第63話 貧困4
フレンチのレストランを出たあと、同じく青山にあるホテルのカフェを見たが、ここではハーブを壁一面に栽培していた。内装と調和が取れていて、ハーブ自体も概ね好評だった。客からの受けも良いらしく、オーナーは俺にも購入を勧めてきたくらいだった。
「これでいくらなんですか?」
「これは五十万円です。トラブルがあったときは技術者が来てくれるんですが、まあ、トラブルは一度もないですね」
「少し高いような気がします」
「内装の一部ですよ。リフォームするよりもハーブで覆ったほうが雰囲気が出ることもあるんです。話題性もバッチリですしね」
フレンチのシェフと同じように、こちらも満足している様子だった。何より、客がハーブの前で写真を撮ったり、香りを楽しんだりしていたのだ。垂直栽培とは少し趣が異なるが、費用対効果を鑑みれば決して無駄ではなさそうだ。俺はしばらく壁一面のハーブに圧倒されながら、コーヒーを飲ませてもらった。
全て見終え、俺たちは再び工場に戻った。田中は帰りの車中で何度もあくびを圧し殺していた。眠さがピークのようだ。
「他にもご覧になりたいところはありますか?」
「いえ、今日はこれで十分です」
「ぜひ、良いお返事をお聞かせいただければと思います」
「そうですね。ただ、正直に言うと、僕らはこれからインファームランドの製品も見に行くんです。こっちだけ見ても、良さも悪さもわからないんで」
田中の顔に、明らかな落胆の色が浮かんだ。それでも、顔は笑顔を崩さないでいる。目元がピクリと動いた。おそらく、これまでも同じような場面で同じように言われる度に、小さなストレスを一つずつ溜め込んできたのではないだろうか。そういえば、田中の頭に白髪はないが、不自然なほどに黒い髪の毛は、もしかしたら染めているのかもしれなかった。
「では、後程また連絡いたしますね。夜のお店は赤坂に取ってあります。連絡いただけましたらお迎えに上がります」
俺はこのあと、田中から酒の誘いを受けていた。だが、正直に言うと別にそんなものは要らなかった。というよりも、田中聡美には、何よりも休養が必要だと感じていたからだ。本人はこれまでもこんな調子で仕事をしてきたのだろうと思うが、なんでもかんでも全力でやればいいというものではないだろう。進んで違法労働に身をやつしている状態だ。俺もそういう状況になったことはあるが、それはどうしても仕方のないときだ。田中はほぼ毎日こういう生活をしている。いつ身体を壊してもおかしくない。
「あの、田中さん、今日はありがとうございました。持ち帰って検討させていただきます。このあとですが、心苦しいですが、お気持ちだけ頂戴して僕らはこれで失礼します。田中さんは休まれた方が良いんじゃないかと思いますので」
「私に気を遣っていただいているのでしたら、どうぞお構い無く。せっかくの機会ですので私も勉強させていただきたいですし」
「それならいいんですけど。じゃあ、こっちもなるべく早く戻りますんで、田中さんお一人で来てください。あと、行くお店はこっちで決めます。せっかく取ってもらって申し訳ないですが。いいですか?」
「ええ、わかりました」
田中は不思議な顔をしたが、異論はないようだった。また連絡すると言い残し、俺たちは工場を後にした。
「綾子さん、良さげなエステありません?」
「エステですか?」
「あの、田中さんっていう代表の人、かなり疲れてましたね。あんなんじゃまともなアイデアなんて出せないと思います。飲み会なんてやらなくていいので、エステにでも行かせてリラックスさせましょう」
俺の提案に、綾子は珍しく顔をほころばせた。
「かしこまりました。それでしたら、飯田橋の近くにアグネスホテルがございます。そちらのエステを予約いたします。今電話で掛け合ってみますね」
「頼みます。あと、食事もいいところがあれば……」
「食事でしたら、アグネスホテルは部屋にキッチンがついていますので、料理人を手配なされてはいかがですか?」
「それがいいですね。じゃあ、フレンチでも頼みましょう。あと、良いワインも用意して、」
「会長、服とかアクセサリーを選んでもらうのもいいんじゃないですか?ストレス解消になりますよ」
杉本くんが、運転しながら口を挟んできた。
「確かに、それはいいですね。綾子さん、そっちの手配もできますか?」
「かしこまりました。私の好みになってしまいますが?」
「それでいいです。思いっきりサプライズをしましょう」
俺たちは、視察をそっちのけで田中へのサプライズを考えた。ネイルなんかもいいんじゃないか、ボーリングにでも連れていこうか、色々迷ったが、おそらく今の彼女たちにとって、最も喜ばしいサプライズを考え付いた。しかも、金はかからないものだ。なおかつ、今回の投資話を一気にゴールデンルートに乗せることのできるアイデアだ。手配をする綾子の顔も、さっきから緩みっぱなしだった。
そんな感じだったが、恵比寿にあるインファームランド社の営業所ではしっかりと商品を見ることができた。
はっきり言うと、TIA社とインファームランド社の垂直農法は別物だった。インファームランド社では、人工熱源に人工光源を組み合わせ、とにかく管理を徹底させる手法を取っていた。TIA社では自然の気候や採光を基にして栽培をしていた。そういう違いがあるので、インファームランド社の製品が、店の一角にかっちりしたケースが必要なのに対し、TIA社の製品は窓際があれば栽培は可能であり、インテリアとしては圧倒的にTIA社に分があった。
「住み分けは可能ですね」
俺は綾子にそう洩らした。綾子は静かに頷いた。
恵比寿の営業所を出たのは十七時、俺たちはすぐに青山に戻り、田中を拾ったが、田中は部下を一名連れてきていた。まだ若い、綾子や杉本くんとそう年が変わらないくらいの女だ。
「一人でとのことでしたが、すみません。社の規定で私一人では許可が降りなかったのです」
「ああ、すいません。気がつかなくて」
俺は、深く突っ込まなかった。レクサスの後部座席に乗り込んできた田中と部下の女性を奥に座らせた。綾子に目配せをすると、綾子はすぐに車を降りてホテルに電話をかけ、エステと部屋の追加を申請した。俺の考えていることならなんでもお見通しだ。
車が出発した。田中は部下の女性を紹介した。
「渡辺と申します。研究員です」
渡辺という女性も、田中に負けず劣らず疲労の色が滲み出ていた。肌が荒れ、髪には枝毛が目だった。なにより靴が汚れていた。革が伸び切って色褪せていた。俺は、この人たちを癒そうと、もっといえば、ゲームのように減った分のヒットポイントを回復させ、より高いパフォーマンスを発揮できるようにしようと意気込んだ。
車は青山通りを北上して、皇居をぐるっと周り、靖国神社を迂回して、神楽坂に入った。俺は二人に、今日はもう会社には戻らないということを確約させた。二人の顔には絶望が浮かんだが、それでも二人は無理にでも微笑んだ。
しかし、ホテルの駐車場に車が入った辺りから、二人の様子が変わった。明らかに、それまでの落胆の様子から、どこかそわそわしたような様子になった。
「お店、ここですか?」
田中が、明らかに期待に満ちた声でそう聞いてきた。俺も初めてだったが、アグネスホテルは、神楽坂の閑静な街並みと調和が取れていて、落ち着いた雰囲気の建物だった。洋風の庭園が控え目にライトアップされており、幻想的な光景となっていた。
ホテルの入り口では、正装した数名の男女が挨拶を交わしていた。会食をして、まさに解散するところといった感じだったが、明らかにハイブランドで身を固めていた、富裕層だという印象を受けた。これから行くところは大衆店ではない、そう思わせるのに十分だった。そういう一つひとつのことに、田中と渡辺の心が弾む様子が伝わってきた。
綾子が先に降りると、女性従業員がすぐに駆けつけてきた。俺は先に車を降り、田中と渡辺の手を引きながら車から下ろした。
「お待ちしておりました。ご案内させていただきます」
上品な感じの従業員だった。田中と渡辺は、戸惑いながらも従業員の案内に従った。俺は簡単に状況を説明した。
「田中さん、エステをご用意しました。どうぞリラックスなさってください」
「どういうことですか?」
「いえ、出過ぎたことかもしれませんが、田中さんに一番必要なのはお酒ではなくこっちです。僕は単純に田中さんの身体が心配なんです。とにかく、今は何も考えずにマッサージを受けてください。渡辺さんもです。」
その先の付き添いは綾子に任せた。俺はフレンチ風のティーラウンジで、深いソファーに腰を下ろした。杉本くんは外で待機している。女がサプライズを受けているとき、男はどういうことをして時間を潰すのだろうかと考えた。エステは九十分コースだったからだ。とりあえず携帯を取り出したが、若葉から連絡が入っていたので、今日は遅くなる旨を連絡すると、何時でも待っているから、とメッセージがきた。俺は、すべてが終わったら連絡するとメッセージを送り、携帯をポケットに閉まった。
しばらくして綾子が戻ってきた。二人は興奮して、すごく喜んでいたと教えてくれた。
「会長のお陰です。私まで嬉しくなりました。出張シェフももうじき到着しますし、先に部屋でスタンバイいたしますね」
綾子に礼を言って、後の細々した手配を任せた。綾子は電話をかけながら、ホテルの外に出ていった。
俺はすぐに暇になったので、外を散歩しようと思った。
外はまだ明るかった。歩きながら携帯を見ると、ちょうど若葉から電話がかかってきた。
「何度もごめんね。やっぱり、今日会いたいな。駄目?」
「今日は何時に終わるかわかんないけど、十二時にはホテルに戻れると思うんだけど、それからでもいいかな?」
「うん!ありがとう。嬉しい。会ってもらいたい人がいるの」
「俺に?」
「うん!私の子供なの。嫌かな?」
「嫌じゃないけど、俺が会っても大丈夫なの?」
「うん!」
あっという間に電話は終わった。通話を切ってから、とんでもないことになったと感じた。若葉に子供がいそうだとは、なんとなく想像がついたが、その子供と会うことになるとはまさか思わなかったのだ。だが、勢いとはいえ、約束してしまったことは事実だ。約束を破ることは嘘をつくことと同じである。祖父の教えを俺は思い出した。若葉の期待を裏切ることはいけない。俺はなるべく早く新橋に戻るよう心に決めた。
エステコースが終わり、二人がティーラウンジへ戻ってきた。二人とも、見違えたように艶々になっていた。肌が整い、髪の毛にも艶が戻り、目が生き返ったように輝いた。
「すっごく良かったです!ありがとうございます!」
「神谷さん、ありがとうございます。生き返りました」
顔のほころびが収まらない二人を、部屋へと案内した。部屋では、既にフレンチのシェフがキッチンに入っていた。リビングでは、女性向けブランドのスタッフが商品を広げていた。
「あの、ご迷惑でなければお好きに選んでくださいね」
二人にあったサイズを用意してくれていた。全て綾子の指示だ。アウター、インナー、靴、アクセサリー、バッグ、一通りの物があった。二人とも遠慮がちに商品を手に取って見ていたが、中々決めあぐねていたので、店員に一式選んでもらうことにした。
「こんな、悪いです」
田中は断ろうとしたが、その顔に力はなかった。店員は、田中には太ももがむき出しになるくらい短いスカートに、だぼっとしたシルエットのカットソー、派手なベルトに大きめのネックレスをチョイスした。
「こんな若いの変ですよー」
「パリコレで日本人のモデルさんが身に付けていたものです。良くお似合いですよ」
反対に、若い渡辺には、大人っぽいシルエットのワンピースとカーディガンを選んだ。どちらも、安っぽい生地でないことは、見ただけでわかる。カシミアの上品な色使いに、部分的にシースルーになっているシルエット、そこら辺にはない品物だということは、俺でもわかった。
さらにチョーカーやファッションリングを二、三個と、腕時計をそれぞれ選んでもらい、そこで終了とした。
ショップ店員が荷物をまとめ始めたところに、シェフが料理を運んできた。綾子は、俺たちの分も一緒に頼んでいたらしく、四人で食卓を囲んだ。あらゆる皿にトリュフが乗っていた。ジャガイモにトリュフソース、魚料理に刻んだトリュフ、肉とトリュフの料理をパイで包んだもの、デザートにまでトリュフが使われていた。
田中は、最初のうち、この食材は栽培できるとか、仕事に関することを色々と言っていたが、俺がその話題を断ち切った。
「今日だけは全てを忘れてください」
田中は俺の意図を汲み取ったらしく、その後は料理を堪能していた。
食後、全員でティーラウンジに降りた。一隅のソファーに、初老の男性が腰をかけていた。俺はそのソファーに近づき、田中と渡辺を座らせた。男性は立ち上がり、彼女たちに名刺を渡した。俺は男性を二人に紹介した。
「神谷ハウジング社長の中村でございます」
中村社長は改めて頭を下げた。田中と渡辺は、状況が飲み込めないと言った感じだったが、俺は構わず話を続けた。
「おじさん、電話で話した通りです。この人たちの商品は本物です。十分世界で通用します」
「そうですか。それは楽しみです」
中村は静かに微笑んだ。
「中村社長は、マンションマネージメントのプロなんです。今度、松戸駅前に超大型マンションを建設予定なんですが、そこにこちらの商品を入れてみてはいかがですか?」
田中は俺の提案をすぐに理解した様子だった。
「マンションに自家栽培施設を入れるんです。例えば震災があったときなど、自前の食料庫があれば重宝されるでしょうし、地域に売り出してもいいと思います」
「会長、松戸のマンションには、地上一階と地下部分に飲み屋街を入れる予定です。野菜の需要はあるでしょうね。この話、乗りましょう。問題はコストです」
中村社長は、いとも簡単にゴーサインを出した。ここまでは電話で打ち合わせた通りだ。
「費用は、初期の設備投資がかかりますが、維持費はそれほどでもないです。特に水のリサイクル率九十八パーセントという数値は、世界一だそうです。そのあたりも売りにできますね」
「それは魅力的な数字ですな。早速明日から費用面の打ち合わせをしましょう」
中村は田中に手を差し出すと、田中はその手を固く握りしめた。そして、手の甲にキスするくらいの勢いで頭を下げた。
「はい!ありがとうございます!」
その後、細かな打ち合わせをして、中村社長は帰っていった。時刻は十時を回った。ティーラウンジでは、俺と綾子、田中と渡辺がカクテルを頼んだ。
「俺、ちょっと用事あるんで、そろそろ行きますね。綾子さん、あとお願いします」
俺はパインのカクテルを飲み干し、席を立とうとした。田中が、艶々の笑顔で聞いてきた。
「こんなにしてもらって、いいんですか?」
渡辺も心配そうに頷いた。この件に関しては、おそらくうちが得る見返りほうが大きい。その辺は言わないほうがいいだろう。あとは中村社長に任せることにした。
「こんな宝の山を外資に持っていかれることこそ防がないと駄目なんです。お互いの利潤が一致したというだけのことです。それより、お二人とも今日は楽しんでいただけましたか?」
「はい!」
二人の顔が、みるみるだらしなくなった。
「エステなんて初めて来ました!癖になっちゃいそうです」
渡辺がそう言うと、田中も、
「私、こんなに短いスカート持っていなかったんです。でも今日履いてみて、意外と悪くないってわかりました」
と嬉しそうに言った。
「良かったです。じゃあ、明日また来ます。明日は中村との打ち合わせが終わったら改めて話しましょう。この事業を展開する上での作戦会議です」
「え?じゃあ……」
「はい。改めて、出資させていただきます!その打ち合わせも明日行いましょう。いいですか?」
「はい!ありがとうございます!」
「今日はこのまま泊まって行かれてもいいですし、僕は新橋に行きますが、一緒に戻りますか?」
田中と渡辺は顔を見合わせた。
「ぜひお泊まりくださいませ。私共の心ばかりのお礼です」
綾子がそう言うと、二人とも腹を決めた。俺は改めてその場を綾子に任せ、杉本くんの待つレクサスに乗り込んだ。
「遅くなりました。じゃあ今夜も行きましょう」
杉本くんは、ニヤリと微笑んだ。
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