第23話 1月5日 合法的にたかる、拉致問題、色々な結婚

 翌1月5日の水曜日、あの記者会見の後は挨拶回りの予定をキャンセルして休養を取ったものの、早朝の新幹線に乗らねばならなかったために帰宅はせず、鮎美たちは朝から東京に来ていた。

「9時集合やったのに、うち一人で待ちぼうけなんや……まあ、しょーがないか…」

 参議院の議員会館にある広い会議室で鮎美は、たった一人ぽつんと座っていた。他の新たに参議院議員となるメンバーたちは国会事務局へ議員バッチを受け取りに行っているところで、また秘書たちも国会周辺施設の出入りに身分証明となる議院記章を受け取るために手続きをしているので、すでに議員バッチを着けている鮎美は指定された会議室で静かに待っていた。

「あ…やっと来た」

 一時間ほど一人で待たされた後、ようやく新たに改選された44人の参議院議員たちが会議室に入ってくる。初めて着ける議員バッチの着け心地に不慣れな様子を鮎美は懐かしくさえ思った。

「……」

 初めのうちは、めちゃ重たく感じるんよなぁ、今でも重たいけど、と鮎美が見ていると、数人の議員が手を振ってくれたり、会釈してくれたりするので返しておく。鮎美を含めると45人になる新たな議員のうち自眠党に所属することを選んだ者11人とは、すでに軽い懇親会をしているので顔を知っているし、他のメンバーの顔ぶれも新聞などで、すでに見ている。そして、眠主党を選んだのは18人、供産党は5人、活力党が1人で、鮎美とは目が合うことがあっても、お互い微妙に目をそらして着席していく。

「………」

 うちが友達になるべきなんは、あの人か……写真よりキレイな人やね、と鮎美は無所属を選んだ10人のうちの一人に目をつけた。すでに党から、できるだけ無所属の議員と懇意になっておくよう指令されている。直樹が鮎美の専属担当になったように、今度は鮎美が誰かを口説かなければならないので、新人研修会といっても、すでに戦場という空気が政党所属の議員たちにはあった。

「こんにちは。よかったら、ここ、空いてますよ」

 鮎美はターゲットが通りかかったので声をかけた。鮎美は意図して会議室の入口近くに座っていたので、確率的に声をかけやすいはずで、その狙いは外れていなかった。けれど、にこやかに声をかけたのに冷ややかに見られた。

「そう、あなたが私の担当ってわけ」

「ぅっ…」

 思いっきり見抜かれたやん、この人苦手かも、と鮎美は笑顔が引きつる。

「あ、あははは、バレました。そりゃ、そうですよね。当選してから今日までも、いろんな政党から声をかけられてますもんね。うちも決めるまで、うっとおし…いえ、大変でしたよ。ははは」

 愛想笑いしていると、鼻で笑われた。

「予想通り軽い子ね」

「……すんません」

「ま、いいわ。ここに座ってあげる。お昼を奢りなさい。どうせ、党から交際費でるでしょう」

「はい…おっしゃるとおりで…」

 うわぁぁ、やりにくい人ぉ……前の担当から聞いてはいたけど、きつい人やわぁ、と鮎美は肩が凝るのを感じた。それでも、隣りに座ってくれるので名乗る。

「はじめまして。うちは芹沢鮎美です」

「知ってるわ。何度も新聞に載ってるもの。週刊紙にまで、さっそく載って、いきなり泣きっ面をテレビで見せたでしょ」

「……」

「あんな顔を世間に出して、少しも凹んでいないなんて、どんな神経しているの?」

「……立ち直りが早いのが取り柄なんで。あの、お名前は?」

「どうせ、知っているんでしょ」

「はい……嵐川翔子(あらしがわしょうこ)さん…先生ですよね?」

「ええ。他に、どんな下調べをしてきたの? 私について知っていること、言ってみなさい」

「はい……京都興業大法科大学院2年」

「それだけ?」

「……26歳……」

「他にも色々と聞いたのでしょうけど、まあ、いいわ」

 もう研修が始まり法務省の職員が関係法規についての説明を始めているので二人とも黙る。

「………」

 聞いたとおりの、きつい人やなぁ、前の担当が男性議員やったから、つんけんしてたわけやないんや、と鮎美は翔子を観察する。翔子は今どき珍しいくらいの一切染髪していない黒髪で、整った顔立ちをしているのに表情は冷たく、鮎美と話している間も一度として笑顔を見せなかった。そして、他の新人議員たちが、それなりに新調したスーツを着ているのに、翔子は着古した灰色のパンツスーツで靴も古ぼけている。机の上に出した文房具も古い。高校か、下手をすれば小学校から使っているのかもしれないと思うほど古い筆箱を使っていて何度も修復した痕があった。

「…………」

 この人、父子家庭で苦労してきて法科大学院へ入ったらしいんよなぁ……どの党が面談を申し込んでも毎回食事時で、きっちり奢らせてから断るらしいし、何より性格が……うちが担当にされたんは性別が同じで年齢と地域が近いからやけど、こんな人を口説くんは精神的にきついわ、と鮎美は早くも挫折しかけてくる。同性愛者ではあるけれど、異性愛者が異性のすべてを好ましく思うわけではないように、たとえ外見が美しくても少し話しただけで相性が悪いことは感じていた。

「………」

 どないしよ、けど、お昼ご飯いっしょしてくれるらしいし、ちょっとはチャンスもあるかな、と鮎美は気を取り直すことにして研修内容に集中する。研修は官僚が講師となって次々と入れ替わり、参議院議員として関わる関係法規について説明されているけれど、自眠党に所属してから勉強を続けてきた鮎美にとっては、すでに習ったことばかりで、しかも初歩的な事項が多かった。

「………」

 けっこう低レベルなことから入るんや、それやのにメモとってる人いるわ、あの人らは無所属の顔ぶれやったかな、もしかして当選後、ぜんぜん勉強せんと今日を迎えたんやろか、もらった冊子に書いたることばっかり講義してはるのに、メモ要るか? と鮎美が思っていると翔子はタメ息をついた。

「はぁぁ……低レベルね。時間の無駄」

 そう言うと配られた資料ではなく、持参した法律書を読み始めた。なんとなく気になるので怒られないように盗み見ると刑事訴訟法について勉強しているようで、演習問題などがあり、マークシート方式の選択肢も見えた。

「………」

 国会議員に刑事訴訟法って関係すんのかな、雄琴はんみたいに何か目標があったり……けど、マークシートってことは試験対策……あ、法科大学院やから、司法試験か、なるほど、と鮎美は理解した。午前中の研修が終わり、議員会館にある食堂へ移動した。同じタイミングで昼休みに入った鷹姫や詩織、静江も見かけるけれど、彼女たちも、それぞれに無所属の議員についている秘書と仲良くなっておくという指命を与えられているので、いつでも話せる鮎美は目線だけ合わせて、通り過ぎる。そして、気を遣いながら翔子に話しかけてみる。

「お昼、何にされます?」

「カレー」

「カレーですか、もっと高いもんでも大丈夫ですよ」

「二度、言わせないで」

「はい」

 鮎美も合わせてカレーにする。人間関係形成術も支部で勉強させられたので、こういうときに同じものを食べるのは初歩だった。カレーを食べながら訊いてみる。

「嵐川先生は秘書を雇ってはらへんて聴いたんですけど、そうなんですか?」

「ええ」

「無所属の先生方でも今月からは歳費と合わせて秘書への給与も国から出ますやん。そやのに、雇わんのですか?」

「ええ」

「それは、また、どうしてなんですか?」

「お金と時間の無駄だから」

「……な、なるほど…」

 なるほど、と思ったわけではないけれど、とりあえず相槌を打った。

「けど、スケジュール調整とか、電話受けとか、いろいろ手が要りません?」

「別に」

「無所属の先生は選挙応援とか無いかもしれんけど、陳情とか議員連盟とか、あと国会が始まったら、それなりに忙しいかもしれませんよ」

「決められた日には出席するわ。どうせ、居眠りしていても成り立つような会議でも660万円くれるのだから」

「そ…そういう考え方は……、失礼かもしれませんけど、そんな考え方では6年後の国民審査で確実に落ちますよ」

「それでいいわ。6年もあれば司法試験に受かるし、それで受からなければ私に力が無かったということ。6年で3960万円、ありがたい奨学金としてもらうから」

「つまり陳情も地元のことも、みんな無視して歳費だけもらうてことですか……せやから、秘書もいらんと…」

「あなた、よく喋るわね。食事は静かに食べなさい」

「はい……すんません…」

 黙って食べると、すぐに食べ終わってしまった。

「ごちそうさま」

 それだけ言った翔子はスタスタと会議室へ戻るので、鮎美も追いかけた。会議室に戻ると、また司法試験の勉強を再開している。

「………」

 声をかけにくいので一旦、トイレに行こうとして、眠主党議員からの視線に気づいた。今回改選された中で眠主党へは18人が入っているけれど、その中で一番若い兵庫県選出の男性議員だった。

「……」

「……」

 なんとなく雰囲気で眠主党としての翔子へのアプローチは、この議員の担当なのだと感じたし、すでに向こうも同じことを感じているとも、お互いにわかる。まるで三角関係のようで、どちらが先に口説くか、そのライバルなのだと空気感で伝わってくる。ただ、すでに男性議員は議員バッチを受け取るときなどに翔子へアプローチしたのか、翔子の冷たい態度に腰が引けている顔をしていた。

「……」

 鮎美はトイレに行くべきか、ここを離れず翔子についているべきか迷ったけれど講義中に我慢できなくなると恥ずかしいので女子トイレに向かった。用を済ませて戻ってみると、やはり予想した通り、男性議員が翔子に声をかけている。翔子はうるさそうに相手をしていたかと思うと、鮎美が戻ってきたのを見つけ、二人に言い放ってきた。

「一日交替にしてちょうだい」

「「は?」」

 鮎美と男性議員が意味がわからず首を傾げると、翔子は睨んでくる。

「今日のお昼は、あなたに付き合ってあげたでしょ。だから、眠主の人は明日、明後日は、また、あなた。毎回、カレーでいいから」

「「………」」

 え……それ、毎日、カレーを奢れてか、うちと眠主の先生が交代で……何を言うてるんよ、この女、と鮎美は茫然とするし、男性議員も似たような反応だった。それでも男性議員の方が社会経験の豊富さから気を取り直して口説きにかかる。

「それなら、東京で美味しいカレーの専門店を知ってるよ」

「そういうのは要らない」

「そ…そう……フレンチの美味しい店も知ってるけど…」

「一万円のコース料理を奢ってくれる予算があるなら、カレーを10回奢ってちょうだい。それに一回あたりの金額制限があったでしょ。あまり高いと公選法違反、そんなことくらい常識」

「………そ……そう…だね。…じゃあ、カレーにしよう」

 男性議員は受け入れたけれど、鮎美は腹が立ってきた。

「……あんた、何を言うてるんよ?」

「頭の悪い子ね。奢ってもらった回数は、ちゃんとつけてるわ」

 翔子が古びたメモ帳を出した。そこには各政党名の下に正の字が続けて書かれてあり、どうやら奢ってもらった回数を記録しているものとわかった。すでに総計300回を超えているようなので当選してから、ほぼ毎日のように、多い日は昼夜と奢ってもらったのだとわかる。

「そ……そんなん、つけて、どないすんの?」

「本当にバカな子。義理には義理で返すわ。国会での採決で私の票が欲しいときは言いなさい。そのとき参考にしてあげるから」

「なっ……」

「じゃ、もう勉強の邪魔だから明後日のお昼まで話しかけないで。そっちは明日のお昼よ。今日と明日の夕食は懇親会で出るから要らない」

「………」

「わかったよ、嵐川先生、聴いたとおりの人だね………じゃ」

 男性議員は諦めたように肩をすくめたけれど、鮎美は顔を真っ赤にして怒鳴った。

「ざけんなっ!! 何やねんそれ?!」

「…………」

 怒鳴られて翔子は冷たく睨み返してくる。鮎美の声が大きかったので会議室にいる全員の視線が集まってくるけれど、二人とも気にしない。

「奢ってもらった回数で自分の賛否を決める気なん?!」

「ええ」

「ふざけんな!!」

「別に、ふざけてないわ。法律にも反してない。公選法の範囲よ」

「一回あたりの金額が制限内でも、毎食たかる気かっ?!」

 怒鳴っている鮎美の肩を、年配の自眠党議員が叩いてきた。新人議員であっても年配らしく、この場をおさめようと言ってくれる。鮎美のことも翔子のことも事前に知っている様子で穏やかな作り笑顔をしている。

「まあまあ、お二人とも、今日は初日なのですから、ほどほどに」

「……木村先生……せやけど…」

 鮎美も名前くらいは知っている静岡県選出の60代の男性議員で、地元企業の社長らしかった。肩に触れられても鮎美がセクハラだとは感じない程度に人徳もある。

「まあまあ、芹沢先生、あまり急いで有名にならなくても」

「うっ……木村先生……うちは、そんなつもりでは……」

「わかってますよ、はい。ま、ここは一つ穏便に」

「木村先生が、そう言われるんでしたら……」

「私へ怒鳴ったこと、謝りなさい。それで、許してあげるわ」

 翔子の一言が矛をおさめかけていた鮎美の逆鱗に触れた。

「ざけんなっ!! なんぼクジ引きで選ばれたからいうても国民の代表を何やと思てんねん!!」

「……」

 翔子がうるさそうに顔を背けた。ますます鮎美は怒り、掴みかからんばかりになると、不祥事を起こされたくないので自眠党議員たちが鮎美の手首や腰をつかんでくる。

「まあまあ!」

「落ち着いて!」

「あんたが、そんな態度で国会に出るんやったら、うちは懲罰動議で、あんたを除名するよう訴えたる!!」

「………勝手にすれば。私は法の範囲で奢ってもらっただけよ」

「そんな腐った法解釈があるかっ?!」

「芹沢先生、まあまあ!」

「とにかく廊下へ!」

 もう若い女子の身体に触ると、あとあとセクハラ問題が怖いという遠慮をやめて自眠党議員たちが鮎美を抱きしめるようにしてズルズルと会議室の外へ引っ張り出した。しばらく説得されて、ようやく鮎美は落ち着き、木村たちに謝った。

「どうも、すんません。ついカッとなって」

「若さゆえですね。まあ、あの嵐川先生の態度も悪いから気持ちはわかりますよ。ともかく芹沢先生は嵐川先生に近づかないようにしてください。担当の件は、党と考え直しましょう。相性も悪そうですしね」

「……すんません、……ホンマに、ごめんなさい」

 午後の研修は翔子と離れて受け、17時前になると議員宿舎に初めて入る。部屋割りは無作為に決められていて、荷物を置いて少し室内を見ているうちに懇親会の時刻となりホテルの宴会場へ移動した。いっしょに研修を受けた45人で立食形式のパーティーが始まる。鮎美は翔子の担当を外されてしまったけれど、他の無所属の議員たちは鮎美に興味をもっていて、代わる代わる担当の自眠党議員とともに声をかけてくれるので忙しかった。対照的に翔子は一人で黙々と食べると、早めに帰っていった。翔子がいなくなると、翔子の担当だった眠主党の男性議員が笑顔で、鮎美へ声をかけてくる。

「あそこまで、はっきり言われるとスカっとしますね」

「……。言い過ぎたと反省しています。……」

 うちのせいで嵐川先生は絶対に眠主党へ流れるやろな、いきなり大失敗や、と鮎美は後悔を隠せない顔をしたけれど、男性議員は付け加える。

「ボクも、あの人には内心でムカムカしていましたからね。懲罰動議の件、党にも言ってみますよ。ああいう人と、いっしょだと国民に思われたくないですから」

「ああいう女いるっすよねぇ」

 別の若い無所属の男性議員も言ってくる。

「夕飯を合コンで済まそうとする女、オレの大学にもいたなぁ。鮎美ちゃん、合コンとかやってた?」

「いえ……田舎なんで、そういうことは……まだ、高校生ですし」

 供産党に所属した50代の女性議員も生サーモンを食べながら言う。

「結局、嵐川さんはさ、面倒臭いことは全部避けて、歳費だけもらって、ついでに食費も浮かせようっていう魂胆なわけよ」

「あいつクビでいいんじゃないっすか」

「君も、その金髪なんとかしないと懲罰されるかもよ」

「えーっ! ファッションっすよ。んな校則みたいなことあるんすか?」

「まあ、目立ってると、ちょっとした失敗で弾かれるかもしれないから、どうだい、眠主党に入っておかないか」

「う~ん、考えておくっすよ。けど、とりあえず一年は様子見ってことで。鮎美ちゃん、二次会いくよね? 二次会」

「ぃ、いえ。ちょっと別の約束があって」

「え、なにそれ、男?」

「……女です。しかも仕事やし」

「この時間から?」

「党に入ると、いろいろあるんですよ」

「そっか、大変だね、頑張ってね」

「………」

 いやいや他人事みたいに、あんたも参議院議員なんやで、と鮎美は呆れた顔をしないように努力しながらパーティーが定刻通り終わったので、ホテルのロビーで待ち合わせていた三人の秘書たちと朝槍に会うけれど、なぜか三人とも朝槍に頭を下げて謝ってる。なにかあったのか、心配になって問うた。

「どないしたん?」

「あ、芹沢先生、すみません。朝槍先生と会談される予定ですが、急遽、別のアポイントが入りましたので、そちらをお願いします」

 静江が言ってきた。

「別のアポって、何なん?」

「お兄ちゃ…、石永先生と畑母神(はたもがみ)先生が横畑(よこはた)のぞみさんのご家族と会ってほしいと」

「……。朝槍先生の方が先約やん。いくら身内でも、っていうか、身内やからこそ、そとのお客さんを大事にするもんちゃうん?」

「いえ、この場合は政治問題としても、また、横畑さんがご高齢であることも含めて、こちらを優先してください」

「せやとしても……ここまで来てはんのに、目の前で…」

 鮎美は朝槍の方を見て頭を下げる。鮎美としては再会だったけれど、朝槍の方は初対面と思っている。静江が再び朝槍へ謝る。

「本当に、すみません。どうか、ご理解ください」

「はい、わかりました。拉致問題も大切だと思います。……ただ、もし芹沢先生に無理がなければ、横畑さんとのお話が終わってから10分でも話を聴いてもらえませんか。お願いします」

 朝槍が頭を下げてくるので、鮎美も慌てて頭を下げる。

「こちらこそ、すみません! どんなに遅くなっても会いますし! 約束しといて、すんません!」

 静江が時刻を見て言ってくる。

「3階の会議室を借りて待っておられますから、もう芹沢先生と宮本さんは行ってください。朝槍先生のお話は、ある程度まで私と牧田さんで聴いておきますから」

「……。すんません、朝槍先生、必ず時間を取ります。どうか、お待ちください」

 鮎美は朝槍の目を見てから頭を下げ、すぐに3階へ向かおうとして一つ不安になったので静江に訊いてみる。

「静江はん、ラチ問題って何?」

「っ……」

 静江が額をおさえて蹲ったけれど、すぐに立ちあがる。

「1分で説明します。数十年前、北朝鮮が日本海側の県などで日本人を誘拐し拉致していました。今も拉致されたままです。目的は色々あるでしょうが、スパイへ日本語の教育をさせるためや、情報収集などと思われます。拉致された人の家族は大変な苦痛を味わいながら、ご家族の帰還を待っています。この問題を18歳の芹沢先生が知らないのは学校教育課程で、その情報が意図的に隠蔽されているからでもあり、知らなかったことを恥じる必要はないですけれど、まったく知らなかったという顔をされると、横畑さんたちも深く傷つきます。少しは知っていた顔をしてください。とくに横畑さんの娘さんは拉致された当時、高校生です」

「うちと同じ高校生……、北朝鮮はミサイルだけやなかったんや……」

「3階のエレベーター右の会議室です。行ってください」

「「はい」」

 鮎美と鷹姫が会議室に向かうと、会議室の前で男性秘書が待っていた。

「中へ、どうぞ」

「「はい」」

 中に入ると、石永と畑母神、そして横畑夫妻がいた。

「急に予定を入れて、すまない」

 石永が謝ってくれ、夫妻も言ってくる。

「会ってくださって、ありがとうございます」

「無理を言って、ごめんなさい」

「いえ…それで、お話というのは?」

 鮎美は着席し、鷹姫はそばに立って話を聴く。話の内容は拉致された娘を取り戻すために多くの国会議員に動いてほしいことと、掠われるまでの娘との想い出、掠われてからの苦渋の日々について、そして他の拉致家族の状況だったけれど、聴いていて鮎美は気の毒に思いつつも反発も覚えていた。

「…………」

 たしかに切実かもしれんけど、朝槍先生の話かて切実に決まってるやん、序列でいうたら衆議院議員やった畑母神先生と石永先生が上かもしれんけど、朝槍先生も無所属とはいえ現職の都議やん、何より単純に人として約束の順番ってものがあるんちゃうん、と鮎美は朝槍への申し訳なさを感じていた。詩織が早めに会えるようセッティングしたので夜間となり、しかも鮎美は会っても自分が同性愛者であることは隠すつもりでいるので二重の意味で申し訳ない。そんな風に夫妻の話へ集中していなかった鮎美は自覚しないうちに睡魔に襲われ、居眠りしてしまった。

「「「「…………」」」」

 夫妻と石永、それに畑母神は鮎美が居眠りしていることに気づいたけれど、これが日中の会談なら政治家の先達として石永なり畑母神が叱りつけるところだったものの、鮎美は早朝に地元から東京へ出てきて丸一日の研修を受け、さらに同期となる新人議員たちとの気を遣う懇親会も経ている。懇親会が終わった時点で21時を過ぎていて、もう22時近い。居眠りを批難するのは酷だった。それでも夫妻の淋しそうな顔を見ていると、畑母神と石永は、せめて鷹姫が気づいて起こしてくれないものかと彼女の顔を見て、鷹姫が泣いているのに気づいた。

「…っ……っ…」

 鷹姫は立ったまま泣いていて、大粒の涙を零している。その表情で石永は思い出した。

「芹沢先生の秘書をしている宮本さんは幼い頃、母親を事故で亡くされているのです」

「それは、さぞかし……」

「おつらいでしょうね……」

 親子が離別させられることの苦痛を知っている者が流す同情の涙は、夫妻の気持ちを幾分か救った。鷹姫へ十分に話が伝わっていれば、いずれ鮎美にも伝わるはずなので石永は鷹姫へ水を向けた。

「宮本さんは、ご夫妻のお話を聴いて、どう思われました?」

「……不甲斐なく思います……畑母神先生! なぜ、日本は兵を挙げないのですか?!」

 鷹姫の濡れた瞳がまっすぐに見つめてくると、自衛隊幹部だった畑母神は苦い表情で答える。

「9条もあるからね」

「自衛のための兵力ならば! 国民が掠われたとき動いて当然です!! それが道理です!!」

「…………言うことは、わかるが、いや、その通りなのだが……我々はシビリアンコントロールのもとにある。政治的決断が必要な問題なのだよ」

「誘拐犯を前にして決断すべきことに迷いがありますかっ?!」

「……君は戦争をしろと言うのかね?」

「その覚悟で兵を差し向け、江華島事件を範として艦を並べ、示威行動を取れば人質解放の可能性はあります!!」

「江華島事件か……」

 畑母神は1875年に朝鮮海岸で日本軍艦雲揚号が挑発行動を取り、結果的に朝鮮の鎖国を破った歴史を思い出しつつ、鷹姫の脳内が現代の電子戦を理解しておらず、また受けてきた歴史教育が1945年あたりで止まり、朝鮮戦争の前後の知識が乏しいことも再確認した。

「宮本君、まずね、現代の戦いにおいては自らの所在を隠すか、より遠距離から攻撃することが肝要となる。艦列を並べて砲艦外交する時代は終わっているよ。それから、北朝鮮との関係は一対一ではない。後ろには仲国、ロシア、そして麗国もいる」

「朝鮮半島へ権益を置こうというのでなく、単に人質奪還だと! 各国へ通告すればよいではないですか!」

「そう単純ではないけれど、かりに日本と北朝鮮、一対一で戦争したとして、しかも弾道ミサイルを発射前に阻止できたとして、それでも20万将兵が朝鮮半島北部を占領し、各地を調査して拉致被害者を連れ出してくるまでに、上陸戦や掃討戦で自衛隊員が受ける死傷は負傷2万、戦死も1000は超えるだろう。少なく見積もっても」

「兵を思いやるのと兵を惜しむのは別です! 挙げるべき時に兵を挙げず、撃つべき時に撃たぬなら、張り子の虎ではありませんか! 軍に身を置くならば、兵にも覚悟があるはずです! 立つべき時に立たぬは名折れ! そんな弱腰では交渉での解決さえできません!」

「うむ………その通りではあるのだが………我々は総意で動いている。民主主義国はね、基本的には戦争を嫌う。ABCD包囲網とハルノートで追いつめられた日本国民は総意として戦争に賛同したが、そもそも、なぜ追いつめられたかといえば、ルーズベルトが戦争をしたがったからだ。けれど、経済的に豊かだったアメリカ国民は民主主義的には戦争をしたくなかった。だから、ルーズベルトは日本に仕掛けさせた。対ドイツ戦へ正面玄関からではなくハワイという裏口を日本に蹴破ってもらうことで開戦の大義名分を得たのだよ。今、我々が北朝鮮へ開戦する大義名分と、国民の総意をどうする?」

「我々も総意で拉致された国民を救い出せば良いだけのことです!!」

「君の言うことは正論ではあるが、さきほど言った死傷者に加え、戦費、経済的負担も大きい。かりに北朝鮮の体制を崩壊させたとして、それでよしと引き上げるまでに朝鮮国民の生活を整えねばならぬし、民主的な選挙の下準備も手伝わねばならないだろう。その間に不穏分子によるテロも起きる、それでまた死傷者も増える。それでいて、我が国に見返りはない。こんなことに国民は総意で賛同するかね?」

「ならば有志だけでも救出に向かうべきです! 目先の金銭より守るべきものがあるはずです!」

「そして、関東軍の再来や、226の再現をすると?」

「石原完爾(いしはらかんじ)も北一輝(きたいっき)も正義を通し、その結果が今の日本です! あの時代に弱腰でいればハワイ王国やインカ帝国が消えたように日本も消えていました!」

 鷹姫の声が大きいので鮎美は目を覚ましたものの、話の流れがわからないので、わかっているような顔を取り繕う。畑母神は眩しそうに鷹姫を見つめた。

「………宮本君が男で、自衛隊にいたら、本当にそうしたかもしれないな……三島君がクーデターを画策したように…」

「…………」

 うちは鷹姫が男やったら、鷹姫を好きになったんやろか、もしも鷹姫が私は実は男です、って言い出して身体が男やったら、うちは、どうするんやろ、けど、やっぱり、うちは女の子の身体が好きで、男なんて、なんとも想わんから興味を失うんやろか、逆に女性異性愛者が男装してる女性を好きになったのに実は女です言われたり、男性異性愛者が女装してる男を好きになったとき実は男です言われたら、どうするんやろ、牧田はんみたいなバイやったら、なんでもOKなんやろけど、やっぱり性的指向は変えられんで、と鮎美は無関係のことを考える。鷹姫は言葉を続けた。

「拉致された人を見捨てるというのですか?!」

「そうならぬよう、今動いているのだよ。拙速な挙兵でなく、地道な活動によって。これを見てほしい」

 畑母神はスーツの胸に着けている青いリボンのバッチを見せた。議員バッチを着けていた頃も同じバッチをつけていたし、石永もつけている。やっと鮎美が話に加わる。

「前から気になってたんですけど、それ何ですの?」

「このブルーリボンは拉致問題を解決するために動く議員連盟の象徴だよ」

「そうやったんや……」

 なんとなくブルーやし、男性の権利とか、幸福の青い鳥とか、そういう系かと思てたわ、と鮎美は気になっていたものの、問う機会がなかったブルーリボンの正体を知り納得した。石永が言ってくる。

「芹沢先生も主旨を理解し、これを着けてほしい」

「え……うちも?」

「とくに、これは夕方になって決定したのだけれど、国会の開会式で芹沢先生が登壇して弔辞を述べることになった。そのとき、このブルーリボンを着けていて欲しくて、今夜は無理を言って時間をつくってもらったんだ。お疲れのところ、すまない」

「……うちが、それを着けてるのは重要なことなんですか?」

「ああ」

「えっと……自眠党的には、どうなんです?」

「多くの議員が着けているよ」

「そういえば、そうかも……ほな、着けておきます」

 半分寝ていた鮎美は深く考えずに、そういうものだと思い、畑母神から新しいバッチを受け取り議員バッチの隣りに着けた。そして、夫妻と握手して別れた。丁寧には握手したけれど、つい朝槍のことが気になっていた。逆に鷹姫は秘書までは握手しないこともあるのに、しっかりと握手して夫妻と見つめ合ってる。

「鷹姫、後回しにした約束の方、もう行こう」

「はい。横畑さん、どうか、お元気でいてください」

「「ありがとう、宮本さん」」

「朝槍先生、まだ待っててくれるやろか」

 すでに時刻は23時を回っている。少し居眠りしたので鮎美は元気になったけれど、今度は鷹姫が限界を迎えつつあり眠そうな顔をしていた。

「鷹姫、疲れてるんやったら、もう休み」

「いえ、大丈夫です」

「明らかに疲れてる顔してるのに……」

 鮎美はスマートフォンで静江に連絡を取ってみると、ホテル内のラウンジで朝槍と待っていることがわかったので上層階のラウンジへ入った。東京のホテルらしく夜景が美しい窓際の席で静江と朝槍、詩織がノンアルコールのカクテルを飲んでいた。

「お待たせしました。朝槍先生、遅くなって、すみません」

「いえ、こちらこそ。無理を言って、ごめんなさい」

 女5人でテーブルを囲んで座った。静江が概要を語ってくる。

「朝槍先生からは、五つの女性団体からのお願いをいただきました。資料をいただきましたので、後日説明します。ただ一つだけ、朝槍先生が代表をされている団体のお話をされたいそうですから、お聴きください」

「わかりました。朝槍先生、お願いします」

「はい。単刀直入に、まず、芹沢先生は同性愛について、どうお考えですか?」

「同性愛ですか………」

 予想していた質問へ、用意していた演技で答える。少し考えるフリをしてから一般的な回答を述べる。

「個人の自由やと思います」

「そうですか…ありがとうございます」

 朝槍は物足りなさそうな声だったけれど、表情は保っている。そして自己紹介をする。

「申し遅れましたが、私はレズビアン、女性同性愛者です」

「らしいですね」

 鮎美は頷いたけれど、静江は知らなかったので驚いて朝槍の顔を見る。その動作で朝槍も詩織も女性同性愛者に対して静江が強い嫌悪感をもっていることに気づいた。それでも朝槍は慣れているので素知らぬ顔で話を続ける。

「芹沢先生は同性愛者を、どう感じますか?」

「どうと言われても、あまり考えたことがないので」

 超ウソです、すんません、ごめんなさい、と鮎美が心中で謝っていたのに鷹姫が言う。

「芹沢先生は、よく勉強されていますから、多少は同性愛者についても理解されています」

「っ…鷹姫…」

 鮎美は背中に汗が浮くのを感じた。鷹姫は単純に鮎美の名誉のために言ってくれた様子で、しかも眠そうな目をしている。朝槍が嬉しそうに微笑んだ。

「それは嬉しいです。どうして興味をもっていてくださるのですか?」

「そ…それは…」

「障碍者団体からの陳情がきっかけです」

 鷹姫が三島のことを話す前に、朝槍が察した。

「もしかして、ライフイージス、命の盾の会から?」

「そうです」

「あの三島さんは、そうとう特殊なケースですから……ごく普通の同性愛者のことを話させてください。私たちは同性愛者同士の結婚、同性婚を合法化するべく、ナナというNPO法人をつくっています。ナナという名称は、ナウ、つまり今、今すぐ、七色に輝く社会をつくりたい、男女の結婚という一色だけでなく色々な結婚があっていい、それは虹のように七色に輝く、ナウ七色、略してナナです。芹沢先生はLGBTと言われて意味がわかりますか?」

「……えっと、たしか、レズビアン、ゲイ、バイセクシャル、トランスジェンダーですよね?」

「はい♪ よくご存じで!」

「いえ…」

 トボけているのが同じ当事者を前にして申し訳なくて鮎美は目をそらした。朝槍の方は知ってくれていたので喜々として語る。

「私たちは社会には色々な結婚があっていいと考えています。同性愛者、女と女、男と男の結婚の他にも、同性愛者と性同一性障碍者というカップルもありえます。とくに性同一性障碍者は性別適合手術を受けるかどうか悩みます。身体は女であっても気持ちは男、だから男装していたら、男性同性愛者を出会い、結婚したい気持ちに至るということもあります。このとき、肉体と戸籍では二人は女と男ですから、いわゆる男女の結婚と同じように見えますが、当事者の心情は違います。やはり気持ちの性別である男として戸籍をつくりたい、男として振る舞っていたい、本当は男として女性と結婚したかったけれど、たまたま出会い、好きになってくれた男性同性愛者のことも、人間として好感はもっているし、子供もほしい、そんなケースもあるでしょう。また、身体は女であり気持ちは男という性同一性障碍者が、女性同性愛者と出会い結婚ということもあります。ごくごくレアなケースですがライフイージスの三島さんのように、肉体は女性で性同一性障碍者であり心は男性、なのに性的指向は同性愛者、ゆえに男性異性愛者と結婚というケースもあります。三島さんは両親の願いもあって女のまま結婚されたそうですが、本意では男でありたかったそうですから、私たちの活動にも賛同してくださっています。レアなケースと言いましたが、同性愛者は少なくとも人口の3から5%、多ければ18%程度が、その指向を内在させている可能性もあるという報告もあります。ゆえに、人と人の結婚は他にも色々な組み合わせがありえます。お互い合意があって、結婚生活をしたいなら、それが合法化されてしかるべきだと考えています」

 続けて朝槍は説明し慣れた口調で段取りよく同性愛者の性的指向と同性婚についての法的問題、各国の状況などを語った。初歩的なことだったので、すでに鮎美は知っていることだったけれど聴いていても眠くならず、むしろ質問したい部分が生まれたりしたものの、細かいことを質問したりすると、バレてしまいそうなので我慢して自分で調べることにした。対照的に既知の知識を復習させられた鷹姫は完全に居眠りしている。話していた朝槍が気づいた。

「彼女はお疲れみたいですね」

「宮本さん、失礼ですよ」

 静江が起こそうとすると、朝槍は止める。

「この時間ですから、無理ないですよ。寝かせてあげてください。芹沢先生は大丈夫ですか?」

「はい。続けてください」

「では…」

 朝槍は淡々とした説明から、少しずつ実例にも入っていき、鮎美に賛同議員として名を連ねてほしいので感情に訴えかけるため、将来を悲観して二人で自殺した同性愛カップルの例などもあげたので聴いているうちに鮎美は涙を零した。今までも統計上の数字としては自殺者のことも認識していたけれど、そのカップルの片方は朝槍も知っている人物で、アパートで自殺した二人の遺体も見てしまったという実体験を語られ、鮎美はハンカチを大きく濡らした。その様子に朝槍は手応えを感じて、七色のアーチ型をしたバッチを出した。そのバッチは朝槍も着けているし、話の流れで鮎美も瞬時に悟った。

「私たちに賛同してくださる人は、このレインボーアーチのバッチを着けてくれています。芹沢先生にも、ぜひ、その一員になってほしいのです」

「わかりました」

 鮎美が即答してバッチを受け取り、胸に着けようとするので静江が止める。

「待ってください、芹沢先生!」

「え? ………あかんの?」

「この問題は党としては慎重な議論を要するという立場です」

「………けど……朝槍先生の話は筋も通ってたし…」

「そういう問題ではなく、軽々にそういうものは着けないでください」

「……ほな、これは?」

 鮎美がブルーリボンのバッチを指した。

「それは大丈夫です」

「………。なんで、これが良くて、こっちは、あかんの?」

「問題の違いです」

「……けど、今の朝槍先生の話を聴いてたやろ? 切実な問題やん。バッチ一つ着けたくらいで、すぐに動く問題やないけど、だからこそ、一歩一歩、進めていかなあかんことやん」

「とにかくダメです! 朝槍先生、ご主旨はわかりました。ただ、芹沢先生が参加するかは、党に諮ってからとなります」

「……わかりました」

 一瞬は期待したけれど、やはり予想していた回答に落ち着きそうなので朝槍は悲しそうに微笑をつくった。それを見て鮎美は切なくて怒鳴る。

「なんで、うちの判断で決められんのよ?! そんなん、おかしいやん! 朝槍先生は、こんな時間まで一生懸命に動いてはんのよ! それに応えよ思わんの?! 何より、さっき自殺しやった話も聴いたやろ?! 当事者にとっては深刻な問題なんやで! それを、わかってあげるんが議員とちゃうの?! 党に諮るにしても、うちが、これ着けて語る方が説得力あるやん!!」

「芹沢先生、どうか、わかってください。ダメなんです。まだ、この問題は微妙なんです。場合によっては変に勘ぐられることもあります。とくに昨日、週刊紙に載ったばかりじゃないですか。あることないこと書きつける彼らに、くだらない想像をさせないためにも、やめてください。うちのお兄ちゃんでさえ、一時期はホモだとか書かれていたんですよ。あんなに夫婦仲がいいのに! 芹沢先生は加賀田知事の胸に触ってる写真もあったし、それでなくてもスキンシップ多めなんですから自重してください!」

「…………。石永先生にゲイ疑惑なんて、あったん?」

「はい。お兄ちゃんが核ミサイルで日本も武装しようという主張をしているのが、左翼的な出版社に目をつけられて、まったく火のないところに煙をあげられたんです! 記事の根拠は大学時代の男友達と新宿で呑んでいた、それだけですよ?! 新宿全体がホモの街じゃないのに! そんなこと言い出したら議員は誰も新宿で呑めなくなる! 家族だからわかりますけど、お兄ちゃんは絶対にホモじゃないですよ」

「……。……さっき朝槍先生も言うたやん、男性同性愛者のことはホモじゃなくてゲイって言おな」

「とにかく、朝槍先生、この問題については検討します。他の母子家庭への援助や、セクハラ、マタハラなどの女性差別についての陳情は前向きに検討しますから」

「…………」

 それもう検討しますに前向きがつくか、つかんかで、イエスノー分かれてるやん、と鮎美は大人の言葉使いに強い疲労感を覚えた。手の中にある七色のバッチを見つめる。

「………。朝槍先生、これ、もらってもええですか?」

「はい、どうぞ!」

「芹沢先生!!」

「検討するんやん? 検討の結果、つけることになったら、すぐにつけられるよう、手元にあってもええやん?」

「それは………。くれぐれも勝手なことはしないでください。お願いします」

 朝槍との会談が終わり、鮎美は握手を交わした。

「朝槍先生、大変やと思いますけど、頑張ってください」

 気持ちのこもった握手というのは、お互いにわかるもので朝槍も深夜まで励んだ甲斐を覚える。

「ええ、ありがとう。こんなに芹沢先生が理解してくださるとは思いませんでした」

「……」

 うちもビアンやもん、隠し通して、ごめんな、と鮎美は想ったけれど、顔には出さなかった。朝槍の姿が見えなくなると、詩織が耳元へ囁いてくる。

「見事な演技力ですね。協力的な顔をしつつも同類に気づかせなかった。数ヶ月前と大違いです」

「……」

 鮎美は無視して七色のバッチをポケットに入れようとしてから、少し考え、制服の内ポケットの中に着けた。それから鷹姫を見る。鷹姫は居眠りから熟睡の段階に入ってラウンジのソファに崩れている。微笑みながら何か寝言を漏らしているようなので聴いてみた。

「……芹沢…先生………議員会館には……剣道場がありました……柔道場も……」

「鷹姫、あんたは……」

 疲労感は強いけれど、鮎美も微笑みを漏らした。

 

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