第七謎:忘れられた手紙 IQ110(全二話)
蝶と蜂
階段を上って事務所の扉を開けた途端、
「おはよう、鈴木くん」
窓際に立っていた、ここの主が振り返る。お気に入りのマイセンのカップを右手に、左手にはソーサーを持っていた。
この人の淹れる珈琲はそこらの喫茶店よりも格段に美味しい。
「おはようございます、先輩」
今日は早めに出たんだけどな、と思いつつ、肩からバッグを降ろして僕の机に置いた。
「いつも早いですね」
「家にいても暇だからね。ここからおだやかな街並みを見るのもいいもんだよ」
窓の外に目を向けてカップを口に運んでいる。
ちょっと
事務所の奥にあるミニキッチンには、一人分の珈琲がサーバーに残っている。
こうした気づかいは出来るのに。
「毎朝、こうして美味しい珈琲が飲めるのは幸せです」
「え、その程度なの? 鈴木くんの幸せって」
「いや、それくらいこの珈琲が美味しいってことですよ」
「そりゃ当然だね。私が淹れたんだから」
先輩にはお世辞や謙遜といった概念がない。言葉に限らず、物事をそのまま受け止める傾向がある。
ちょっと面倒なときもあるけれど、その素直さというか雑念が混じらない感覚こそが名探偵・
「そう言えば、怪盗ドキはどうなったんですかね。捕まったなんてニュースは出てないし」
「博物館から『王の土器』が盗まれたという話も聞かないから、
「やっぱりもったいなかったなぁ。怪盗と警察の知恵比べに探偵が現れて……なんて、アニメならワクワクする展開だったのに」
「前にも言ったでしょう。それは警察の仕事だし、何も起こらずに平穏なことが一番だ、って。今回も
「そういうものですかねぇ」
「真の名探偵とは、事件を起こさせないのさ」
せっかく探偵事務所に勤めてるんだから、もっとこうスリリングな体験とかしてみたいなぁ。でも、そんな場面に遭遇したらビビっちゃって何もできないだろうけれど。
「ところで、この前のお墓参りへ行くきっかけになった件はまとめてある?」
「『傘』の暗号ですよね。まだ書いてません」
「忘れないうちにまとめておいてね」
「はーい。どうせ暇だから、今日中にやっちゃいます」
「ひとこと余計だから」
そう言いながらも笑顔のまま。先輩のそういう所も好きなんだよな。
さて、それでは春のお彼岸に届いた謎解きの話をまとめよう。
*
「先輩、おじい様から手紙が届いてますよ」
郵便物の整理をしていると立派な封筒が目に留まった。
先輩のおじい様は、日本でも有数の企業であるエムケー商事の会長をしている。無類のミステリー好きで、耕助と名づけられたのもおじい様たっての希望だったそうだ。
「あ、そう。その辺に置いといてくれるかな」
応接ソファに座り、読んでいるクラシック系の音楽雑誌から目を離さず、そっけない返事が返ってきた。
「いいんですか、確認しなくて」
「どうせ、いつものことだろうから。後で見ておくよ」
なおも熱心に雑誌を読んでいる。
ここに勤め始めてから知ったのだけれど、先輩は唯一の趣味が音楽鑑賞らしい。ポップスやジャズなど色々なジャンルも聞く中で、クラシックが一番のお気に入りのようだ。
言われたとおり先輩のテーブルに封筒を置き、暇つぶしのため床掃除に取り掛かった。
翌朝、いつものように美味しい珈琲を飲んだ後、先輩のカップも片付けようと机へ近づくと昨日の封筒が同じ場所においてある。動かした気配もない。
手に取って裏を見ると封がされたままだ。
「先輩、この封筒を開けなかったんですね」
「あ。忘れてた」
テレビを見ていてこちらを振り向きもしない。小学生がミツバチの群れに襲われたニュースの方が関心が高いらしい。
「ミツバチは巣作りをするこの時期に攻撃的になるんだよ。知ってる? ミツバチって一度刺すと針が抜け落ちて死んでしまうんだ。その時に出すフェロモンに誘われて、仲間が次々と襲い掛かる。個の力は弱いけれど、まとまって命がけで敵を倒そうとするのってすごいよね」
「そんな、うんちくは置いといて」
「みんな命には別条がないって。よかったなぁ」
僕の話なんか聞いちゃいない。
「もぉ。あの時に確認するよう言ったじゃないですか。急ぎの用事だったらどうするんです?」
「平気、平気。どうせ今月の支払いの件だろうから」
「え? まさか
「おいおい、そんな訳ないだろ。ちゃんと私名義で借りてるよ」
さすがに先輩もムッとするかと思いきや、笑顔で返してくる。何か怪しい。
「じゃあ支払いって督促じゃないんですか」
「督促じゃなくてお知らせ。ウチの会社からの報酬が振り込まれたんだろ、きっと」
「会社って、エムケー商事?」
「そう。一応、エムケー商事の顧問探偵契約をしているから、その振り込みに合わせておじい様が近況を聞いてくるんだ」
「何ですかそれは」
弁護士ならともかく、顧問探偵なんて聞いたことがない。
「ほら、例の会長誘拐事件があったでしょ? あの後に会社と顧問契約を結んだんだよ。何かあった時はウチの事務所で対応するんだ」
「いや、そうじゃなくて、顧問探偵と言ったって何もやっていないじゃないですか。そもそも、あの事件だって会長のいたずらだったし」
そう、この事務所への支援金を渡すだけのために、社員まで巻き込んで会長さんが仕組んだ狂言だった。
「これも犯罪への抑止力の一つだよ」
「単に会長が孫のために援助しているのを、合法的に見せかけてるだけですよね」
途端に、右斜め上を見上げて口笛を吹く真似をしている。相変わらずベタなとぼけ方だ。
「僕もそのお陰で給料を頂いているので、武者小路家のやり方には口を出しませんが、ちゃんと手紙の確認はしてください」
「なんだか鈴木くんは、爺やに似てきたよな」
ぶつぶつと口の中で言いながら、先輩は封を切った。
中身をチラッと見るなり、表情が輝いていく。
「鈴木くんの言う通り、もっとはやく確認すべきだったよ」
笑顔で渡してきた紙には、こんなことが書いてあった。
菜種梅雨に必要なのは「傘」
指 と 脚
胃薬 と 目薬
画鋲 と 糊
魔 と
勝気 と 血の気
蝶 と 蜂
蚊 と 蝿
嫌気 と
味噌 と 醤油
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