、加賀田知事も計算してくださいました」

 鮎美が夏子を見ると、頷いて語る。

「これまでの子供手当などの努力もあり実は少子化には歯止めがかかりつつあります。これは出生数と合計特殊出生率のグラフを読み解けば、誰にでも見て取れるのですが、1975年から1985年の十年は出生数が急降下しています。この時期に産まれた人たちが再生産する20年後30年後である1995年から去年2010年にかけては出生数の低下傾向には歯止めがかかりごく緩やかとなり、合計特殊出生率に至っては回復傾向に転じます。もし、同じ率で出産を控えていたなら再生産する層が急降下していたのですから、もっと低下したはずですが、まるで生態系を維持するかのように微増に転じました。けれど、まだ足りません。欧米に比べれば、なお低い水準にとどまっています。この原因の一つに日本の妊娠中絶への容易さがあります。キリスト教国においては妊娠中絶に強い制限がなされており、対して日本はほぼ無制限です。ただし、これに制限をかけるのは女性の権利、ことにリ・プロラクティブライツにかかります。けれど、実質的に多くの妊娠中絶は経済的不安からなされています。つまり、産みたかったけれど、お金が心配でやめた、という悲しい選択です。この不安を解消すれば年間10万人の人口増が見込めますし、これは十年で100万人、移民を100万人受け入れるより、はるかに低リスクですし言語や文化の違いなどは生じません。未婚の私が言うのも何ですが、若いうちに産んでいただくのが生物学的には正しい選択です。かといって産まない結婚しないという選択も尊重されるべきですよ、念のため。むしろ、そういう選択を尊重するため、産みたい層には産んでもらわないと人口を維持できないわけです。私は県知事として芹沢先生の施策に強く賛成し、ここに党をこえて賛同の意志を表明します」

 夏子がバトンを渡すように畑母神の肩を軽く叩いた。

「現在の子供手当でも、いささか問題になっているが、受給を目当てで、にわかに日本へ入国するケースが想定される。これへ無制限に支給していては、納税者も強い違和感を覚えるだろう。とはいえ、外国人であることの一点をもって排除するのも、すでに日本で何年も働いていただき、納税している人がいることを考えれば相応しくない。この区別を明瞭にするため、支給は日本での居住が五年を超える者に限り、また全額の受給には十五年を要するとし、六年目より1割ずつ漸増させる。つまり居住が10年であれば5割の半額ということになる。これは母親が外国人である場合で両親が外国人である場合は、より厳格な運用とし、最大で50%の受給とするよう調整する」

 畑母神は鮎美の案への修正を語り終わると、自説であり都知事選の公約にもなる尖閣諸島を都が地主から購入することと、小笠原海域の警備強化の必要性と、北朝鮮拉致問題について説いた。次に朝槍が同性婚の法制化について語る。

「戸籍謄本は、その人の生き死にと婚姻が記載される、もっとも根源的な身分証明記録です」

 ずっと真剣に活動してきたことなので熱く語るし、今だけはリモコンを操作して詩織を高めることをやめても不満そうな視線は来ないので話すことに集中する。

「人が産まれると、日付と出生地と父母が記録され、婚姻すれば別戸籍となってパートナーと一つの戸籍になり、そして死ねば除籍される。その記録は遺産相続などの関係もあり、今から100年以上も昔のものまで残っています。生き死にと婚姻、この二つの情報がきわめて法的に重要だから残っていくのです。けれど、同性愛カップルのことは、まるで無かったかのように、何も残らない。強引に残そうと想えば、養子縁組で疑似家族となれますが、親子とパートナーは違います」

 朝槍は語り終わると、畑母神もしたように鮎美の施策に賛同していることと、鮎美も自説に賛同してくれていることを強調して終わった。次に直樹が自説を語る。やはり凶悪な性犯罪者に対する過酷な死刑制度の創設で、その死刑執行には詩織の提案を入れて公募もありうると修正した。

「芹沢先生も理解してくれているし、さっき控え室で話していたけれど、今回の刺傷事件で死んでいたり、より深い傷だったら、そう簡単に犯人を許せるものではないとも言ってくれていたよ。曰く、うちは聖人君子とちゃうし、自分が殺されたんなら、誰かソイツを殺しといてほしいわ、とね。ボクの妹を殺したヤツは、まだ獄中で生きている。三食、しっかり税金で食べて。そういえば、サリンを撒いたヤツも、まだ生きていたね。ああいう宗教テロなのか、政治犯なのか思想犯なのか、そんなヤツもさっさと殺したいけれど、政治犯の中には共感はできないものの、自ら正義と信じて変革を求めるケースもあるだろうさ。そういう思想犯に厳しくあたることは国家権力が自戒しなくてはいけないし、憲法36条の公務員による拷問及び残虐な刑罰の絶対的禁止は戦時中の特高を繰り返さないためというのが規定された本旨だろう。ボクも、これは大切だと考える。けど、けどね、性犯罪者ってのは、ただ自分の快楽、ただ自分の満足のためだけに、人を殺し、命を奪う、しかも殺す前に苦しめる、それ自体が楽しみだと。こんな存在に人権がいるのか? いらないさ! 明らかに! この考えに賛同できないなら、少し想像してほしい、自分の家族が同じ目に遭ったら、友人が同じ目に遭ったら、そして自分が同じ目に遭ったなら、と」

 直樹の次は三島の番だった。

「我々、ライフイージス、命の盾の会は芹沢殿の政策に強く賛同する! 我々は出生前診断に反対する会である! 産まれる前の命が障碍をもった子が否かを診断した夫婦は、子が障碍児であったとき96%が妊娠中絶する。しかし、中には片親、ことに母親が障碍をもった子でも産みたいと願うこともある!! だが、夫の反対や家族の反対で断念して中絶するケースが非常に多い! 自己紹介が遅れたが、我の肉体は女であるが、心は男である」

 三島が立ち上がって胸を張った。喪服のような黒い男物のスーツをノーブラで着ているのは相変わらずだったけれど、胸襟には色あせた虹色のバッチが着けられている。控え室で朝槍が嬉しそうに問うたとき、かなり以前から所有していたがデザインと色が男らしくなくて普段は着けていない、と答えていた。

「つまりは性同一性障碍だ。加えて朝槍殿と同様に同性愛者でもある。すなわち男に好意を抱く! 確率的にこのような者は一億の人口がいれば千人程度存在する計算になるとも言われているが、幸いにして我は理解ある配偶者をえて法律婚をした。そして子をなした。障碍児であったが感性豊かな可愛い子であった」

 そこまで言って三島は男らしく涙を零した。

「去年11月、生来の心疾患が悪化し亡くなったが、産み育てて良かったと想っている。あの子は死んでも、その魂は我の心にあるゆえ! そして、男の心で妊娠を体験した経験から言う! 妊婦を経済的に支えるという芹沢殿の意見は素晴らしい!! 男の精神でもって妊娠しても、かなりの不安を覚えるものなのだ! 妊婦には幸せな者もおれば、様々な事情を抱えた者もいるだろう! それを等しく一億が国民で支えるという発想は日本精神の真髄であり、男の誉れである!」

 断言した三島は着席し、言い加える。

「男に生まれ、女に興味をもつというのは多数の指向なのだろうが、カメラを向け下着の写真を撮るなどというのは、腐りきった精神だ! そんなゲスに語る言葉は無いが、いまだ日本男児の精神を欠片でも残しているのなら、自ら腹を裂いて死するがよい!! この場に、そのゲスはおるのか?!」

 三島が会場全体を睨みつけると、だいたいのカメラマンは目を合わせないようにした。

「フン! 名乗る勇気もないか、それが自らの不正義を自覚しておる証拠よ! 両親と祖先に詫びておけ!! 以上だ!」

 次に女性団体の代表たちがセクハラ問題やフェミニズムについて語り、鮎美への賛同を示して、いよいよ詩織の番になった。ずっと朝槍がリモコンを操作して性感を与えていた詩織は何度か絶頂していたのでハンカチで額の汗を拭いたけれど、それは見ている者には緊張しているだけに見えた。

「は…春風会の代表、牧田詩織です。…っ…」

 必ずしも立つ必要はないのに詩織は立ち上がって全身に視線とカメラを向けてもらう。そのタイミングで朝槍がスイッチを全開にしたので絶頂していた。

「…ハァ…ハァっ…」

「……」

 朝槍はスイッチをオフにして休息を与えるけれど、容赦なく2秒後に、また全開にした。それで詩織は再び絶頂して汗を流す。

「…ハァっ…」

「……」

 朝槍は手加減などすれば詩織が許してくれないことを感じ取っていた。もし手加減して詩織が不満に感じたら、予告したように泣き出して朝槍に無理矢理装着されたと言い出すかもしれない。そうなったら朝槍は破滅だった。どう言い訳してもリモコンを持っていた方が加害者で、バイブを入れられていた方が被害者だと世間は信じるし、都議と議員秘書という力関係もまずい、詩織なら嘘をついて鮎美へ協力するかわりにバイブを入れさせろと朝槍に強要されたのだと、もっともらしく言い出すことは容易に思いつく。そんな風に世間に解釈されたら朝槍は社会的に死ぬし、同性愛者の少数社会でも生きていけなくなる。真剣かつ深刻な問題であるはずの同性婚を求めていく場で、ふざけたことをした者として永遠に抹殺される。もう朝槍に選択肢は無かった。詩織をリモコンで最大限に高まらせる、それだけを行う奴隷でしかないとわかっていた。

「…ハァ…、す、すいません。人前で話すのは初めてで…き、緊張して…声が…」

 人前で性的な絶頂を繰り返しながら詩織が喘ぎ声で言うと、朝槍以外の全員が信じてくれた。ここまでマイクを握ったのは全員が政治家や活動家で人前で話すことに慣れていたし、むしろ望むところとなっている。けれど、詩織は春の会では副代表で、ごく最近になって分派して代表になったにすぎないので、公の場は未経験だった。

「…ハァぁ…」

 また絶頂している。もう立っている膝がプルプルと震えていて、しかも故意にマイクを口元へよせて全体に息づかいを送っていた。わざわざ目線をあげて会場全体を見回して、どれだけ大勢が集まっていてカメラを向けているか、脳に焼き付け、さらにカメラの向こうにいる何千万という視聴者も意識する。

「ハァっ…ハァぁ…」

 絶頂が連続するようになり、うっとりと詩織は目線を彷徨わせる。

「…わ…私たちは…」

 詩織は原稿を汗ばんだ手で握りしめ、絶頂に震えたけれど、見ている者たちは極度の緊張で震えているのだと優しい目で待つ。

「ええんよ、慌てんで。ゆっくり話してよ」

 大きな声で鮎美が声援を送ってくれた。

「は、はい…わ…私は売春婦……い、いえ、私は売春を…」

 わざと言い間違えて、いよいよ恥ずかしくて泣き出した演技をする。

「…ぅっ…ハァぁ…ぅぅ…」

 本当は快感に震えているのに、女々しく涙を零してみせた。見かねて鮎美が立ち上がって、そばに来てくれる。

「そんなに緊張せんでもええよ。言い間違えても、言い直したらええんよ」

「…ぅぅ…すいません…っ…大切な場なのに…っ…脚が震えて……ハァぁ…」

 詩織は背中を撫でてもらったので、その感触で絶頂しつつ、鮎美に抱きついた。抱きつかれて鮎美は優しく詩織の頭を撫でる。面白い構図なのでフラッシュが大量に焚かれた。

「原稿は、これやね。うちが少し読んであげるし、ゆっくり気持ちを落ち着けい」

「はい…すいません…」

 詩織は離されそうになったけれど、抱きついたまま離れない。鮎美は原稿を手にして読み出した。

「私たち春風会は売春の合法化を目指しています。その目的は非合法であるために売春に従事する女性たちが不当に搾取されている、この現状から彼女たちを救いたいからです。けれど、合法化には大きな壁があります。反対意見も女性団体からあります。そこで…っ…」

 鮎美は抱きつかれたまま代弁していたけれど、ゆっくりと詩織がお尻を撫でてきたので、すべてが演技だったことに気づいた。詩織の性格で、いくら大舞台でも泣き出すほど緊張するというのは考えにくかったものの、やはり人前は不慣れなのかと心配したのに、すべては演技でカメラの前で鮎美に抱きつきたかったのだと悟った。けれど、ここで引き離して怒るわけにもいかず、諦めて原稿を読み進める。

「そこで性的な風俗業に従事する女性を対象とした不確定拠出年金制度の創設を提唱します。この制度は確定拠出年金制度をモデルとし、大きな所得控除枠を用意しつつ、必ずしも安定収入ではないことから納める額は不確定でよいとし、性的風俗業を始めた時点から加入でき、年金の受給は35歳から65歳まで受けられるとします。65歳以後は他の職業だった人と同じ扱いになります。利点は、やはり年齢を重ねたとき、仕事を続けることが難しくなりやすいので、これを救うためです。また風俗業に従事すると簡単に大金を手にすることができるため、生活が乱れやすくなり、また収入が途絶えたとき非行や自殺といった極端な行動に出る傾向を予防することもできます。たとえば、30歳で収入が下がってきたとき、あと5年で受給できると思えば、死ぬのは損、と考えられるわけです。また、確定拠出年金と同じく差し押さえ禁止とすれば、不当な貸し付けによる搾取からも彼女たちを救うことができるわけです」

「…ハァぁ…」

 詩織は抱きついたまま、左手は鮎美の胸にあて、右手はお尻を撫でながら、だんだんとお尻の割れ目に指先を入れていく。鮎美はカテーテルを挿入している都合でTバックのような生地の少ない下着をつけているので柔らかいロングスカートの生地越しに肌の感触が味わえた。前方にある胸は目立たないように手を動かさないけれど、背後には人目もカメラもないので、鮎美が身じろぎしない程度に指先を忍び込ませていく。鮎美は早く読み終えようとペースをあげた。

「反社会的勢力の資金源となっていることも風俗業の大きな問題ですが、きちんと申告して所得控除を受け、後に年金受給した方が得だとなれば、徐々にクリーンな業界にできます。加えて脱税や年金の未加入などの誤魔化しに対しては罰則の強化をはかることで、より効果を狙えます。また、男性身体障碍者などが利用するさい、領収書を受け取れば所得控除や一部が助成されるなどの制度をもうければ、より売上の誤魔化しが困難になり、高い効果を得られつつ人道的配慮ができます。このように、今すぐ売春を合法化することはできなくても、現状の性的な風俗業に対して特別な年金制度を創設することで、かなり状況を好転させられます。この春風会からの提案に芹沢鮎美先生も賛同してくださいました。………」

 鮎美は自分に先生をつけて読んだことが恥ずかしいのと、いよいよ詩織の指先が好き放題に股間を触ったりカテーテルをいじったりするので大きく逃げて詩織を座らせた。着席させられるとバイブが強く食い込んで詩織は悶えた。

「ハァぁ…」

「まったく……。……」

 あまり人前で秘書を強く叱ることもできないので鮎美は我慢して自席に戻る。これで予定していた表明はすべてだったけれど、あと一つ、翔子が迷っている表明があったので視線を送った。

「「……」」

 翔子が勇気を出して頷いたので指名する。

「嵐川翔子先生、お願いします」

「はい」

 翔子は人前で話す自信が無くて表明したいことがあったのに物怖じしていたけれど、詩織が緊張のあまり泣き出す演技をしてくれた後なので、勇気を出すことができた。

「私も人前で話すのは慣れないので、お聞き苦しいかもしれませんが…頑張りますので、よろしくお願いします。………わ、…私は嵐川翔子、参議院議員です。今月から芹沢先生の紹介で自眠党で勉強しています」

 やはり緊張している様子なので鮎美が背中を撫でにいくと、翔子は微笑して頷いた。そして続ける。

「私は頭の悪い女です」

 意外な言葉に静かだった会場は、より静かになる。

「法科大学院に通っていますが、努力して努力して、やっと人並みです。法律の条文を読んでも、一回では理解できず、何度も読み直して、演習問題をやって、それでもわからず答えを見て、答えを暗記して、やっと点数が取れるくらい、頭の悪い女です」

 翔子は声が震えそうになったので深呼吸して気持ちを落ち着けた。

「私に比べて芹沢先生は、驚くほど頭がいいです」

「んなことないって…」

 思わず鮎美は恥ずかしくて謙遜したけれど、翔子は少し睨んでくる。

「いいえ、本当に差があります。私が何年もかけて、やっと理解したことを、芹沢先生は、たった半年で追い越しています。条文を一度読んだだけで理解して、それだけでなくて、その欠点や利点、考えうる抜け道、それを予防するために改正すべき点まで考えたりされます。あまりに大きな差があって、腹が立ちます!」

「……翔子はん…」

「たとえていうなら、私が中学高校と陸上部で努力して小学校では遅かった脚が少しは早くなったと思ったのに、高3の体育祭で文芸部だった芹沢さんにリレーで負けるような気分です!」

「…………」

 鮎美は言葉にも表情にも困り、身じろぎして立つ。

「私の頭の悪さは知能指数でも明らかでした。小学校で少しトロかったので、検査を受けました。結果は85。人並みは100で、75以下で保護の対象ですけど、85や90では放置です。これを補いたくて努力して勉強しました。家が連帯保証人制度のせいで貧しくて、そこから抜け出すには勉強しかないって思って、ちゃんと宿題もして、予習もして、いろいろ頑張りました。けど、数学も物理もわからず、化学も、そのうち英語もついていけず、古文も漢文も難しくて、なのに現代国語まで、長文になると苦しくなります。選択肢が騙すみたいに意地悪で、ひっかかるんです」

「うん……あれは、ひっかけるために考えられてるから…気にせんときよ」

「芹沢先生は、そうやって深く考えられるけど、私には無理なんです。司法試験も、きっと受からない。もうわかるんです。処理速度がぜんぜん違う。努力して努力して理解しても、試験時間内に答えきることは無理だってわかるんです。決められた時間の3倍あれば、私だって合格できるかもしれない。法科大学院までは、なんとか入れた。文系の大学から、なんとか滑り込めた。けど、きっと就職していたら、ちゃんとした企業には入れなかった。適性検査なんかで落ちる。私の頭が悪いのがバレる。知能指数が低いのがバレるんです。だから、せいぜい私はアルバイトとか、非正規雇用、ずっと、そんな階級なんです。頭が悪いのを知られたく無くて、逆に頭がいいフリをして法科大学院生だってことで高校生だった芹沢先生をバカにしてみたり。ホント私って究極にバカなんです」

「……そんなに自分を卑下せんと…」

「芹沢先生にはわかりませんよ。きっと、芹沢先生は余裕で知能指数100を超えてます。110、120くらいに」

「………どうやろね…」

「じゃあ、授業を聴いていてわからないと思ったことはよくありますか?」

「…………聴いてればわかるよ…」

「私は聴いていてもわかりません。その差なんですよ。ここにいるマスコミのみなさんも、どちらかといえば頭がいい方ですよね。いい大学を出た。もし高卒でも、きっと知能指数は低くないから、ちゃんと難しい仕事ができる。ハァ…えっと…私が言いたいのは…」

 少し疲れてきたようで翔子は頭を押さえて息をついた。

「私が言いたいのは……そう、不平等です。人間、努力すれば報われるって小学校のころはならったけど、そんなの嘘だった。努力しても、たいしたことない人は、たいしたことないんです。なのに賢い人は雑談しながらでも授業を聴いてる、そして、わかってる。頭が悪いのが遺伝するのか、しらないけど、私の父も賢くなくて、公務員だったけど、それは公務員になりやすい時代があって、そこで運が良くて公務員だったのに、銀行がうまく父を騙して、お金を盗っていった。賢い人がコツコツ努力してる人から騙し取っていく! バイトだってパートだって、まじめに頑張るのに時給安くて、賢い人との差が大きい。努力の差じゃなくて、生まれついた才能の差なのに! これって不平等ですよね?! なのに賢い人は騙してくる! ひっかけてくる! 私は頭が悪いから、新車が半額で買えるとか、ケータイが今ならゼロ円って広告されると、そう感じてしまう。小さい文字で、そうじゃないって書いてあるのに! 勉強すると契約書は騙すことばっかりで嘘ばっかり! 働かないで株を売ったり買ったりだけで、お金持ちになる人もいる。そういうの全部、間違ってると思います。けど、芹沢先生は平等にするって言ってくれた! 子供を産むのも、子育ても、みんな同じ仕事、賢くてもバカでも平等! こんな素敵なことってない! だから、私は芹沢先生が総理大臣になればいいと思います! 以上です」

「………」

 鮎美は恥ずかしいので返答に困った。けれど、翔子の気持ちには答えたいのでマイクを握る。

「おおきにな、翔子はん、ホンマに苦労しはったんやね。うちは小賢しいかもしれんけど、苦労知らずなんよ。家も普通で借金はなかったし。けど……まあ……総理大臣は言い過ぎやし、恥ずかしいから、やめてな」

 会場に笑いが起こった。なごやかな雰囲気になったところで質疑応答に入った。やはり記者たちは鮎美たちが提案した政策よりも話題性のある刺傷事件から問うてくる。

「刺される前に加害少年と面識はあったのですか?」

「いえ、学年が違いますし、私としては認識しておりませんでした」

 すでに警察発表で判明していることも重ねて問われるけれど、丁寧に答えていった。

「刺されたときは、どう思われました? その前後で」

「あまりにも一瞬のことで、彼が迫ってきたときも、うちは暢気に握手でも求めてきはるのかな、と」

「刺された後は?」

「それはもう痛いの一言ですわ」

「板垣死すとも自由は死せず、と叫ばれたというのは本当ですか?」

「っ…」

 冷静に答えていた鮎美の顔が火がついたように赤くなった。

「なっ……な…、なにを根拠に、そんなことを?」

「お父さんがインタビューで答えておられましたから」

「……………」

 あのクソオヤジ! と鮎美は心の中で叫んだ。そして変な噂が固定すると嫌なので訂正しておく。

「前後の状況から、はっきりと説明しますので、誤解せんといてください。まず、救急車に乗ったとき、すでに出血はおさまりつつあったのですが、なにしろ大量やったもんですから、母が心配して私が死ぬのではないかと泣くので、そんなに心配せんといてほしい、そう言うても心配するので、ここは一発なにか冗談でも言うたろ思いまして、声を出すと痛いのもあったので小声で父に、そう言うたのは事実です。けして叫んだということはありませんので、そこよろしくお願いします」

「開会式も、今もロングスカートですが、何か理由が?」

「治療上の都合です。怪我の状態については桧田川先生から、ご説明いただきます」

「主治医の桧田川紀子です。傷そのものは鋭利な刃物で…」

 桧田川は傷病の状態について医学的に説明しつつも、排泄に介助が必要でカテーテルなどを隠すためにロングスカートにしていることは遠回しにしか言わなかった。その後も加害少年への懲罰感情などを重複して問われたものの、しっかりと答え刺傷事件についての質問が出尽くした後、別の質問がきた。

「朝槍都議の活動に賛同して、そのバッチをつけておられますが、芹沢議員ご自身の性的指向はどうなのですか?」

「……」

 きた、と鮎美は予想していたし、二つの答えを用意していた。一つは隠し続けるために、こちらのブルーリボンを着けているからといってわざわざ拉致家族なのか、その親戚なのかと問いませんよね、そのような質問を受けて答えること自体が、この虹色のバッチを着けにくくさせる理由でもありますから私の性的指向についてはご想像にお任せします、とかわす応答だったし、もう一つは、はい、私はレズビアンです、と明確にカミングアウトする解答だった。

「……」

 必ず来る質問だと思っていたので、二つの答えを用意して備えていた。そして迷っていた。どちらを答えるか、迷い続けて、今日を迎えたし、今も迷っている。

「………」

 迷いながら鮎美はわかっていた。こんな風に長く沈黙してしまうこと自体が、もう答えになってしまうと、わかっていて誤魔化しも真実も声にできず、顔を蒼白にして唇を震わせた。そこに追い打ちされる。

「あなたはLGBTなんですか?」

「………」

 質問した記者を見た目から涙が零れた。大量のフラッシュ光が襲ってくる。大スクープを取れそうな予感を覚えた記者が興奮気味に畳みかけてくる。

「そうなんですね?」

「…………」

 また涙を流した。唇が震えて喉が凍りついて声が出せない。世界が真っ白になるのかと思うほどフラッシュが目を焼いてくる。

「どうなんですか?! 芹沢議員!」

「っ…」

 しつこく問う三度目の追い打ちが、鮎美を泣き出しそうな恐怖から、関西人らしい怒りに導き、そして公人として習得させられた冷静さが言わせてくれた。

「はい、……そうです。うちは……同性愛者です」

 どよめきが会場を沸かせ、三島が喝采して叫んだ。

「よくぞ言った! あっぱれである!!」

「……………」

 言うた……言うてしもた……もう後戻りはできへん……、と鮎美はフラッシュを浴びながら告白した余韻に漂っていた。誰かがいたわるように鮎美の肩を撫でてくれている。それが桧田川なのか、朝槍なのか、詩織なのか、わからないし、撫でてくれた誰かが、同じバッチを着けていることで、またLGBTなのかと記者に問われ、続けて鮎美のパートナーなのかと問われているけれど、遠い世界の出来事のようで聴覚も視覚も遠い。

「私がこれを着けているのは亡くなった婚約者がトランスジェンダーだったからです。芹沢さんと私は患者と医師、それ以外の関係は一切ありません」

 桧田川の援護してくれるような声で、鮎美は少し勇気付けられた。

「芹沢議員! いつから同性愛者なんですか?」

「………」

 あんたは、いつから異性愛者やねん、と鮎美は腹立たしく思った。それは三島も同じだったようで言い返している。

「愚問だな。では、いつから貴様は女に興味をもった?」

「芹沢議員! パートナーはおられますか?」

「………」

 おったら、そこにも取材に押しかけるんやろな、朝槍先生のパートナーが家に引き籠もったんが、よおわかるわ、と鮎美は静かに想った。あまりにも周囲が騒がしくて、鮎美は黙ってカメラとマイクの列、記者たちの顔を眺めた。いろいろと質問しているけれど、あまり耳に入らない。もう涙も止まっている。

「芹沢議員!」

「芹沢議員!」

「………」

 ここで負けとうないな……逃げたら負けや……日本中のセクマイが見てるはず……きっと世界中でも……これは放映される……泣いて逃げて終わりには絶対にせん……戦ってみせる……、と鮎美は覚悟を決めた。

「うちの性的指向に関する質問は、あと三つだけ、お受けします。以後は私たちが提案した政策に関する質問や、政治的意味のある質問にのみ、解答します」

 会場が静かになった。三つと限られ、記者たちがお互いの出方を様子見している。全国紙の記者が挙手して問う。

「芹沢議員は同性愛者、つまりレズビアンという理解でよろしいですか? バイセクシャルのように男性へ興味をもつことはありますか? 完全なレズビアンですか?」

「女性同性愛者です。先輩政治家の男性を尊敬することはあっても興味をもったことは一度もありません」

 別の記者が挙手する。

「現在、恋人やパートナーに相当する人はおられますか?」

「いいえ、おりません。あと一つでお願いします」

 また少しの静かさがあり、ゴシップ誌の記者が問うてくる。

「正月に加賀田知事の胸に触られましたよね。あれは痴漢行為じゃないですか?」

「………。相手が不快であればセクハラだったと思います」

 鮎美の答えで、次に夏子へ注目が集まる。夏子は余裕をもって笑った。

「今さら不快とか言う仲じゃないし。さ、三つの願いはかなえてあげたよ。そろそろ政治の話をしましょうか」

 まだ記者たちは鮎美の性的な事情について問いたい顔をしていて、いくつか質問が飛んできたけれど、沈黙を返すので、次に話題性が高い、都知事選と畑母神の不倫疑惑について質問がきた。畑母神は落ち着いて硬い顔で答える。

「これまでに述べたこと以上の事実はない」

「奥さんと最後に会われたのはいつですか?」

「離婚調停で……いや、あれは別室で交替だから……あまり、記憶が定かでないので、答えは差し控える」

「それでは解答になっていませんよ」

「日記でもつけておれば、わかるが、そういう趣味はない」

「いわゆる記憶にございませんですか?」

「………。そうだ」

「芹沢議員は女性の権利を大きく主張されていますが、不倫はいかがなものでしょうか?」

「「………」」

 質問が畑母神に向けられたものか、鮎美に向けられたものか、判然とせず、二人とも黙ると、追い打ちがくる。

「離婚が成立するまでは別居が続いていても、不倫は不倫ですよね?」

「………」

「畑母神先生、うちが答えていいですか?」

「あ、ああ…どうぞ」

 防戦していた畑母神を助けたくて鮎美は記者たちに言う。

「細野議員、と、聴いて何を思い浮かべます?」

「「「「「……………」」」」」

「そう、だいたいの人が、路上チューを思い出しますよね。うちも同じでした。あのスクープされた新幹線の中でも、細野先生に声をかけられたとき、とっさに思い浮かんだのは、それですわ。そして、それしか、細野先生について知りませんでした。細野先生が、どういう政治家で、どういう政策に賛成していて、どういうことには反対しはるのか、まったく知らんかった。こんなことで、ええんでしょうか?」

 鮎美の問いに答えはないけれど、続ける。

「たぶん、細野先生、今、テレビで見てはりますよね。すんません、お名前を出して」

 鮎美が手を合わせて頭を下げると、記者たちから笑いが起こった。

「マスコミさんも視聴者ウケを狙うから、ついつい細々とした政策より、面白い不倫の話ばっかりしはるし、事実を伝えないどころか、たまに捏造もしますよね。うちが言うた板垣はんの、あのセリフ、あれも捏造らしいです。板垣はん本人は刺されたときアッと思うばかりで何もできなかったとおっしゃってはるのに、のちのち新聞にはカッコよく板垣死すとも自由は死せず、と載ったらしいです。で、それが定着したと。うちも刺されたんで、ようわかります、刺された時そんなん言えるかい!」

 鮎美は一人突っ込みをしてから続ける。

「これは良質な捏造の例で、当時は自由民権運動の助けになったんやないかと思いますけど、悪質な捏造の方が多い。不倫は文化。誰かさんが言うたセリフらしいですね。けど、これも真相は違う。本当は、文化や芸術といったものが不倫という恋愛から生まれることもある、と言わはったそうです。よくこれだけ悪質な捏造ができるとあきれますわ。これだけ有名になったセリフなら、いっそ書いた記者さんの名前が歴史に残るのもええやろに、あまりそうはならん。さて、都知事選でも畑母神先生について、どうこうと言いたいのは仕方ないかもしれんけど、もっと大切なこと、いっぱい言うてはりますよね? 尖閣諸島も小笠原海域も、拉致問題も、ずっとずっと一人の男の不倫より、大事なことちゃいますの? 大事なんは有権者が対立候補の政策と比べて、どちらが東京のために、日本のためになるか、考える、そこですよ」

 鮎美がテレビカメラを見つめて言う。

「有権者のみなさん、もっと究極に喩えますと、消費税を下げるという政治家と、消費税を上げるという政治家がいて、片方が不倫していたとき、あなたは不倫を理由に投票しますか? 不倫するようなヤツが唱える政策は信用できん、これも一つの判断でしょう、けど、不倫するということは2人の女に好かれた男やというわけで、誰一人相手にせん男よりは魅力的な部分があったという証拠でもありますわ。そやからって、それを判断材料にするのもちゃいますやろ。大切なんは、日本の将来のために、どっちの判断が正しいのか、うちらも自分の頭で考えることやと思います」

 鮎美の講釈が終わると、すぐに質問が飛んでくる。

「芹沢議員は一人の女性として、不倫をどう思われますか?」

「………。どうも思いません」

「もう少し何かありませんか?」

「では、あなたは三人の同性愛者が恋愛のもつれでケンカしているとき、どう思いますか? どうも思わないのとちゃいますか? わからんでしょ? うちにとって、わからんことやし、どうも思わないんですよ。むしろ、そんな、どうでもいいことに時間と資源を費やして話題にする、これは実に国益を損ねると思います」

「同性愛者が同性婚した場合、不倫は許されるのですか?」

「それは……」

 鮎美にとって考えたことがないことだった。朝槍が代わる。

「その点については私がお答えします。結婚という形をとる以上、それは男女でも強い誓いであり、その不貞が有責事由となるように、同性婚においても同様と考えています。すべての法的取り扱いが、男女の結婚と同じ、相続においても子の無い夫婦と同じか、養子があれば通常の相続になる、これが私たちの想定する同性婚です。そして、浮気を許す許さないは結局は世間が決めることではなく当事者が決めることです」

 女性記者が挙手して鮎美へ問う。

「さきほど平均賃金を妊娠育児中に支給するという政策を述べられましたが、気になる点として、支給は子供が保育園幼稚園に入るまでと言われましたよね?」

「はい」

「なぜ、そう限るのですか?」

「一つは財源の問題と、もう一つは保育園不足の問題を解消するためです。保育園に入れると支給されない、そうなると自分で働いて給料をもらうべきか、育児を続けて支給を受けるべきか、かなり迷うでしょう。とくに給料が平均賃金を下回るなら、自分で育てるという選択をする人は多いかと思いますから」

「それでは芹沢議員は、女は家にいるべき、という考え方なのですか?」

「いいえ、働きに出たい人はでる、家にいたい人はいる、その人の選択次第です。また、4歳くらいで支給が打ち切られるということは、次の子を産む動機になります」

「あなたは自分の性的指向に対する質問を三つに限られましたが、これは政策にも関わる政治的な信条を問う質問なので、ぜひ答えていただきたいのですが、同性愛者である芹沢議員は子供を産む気はないわけですよね? なのに、他人には産めと強制されるのは矛盾していませんか?」

「矛盾していません」

「なぜですか?」

「それは生き物として、生物の一種としてのヒトにおける生態系内での役割分担の問題だからです。たとえば、アリという種において、女王アリは産む機械でもないし女王でもない、働きアリは奴隷でもないし関白亭主でもない。人間の価値観で、どちらが上か下か決めるのはバカげた視点です。同様に、働く女がえらい、産まない女に価値がない、そんな考え方もバカげています。実際に男女の夫婦でも1割程度は不妊です。不妊の原因は男女半々としても、ごく自然な数字の結果として1割の夫婦に子供はできません。では、その夫婦に価値はないのでしょうか? それこそ同性婚したカップルと同じに、社会において不要、生物として淘汰されるべき弱者、そんな考え方は浅すぎます。とくに人間は分業という手段で大きく発展してきました。すべての個体が出産と育児を行うのではなく、一定数は別のことをする、それが生態系全体にとって利益となる場合もあります。とくに意図的に不妊層をつくることは歴史上、仲国の宦官などで知られるように、ある役割を求められて去勢されています。それが人道的でないことは現代では明らかですが、望んで宦官になった者も多く、人の人生において必ずしも子供をつくることだけが最高の価値ではないし、逆に子供をつくり育てることを最高の価値とするのも、どちらもあるべきなのです。そして同性愛者の存在を、よく自然の摂理に反した、と表現されることがありますが、同性愛者は自然の摂理によって産まれてきます。どの社会でも一定数、存在します。それどころかヒトに限らず、他の哺乳類や昆虫にさえ似た行動が見られます。もし、単純な自然淘汰ということを考えたら、次世代を残さない同性愛指向の個体など何億年も前に、その要因が消え去っていて当然なのに、そしてキリスト教圏やイスラム教圏では極度に排除されるのに、それでも一定数、産まれてきます。これはヒトという種の社会に同性愛者が何らかの役割を期待されて誕生しているのだと、私は考えますし、きっと私は子供を産まず、この社会のために働きたいと思っています」

 長く話したので一呼吸おいたけれど、まだ続ける。

「男女が結婚して三人の子供を産み、健康に育っていく。とても理想的で多数の人に訪れてほしい幸福です。けれど、同性愛者は少数ながら確かに存在します。性同一性障碍の人も少数ですが、います。別な障碍をもって産まれる人も、事故や病気で後天的に障碍をもつ人も、事情があって貧しい人も、障碍といえないまでも知能指数が低い人も、家族を北朝鮮に拉致された人も、家族を犯罪者に殺された人も、幸せな結婚をしたはずなのに不妊だったという人も、みんな少数ですが、確かにいます。存在します。これらの少数の人たちが集まれば、それはもう多数です。逆に、何の不幸も問題もない人は、どのくらい社会にいますか? ある程度の豊かさ、両親そろった家庭、良い学歴、志望した仕事、適齢期での望んだ結婚、複数の健康な子供の出産と無事な成長、ごく普通の幸せと言いつつ、すべて満たせる人は、また少数ではないでしょうか。私は少数者を顧みることで、全体に寄与し、種としてのヒトの集団である日本国が維持発展していくために、ベーシック・インカムに類似した制度として、ベビーインカム、赤ちゃん手当を提唱します」

「…ハァぁ…ハァっ…」

 ずっと詩織は着席して絶頂していた。朝槍が発言するとき以外はリモコンを操作してくれるので、もう背筋に力が入らなくなり、そばにいた翔子と音羽が心配して、体調不良ということで退場させるけれど、本当の目的があり女子トイレに入ってバイブをすべて外すと、控え室で最後の賛同者だったドイツ人に声をかけ、再び会場に戻った。詩織も鮎美も予想していた通り、記者からの質問は財源のアテについてになっていた。

「はい、財源のことも考えています。その説明の前に、紹介させていただきます」

 鮎美が言い、詩織が連れてきたドイツ人男性を紹介する。

「ドイツはベルリンでベーシック・インカムの実施へ向けて活動しておられるルカス・マンヒマール氏です」

「ハジメマシテ。ルカス、デス」

 日本語は片言のみなので詩織が仲介して語る。

「ルカスさんはベルリン市の議員で、貧困救済と若年者就労の問題に取り組み、ベーシック・インカムについて活動されていますし、私たちにも賛同、協力してくださるとのことです」

 詩織の後にルカスがドイツ語で話したので、それを詩織が通訳する。

「セリザワ氏の発案は実に興味深いので我々としても全面的に協力したい。詳しくは彼女が自分で語るだろう」

「はい。私が考えた財源のアテは現状の子供手当などからの振りかえの他、通貨発行増によるインフレーション税です。ただし、これが危険なことは承知しています。けれど、一国で行えば危険ですが、先進国、OECD加盟国など経済力のある国々で協調し、為替相場の大きな変動を避けながら共同歩調でインフレをはかろうと考えています。現在も自国経済の活性化を狙い通貨安競争をしていますが、競争ではなく談合するのです。なぜ、このようなことをするのか、その最大の狙いはタックスヘブンへの課税にあります。どんなに各国の税務当局者が努力しても主権の壁が、徴税の手を阻み、超富裕層への課税ができていません。これを糾すには、経済力のある民主主義国家が共同歩調でインフレを進め、タックスヘブンにある資産へ手を伸ばすことなく実質的に課税する連合インフレ税が必要です。この優位点は何しろ主権の壁を超える必要がないのですから、資産の調査も差し押さえも必要ありません。名義人の確定も、実質所有者の特定も、要らんのです!」

 鮎美が気合いを入れて語る。

「かつてソビエト連邦があり、今もEUがありますが、各国家間の連携は難しく共通施策の実施には様々な障壁があります。けれど、私が提唱する連合インフレ税は単に通貨発行増を為替相場の変動を避けながら協調して行うだけのもので、支出については各国家間の裁量に任せるものとします。つまり何に使おうと自由やということです。社会福祉の充実でもよし、オリンピック誘致と会場建設でもよし、どうしようと、それは各国の国民が選んだ主権者が決めることです。この点でソ連やEUより、はるかに自由度は高くなり交渉決裂で頓挫といったリスクは低減します。そして、経済力のある国々がタックスヘブンへ実質課税することで安定的な漸次インフレとなれば、じわりじわりと経済力のない国々、とくに対外債務の多い国々の債務が実質的に目減りし、国家間の平等がはかれます。現在、経済力のない国から、経済力のある国への移民や不法入国が相次いでおり、EUも苦慮していますが、いずれ国家間の差が埋まるとあれば、故郷を捨ててまで危険を冒す人は激減します。結果として先進国は不法移民の問題から開放され、先進国内でも平等化が進み、国家間の平等化もはかれるというわけです」

 鮎美が語り終えると、しばらく静かになり、それから質問が来る。

「壮大な計画ですが、はたして実行可能なものでしょうか?」

「EUもソ連も、はじめは思いつきにすぎんかったと思います。みんなでやろう、そう動き出せば、きっとできると思います」

「芹沢議員は第二のマルクスになるつもりですか?」

「それは西沢先生か破志本先生あたりに、お願いしてください。うちは私有財産制は否定しませんし、資本主義の競争して頑張ろうというところも否定しません。けど、あんまりにも富みが偏在するのは誰にとっても害にしかならんし、この修正が必要やのに、一国家では不可能なところまで経済がグローバル化しておりますから、そこを是正したいと考えております」

 以後も質問は続いたけれど、鮎美は丁寧に答え続け、記者会見が終わると賛同者との懇親会があり、それが終わると深夜だったので、何より気になる鷹姫と話すタイミングは無く、議員宿舎で桧田川と休んだ。

 

 

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