13 湖畔での再会

デュカスは朝の食事を済ませコーヒーを飲んだあと、タバコを吸うべくベランダに出た。付いてくるはずのリヒトが来ない。リヒトを見やると彼はソファーにあぐらをかき集中した様子でファイルを読み込んでいる。


デュカスは視線をシュエルの景観にやる。視界には青い空と山々の稜線が広がり……その手前にある湖のきらめきが映る。淀みのないくっきりとした透明な空気のもと、デュカスはノウエル製タバコの煙をくゆらせる。


湖の岸辺に目をやると、小さなボートが群れをなしている。手漕ぎボートだ。そのわきに堤防があって湖沿いに小道が引かれてある。ノウエルにおけるサイクリングロードといった風情で、ここから見るかぎり、整備された小道である。


湖と木立に挟まれたその外観は、彼のこころをくすぐった。人影もないので行ってみたい気持ちが湧き起こる。


──行ってみるか。そう思い立つと、元々は遠距離用の魔方陣ではなく、近距離用の移動サークルをベランダに張り、彼はその黒い穴に身を沈めていく。こちらの方が法力消費は少なくて済む。


一瞬で彼はいましがた上から眺めていた場所、湖畔の小道に移動し、周囲を見渡した。戒厳令が出ていることもあり人の姿はまったくない。デュカスは路面から高さ五○センチほどで斜めにせり上がっている堤防に左手をあてた。


堤防も路面も、灰色と茶色が混ざったような色をしたざらついたコンクリートでできている。

彼は堤防の上に上がり、そこにあぐらをかいて座った。目の前の景観の迫力に彼は胸がいっぱいになった。


巨大な山の尾根とそびえ立つ空──そう、シュエル・ロウの空にはこちらに迫りくるような圧がある──と蒼い湖が広がる壮大なパノラマであり、風は温暖な気候にのって心地よく吹いており、まるで自分を歓迎してくれているかのように彼は感じた。いや誰であれそう感じさせる雄大な景色なのだ。故国ではないにしても俺は故郷に帰ってきてる。そう実感しながらタバコを取り出して吸い始めるデュカス。


基本的にシュエルの景観、街並みはノウエルの中世ヨーロッパのそれと共通している。賢者会による統制で景観については進歩を止められているのだ。


と、何か妙な気配を感じ、デュカスは警戒した。ひどく近い距離に何かが来ている。


すると右横の堤防からかすかな赤い光の筋が一瞬立ち上がり、直径三○センチほどの魔方陣が現れた。円と星が黒線で描かれたごく一般的なものだ。そこからカツ、カツとノックするような音がした。堤防の表面の下からである。放っておくと訴えが耳に届いた。


「出られない」


「そりゃ結界張ってるからね」


「ベリルだ」


「なんだ君か。そっちの草っぱらから出てくればいいのに」


デュカスはその円い部分だけ結界を解いた。円陣からグレーの猫がすうっと出てくる。


「黒猫はやめたの?」


「いや、グレーを覚えたんでいまはこれだ」


艶やかな毛並みとしなやかな細身の肢体、輝く大きな瞳。見事な変化の魔法だ。動物の気配を纏っているので実体が掴みにくい。賢者でないとぱっと見では見破れないのではなかろうか。


「来てるだろうなあとは思ってたんだが、俺に用事で来てるの?」


「まあ半分は。調べることがあって」


「カイオンのこと?」


返事がなかった。なので相手が何か言うまでデュカスは待つことにした。やがてベリル猫は諦めたような口ぶりで、

「調査中なんで不確かな話になるし、話せないことも多々ある」と述べた。


「話せる範囲でいいさ」


「やつの出身はソミュラスで間違いない」


それは別の魔法世界にある国の名だ。その国の住人は魔法力が比較的低い一方で、一部の特権階級、支配層のなかに人間の魂を扱えるという極めて特殊な能力を持つ者がいる。多くは〈死後の魂の所有権〉と引き換えに何らかの願いを叶える、という契約の際に用いられる能力である。


……と、ここまではシュエル・ロウの上層では把握できているのだが、それ以上のことは謎だった。デュカスはベリルと多少の付き合いがあるのでもう少し知っている。

彼らはどうやら収集した魂の中身によって、つまり魂の質や階級によって、ソミュラス社会における彼ら自身の階級も決まるようなのだ。個人の価値、ステイタスに直結すると。


「他には?」


「スペックのようなものは不明だ」


「こちらの協力者については?」


「わからん」


「いまどこにいるんだろう」


「森の中で会ったきりだ」


「軍人ベースの改造人間……みたいなのがおおざっぱな予想なんだけど。見た目はあれだが」


「俺の国が作った生物兵器、としか言えんのだ」


「目的は? 何を対象としているんだ」


「直接にはとなりの敵国だ。荒野と砂漠をはさんで強大な国がある。フェリルとは比較にならんが軍事国家で戦闘系が発達してる」


「それで人造兵を」


「前にプロトタイプを送り込んだことがある……しかし、そこそこの被害を与えたあと賢者に封印されてしまった」


「へえ」


「カイオンは完成品なんでまるきり中身は違う。重要なのは、いまのやつの目的が不明ってこと。おそらく傭兵なんだろうが雇い主が不明で、その目的も不明」


「なるほどな。話してくれてありがとう」


「お前に死なれても困る。パイプを失うわけにはいかん」


五年前、デュカスとの契約締結はソミュラス国王のストップが掛かり挫かれたものの、彼はまだ諦めたわけではない。


「雇い主の目的が俺って可能性はどれくらいだろう」


長いしじまがあった。湖面の波が風で強くなる。ベリル猫のひげも揺れ、デュカスの吐く煙も遠くに流れてゆく。


「わからん。可能性があるとわかってるだけで充分じゃないか?」


デュカスは何かに気づいてはっとし、小声で告げた。

「……やべえ、千里眼と賢者眼の合わせ技で誰か見てる。さりげなく去った方がいい」


使っているのは簡易型の結界のため相手が上級者の場合には意味がなかった。


「慣れてる。すまん、俺の魔法はばれやすい」


かろやかに防波堤を降り、猫は通路を抜けて草むらに潜ってゆく。


──誰だ?

ベリル猫の異質さに鋭敏に反応したのか、もとより自分を探っていたものなのか判然としない。

デュカスは周囲にセンサーを働かせる。しかし何も掴めない。


諦めて湖に目をやり、蒼い湖面に打ち寄せる穏やかな波を見つめる。

メサイアーという名の、ノウエルでいうところのカワセミに似た水鳥が目の前の宙空を飛び抜けてゆく。メタルグリーンに輝くその姿は陽光を反射し、デュカスの目を眩ませる。


反射光には魔法による暗号が込められてあった。頭の中に直接入ってくる暗号は受け手のデュカスの魔法による解読で言語化される。師匠である元賢者ストラトスからの通信だった。内容はこうだ。


《ドルスのもとへ行け》


ドルスとはドラゴン族を束ねる最長老の名である。師匠はドラゴン自治区に棲んでいるのだ。


──呼んでるってこと? 待ち合わせ? ……まあ行ってみないとわからんか。どのみち行く予定だったから問題ない。


デュカスはしばしリヒトの扱いについて考えをめぐらし、結論を出すとタバコの火を消し携帯灰皿に吸い殻を入れ、宮殿に戻るべく立ち上がった。



「ドラゴン族のところへ? いまからですか」


デュカスに行き先を告げられたリヒトは急なことなので驚いている。昨夜リクサスとの会話で触れていたのは覚えているがこんなに早くとは。


「うん」


「フェリル領ですが」


厳密に言えば立ち入りを賢者会代表に禁じられているはずである。


「細かいことは抜きだ。俺はシュエル全体のために動いている」


「許可をとった方が」


「行くぞ」

デュカスはそう言うとすぐさま床に魔方陣を張り、その金色に輝く円と星で構成された陣に身を沈めていく。リヒトはついてゆくしかない。


ふたりのその様子を椅子に座るミュトスは静かに見つめていた。


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