喰らい昏い

エリー.ファー

喰らい昏い

 誰にも気づかれないように絵をかき。

 誰にも知られないように、嘘をつく。

 誰にも泣いていると思われるように声を出し。

 誰にも食らいつくように舌を伸ばす。

 誰にも越えていかれないよう隙をつき。

 誰にもしかたがないと思われるように涙を流す。

 誰にも尊敬されないよう静かに回り。

 誰にも忘れられるように扉を閉める。

 四度と八度、気が付けば、十三度。

 繰り返した行為の裏にある真意に、繰り返し繰り返し。

 今度も同じところに戻るなら。

 あえて、忘れてしまうように気を付ける。

 二度ならずとも、三度。四度、四十八度。

 あともう一度。

 猪口才な人の業と嘘と伯爵。


 民俗学の研究をしていると、時たま、このような文章が送られてくることがある。

 奇怪とまではさすがに思わないが、私に送ってきて、どうという事なのだろう。

 昔はこういうことも多かったと聞いているが、今時、行われるとは全く思いもよらなかった。

 大学の研究室で何かを学ぶというのは非常に難しいことである。何せ、多くのことをまとめて、それらを形にすることはあっても正直、発見というと乏しい。もっと、人の心に根差している部分での研究を進めなければ意味がない。

 ただ。

 この意味がない。という言葉も中々に難しい。

 そもそも、民俗学、という学問自体に意味がない。

 生物学や。物理学。数学。

 それらはいつしか、その堆積によって多くの文化や技術の底となる場合がある。

 民俗学は違う。

 もう既に、底になっている部分の研究なのである。

 過去が分かる。

 そして。

 それが未来に応用できる。

 とはいかない。

 基本的に過去に起きたことというのは、過去に起きたことであって、それ以上の価値がそこに発生することは皆無なのである。

 分かっていることだが。

 民俗学など、所詮は娯楽の産物であり、その傾向は学問という領域全体に見られるものであるが、社会的、もしくは経済的な観点から見て、そこから発生しうる利益を考えた場合は明白である。

 致し方ないと思う。

 あくまで、民族学など人間が生きていない限りは、そこに発生もしないし、維持もされないのだ。

 人間の手が加わらないと存在できない、学問領域ははっきり言って、糞の役にも立たないことの方が多い。

 というか。

 学問として低俗なのである。

 こんなものに、本気になる人間の気持ちが分からない。

 今、こうして私の手元にある手紙も、その私の心を見透かして喝を入れるためのものなのかもしれない。

 実際そうではなかったとして。

 そのように考えた方が、ここに何か利益を感じることができると言えるのではないだろうか。

「教授、間もなく講義です。」

 講師の言葉を聞いて、私は頷いた。

 今や、研究に打ち込む時間など無くなってしまった。

 所詮、教授などそこにいることで意味があり、教授と誰かに呼ばせることで価値を出す存在だ。余り、生きている意味がない。教授という名前で、かつそのような機能を発揮できるものがいれば、事足りてしまう。

 教育は俗物的であり。

 人間は俗物的であり。

 愚痴は俗物的である。

 私はその手紙の差出人を確認する。


 桧山 礼子


 窓の外で雀が烏に襲われたいた。

 木々の間の光が窓に当たっては小さく音を立てている気がした。

「教授、どうされましたか。」

「桧山玲子を覚えているか。」

「昨日、山に埋めてきた女。」

「それは、志田 優実。」

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

喰らい昏い エリー.ファー @eri-far-

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ