第2話 五月~六月 性犯罪者に残虐な死刑を

 

 

 通知をもらってから10日目、鮎美は両親と六角市の市役所へ来ていた。自眠党議員の秘書が案内と送り迎えをしてくれると言ってきたけれど、それは断っている。鮎美は父親の車から降りると市役所の建物を見上げた。

「ふーん……これが、ここの市役所なんや、ボロいなぁ」

「そうね、大阪の区役所に比べると、ずいぶんと……」

 母親の美恋が言葉の続きを飲み込んだのは、市長とおぼしき男性が近づいてきたからだった。

「ようこそ、芹沢さん。お父さん、お母さんも。はじめまして。六角市の市長をつとめております。田井中重雄(たいなかしげお)です」

「ど…どうも…」

 鮎美は名刺をもらったけれど、女子高生なので返すべき名刺はもっていない。代わりに父親が礼儀上、名刺を出した。

「どうも、父の芹沢玄次郎(げんじろう)です」

「お父さんは建築家だそうですね。しかも、鬼々島への移住事業にご参加いただいて、まことにありがとうございます」

「いえいえ、ああいう島に暮らしてみたかったんですよ」

 玄次郎は社会人らしく微笑み、短めの頭髪を撫でた。ファッションのつもりなのか、個人的な趣味なのか、昭和初期に見られるような丸眼鏡をしているので剽軽な印象を与えるけれど、眼鏡をとると鮎美の父親らしくハンサムな顔立ちをしているし、名刺には一級建築士とある。市長も政治家らしく笑顔をつくって会話する。

「それは、それは、どうですかな、住み心地は?」

「いいですね。風雅というか、エキゾチックというか、何より島内に1台も車が無いのが、またいい! 建物の建て方も、刺激的で最高です!」

「不便やちゅーねん。コンビニも無いし」

 鮎美の文句は大人たちに聴こえなかったことにされて、選挙管理委員会がある市役所の3階まで案内される。市長が苦笑しつつ問う。

「ずいぶん古い庁舎で、大阪から来られた人に見られるのは恥ずかしいです。驚いているでしょう、こんなにボロいのか、と」

「「いえ…」」

 鮎美と美恋は、さきほどの会話を聴かれていたかもしれないとお茶を濁したけれど、玄次郎は正直な感想を述べる。

「たしかに、そろそろ建て替えた方がよいでしょう。耐震性の面からも」

「そうしたいのですが、供産党さんの反対もあって遅れているのです。いわゆる建設業より福祉を潤せ、という主張ですな。わかる面もありますが」

「なるほど……まあ、耐震工事すれば、コンクリートの質は良さそうだから、あと30年は使えるかもしれないなぁ」

 エレベーターが故障中だったので階段を登りながら、玄次郎は壁を撫でている。選挙管理委員会の事務室に入ると、待っていた委員長が証書を掲げ鮎美へ告げる。

「当選証書授与! 芹沢鮎美殿! 貴君が第二回参議院議員候補予定者として決定したことを、ここに証します」

「……どうも…おおきに」

 鮎美は頭を下げて、証書を受け取った。

「「「「「……………」」」」」

 大人たちが待っているので、期待された答えを口にする。

「謹んで、お受けします」

「「おお! おめでとうございます!」」

 絶対に辞退してほしくなかった大人たちが喜んでいるけれど、両親は少し心配そうにしている。

「アユちゃん、頑張ってね」

「鮎美、これからは下手なことはするな」

 市長は拍手して言う。

「我が市からの参議院議員誕生! しかも最年少とは、喜ばしいですな!」

「……まだ、正式には議員やないんですよね?」

 鮎美の質問に市長が丁寧に答えてくれる。

「ええ、任期は来年の1月1日からです。それまでは、あくまで候補予定者」

「高3の三学期だけ重なる感じなんや……」

 女子高生議員といっても、実質的には3ヶ月程度になりそうだったので、受任している。学校の出席日数にしても、もともと受験シーズンなので出席しなくても卒業できるし、議員となることが進路となるので進学も就職も当面はしない予定だった。今日は証書を受け取り、受任の意思を表示するだけのつもりだったけれど、市長が声をかけてくる。

「これから、いっしょに昼食など、いかがですか?」

「……それ、二人っきりやないですよね?」

「はっはは! もちろん、ご両親も、いっしょに。今後のことなど知っておいていただきたいですからね」

 そう言われると断りにくく、鮎美と両親は市長室の隣にある貴賓室で昼食に、鰻重を出された。もともと昼食に誘うことを予定していたようで、タイミング良く運ばれてくる。鮎美は箸を持つ前に、市長へ問うた。

「あの…、これって饗応とか、接待にならんのですか? それともワリカンなん?」

「よく勉強されていますね。素晴らしい! 大丈夫ですよ、一食5000円未満であれば問題になりません」

「ほんで、これは4980円やったり?」

「はははは! 税込み4500円です。もちろん、私の個人的な接待であり、市の予算から出しているわけではないですから、安心して、お召し上がりください」

「………。ほな、いただきます」

 美味しそうな鰻重だったけれど、あまり美味しく感じなかったし、市長と玄次郎の会話は弾み、いろいろな方向へ進んだものの、結局は最終的に鮎美を自身が所属する眠主党へ誘うのが目的だったので、鮎美は鰻重でなくコンビニで食べれば良かったと後悔した。それでも、気を取り直して市長に問う。

「眠主党と自眠党の違いって何なんですか?」

「いい質問ですね」

 そう前置きして語り出した市長の話は長かったけれど、鮎美は真剣に聴いた。会談は長引き、16時頃になって、さすがにお互い疲労したので終わった。

「しんど……一日仕事やった……」

「そうね……疲れたわ……」

 娘と妻が、ぐったりとしているので、玄次郎が車を回した。

「どうする? もう島に帰るか? それとも予定通り、ショッピングしていくか?」

「「していく!」」

 コンビニはおろか商店らしい商店のない島に住んでいるので、鮎美と美恋は駅前のショッピングセンターを回り、夕食もファミレスで食べた。

「あ~美味し。お昼は、なんか落ち着いて食べられんかったわ」

「そうね。ああいう食事は慣れないわね」

 4500円の鰻重より1260円のチキンステーキセットの方が美味しかった。玄次郎が腕時計を見て言う。

「もう戻ろう。最終の舟が出る」

「はーい。もう帰らなあかんのやね……早いなぁ…大阪やったら、まだまだこれからやのに」

「あなたが不便なところに移住させるから」

「すまん、すまん。けれど、いいところだろう?」

「………」

 美恋は不満そうに黙り、鮎美は紅茶を飲み干して答える。

「いいところも多いけど、不便なことは確かやん」

 鮎美の言葉通り、駅前のショッピングセンターから車で20分かけて港まで移動し、そこに自家用車を駐車して、連絡船の最終便に乗ると、10分ほど船に揺られて琵琶湖を渡り鬼々島に着く。島の港からは徒歩5分で自宅だった。鮎美たちが当選証書を受け取って帰宅するのを今か今かと待っていた島民たちは公民館で宴会を始めて、誘い込んだ鮎美にまで飲酒を勧めてくるので断固として拒否する。

「あかんて! こういうのバレたら不信任されるちゅーねん!」

「この島に、んなことバラす奴はおらん!」

「そーゆー問題やない! うちは疲れたし、もう寝る! 勝手にせい!」

 啖呵を切って鮎美は公民館を出て行く。違法行為である飲酒を勧められるのが不快だった以上に、男性たちが馴れ馴れしく肩や腕に触ってくるのも嫌だった。別に男性へ嫌悪感をもっているわけではないけれど、それほど親しくもないのに触れられるのは、ごく普通に嫌だった。そして娘が立ち去ると、実は自分たちも逃げたかった玄次郎と美恋も続いた。

「すいません、まだ思春期なもんで。ちょっと様子を見てきます」

「私も行きます。失礼します」

 移住者である芹沢家の三人が消えると、鮎美へ酒を勧めていた中年男性が怒る。

「なんや、あの態度は! ワシらが祝ってやっておるのに!」

「おお、ちょっと図にのっとるんちゃうか」

 別の男性も同調するので、見かねた鷹姫が食べていた巻き寿司を飲み込んでから男性たちに指摘する。

「今のは、お二人が悪いのではないですか。芹沢は、まだ二十歳ではないのですから」

「なんやと?! 子供のくせに!」

「その子供にお酒を勧めたのは誰ですか」

「こざかしいこと言うと、許さんど!」

「………。是非に及ばず」

 鷹姫が古風な言い方で決着をつけるなら試合で、と言い返した。島内での喧嘩沙汰は剣道試合で決着をつける風習があり、鷹姫は大人を含めて島内屈指の実力者なので怒っていた男性は舌打ちした。

「ちっ…」

「如何?」

 いかがか、と鷹姫が畳みかけると男性としての自尊心が傷ついたので悪態をつく。

「うるさいぞ、つい、こないだまで小便タレて、お母ちゃん、お母ちゃん、泣いとった小娘が!」

「っ………」

 正座していた鷹姫がスクっと立ち上がった。表情は変わっていないけれど、かなり怒っているのか、頬が少し赤くなっている。鷹姫が幼児の頃に、実の母親を水難事故で亡くしたことは当時の島民なら誰もが知っていることなので場の空気も張りつめる。いつもは感情表現が乏しいほど冷静な鷹姫が手を握って怒鳴る。

「真剣での勝負を挑みます! 受けなさい!」

「ぉ、…おお? や……やったろやないか! ガキが!」

 みな先祖は漁師ではなく武家だったので、今でも伝家の宝刀や、趣味で買い増した日本刀がある家も多い。剣道場である鷹姫の家にも数本あるし、さらに真剣勝負の風習まで、わずかに残っている。当然、大怪我をしたり、悪くすると死傷してしまうので、ここ百年で数件しか発生していない。島には交番もなく警察官の滞在もないので、これまでは誤魔化してきたけれど、さすがに全国から注目されやすい今のタイミングではまずい。宴会に参加していた島外から来ている市議たちが男性をなだめに入り、鷹姫へは婦人会の女性たちが止めにかかる。

「まあまあ、酔っぱらいの言うことを真に受けんでね、タカちゃんの言うことのが正しいよね」

「もう子供ではありません。そういう呼び方はやめてください」

「そうね、宮本さん。とにかく落ち着いて」

「落ち着いています。さあ、勝負を受けるのか、逃げるのか、答えなさい!」

「なにぉお?!」

 結局、二人とも周囲になだめられても引かず、勝負することになったけれど日本刀による真剣勝負ではなく、片方が酔っているので竹刀や柔道もさけ、勝っても負けても、どちらも怪我をしない弓道での射的となり、鷹姫が勝った。

 

 

 

 梅雨の日曜日、鮎美は憂鬱そうに自宅にいた。もともと孤立した島なのに、雨が降ると、より孤立感が増す。連絡船は台風でもない限り定時運行するけれど、観光客も減るし、島民もあえて島を出ようとしなくなる。自家用の漁船がある島民なら、雨に濡れるのを覚悟すれば、連絡船のダイヤ外でも、わずか10分で本土へ渡れるけれど、移住者である鮎美たち一家には自家用漁船は無い。それでも、頼めば引き受けてくれる島民もいるかもしれないものの、よほどの用事でない限り、それをする意味を感じない。結局、雨の日曜日は外出できないことになる。

「家も狭苦しいし」

 格安の家賃で借りている自宅は古い日本建築で三人暮らしにしては、部屋数は多いけれど、建築の規格そのものが小さくて狭く感じる。鮎美の部屋は二階の六畳間だったけれど、一畳そのものが小さい。窓を開けても隣家が間近で声さえ聞こえそうだった。島には平地が少なく、その少ない平地に民家が密集して建っている。一件一件の間は狭いと人が一人通るのが精一杯ということもあり、道路らしい道路はない。自転車も要らないくらい狭い島だったし、自動車は1台も無く、自転車も20台くらいだった。

「こっちの方向だけは開放感あるけど……開放的すぎるというか……」

 別の窓からは大きな湖が見える。

「ホンマ、アホみたいデカいなぁ……雨やと霞んで対岸が見えへんし」

 借家は港から徒歩5分だったけれど、六角市側ではなく、より遠くまで対岸が見えない側なので湖は海かと思うほど大きく見える。雨で風もあるので波も大きかった。

「……淋しい島やなぁ……」

 せめて鷹姫に会いたいけれど、しっかりと剣道の稽古中なので会いに行っても邪魔をするだけだった。雨と木の匂いがする空気を吸い、タメ息をついていると、玄関に人が訪ねてくる気配がした。

「アユちゃん、お客さんよ!」

 一階から美恋の声が響いてくる。

「……どうせ、どっかの政党やろ……っていうか、島やし、自眠党かな……」

「アユちゃん! いるんでしょ?」

「はいはい! おりまっせ!」

 仕方なく鮎美が狭くて急な階段を降りると、玄関に直樹がいた。

「やあ」

「……ようこんな雨の日に来るわ」

「やっぱり風情のある島だね。雨だと、また雰囲気が変わる」

「そう思うのは住んでないからやよ。退屈なだけや。そういえば、雄琴はん、どこに住んでるの?」

「井伊市だよ」

「ふーん……どのへん?」

「県の北部。有名な井伊城があるだろ。知らないのかい? いいニャンってユルキャラもいる」

「大阪城なら知ってるで」

「ははは。大阪城には、かなわないな。でも、参議院議員を務めるんだから県内の地名くらい把握してないと、6年後、確実に落ちるよ」

「たしか、最高裁判所の裁判官と同じように×を半数以上もらうと2期目は無しやったっけ?」

「そう。そして2期12年で終わり、現状では、それ以上の延長は無く、政治家を続けたいなら衆議院に鞍替えして立候補するしかない」

「まあ、立ち話もなんやし、あがりぃや。母さん、お茶を」

 もう直樹が訪ねてくることに慣れていた鮎美は居間へ迎えた。直樹は手土産として有名店のケーキを持ってきてくれているし、それは鮎美も美恋も楽しみにしている。

「うちも餌づけされてきたなぁ」

 ケーキを食べながら、つぶやくと直樹が笑った。

「はははは。自分を客観視するのは、いいことだね」

「このケーキ代って経費で落ちるの?」

「どこかの政党に所属していればね。無所属だと、ちょっと難しいかな。いや、ギリギリで活動費に入れられるかもしれない。れっきとした面談だからね。常識的な範囲内の茶菓子代は落ちるだろう。アルコールはダメだけど」

「面談いうても、だらだら喋ってるだけやのに?」

「大阪城を落とすには時間がかかったらしいからね」

「うちは城かいな。やとしたら、外堀を渡るだけで船で10分やから手間やね。便数も少ないし」

「今日は本題もあるんだ。芹沢さんに、会ってもらいたい人がいる」

「どうせ、自眠党の議員さんやろ?」

「ご名答」

「誰と、どこで?」

「久野統一朗、衆議院議長と京都で」

「衆議院……議長……えらい、大物を……うちなんかに……眠主党の方も、うちに…」

「眠主党からも、何かアポイントが?」

「………まあ…」

「どんな?」

「……隠しても、しゃーないから言うけど、竹村正義さんと六角市の料亭で」

「参議院議長……奇跡の竹村か…」

「奇跡の?」

「知らないのかい?」

「フン、どうせ女子高生やからね! 知らんことばっかりや!」

「ごめん、ごめん。ほら、少し前に国民年金を議員が納めていないって問題になったろ?」

「あ~…そんな話もあったかな」

「あれで自眠党からも眠主党からも数人が辞任したけれど、竹村さんも潔く辞めたんだ。けど、奇跡的に復活した。なんと参議院議員として」

「クジ運で?」

「そう。それで、まあ国会議員としての経験もあるわけだから、その実績から議長に選ばれた。ある意味、まったくの素人が議長になるより良かったけど、確率的には、ほぼ奇跡だから」

「たしかに女子高生は全国に何万人といるけど、辞職した議員は、そんなにおらんやろし」

「眠主党は彼を芹沢さんに会わせるのか……本気だなぁ……こっちも、うかうかしていられない」

「……ちょっと訊きたいんやけど」

「いいよ、どうぞ」

「うちなんかを相手に、そんな大物のスケジュールをあける意味あるの? 候補予定者なら、他にも全国におるやろ。そこへも自分の党に所属してくれって、言いに行かんの?」

「行ってるさ。もともとの支持政党があった人は別として、たいていの人は、どこかの党員ではないし、党員だったとしても、なんとなく入っていた、いつのまにか名簿に入れられてた、くらいの感覚だから候補予定者の名簿が公表されて、すぐ各党が争うように勧誘してる。ボクだって芹沢さんと選挙区が同じで歳が近いから専属担当にされた」

「27歳と歳が近いんや……」

「全体で言えばね。あと、この地区で歳が近いのは衆議院議員の石永先生が39歳だけど」

「うちより21歳も上やん。あの人とは学校でも会ったわ」

「政治の世界の主な年齢階層は50歳から70歳の男性だから」

「せやね。それだけに、うちなんかを大物が相手にしても、しゃーないやん。まして議長て」

「君は特別だよ」

「………最年少やから?」

「そう。君が、どの党に所属するのかはニュースになる。必ずね」

「うちはパンダか」

「そんなところだね」

「はぁぁぁ…」

 鮎美は大袈裟にタメ息をついて話を続ける。

「雄琴はんも、うちと同じにクジ引きで選ばれたんやろ? ある日、突然」

「3年前にね」

「前から自眠党やったん?」

「いや、3年前に入党したよ」

「なんで自眠にしたん?」

「政権与党だったからさ」

「なるほど……長いものには巻かれろ的な?」

「それもあるけれど目標もあるからね」

「どんな?」

「実現したい法案がある」

「どんな法案なん?」

「………」

 直樹は鮎美がケーキを食べ終わっているのを確認してから口を開く。

「お茶の間にふさわしい話題ではないし、食欲を無くすかもしれないけれど、凶悪な性犯罪者に、犯した罪に相当する残虐な目に遭ってから死んでもらう死刑制度の創設だよ」

「………残虐な……死刑……」

 鮎美が戸惑っていると、直樹は付け加えてくる。そこには今までの勧誘を目的とした抑制された雰囲気は無く、静かだけれど強い信念を感じさせる気配があった。

「幼い女の子を何人も殺したようなヤツを、ただの絞首刑で終わらせていいと思うかい?」

「………そういうこと……考えたこと……ないし…」

「今までは、それでいいさ。けれど、ボクは国政議員だし、君もそうなる。ボクら一人一人が賛否することで法案がつくられていく」

「……………けど………たしか、憲法で拷問と残虐な刑罰って禁止されてなかった?」

「憲法第36条、公務員による拷問及び残虐な刑罰は、絶対にこれを禁ずる」

「そう、それ」

 もう鮎美も、どうせ大学受験しないので日本史の学習よりも現代社会を復習していて、憲法も読み直していた。直樹が真顔で言ってくる。

「この国は憲法に対する解釈の余地が大きい。9条で武力を永久に放棄し、戦力を保持しないと明言しても、自衛のためなら持っていいらしい。36条を、よく読めば、公務員による、と書いてあるよね。ってことは、被害者の家族が刑の執行人となることは十分に可能だと解釈できる。絶対に、なんて書いてあるけれど、本当に完全な絶対なら条文は、何人も、で始まるはずだ」

「…………」

 鮎美は湿度の高い空気を吸って、少し息苦しく感じながら問う。

「そんな具体的に……考えるって……雄琴はんは……なにか、そういう………被害に……近しい人が遭った……とか?」

「ボクの妹は10歳で殺された。他に被害者が2人。犯人は捕まった。井伊市連続誘拐殺人事件でネットをみれば、詳しくわかるよ」

 感情を抑えた声だったので、これ以上は冷静に話せないということが伝わってきて鮎美も自重する。

「……。話を変えさせてもらってもええ?」

「どうぞ」

「うちの前、第一期で3年任期やった人は、なんで続投せんかったん? それとも×を半分以上くらったん?」

「西村広松(ひろまつ)先生は当選したとき67歳だったからね。そして胃ガンも見つかって、もう6年というのは、つらいということで自主的に辞められたんだ」

「そっか……ちなみに、どのくらい続投してはるの?」

「およそ8割の議員が続投を志望したけれど、国民審査で3割に×が過半数ついた」

「3割も……たしか、似たような審査方法の最高裁判所の裁判官には一度も罷免がくだったことはないよね?」

「無かったと思うよ。まあ、司法試験に合格して出世していった人や長年にわたって他省庁で実績ある勤務をつんだ人たちと、たまたまクジ引きで選ばれた人は違うからね。そこは国民の目が光るってことだろう。さっきの憲法解釈の話でも、ギリギリの制度だからね。選挙について憲法は普通選挙を求めている。この普通選挙の反対は制限選挙、いわゆる身分や門地、納税額に応じて権利を与えたり与えなかったりすることを厳に禁じている」

「ある意味、クジ引きは最高に平等やね」

「ある意味はね。けど、もう一つの秘密選挙であること、という要件を満たす必要があった。秘密選挙が何かは知ってるね?」

「誰が誰に投票したかを秘密にする選挙や」

「そう。つまり憲法は議員たる者への投票を求めていた。そこで一度目はクジ引き、その任期後に続投を望むなら国民審査の投票を受けよ、となるわけさ。これで普通選挙と秘密選挙という要件を満たしてクジ引き議員が誕生するわけさ」

「解釈か………普通に考えて9条あったら、自衛隊は無理やろ」

「だね」

「………憲法を変えたらええのに。侵略のための戦力はダメ、自衛のためならアリって」

「9条の話も、クジ引き議員が国民の感覚を持ち込めば、次第に変わるかもね。そうなるなら、それは、いいことだし」

「やね」

「ちなみに芹沢さんは6年後、続投を望むのかい?」

「そんな先の話……まあ、でも、せっかくやし望むんちゃうかな8割の人らみたいに」

「だとしたら、やっぱり所属政党はあった方がいいよ」

「そっちに話が進むんやね。……う~ん……まあ、どこかには入ろうと思ってるし……でもって、島の大人らが自眠ガチ押しやから、逆らいにくいし……けど、他の政党の話も聴いておきたいんよ。いつまでに決めなあかんとかある?」

「無いよ。今日でもいいし、任期がスタートしてからでもいい、なんなら途中で変えるのもありだ。けれど、勉強することも多いわけだから早い方がいい。あと、決めてしまえば勧誘活動は止まるだろうね」

「なるほど……」

「さて、そろそろ、帰らせてもらうよ。船の出る時間だ。これを逃すと次は2時間待ちだからね」

 直樹が腰を上げると、鮎美も立った。

「せめて桟橋まで見送るわ」

「ありがとう。けど、雨が激しいから、ここでいいよ」

「ええんよ。このままやと一日、一歩も家から出んことになるし」

「それは不健康だね」

 話ながら二人で港まで出る。別々の傘をさして桟橋に立つと、連絡船が出港の準備をしている。朝夕に鮎美と鷹姫を送ってくれる小舟と違い、ダイヤの決まった連絡船は最大で50名が乗れる船だったし、屋根もある。

「じゃあ、京都で久野先生と会ってくれるね?」

「念押しせんでも会わせていただきます」

 軽く手を振って直樹を見送った。雨の中、直樹を乗せた連絡船が小さくなっていく。

「……軽い感じの男やと思ったけど………抱えたものがあったんや……」

 鮎美はポケットから買い換えてもらったばかりのスマートフォンを出すと、井伊市連続誘拐殺人事件と入力して検索した。

「……10歳と……9歳、7歳か……」

 犠牲になった少女たちのことを知ることができたし、殺害方法や犯人についてもわかった。小児性愛者による快楽殺人で計画的に誘拐し、性的暴行の後にバラバラにして関ヶ原の山中に捨てていた。

「たしかに、ただの死刑ではあきたらん……こんなヤツ……」

 胸が悪くなるような事件で、それ以上は調べたくなかった。雨が降り続いている。小さな島は360度が淡水の湖に囲まれ、雨まで降っていると鮎美は真水の惑星にいるような錯覚さえ感じた。まるで別世界にいるような気にもなってしまう。海と違い、潮の香りがしないし、波も小さい。高波の心配もないので民家と岸が接してさえいる。家によっては玄関の前に専用の桟橋を手作りして、すぐに船へ乗れるようにしているところもある。

「……世界で、ここと、あと数カ所だけらしいね……湖の島に人が住んでるのは……」

 淋しくて独り言を言った。

「……鷹姫は……稽古を……まだしてるんかな……ようも飽きんと……」

 ずっと港に立っていても仕方ないので鮎美は家と家の間を進み、小山の中腹にある道場へ通じる急な石階段を登り、他の門下生が帰っても、まだ鷹姫が一人で何かしている気配なのを感じると、一旦は階段を降りて港近くの自動販売機で清涼飲料のペットボトルを買い、再び階段を登り、道場へ入った。

「たのもー」

「あなたですか」

 一人で素振りしていた鷹姫が竹刀を止めた。高温多湿の中、汗だくになっている。鮎美は清涼飲料を差し出した。

「さしいれや。経費で落としておくわ」

 ふざけて言った。まだ、どこの政党にも所属していないし、任期も始まっていないので1円たりとも報酬も政務活動費ももらっていないけれど、その気になれば領収書を残しておくことによって後々経費にすることができるとは学んでいる。鷹姫が汗に濡れた唇で叱ってきた。

「くだらないことを言うのはやめなさい」

「ま、自動販売機は領収書をくれんけどね」

「………」

「…ぅ~…」

 ふざけ続けると睨まれた。これ以上ふざけると嫌われそうなので謝る。

「いらんこと言うて、ごめん。うちのお小遣いから、おごるから飲んで。半分ずつしよ」

「……。いただきます」

 礼を言って鷹姫はペットボトルに口をつけた。美味しそうに飲む喉元に汗が流れている。道着も汗で濡れていた。二人で道場の隅に並んで座った。

「えらい頑張るね」

 鮎美も同じペットボトルから少し飲むと、また鷹姫に差し出す。

「芹沢は、もう剣道をしないのですか?」

「また誘ってくれるんや」

「……。この島にいて退屈しませんか?」

「そうやね。議員の話がなかったら、退屈極まりなかったやろね」

「たしかに、そちらで忙しくなるでしょうから無理かもしれませんね。けれど、運動をするのは良いことですよ」

「そういえば、体育のとき、うちをキレイに投げたよね。あれって柔道?」

「はい」

「あんた柔道までしてるん?」

「この島で育つ者は剣道、柔道、弓道を必ず習得します」

「まさに鬼々島やな。いんや武士の島かな」

 そう言って鮎美は鷹姫の襟を握った。

「うちも柔道なら体育で少しだけやったよ」

「そうですか」

「もう一回、あのキレイな投げ方、やってみてよ」

「そんな服なのに?」

 鮎美が着ているのはブラウスとスカートなので動くのにも、強く引っ張られるのにも不向きだった。

「ほな、寝技してみるのは?」

「私はかまいませんが、やっぱり、あなたの服が…」

「気にせんでええよ。えい!」

 鮎美が座っている鷹姫を組み敷こうと体重をかけて押し倒そうとすると、ごく簡単に転がされ、すぐに鷹姫が上、鮎美が下になっていた。鷹姫は型通りに袈裟固めをかけるため、鮎美の首の後ろへ腕を回し、反対の腕で鮎美の袖をつかむと、身体を斜めに交差させて押さえつける。完全に技が決まり、抜け出すことができない状態になった。

「お見事」

「あなたは本気を出していないでしょう」

「そう言われても柔道は少ししか知らんし。ちょっと教えてよ、ここから反撃する方法とか」

「ここまで決まると抵抗は難しいですが……たとえば、私の手を振り切ったとして」

 鷹姫が袖をつかんでいた手を離した。

「あなたは逃げるために背筋をそらして、右側へ私を押しのけようとしてみなさい」

「こう?」

 鮎美は大きく背筋をそらして鷹姫の身体を持ち上げた。

「そうそう。それで私が逃がすまいと左へ重心を移したとき、一気に左側へ私を投げるように転がしてみなさい」

「ううっ! うりゃあ!」

 言われたとおりに背筋と腕力で鷹姫の身体を横へ投げるように押しのけた。

「そう、そのまま今度は素早く私の上にのりなさい」

 指示をくれるので従い、鮎美が上になって鷹姫へ覆い被さる。

「…ハァ……ハァ……」

「……。何ですか、これは?」

 鷹姫は真っ直ぐに上から押さえられ問うた。寝技というよりベッドの上で男女がするような身体の正面と正面を合わせる形になっていて不思議に思っている。

「と…とりあえず、押さえればいいかなって」

 鮎美は両手で鷹姫の両肩を押さえている。お腹に体重をかけて鷹姫のお腹も押さえていた。

「まったく基本を知らないようですね。このような状態では…ほら」

 鷹姫は両脚を大きく開くと、鮎美の腰へ左右から巻きつけた。

「これで押さえ込みは解けたとみなされます」

「そ、そうなんや……なんか、余計に……」

「余計に?」

「む……無防備やない? うちが男やったら、こんなポーズ、危険でしゃーない気がするけど」

「…………。反撃します」

 鷹姫は右肩を押さえてきている鮎美の左手首を左手で握ると、大きく左側へ引きつつ、右手で鮎美の腰を持ち、右側へ引く。それで鮎美はバランスを崩され、右側へ転げた。その転がりに合わせて、すぐに鷹姫が上になる。

「ほら、これで逆転です」

「ハァ…ハァ……あっという間もなく…やね…」

「さっきのような押さえ方をするなら、せめて脚をからめられないようにしなければなりませんよ。こんな風に」

 鷹姫はお尻を鮎美の腹部へ押しあて馬乗りになって体重をかけている。そして、両手で鮎美の両肩を押さえてみせる。

「一応は相手の背中をつけさせ、脚もからめられていませんから押さえ込みの要件は満たすでしょう」

「…ハァ…ハァ…ほな、抵抗するから、押さえててみてよ」

「いいでしょう、やってみなさい」

「ううっ! ううくっ!」

 どんなに鮎美が逃げようとしても、しっかりと腹部と両肩を押さえられているので、ろくに動けない。

「ハァ…ハァ…」

 息が上がってきた鮎美は抵抗を諦め、鷹姫を見上げた。

「ハァ…」

「もう降参ですか?」

「ハァ…ハァ…息が…ちょっと待って…」

「この程度で息があがるとは運動不足な証拠ですよ」

 そう言う鷹姫は息を乱していないけれど、汗はかいている。その汗が額から顎先まで流れ落ち、滴になって鮎美の頬に落ちた。

「ハァ…もう一回しよ」

 再び鮎美が動こうとしたときだった。誰かが道場内に入ってきた。

「鷹さん、何やってるんですか?」

 男子の声だったので鮎美は慌てて乱れていたスカートを直そうとするけれど、鷹姫が邪魔で遅れてしまう。そんな慌てた様子を見て鷹姫も身体をあげて、スカートの裾を直すのを手伝った。二人から目をそらしていた男子が鍋を差し出してくる。

「母ちゃんがエビマメを炊いたから、鷹さんちに持っていきって」

「そうですか、ありがとうございます。健一郎さん」

 礼を言って鷹姫は鍋を受け取った。鍋には湖で獲れた小さなエビと六角市の畑で採れた豆がいっしょに炊かれていて、甘い香りがした。

「鷹さん、あの人と何をしてたんですか?」

「柔道です」

「あんな服で?」

「戯れに始めて、つい熱くなってしまいました。お見苦しいところをお見せしました。どうか忘れてください」

「……」

 健一郎さんと呼ばれた男子は中学生くらいで、つい鮎美の丸見えになっていた太腿と下着を思い出してしまい、赤面して黙った。鷹姫は落ち着いて健一郎を誘う。

「せっかくですから、ご夕食をいっしょにいかがですか」

「い、いえ。オレは、いいっす。もう帰るっすから」

 そう言って、すぐに帰ってしまった。鮎美が引っ越してきてから、ずっと不思議に感じていたことを問う。

「あんたって誰にでも素っ気ない感じやのに、あの子にだけ、ちょっと優しいよね。なんでなん?」

「私の許嫁ですから」

「……。…い…許嫁っ?! 許嫁って何?!」

 弾かれたように鮎美が迫って問うけれど、鷹姫は平静に答える。

「知らないのですか、許嫁とは親の合意で結婚の約束をした男女のことです」

「いや知ってるし! そういうことやなくて! 許嫁って何よ?!」

「………あなたの日本語はわかりにくいですね。何を問いたいのですか?」

「せやから! なんで許嫁なんかいるの?!」

「十年ほど前に双方の両親が決めました」

「なっ…、そんなことでええの?!」

「とくに問題は感じません」

「いやいやいや! 結婚やで?! 生涯の伴侶やで?! そんなサラっとしてて、ええの?! だいたい、あの子は、いくつよ?! 何年なん?! 中坊やろ?!」

「中学2年生です」

「四つも年下やん!」

「私が24になったら20ですよ」

「そらそうかもしれんけど! 何より二人の気持ちは?!」

「私は、とくにかまいません。彼は……どうなのでしょう……健一郎さんにお気持ちを訊いたことはないですし、まだ中学生ですから」

「とくにかまいませんって……好きなん? あいつのこと? えっと、名前は岡…」

「岡崎健一郎(おかざきけんいちろう)さんです」

「岡崎姓も、この島に多いよな。もしかして島の風習で許嫁やったりするの?」

「風習とまではいかないでしょうが、3割くらいは、それとなく許嫁が決まっていたりします。でなければ、今まで島の人口を維持できなかったでしょう」

「3割も……それでええの? 好きなん、あいつのこと?」

「嫌いではありません」

「……好きでもないの?」

「…………まだ、私には恋というものの経験がありませんし、嫌いでなければ大丈夫でしょう」

「え~…………ほな、もし他の人を好きになったら、どうするの?」

「諦めるか、恋が冷めるのを待つか……」

「諦められんかったら? 相手も鷹姫を好きやって言ってくれたら?」

「それは……大変失礼な話ですが、平身低頭で岡崎家へ謝りに行って許嫁を御破算にしていただくかでしょう」

「キャンセル可なんや?」

「はい」

「なんや……ビビったァァ……」

 鮎美は座り込み、それから、まだ言う。

「にしてもや、平然と受け入れてる、あんたもあんたやで」

「……。そう言う、芹沢には好きな男性はいるのですか?」

「え………いや……別に、おらんけど」

「許嫁も?」

「おらんよ! 普通おらんし!」

「あなたの普通と私の普通は、ずいぶん違うようですね」

「……そうやね……疲れたわ……岡崎くんは島の中学校?」

「はい、鬼々中です」

「剣道もしてはるの?」

「当然」

「強いの?」

「……。今少し努力が必要でしょう」

「なるほど、満足してないんや。ま、あんたの水準やと、相当かもしれんけど」

 鮎美がそう言っているうちに、鷹姫のお腹が鳴った。ずっと稽古していた身体が煮物の匂いを嗅いでしまい、胃が鳴っている。赤面した鷹姫が誘う。

「芹沢も食べていきますか? 鬼々島のエビマメ、もう食べましたか?」

「おおきに。引っ越し初日から、いただいております」

 ケーキを間食した鮎美の空腹は強くなかったけれど、鷹姫の誘いに甘えた。

 

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