第47話 キャンディリング11

目を覚ますと、綾子はいなかった。バスルームは完全に乾いており、酒を飲んだ痕跡もなかった。あれは夢だったのかと思い直したが、記憶は曖昧だ。そういえば、記憶にある綾子の胸は、服の上から見た感じよりもかなり大きかった気がするし、やはり夢だったのかもしれない。




アパート四階のエントランスには、杉本くんに代わり磯崎さんが待機していた。綾子が出ていったか聞く訳にもいかず、俺は挨拶をしてコンビニへ行った。もう十時だった。確か最後に綾子に電話をして呼び出したはずだ、そう思い、携帯の履歴を確認したが、綾子に電話をした履歴はなかった。履歴を消したのか。そもそも千葉に戻ってきたのは十二時を回っていた。それから呼び出された綾子が、わざわざ俺のアパートまで来るのか。そして携帯の履歴をわざわざ消すのか。全ての記憶と情報を精査した結果、あれは夢だったという結論に達した。




携帯には、中原さんからの着歴があった。俺はコンビニで適当な食べ物を買い、部屋に戻って中原さんに電話をした。




「坊っちゃん、今朝の主要な全国紙には載っていませんね。」




神奈川芸術高等学校の田中理事長が、昨日中原さんによってガセネタを掴まされた。そしてそれを新聞社に告発すると意気込んでいると聞いた。楽しみにしていたが、朝刊には載らなかったようだ。俺はインターネットでエゴサーチをしてみたが、それらしきものは見つからなかった。どこにたれ込むつもりか知らないが、その新聞社ごと名誉毀損で訴える準備はできていたので、早く動いて欲しかった。




遅い朝食を食べ、シャワーを浴びて、俺は久しぶりに大学へ向かった。先週の金曜以来、大学へは行っていなかった。久しぶりに中畑くんや佐藤くんに会いたいと思った。そして、料理研究会にもちゃんと顔を出さねばなるまい。磯崎さんには車で送ると言われたが、大学なので断った。












俺は一週間ぶりの大学を味わった。同い年の男女がたくさんいて活気に溢れていたが、こういう空気を吸っていないと老けるのも早い気がした。すでに二時間目が終わる二十分前だったので、俺は部室に顔を出した。誰もいないと思っていたが、ユウナがいた。




「久しぶり。」




「うん。」




ユウナと最後に会ったのは、たしかみなとみらいのライブに行ったときだ。ユウナと、妹のサナと俺、三人でキャンディリングを見に行った。それが先週の金曜日だった。あれから色々あった。デモ隊を組織して、中国人のヤードに視察に行った。それから、元町芸能プロダクションに出資をするために、何度も横浜に行った。田中理事長に脅されたりもした。そして昨日、ついにキャンディリングの保護者会開催までこぎ着けたのだ。重要な一週間だった。




「サークル、来れなくてごめん。」




「別にいいよ。おまえまた学校来てなかったんだろ。」




「うん。」




「仕事か?」




「うん。横浜とか行ってて。」




「おまえな、大学生活は金で買えねえんだぞ。仕事なんて卒業したら嫌でもできるべ。」




ハッとして一瞬脳がフリーズした。ユウナは俺に、いつも大事なことを教えてくれる。俺はユウナの言葉を聞いて、確かにその通りだと思った。




デモに関しては、素でに完全に俺の手を離れた。そして元町プロに関しては、今後は綾子が窓口になってくれる。大介から突発的に連絡が来ない限り、俺は特に気を揉むことはないはずだった。




だけど、俺は明日からも、この仕事ごっこを続けるつもりでいた。学生の本分は学校と勉強なのに、それから逃げるかのように、俺は祖父の遺産で遊んでいた。そう、俺は逃げていたのだ。ユウナや後輩や尾見くん、ナナとヒロコ、それに風紀委員会の中畑くんと佐藤くんと神くん。変わりたいと思い、人間関係の輪の中に飛び込んだものの、俺はそこに楽しさを見いだした反面、生きづらさも感じていた。金を使って元町プロを買収したり、株を買って接待されたり、デモ隊のヤクザやニートに感謝されたり、それらは全部仮初めの関係に過ぎない。祖父の遺産がなければ、誰一人として俺にしっかり向き合ってくれた人などいなかっただろう。俺はまだ自分では何もしていない。マンション建設だってオフィス神谷だって、祖父の遺産がなければこう大胆に行動はできていない。「遺産を食い潰すだけの人生にしたくないです」俺は中原さんにそう言ったが、今やっていることは正にそれなのではないのか。




そこまで考えたとき、俺は目の前のユウナを食事に誘っていた。




「ごめん。あたし用事あるんだわ。」




少し考えて、ユウナは断って、目を反らした。わかった、と言って、俺は部室を出て、早足で歩いた。




心臓が高鳴っていた。えもしれぬ緊張と不安が身体を駆け巡った。気づけば俺は早歩きでサークル棟を出ていた。大学内にあるカフェや購買のある建物に入り昼食を選んだが、食欲は全くなかった。午後の講義までまだ一時間以上あった。




部室に戻ればいいのに、それができなかった。購買で本を立ち読みして、携帯を見ながら時間を潰していると、料理研究会の一年生四人が購買前の廊下を通り、建物の入り口から外に消えていった。おそらくサークル棟に行ったのだろう。俺は咄嗟に顔を伏せたが、我に返って陰鬱な気持ちになった。




俺も建物から出た。青空で快晴、無風、陽気で穏やかな気候だったが、その明るさがかえって鬱陶しく感じた。酒でも飲んで風俗にでも行ってみるか、などと考えたが、黒田から言われた言葉を思い出していた。「坊っちゃんの一挙一動は実は注目されているんです。」下手なことはできない。俺は黒田の言葉や祖父の遺産や、様々なものに守られているが、同時に縛られてもいるのだと感じた。そして、やっぱりサークル棟に戻ることにした。金があってもなくても、俺はきっとこういう人間関係で挫折していただろう。遅かれ早かれ。




今はしっかりとユウナや色んな人と向き合わねばならない。もちろん、ユウナにはユウナの都合があり、一年生には一年生の事情があり、誰だって色々ある。その中で、俺はサークルの次のリーダーとして、ちゃんとしなければならない。それは社会的な責任とか、そういうものだ。そこはしっかりやり切ろう。このままだったら、俺は何者にもなれない。












部室には、ユウナと一年生の四人がいた。




「なんだ、おまえ帰ったんじゃないのか?」




「今日は夜まで全部講義。ご飯買ってきた。」




「悪いな。あたしこのあと家族で行くとこあるんだ。今、サナがちょっと大変でな。」




「サナ、どうしたの?」




ユウナは一年生の方をちらりと見た。彼女たちももうサークルに入ってから一週間以上が経っている。部室での過ごし方も慣れてきた頃だろうが、俺がいることには慣れないという様子だった。俺とユウナのやり取りを黙って聞いていた。




「いや、別にな。」




ユウナはそんな彼女たちを気にして、何があったのかをはぐらかした。




「わかった。明日、俺は花房だから、良かったら昼食べに来ない?それか夜は?」




俺は、かなり心が軽くなっていた。それで、脇目も振らずにユウナを誘っていた。




「おまえな、別れた途端に積極的になるんじゃねえよ。一年生も困ってるだろ。」




俺は一年生、木下くんや諏訪さんの方を見たが、苦笑いをしていた。




「あ、ごめん。」




「別にいいよ。明日の夜、うちに来いよ。サナもおまえに会いたがっているから。今日はダメだ。」




「わかった。」




ユウナは俺にそう言うと、部室を出て行った。一年生四人と俺だけになった。




「神谷先輩、この間はお邪魔しました!」




諏訪さんがそう切り出した。先週、ナナが俺のために飲み会を開いてくれた。そのあと、皆で俺のアパートに泊まったのだ。




「いつでも遊びに来てよ。俺、友だち一人しかいないから、暇なんだ。」




笑いながらそう言うと、みんな笑ってくれた。後輩たちは、しばらく俺について色々と質問をしてきた。俺は正直に答えた。木下くん、諏訪さん、遠山さん、福田さん、それぞれ個性的な面々だったが、基本的にみんな礼儀正しく、常識的だった。俺はなるべく全員に話題を振り、一人しかいない男子の木下くんをいじった。そこそこ盛り上がった。




俺は、最初に料理研究会の部室に来たときのことを思い出した。勇気を出してやれば、意外と気持ちは通じる。そうして心を通わせた人たちは、かけがえのない存在になる。俺と後輩たちは、今日ここから新しい関係を作っていく。それが絆になればいいと思う。












午後の講義を最後まで受けると、さすがに疲れたが、それが心地よい疲れだと感じた。携帯を見ると、中原さんからの着信とラインにメッセージが入っていた。






「北門に車をつけています。」






北門に行くと、中原さんのレクサスが停まっていて、中原さんは車から降りて、俺を待っていた。




「坊っちゃん、インターネットテレビです。やられました。」




「なんかあったんですか?」




「給与をもらっているデモ隊が外国人を差別しているという内容の番組が報道されました。インターネットテレビです。」




「それってうちの?」




「そうです。今、主だったメンバーを集めております。すぐに事務所にお越し下さい。」

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